アイヌ 民族 歴史 と 現在。 アイヌの現在!アイヌ民族の暮らしや文化・人口を詳しく解説!

歴史

アイヌ 民族 歴史 と 現在

序論 [ ] アイヌは形質人類学的にはの日本列島人と近く [ ]、本州以南が弥生時代に入った後も縄文文化を保持した人々の末裔であると考えられている。 アイヌとはアイヌ自らの固有の言語であるで「人間」を意味する。 アイヌの歴史は、考古学上の概念としてのが成立した時に始まるが、後にアイヌと呼ばれるようになるエスニック・グループは、アイヌ文化が成立する遙か以前から存在していた点に注意が必要である。 詳しくはを参照。 アイヌの歴史の始まり [ ] アイヌ人は以降、樺太から南下して北海道の北半分を占めていた人を排除・同化しながら全道に進出し、さらに11世紀前半には樺太南部、13世紀には千島へも進出、15世紀にはカムチャッカ半島まで活動圏を拡大したと考えられている。 アイヌ文化はアイヌモシリ(北海道・樺太)でに成立したと考えられているが、アイヌはを持たなかったため、文献が十分ではなく、アイヌ文化成立の経緯について考古学や文献でその経緯を十分に跡付けることは未だ困難である。 しかし基本的には、北海道の前時代にあったや、本州の文化を摂取して生まれたと考えられている。 擦文文化に継承されたのの文様には、アイヌの衣装に描かれる模様(アイヌ文様)との類似性があると指摘されるが、アイヌ文様は流域や樺太中部〜北部の諸民族の文様とも類似しており、その発生・系統を実証することは困難である。 オホーツク海南沿岸で栄えたには、を特別視する世界観があった。 これはアイヌ文化と共通するが、擦文文化の遺跡からはこれをうかがわせる遺物は検出されていない。 アイヌにとって重要な祭祀である()が、オホーツク文化(今日のに連なる集団によって担われたと推定されている)に由来する可能性も、示唆されている。 また、擦文文化からアイヌ文化の生活体系に移るに伴い、土器の製作や使用が廃れ、その代わりに本州から移入されたやが生活用具として定着した。 この点からは、アイヌ文化を生んだ契機に日本との交渉の増大があると考えられている。 また、住居がそれまでのを備えたから、のみでかまどが排除された・ へと変貌していった。 和人との交易関係 [ ] 農耕民族の和人と狩猟採集民族のアイヌは、それぞれの生活様式によって確保した生産物を交易で交換した。 アイヌは魚や毛皮を輸出品目とし、和人の生産する道具(鉄器や漆器)や嗜好品(米、茶、酒)と交換した(およびも参照)。 では武力を背景としたやによる不平等な交易でアイヌは経済的な不利益を蒙った。 また和人との関係が増える中でなどの伝染病に罹患し、民族としての衰退を招いたと考えられている。 続縄文時代や擦文時代の北海道には、、、などのが小規模ながら栽培され、アイヌ文化成立後も栽培そのものは継続されて特に稗やは祭祀における神饌として重んじられていた。 しかしアイヌ文化の成立とともに、農耕は縮小する傾向にあった。 これは寒冷な気候ゆえに耕作を諦めたというより、本州との交易用の毛皮や干魚を確保するため、狩猟や漁労を重視した結果らしい。 北方諸民族との交流 [ ] 樺太アイヌは北方の系などの諸民族とも交流があり、それを介して大陸の王朝とも関係を持った(を参照)。 には樺太に進出したアイヌ(の文献では「骨嵬」と書かれている)と(同じく「吉烈迷」)との間に紛争が勃発した。 この戦いには軍が介入し、アイヌからのを取り付けた(詳細はを参照)。 その後もアイヌは大陸との交易を続けていた。 この交易はと呼ばれ、江戸時代にはアイヌが交易によってなどから入手した絹織物や官服が、「」と呼ばれて日本国内にも流通していった。 では『』にあるの第4代王の出身地であるをアイヌの部族国家とみて、をアイヌとみる説がある。 年表 [ ] の被支配化 [ ] 文字文化を採用しなかったアイヌには、自ら記した歴史記録がない。 現代まで、正式に記録が残っている物はの視点からの物がほとんどである。 アイヌからの視点で歴史を記述することが、歴史学の課題でもある。 - がになる。 - が始まった。 - でエゾの蜂起があり、安藤氏が討たれる。 - が樺太南西部(後の阿幸)に上陸し、の布教活動を行った。 - 「王不廉古(ユプレンク)」に率いられた骨嵬(樺太アイヌ)が流域に侵攻し付近でと交戦(は、かれらの指導者は蝦夷代官・安藤氏であったと論じたが 、はこれについて無理のある推論だと評している )。 - 蝦夷管領・安東氏の支配下にある和人の豪族たちが蝦夷地南部12箇所()に勢力を張る。 彼らはアイヌとの交易や漁場への進出を通して成長する。 かれらは安東氏によって移配された家臣、あるいは安藤氏と関係を結んだ の有力者であったとも考えられる。 和人鍛冶職人とアイヌ青年の争いを発端としてアイヌの首長コシャマインが起こした蜂起。 花沢館の館主であるの客将、が平定し、蠣崎家を相続したと伝えられている。 この戦い以後、アイヌ系和人や和人系アイヌであった渡党は、和人層とアイヌ民族のいずれかの側に吸収されていったとみられる。 - 樺太アイヌの首長が、蝦夷管領・安東氏の代官(松前家の祖)に銅雀台を献じ配下となる。 - 蠣崎氏が他の和人館主層に優越する地位(上国・松前両守護職)につく。 (または) -• - の蜂起、に討たれ平定される。 - の娘婿・の蜂起、に討たれ平定される。 - 、蝦夷地の国情視察を目的に蝦夷地に渡る(東公の島渡)。 このとき、蠣崎氏とアイヌとのが締結され、酋長ののチコモタインと蝦夷酋長ののハシタインはそれぞれ東夷尹、西夷尹(「尹」とは裁判権を持つ統率者の意)とされ、蝦夷から松前への渡航を統制すること、ハシタインはに居住すること、のは和人との交易税(原文:『自商賈役』)の一部を「夷役」として両尹に献上することが定められたという。 がに謁見、所領を安堵される。 これにより名実共にからの独立を果たしたと見られている。 慶広、の討伐軍へ参加。 多数のを動員し、アイヌを束ねているとに印象づける。 (または) - 慶広、秀吉から全蝦夷地(、、勘察加)の支配権を与えられる。 - 慶広、名字を蠣崎から松前に改める。 - 慶広、からアイヌとの交易独占を認められる。 以後、和人(本州)との交易窓口が一本化されて必需品輸入の生命線を握られたため、アイヌのへの従属が強まり、不平等な交易によるアイヌの不満が、和人に対するアイヌ蜂起の一因ともなった。 と(1775年)• - 松前藩の松前公広が村上掃部左衛門に蝦夷地の調査を命じる。 - 松前藩から提出の所領地図を基に「」が作成されている。 - に伊勢国の七郎兵衛の船が漂着した。 アイヌ人たちの助けで・を経て十州島()へ渡り、1662年(寛文元年)に江戸へ帰った。 - 漁猟権をめぐる蝦夷同士の争いがに発展。 このころ以後、和人がアイヌに軍事的にも優越する。 、松前藩の穴陣屋が(後の楠渓)に設けられ、日本の漁場としての開拓が始まる。 - 樺太は松前藩家臣の知行地として開かれたソウヤ場所に含まれた(を参照)。 - は蝦夷地(、、、)の地名を記した を作成し、に提出。 - ロシア人アンツィフェーロフとコズイレフスキー、千島最北端の占守島(シュムシュ島)と幌筵島(パラムシル島)に上陸。 住民にサヤーク(毛皮税)の献納を求めるが拒絶される。 - コズイレフスキーが占守島に再来の後、幌筵島に上陸し、激しい抵抗を受けるも武力で征服。 北千島住民にサヤーク(毛皮税)を献納させ、ロシアの支配を認めさせた。 同年、(オンネコタン島)も襲撃し帰国(ロシア人、まで南下)。 - に対し、松前藩主は「十州島、唐太、千島列島、勘察加」は松前藩領と報告。 - 中部千島の(シムシル島)にロシア人上陸(ロシア人、まで南下)。 - 国後・択捉の首長らが松前藩主のもとを訪れ献上品を贈る。 - デンマーク人シパンベルク、色丹島に上陸。 その後、に到達。 - イオアサフが、布教のため北千島へ渡り、占守島・幌筵島のアイヌ208人をロシア正教に改宗させる。 - ソウヤ場所から樺太場所が分立。 - 松前藩家臣の知行地として(、、を含む)が開かれる。 - 弘前藩や盛岡藩によって藩内に居住していたアイヌのや追放が進む。 - イワン・チョールヌイが国後場所に侵入。 ロシア人として初めて得撫島(ウルップ島、後の)以南に到達。 周辺のアイヌから毛皮の取り立てや過酷な労働を課し、得撫島で多数の女性を集めてハーレムを作る(まで)。 - ロシアの毛皮商人による殖民団が、得撫島へ一時的に居住(7年後に撤退)。 - 択捉島と得撫島を探検。 として最初に択捉島・得撫島を探検した徳内は、このときロシア人が居住していること、択捉島現地人の中にキリスト教を信仰する者がいる事を確認している。 - 労働条件や国後場所請負人・飛騨屋との商取引に不満を持った蝦夷(アイヌ)が蜂起した勃発。 この戦いに破れて以降、アイヌによる大規模な蜂起は見られなくなった。 - 樺太南端のに松前藩が商場を設置、幕府は勤番所を置く。 - 択捉島と得撫島を探検。 - が東蝦夷を探検、に「大日本恵土呂布」の標柱を立てる。 - 東蝦夷地(北海道太平洋岸および千島)が(直轄領、ただし仮)となる。 東北諸藩に警固を命じる。 を通じて東蝦夷地のアイヌ人のが作成される。 - が蝦夷を測量。 - 深山宇平太や富山元十郎などがのを探検し、「天長地久大日本属島」の標柱を立てる。 - 江戸幕府、東蝦夷地を正式に上知しを置く。 後にとなる。 - がの通商を求めて長崎に来日、通商を拒絶される。 - ニコライ・レザノフの部下、 ()らが択捉島や樺太に上陸、略奪や放火などを行う()。 は東北諸藩の兵で警固を強化。 西蝦夷地(北海道日本海岸・オホーツク海岸・樺太)も公議御料(幕府直轄領)とし、樺太アイヌを含む全蝦夷地のアイヌ人のが作成されるようになる。 箱館奉行を松前に移しを置く。 アイヌに対する和風化政策がおこなわれる。 - が、、、を相次いでに派遣。 松田伝十郎が樺太最西端ラッカ岬(北緯52度)に「大日本国国境」の標柱を建てる。 、が樺太がであることを確認し、それまで属した西蝦夷地から北蝦夷地として分立する。 また、山丹貿易を幕府公認とし、アイヌを事実上日本人として扱った。 の緊張が高まる。 - ゴローニン事件が解決するものの日露の緊張が残る。 - の緩和を受け、はをに返還する。 このころ以後、蝦夷地への和人移住が増加し、アイヌの生活・文化の破壊が顕著となる。 日露国境の画定 [ ]• - ロシアが、北樺太北端鵞小門 ガオド 岬 に露国旗を掲げ、領有を宣言。 - 締結、が日本領、以北のがロシア領に決まる。 ただし、方面の国境はこれまでどおり未確定とすると決められた。 - 樺太を含む蝦夷地は再び公議御料(幕府直轄領)となり、がを築き警固を行った。 - 幕府、樺太東岸の中知床岬以北および西岸のノタサン以北を樺太直捌場所とした。 - 幕府は主に北蝦夷地警備と開拓を命じた(大野藩準領ウショロ場所)。 同年、クシュンナイ周辺が石狩役所の直捌場所となった(石狩御直場所)。 - 、藩士渡辺隆之助を派遣、に漁場(ぎょば)を開設。 - 岡本監輔が、最北端鵞小門岬(北緯55度)に至り、「大日本領」と記した標柱を建てる。 - 調印。 樺太全域が日露雑居とされる。 - 、で終了。 同年、設置。 及び北蝦夷地をそれぞれ及びと改称、本格的な開拓が始まる。 - 制定(編製は翌年)。 アイヌは「平民」に編入。 アイヌの開墾者に家屋・農具を与え、独自の風習を禁じ、日本語教育を含めたを始める。 2月13日、が開拓使から分離して、(楠渓)に開設される。 8月7日、樺太開拓使を閉鎖し、開拓使に再度統合する。 - 、北海道土地売貸規則・地所規則を公布。 - 、制定。 、札幌郊外の琴似兵村に入地。 本格的な屯田兵の北海道入植が始まる。 ロシアと締結。 日露住民の紛争の絶えなかったをロシア領、全域を日本領とする。 これに伴い、日本国籍を選択したアイヌ108戸841名をに、翌年に移住させる。 - 廃止。 鹿猟規則によりアイヌの伝統的猟法(仕掛け弓矢)が禁止になり、代わって猟銃が貸与される。 - 北海道地券発行条例公布(アイヌ居住地を官有地第三種に編入)• - 、アイヌの呼称を「旧土人」で統一。 内諸川での鮭漁を全面禁止に。 - 北千島アイヌ全97名がに移住。 - 設置。 北海道土地払下規則公布。 - 北海道庁、アイヌの食料分として許されていた鹿猟を禁止。 - 北海道庁、に、アイヌへの付与予定地を確保。 以降、第七師団設置に伴う移転命令や反対運動が起きる。 - 北海道国有未開地処分法公布。 150〜250万坪の土地が無償貸与される。 - 旧土人教育規程公布。 日本人児童と区別する簡易教育が行われる。 - に日本が勝利。 によっての南半分が日本領となり、1875年北海道に移住したアイヌのうち336人が故郷に戻った。 - のアイヌ80戸がの都合で強制移転。 - 設立• - 札幌市で全道アイヌ青年大会が開かれる。 その様子は『アイヌの叫び』に記録として残された。 - 始まる。 、始まる。 - が日本に。 ソビエト連邦は樺太・千島を占領する。 戦後の民族運動 [ ]• - 「全道アイヌ大会」開催。 を設立。 - 『アイヌ新聞』創刊。 (主幹・)• - 設立。 復員兵や引揚者の就労の場として北海道の農地開拓が推奨される。 - 締結(ただし、旧ソ連・現ロシアは未調印)。 日本は南とに対するすべての権利、権限を放棄する。 - によるが展開され、アイヌ解放の名の下にやが起きる。 アイヌ革命論は和人によって主張されたもので、各種テロ事件も左翼思想に傾倒した和人の手によって引き起こされた。 大多数のアイヌは新左翼のテロ正当化にアイヌの名が利用されているとして、この主張に反発していた。 - 、再建総会を開催。 - 北海道アイヌ協会、「アイヌ」の語が差別的に使われているとして、組織名をに変更。 不良環境地区改善施設整備事業、開始。 - 関東ウタリ会発足• - レラの会発足• - アイヌ古式舞踊が国のの指定を受ける。 - 首相、「日本単一民族国家」発言。 「ウタリ問題懇話会」から北海道知事に対し、問題について報告書提出。 北海道議会全会一致での制定についての要望意見書を採択。 北海道ウタリ協会がアイヌ史資料編を発行。 ・・北海道議会が「旧土人保護法の廃止」と「アイヌ新法の制定」を要請。 これにより北海道の人口が他地域(分けても)に流出した関係で、アイヌの民族的な離散も進むことになった。 - 本部で開催された「世界の先住民の国際年」の 開幕式典で理事長 野村義一が日本の先住民族として記念演説。 - 、比例代表繰り上げ当選。 アイヌ初のとなる。 北海道ウタリ協会がアイヌ史活動史編を発行。 - 、「ウタリ対策のあり方に関する有識者懇談会」を設置。 札幌地方裁判所「二風谷ダム訴訟」の判決でアイヌの先住民としての権利を認める(控訴されず判決確定)。 「」が制定・施行。 同時に等が廃止される。 アイヌ文化振興・研究推進機構、設立• -「伝統的生活空間(イオル)の基本構想」、国に提出。 - 、、、アイヌ文化振興財団、との間で「アイヌ文化振興等施策推進会議」が設置される。 2008年-北海道ウタリ協会、総会において2009年4月より組織名を北海道アイヌ協会に戻すことを正式決定。 2008年6月6日-アイヌを先住民族として認めるよう政府に促す国会決議が 衆参両院とも全会一致で可決される。 千島・樺太のアイヌの歴史 [ ] 歴史的な人口 ・のアイヌは日露両国の進出、南北千島の分断統治、樺太と千島の交換、、(当時は)の占領によって国際的に翻弄された。 千島アイヌ [ ] 千島列島には先史時代から居住者がいたが、文字記録が残されるようになるのはロシアがまで勢力を拡大した18世紀からである。 は千島列島を南北に移動して交易していたが、この頃、日本の北進と東シベリアを版図に入れたロシアの南進によって、彼らは生産・交易活動を両国に依存することが多くなっていった。 は家臣の知行地としてにウルップ()までを含むを開いていたが、その後のロシア人の侵入もあり、江戸幕府は、、エトロフ-ウルップ()間のアイヌの移動を禁止した。 これによりウルップ島以北のアイヌは日本との交易が困難になり、ロシアの影響を強く受けるようになった。 のによって千島列島は日露両国が南北を分断して統治することになったが、にはに基づき千島列島が全て日本の領土になった。 その際居住者は日本国籍を得て残るか、ロシア国籍を得て去るか選択させられ、大部分は日本国籍を得た。 には若干の千島アイヌが日本領北端のシュムシュ()に残っており、北の国境に民間人を置いておくよりも南の地で撫育した方が良いと考えた日本政府は、97名を半ば強制的にへ移住させ、牧畜・農業に従事させた。 しかし先祖代々続いた漁撈を離れ、新しい土地で暮らすことに馴染めず、健康を害するものも現れた。 望郷の念を募らせる千島アイヌに対し、日本政府は以降、軍艦に彼らを乗せ北千島に向かわせ、臨時に従来の漁撈に従事させる等の措置をとった。 には人口は半減しており、更に()における日本の敗戦に乗じたに伴い、千島アイヌを含んだ日本側居住者は全て強制的に本土に移住させられ、各地に離散した。 に当時大学院生だった(後に同大教授)が7人の千島アイヌ(及び和人とのハーフ)の生存を確認し、このうち4人から聞き取り調査を行った。 しかし、4人はいずれも日本に同化しており、一部は非協力的だった。 に最後の一人が死去した時点で千島アイヌの文化を継承する者は消滅したと思われている。 樺太アイヌ [ ] も国際情勢の変化の影響を強く受けた。 に伴って樺太がロシア領になることから、同条約発効に先立つ10月、もともと南部の亜庭湾周辺に居住し日本国籍を選択した108戸841名がに移住し、翌年6月には対雁(現)に移された。 生活環境の変化に加え、運の悪いことにの、さらにはの流行が追い討ちをかけ、300名以上が死去したという。 のに関するによって南樺太が日本領になると、、漸く樺太アイヌは再び故郷の地を踏むことができるようになった。 樺太アイヌはによって当初は戸籍法上は樺太戸籍に入って樺太土人として扱われていたが、1932年1月に戸籍法上は内地人と同様となり内地人と扱われるようになった。 第二次世界大戦後に樺太全域がロシア(当時はソ連)の占領下となり、同国政府によって樺太アイヌのほとんどが北海道へ強制送還された。 しかしながらアイヌは現在も樺太に少数ながら住んでいる。 脚注 [ ] []• 旭川市博物館• 2005年には知床の斜里町ウトロにあるチャシコツ岬下の期の遺跡から、熊を祀った跡と思われる遺物が出土した。 これにより、熊送りがオホーツク文化からトビニタイ文化を経由してアイヌ文化にもたらされたとの見方が改めて浮上した。 詳細はを参照のこと。 2017年1月17日. の2017年7月16日時点におけるアーカイブ。 2011年7月21日, at the. 旭川市博物館• 海保嶺夫 96年• 榎森進 『アイヌ民族の歴史』 草風館、2015年、64頁。 道南の住民。 は『新羅之記録』の記述に基づいて和人とみる。 『アイヌ民族の歴史』山川出版社、2015年、50頁。 旭川市博物館• 『アイヌ民族の歴史』山川出版社、2015年、65頁。 『エゾの歴史』 、1996年、• 「松前藩」『藩史大事典』第1巻 北海道・東北編、木村礎・藤野保・村上直編、雄山閣、2002年。 慶広は天正18年9月(1590年10月)に津軽海峡を渡り、同年末(西暦では翌年初め)に上洛している。 『新・国史大年表』第4巻 一四五六〜一六〇〇 、日置英剛編、国書刊行会、2009年。 麓慎一「」『立命館言語文化研究』第19巻1号、2007年、立命館大学国際言語文化研究所• - 北海道新聞2015年6月9日• [ ]• 村崎恭子 1963. 季刊民族學研究 27 4 : 657-661. 関連項目 [ ]• - 外部リンク [ ]•

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アイヌの歴史とは?民族と差別の実態をわかりやすく解説【年表付き】

アイヌ 民族 歴史 と 現在

アイヌ民族とは 北海道を中心に樺太や千島列島などにも居住している少数民族です。 アイヌ民族は、北海道を中心に樺太や千島列島などに居住している民族です。 彼らは、それぞれ、北海道アイヌ、樺太アイヌ、千島アイヌと呼ばれています。 アイヌ民族は、 狩猟、採集、漁労などといった自然と一体の伝統的な生活様式を持っています。 アイヌ民族の人口は? アイヌ民族の総人口については、実は詳細は不明となっています。 そのため、2万人いるともいわれていますが、20万人いるともいわれています。 そして、現在は 純血のアイヌ民族はいないともされています。 ですが、北海道の人との混血のアイヌ民族は多く存在するそうです。 アイヌ民族の言語 アイヌ民族の言語は 『アイヌ語』です。 北海道には、珍しい地名が多いなと思ったことはありませんか?実は、北海道の地名にはアイヌ語が語源の地名が沢山存在します。 例えば、札幌や稚内などもアイヌ語が語源であるとされています。 北海道だけでなく、日本の色々な場所にアイヌ語が語源の地名があるとも言われています。 アイヌ語には 文字が存在しません。 なんだか、すごく珍しいですよね! アイヌ民族は入れ墨をする? アイヌ民族の女性には、顔や腕などに独特な入れ墨をするという文化があります。 口元に入れ墨が入っていることがアイヌ女性の結婚の条件だったそうです。 「口は夫のためだけにしゃべり、手は夫のためだけに働く」という嫌な言葉も存在するそうです。 アイヌ民族の現在の暮らしは? 現在のアイヌ人は、北海道の人と同じような暮らしをしています。 差別を理由に上京した人たちも多かったそうなので、東京などの関東圏にもアイヌの血が流れている方が暮らされているかもしれませんね。 そのため、自分がアイヌの血が入っているということを言われなければ、おそらく私たちは気づけないですよね。 住んでいた土地や漁・猟の権利、外国との貿易する権利を奪われました。 そのため、アイヌ民族は経済的に大きなダメージを受けました。 他にも、農業に向かない土地に強制移住させられ、したこともないような 農業をすることを強制されました。 文化的には、 言語、名前、入れ墨などの独自の文化を捨てるように追い込まれました。 でも、こんなの昔のことだろう。 と思いますよね?でも、現在アイヌの血が入った方で差別されたことがあると感じたことがある人もいるそうです。 blogimg. jpg アイヌ民族に対する差別の理由 アイヌ民族に対する日本人が行った差別の理由としては、 独自の文化を持っていたから、というところが大きな理由とされています。 和人、つまり日本人とは違う宗教を信仰し、違う言語を話すアイヌ民族を排除しようとしたことが差別の理由です。 そんなことで!?と思ってしまいますよね。 差別がない国とされている日本でこんなにひどい差別が行われていたなんてなんだかショックですよね。 アイヌ民族の歴史 アイヌ民族は、北海道地域の先住民族で縄文時代からその地域に住んでいたとされています。 江戸時代には、諸外国と活発に貿易を行っていたアイヌ民族でしたが、日本人との蝦夷地の支配権や諸外国との交易権をめぐって戦いが繰り替えされていました。 1699年には、アイヌ民族が立ち上がり、シャクシャインの戦いが起こりましたが、鎮圧されてしまいます。 その後明治維新があった後、日本政府は北海道の開拓を始めることになりました。 その際、北海道に昔から穏やかに暮らしていたアイヌ民族は、本土からやってきた日本人に差別や迫害を受けることになりました。 その後、アイヌ民族は社会的地位の回復、民族としての誇りを保つために社会に対して声を上げることをはじめました。 そしてついに1997年に「アイヌ文化振興法」が制定され、アイヌの文化が保護されることになりました。 それまでは、アイヌの血が入っていることを隠す方もいましたが、現在では民族としての誇りを取り戻し、アイヌ民族であることを公表し、アイヌの文化をもっと発信していこうという方も増えつつあるそうです。

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私は「教科書の中の人」ではない。アイヌの血を引く大学生、新法成立に対する思い。

アイヌ 民族 歴史 と 現在

アイヌ語を話すおばあちゃんの口元。 北海道平取町(びらとりちょう)二風谷(にぶたに)という小さな町で育った関根さん。 二風谷は、人口の7~8割がアイヌ民族の血を引いていると言われており、「アイヌ」がマジョリティの環境で育った。 関根さんは、母親がアイヌの血を引いていることから、アイヌ文化に触れて育った。 日本語を母語としながらも、傍らには常にアイヌ語があった。 そんな関根さんが、今でも強く印象に残っているシーンがある。 《小さい頃、むっちゃんと呼んでいたアイヌ文化の伝承者と言われている中本ムツ子さんから、千歳にある彼女の自宅でよく物語を聞かせてもらっていました。 状況はあまり覚えていないのですが、むっちゃんのアイヌ語を話す口元だけがぼんやりと、でも強く印象に残っています。 むっちゃんの思い出は、私にとって大事な思い出であり、温かい思い出です。 》 アイヌは、文字を持たない民族と言われている。 現在では、カタカナやアルファベットを用いて表記されるアイヌ語だが、それまでの術は、口伝えだ。 アイヌは多くの物語を持ち、子や孫へと伝承してきた。 アイヌ民族は「教科書の中の人」 その後、札幌市内の高校に進学。 生まれ育った二風谷を出ると、アイヌの血を引く関根さんはマイノリティになった。 《家族から話は聞いていましたが、大人になるにつれて、アイヌの人たちが差別や偏見の対象となっていることを意識するようになりました。 自分が直接いじめを受けていなくても、アイヌじゃない人たちが多い中では、次第にアイヌであることに引け目を感じるようになっていきました。 》 アイヌは長きにわたって、結婚や就職などの際には根強い差別や偏見に晒されてきたと言われている。 関根さんは、それまで何も思わなかった自分の出自について、周囲に隠すようになった。 同時に、周囲のアイヌに対する考え方に違和感を募らせるようになっていったという。 《学校の教科書でアイヌの話が出てきても、アイヌは「教科書の中の人」「歴史の中の人」という雰囲気が教室中にあって、違和感を感じていました。 アイヌの血を引いている自分が同じ教室にいるのに、いないみたいに扱われていると感じました。 私自身も、そういう時はなるべく教室の中で目立たないように意識していました。 》 アイヌの血を引く人たちの中には、自らの出自を隠して生活している人も多くいると言われている。 関根さんも、同じだった。 「アイヌってかっこいいじゃん!」がきっかけに。 自分の出自に対してモヤモヤを抱えたまま過ごしていた関根さん。 高校3年生の時、友達との何気ない会話の中で、自分がアイヌであることを口にした時だった。 《友達に「私アイヌなんだよね」ってポロっと言ったら、「えっ!いいね!かっこいいじゃん!」と言われたんです。 「自分の守りたいものがあるっていいじゃん」とまで言ってくれた人もいて。 みんな偏見を持っていると思っていたので、正直、驚きました。 同世代の人たちは意外と偏見がないんだなと思いました。 同時に、アイヌを知らない世代なんだなって思いました。 》 関根さんは、アイヌ文化やアイヌ語など、自分の根源となっている「アイヌ」に対して誇りを感じるようになった。 自分に自信が持てるようになったことで、自然と自分の出自についても周囲に素直に話せるようになっていったという。 アイヌについて知らない世代が多いからこそ、ネガティブなことだけを伝えるのではなく、自分が思うアイヌ文化の良さを伝えていきたい。 使命感のようなものが生まれていった。 アイヌ文化は日本の魅力のひとつ。 関根さんはその後、慶應大学に進学。 今では、日常生活でもアイヌ語を話すという。 《大学では、友達といる時にアイヌ語を話すこともあります。 かわいいと思った時には「ピリカ!」って言ったりしますね。 相手が言葉の意味を知らなくても、言葉は自分のものなので、自分がその言葉を使いたい時に使うようにしています。 》 アイヌ語は、アイヌの文化が反映されているからこそ残していくべき言語だと関根さんは話す。 アイヌ民族は、人に対して想いを伝える民族だなと感じていて、それが言葉にも表われているんです。 そういった言葉の深い意味を知ると素敵だなって思いますし、知れば知るほどハマっていきます。 アイヌ文化を伝承していくという意味でも、残す必要のある言語だと考えています。 》 アイヌ民族の持つ、相手を大事に敬う文化。 これは、人に対してだけではなく、物に対しても同様だという。 《例えばコップは、人間が手にずっと水を貯めておくことができないことを、代わりにやってくれているという考えから、魂が宿るものとして大事に敬うようにしています。 だから、物を大切に長く使います。 これは世界から見ても大切にして良い文化なんじゃないかなと思っています。 》 関根さんは、そんなアイヌ文化の魅力を、等身大のスタイルで伝え続けていこうとしている。 アイヌ語のラジオ講師を務めた経験もあり、平取町内を走る路線バスでは、アイヌ語での車内放送を担当した。 最近では、アイヌ文化を伝える新たな活動としてYouTubeでの発信も始めた。 《日本人として生きている自分がいて、アイヌとして生きている自分がいます。 自分にたくさんの色を与えてくれているのが、アイヌ文化です。 ですが、まだまだアイヌであることを誇れる時代ではないと感じています。 現代に合った方法で、私だからこそ残せるアイヌ文化を発信していくことで、みんなが自分の考えるアイヌを発信できるようになったらいいなと思っています。 》 《海外の人が日本に来た時に、日本の伝統的なものや地方の文化のものがたくさんあった方が魅力的だと思っていて、そのためには、まずは自分たちの文化の魅力に気付いて、発信していく必要があるんじゃないでしょうか。 その日本の魅力を伝える一部にアイヌがあっても良いんじゃないかって思っています。 》 関根さんの横顔には、アイヌを誇りに思うと同時に、日本への誇りが滲み出ていた。 「アイヌ新法」はあくまで第一歩 そんな関根さんに、今回の「アイヌ新法」について率直に意見を聞いてみると「正直、法律については良し悪しをジャッジできる立場にはないのですが・・・」と前置きして、こんな風に語った。 《私はこれがスタートになればいいなと思っています。 いかにアイヌの人たちと、アイヌではない人たちが、共に素晴らしいところを認め合って日本を盛り上げていけるか。 その第一歩だと思っていますので、私はアイヌ新法をポジティブに捉えています。 》 《これってアイヌに限った話ではないと思うんです。 日本にはいろいろなアイデンティティを持っている人がいます。 自分とは違うアイデンティティを持つ人をお互いに認め合って、生きやすい社会にしていきたいです。 2007年の国連決議で「」が採択されて以降、世界中で先住民族への配慮を求める動きが進んでいる。 リオデジャネイロやバンクーバーなど過去の五輪では、先住民が開会式に登場した。 東京オリンピック・パラリンピックの開会式では、が出ている。 2020年4月には、北海道白老町にアイヌ文化発信の拠点として「」がオープンする予定だ。 東京オリンピック・パラリンピックが開催される2020年には「」の目標を掲げている日本政府。 今回の「アイヌ新法」成立は、する狙いがあるとみられている。 今後の関根さんの活躍に注目したい。

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