キャラ が 立つ。 キャラが立つという曖昧な言葉を理解すると、キャラが立つ|稲葉白|note

『キャラが立つとは?』東川篤哉|日常の謎|webメフィスト|講談社文芸第三出版部|講談社BOOK倶楽部

キャラ が 立つ

はじめまして! 物語が大好きな編集者のミヤケルと申します。 みなさんの投稿作を本にするお仕事をしています。 投稿された作品は、ばっちり読ませていただいてます!! この連載では、「おもしろい」って何だろう? ということをみなさんと一緒に考えていけたらと思っています。 「答えなんて、あるわけないだろ!」 ……。 も、もちろん、わかってますとも。 かといって、技術論だけでは楽しく学べませんよね。 ……そう、あのムツゴです! 少年マンガの世界には、「 シルエットを一目見ただけで、どのキャラクターかわかるくらいじゃないといけない!」という考え方があります。 見た目=個性=キャラ、という考えですね。 これまでコンテンツを作る人たちは、血眼になって、個性的な外見を追求してきました。 (フィクションに出てくる、とんでもなく奇抜な髪型や服装、覚えがありますよね?) そんな中で現れたのが、故・赤塚不二夫先生の名作漫画『おそ松くん』をした下敷きにした『おそ松さん』というアニメです……。 当時は可愛げのあった六つ子たち。 それが成長して、というか成長しないでニートになってしまったという、なんとも残念な設定で物語は始まります。 ところが、その反響は凄まじいものでした。 「失うものなど何もない」と言わんばかりに有名作品のパロディをぶちかました衝撃的な第1話から、話題が沸騰して一気に覇権アニメにまで上り詰めます。 私が最も驚いたのは、異常なまでのキャラクター人気でした。 「推し松」 という言葉が生まれるくらい、誰しもが自分の好きなキャラクターを持っています。 (ほぼ)同じ顔なのに、です。 (もちろん、各キャラクターごとにテーマカラーが決まっていたり、アホ毛の数が違ったりと絶妙なラインで差異は設定されています) では、どうして彼らはあそこまで人気なったのでしょうか? 私はその答えの一つが、末っ子のトド松にあるように思えます。 お金もないのにおしゃれをして、女の子の友達と遊んでいたり(今となってはなんだったのだろうか……)、素敵なカフェで学歴を偽ってまでバイトをしてみたりと、他のダメ人間に慣れきっているニートどもとは一線を画していました。 はっきり言ってしまえば、「幅を持たせようとして設定はしたのだろうけど、どうもしっくりこないよね……」というキャラでした。 それがいつの間にか、もう一つの側面を見せるようになります。 今では公式サイトのプロフィールにも記されている「心がない」という要素です。 こういったエピソードの積み重ねによって、トド松は曲者ぞろいの兄弟たちの中でも異彩を放つようになりました。 一見するとキャラがブレて、路線変更をしたかのようにも思えてしまいます。 けれど、どうしてか視聴者は納得できてしまうのです。 視聴者にそう思ってもらえたから、トド松というキャラクターはさらに広く受け入れられるようになりました。 知っている人にとっては当たり前のことなのですが、ハリウッド的な物語には一定の型があります。 問題を抱えている主人公に、非日常的な出来事が起こり、やがて困難に直面して、圧倒的な窮地に陥るも、大逆転してハッピーエンド、最初の問題も解決してる! 成長した!! やったね!!! (ものすご〜く簡略化してます) 「初めて聞いた!」という人は、名作と呼ばれているようなハリウッドの娯楽映画を観てみてください。 冗談みたいに、あらゆる作品がこの定型に当てはまると気づくと思います。 「キャラクターの変化」=「物語」の中で、選んだ行動の積み重ねが、魅力を獲得させていくのです。 そう、トド松が積み重ねていた「兄弟にも自分のことを秘密にして、嘘に塗れてでもリア充を演じる」という行動によって、「心のなさ」を視聴者に納得させたように……。 本当に魅力的なキャラクターというのは、創造主である作者の意図からもはみ出していきます。 名作漫画などでよく聞く「キャラが勝手に動く!」という状態ですね。 作者ですらも想像していない、それでいて誰もが納得する選択を、キャラが自ら選ぶのです。 物語が始まるまでに、どういった日々を送ってきたのか? 趣味は? 好きな食べ物は? 嫌いな科目は? どんな細かい部分でも、聞かれたら何でも答えてあげられるくらいに、キャラクターについて考えてあげてください。 考え抜いてあげてください。 あなたが魅力的なキャラクターを創ることができれば、きっと作者ですら予想もできないような物語が生まれていくのではと思います。 (タイトルカット:).

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キャラ (コミュニケーション)

キャラ が 立つ

キャラとは、(: character、・)を省略したで、の場における振舞い方に関する類型的な役割を意味する。 その具体的な役割に応じて、例えば「キャラ」「キャラ」「キャラ」「キャラ」のようにさまざまなものが存在する。 この用法の「キャラ」という語の発祥は定かではないが、1999年の『』や記事での使用が確認されているため、その頃からの若者の間で浸透した表現だと考えられる(・などのキャラクターの省略形としての「キャラ」はそれより以前からの使用が確認されている)。 本項で説明している「キャラ」は、省略されることなく「キャラクター」といわれることもあり 、実質的にはといえる。 もともと「」という言葉には「の登場人物」という意味があるが、この意味での「物語」を「小さな共同体(コミュニティ)」と読み替え、「コミュニティ内での個人の位置(イメージ)」という意味で「キャラ/キャラクター」という言葉を使うような思考形式が生まれていったのだと考えられる。 キャラによるコミュニケーション [ ] 現代の日本の若者の間では、「キャラ」と呼ばれる類型的役割に応じて振舞うというコミュニケーション作法が浸透しており、このような現象・状況は キャラ化・ キャラ的コミュニケーション・ キャラ的人間関係・ キャラゲーム・ キャラ戦争などと表現される。 例えば学校ではクラスが似たような傾向を持った人が集まる細かいいくつかのグループに分かれる現象がみられるが 、この細分化された各々の小集団の内部でさらに個人に対して「キャラ」「いじられキャラ」などの具体的な役割が割り振られていくことになる。 グループ内における各自のキャラは自身の本来の性格というより普段行動をともにしているグループのリーダーやほかのメンバーといった他者からあるいは自然発生的に与えられることが多く、による圧力として本人の意図とは無関係に強制されることもある。 酔った勢いで羽目を外して卑猥な発言をしたのがきっかけで「キャラ」扱いされるようになるというように、なんらかの具体的な事件をきっかけにキャラが設定されることもあれば、交遊を深めていく中でいつからともなく自然にキャラが確立されていくこともある。 個人に与えられる役割分担という意味では、人類は・採集などで生活していた時代から現代に至るまでずっと分業を行っていたともいえるが、のによれば「キャラ」は(生活・仕事を成り立たせるためではなく)楽しくコミュニケーションを盛り上げるために割り当てられるという点が異なるという。 のの表現を借りれば、若者たちが演じるキャラ( 仮想的キャラ)は、大人の世界で「上司」「教師」のように社会的な文脈によって与えられる規範( 社会的キャラ)と違って社会的な要素が欠如しているといえる。 キャラ的コミュニケーションのほかに若者の間の人間関係に存在する暗黙の規範としては、摩擦を回避するために仲間内では上下関係をなるべくつけないという「対等性原則」がある。 その意味で若者たちのキャラ化は、実際には存在している上下関係を、(例えば「いじりキャラ」と「いじられキャラ」のような形で)表面的にはフラットな関係に読み替えることによって隠蔽するという側面があるといえる。 キャラと演技性 [ ] 周囲から与えられるキャラに即した振る舞いをするという意味ではキャラ的なコミュニケーションは演技性を帯びたものであるといえる。 もっとも、人間が日常生活をおくる上でも無意識に演技の切り替えを行っているということは以前からのが指摘していることである。 ただし、実際に若者を対象とした調査では必ずしも意識的にキャラを演じていると答える者が多数派ということではない。 この調査を行ったのは、少数でない割合とはいえ6割以上はキャラをつくらずにコミュニケーションを行っていることになるため若者のキャラ演出という現象を過剰に重視すべきではないだろうと述べている。 元の研究者であるによる若者への調査でも、キャラを演じている意識があるのは58人中10人と少数であった。 キャラによるコミュニケーションといっても興ざめするほど演技性が見え透いてしまうのは嫌われる傾向もある。 そのため、集団に対して行った瀬沼文彰のインタビュー調査では周囲の他者に配慮して演技していないと答えた者が多かったとも考えられる。 演技性の無いニュートラルな状態は若者言葉で 素(す)といわれるが、実際には「素という演技しない状態を演技している」 あるいは「(キャラと素をはっきりと使い分けるというより)両者の配分のバランスを調整しながらコミュニケーションをとっている」 という面があるともいえる。 社会学者のによると、キャラをめぐる遊戯的なコミュニケーション(キャラゲーム)においてはキャラの演技を完遂できずに素が露呈することは織り込み済みであり、演技の破綻によって結果的に当人の素の人間性が確認されるという形で共同体への帰属意識が強化されるというような効果があるのだとしている。 メリット・デメリット [ ] キャラを演じることのメリットとして、実際の本人の性格がどうあれその場で設定されている単純なコードに合わせて振舞うことによって予定調和的なコミュニケーションを円滑化させ、またそれにより親密さを感じることができるという点がある。 瀬沼文彰は、「ケチキャラ」「おやじキャラ」のような一見すればネガティブな属性であっても、それをキャラとして捉えてをいれてに昇華することができるなど、互いが傷つかずにコミュニケーションがとれるという利点を指摘している。 さらに別の側面としては、それが虚構的なキャラにずきないということを織り込み済みで演技的に振舞うことにより、「本当の自分」の存在が裏付けられる感覚を得ることもできる。 他方で、人間関係の流動性の低い学校空間では、特定のキャラを強制するが暴走して(いじられキャラがいじめられキャラになるなど)につながるなどの弊害があるほか()、キャラ的人間関係への適応の困難がと関係しているといった指摘もある()。 また、楽しむことや衝突の回避を重視するキャラを介した人間関係は希薄で脆弱なものに過ぎないともいわれる。 のは、ディスコミュニケーション(コミュニケーション圏同士の断絶)の進む現代社会において「キャラ同士」ではなく「人同士」がコミュニケーションをとりあう場を用意するべきであるとし、キャラ的人間関係に対して否定的な見解を示している。 のも同様に現代社会における閉鎖的なトライブ間でのコミュニケーションの分断化を指摘しているが、キャラ的人間関係 については、人々はそれが顕在化した時代の是非について極端な反応をしがちであるとし、その長所と短所をふまえた上でコミュニケーションがすべてを決定する社会をうまく克服していくべきだと述べている。 キャラとアイデンティティ [ ] キャラによるコミュニケーションの特色は、その場に応じて演じられるキャラは切り替わりうるという部分にある。 は、個人のコミュニケーションの結果に応じて漸次上書きされていくような(しばしばにみられる)現実世界でののあり方を 断片型キャラクター的実存と呼び、(などでみられる)一貫した自己像を保ち続けようとする 全人格型キャラクター的実存と対比している。 同様に、評論家のは、一貫した自己像にもとづいて成長していこうという アイデンティティ型自己モデルではなく、臨機応変に適応スタイルを選択する キャラ型自己モデルが現代社会には適していると整理している。 荻上チキによれば、個人は趣味・所属する部活・職業・学歴など様々な要素と関係したキャラをあらかじめ複数ストックしており、その中から適当ないくつかを「仕事での打ち合わせ」「プライベートでの友人との交遊」といった文脈に応じて適宜呼び出してコミュニケーションを行うという「キャラ分けニーズ」が高まっているのだという。 のは、キャラを自分自身の中のゆるぎない自己イメージとしての 内キャラと、周囲の状況()に適応する形で演技的に振舞う 外キャラの2つにわけて論じている。 それによれば、「大きな物語」「超越的な他者」といったものが消失して人生の拠り所とすべき価値観・理想像が不透明になった現代社会()では、アイデンティティの不安を無効化するために決して相対化されることのない準拠点として内キャラが必要とされる一方、(全体に共有されるような「大きな空気」はすでに崩壊しているため)状況に応じて様々に異なる「場の空気」に対応する必要性があり、そのためには一貫性のあるアイデンティティは邪魔になるので外キャラを用意することになるのだという。 つまり、外キャラは他者と向き合うため、内キャラは自己と向き合うためのものといえる。 キャラが所属集団といった文脈によって使い分けられるということと、したようにキャラが「コミュニケーションを楽しむ」ために用いられていることを考えると、キャラとは(「共同社会」に対する)「利益社会化」 を表しているともいえる。 「共同社会」とは(の社会のように)・により人々が全人格的に結合され、個人が所属する集団を自由に選択できない社会を意味し、それに対する「利益社会」は仕事の達成などによる利益の共有というような紐帯により人々が断片的に結び付けられ、個人が所属する集団を自由に選択可能で流動性の高い社会を意味する。 つまり、キャラ的人間関係とは「楽しさ」「思い出作り」といったことを目的とした利益の共有による紐帯を結ぼうとする利益社会と考えることができるのである。 はアイデンティティを「社会的アイデンティティ」(社会的な地位に関する属性など)と「個人的アイデンティティ」(親しい間柄でのみ了解されうるもの)の2つに分けて論じているが、若者が演じるキャラは社会的文脈によって与えられるものではないということを考えれば、「個人的アイデンティティ」の方に相当することになる。 他方で、土井隆義が内キャラと呼んだような自分らしさの信念としてのキャラには、社会的に認められる存在になりたいという願望もみられるといえる。 のは、キャラの使い分けの現象をの患者における交代人格のようなものだと述べている。 解離性同一性障害の発祥事例自体は、欧米と比較して日本では低いとされているが、斎藤はこれを「キャラ化することによって病理から逃れている」と解釈できると述べている。 その一方で日本におけるキャラ文化が別の問題を引き起こすこともあるとして、を挙げている。 斎藤は、末に行った若者を対象としたインタビュー調査の際にそのメンタリティを「引きこもり系/系(は低いが自己イメージは安定している」と「自分探し系/系(コミュニケーション能力は高いが自己イメージが不安定)」に大別したが、自己イメージが不明確であるぶんキャラを自在に操るのは「自分探し系」の者が得意とするものであり、「引きこもり系」の者はキャラのコントロールをうまくできないと整理できる。 キャラの使い分けと引きこもりとの関係については、もキャラ的人間関係に特有の役割を演じて周囲に合わせる(を読む)ということに後ろめたさを感じることが優等生的な引きこもりにつながると述べている。 若者が演じるキャラは、批評家のが提示した「」「動物化」といったキーワードと関連付けて言及されることがある。 東浩紀は、主に日本の・などの系文化での・の興隆に注目しながら、その文化圏における様々な情報を集積した「データベース」から適当にいくつかの個別的な要素を組み合わせる形でキャラクターが生成され、それらの登場する作品自体を消費しているようでいて実際にはその背後にあるデータベース(の要素)が消費の対象になっていると論じ、さらにオタクがデータベースから取り出された記号的な要素に「」という脊髄反射的な反応を示すように他者を媒介した欲望を失って自己完結的な欲求のみを求めるような傾向を動物化と呼んだ。 東浩紀自身は、「キャラを演じる」と表現されるのが(本項で述べているような)擬似人格としてのキャラであり、「キャラを立てる」という語で表現されるのが要素の組み合わせによって生じる偽者のアイデンティティとしてのキャラだと整理しているが 、によれば若者が演じる社会的な文脈に依拠しない「仮想的キャラ」も、このデータベース消費論でいわれているように・などのにおいて蓄積されたキャラクター類型を参考にしそこから適当なものを呼び出すような形で生成されているという。 のは、その場で演じるキャラを決めるために対人関係のデータベースを参照しているという意味では、キャラの使い分けも(「対人関係への」ではなく)データベースと自己を往復するだけの「自己への嗜癖」であると述べている。 他方では、他者との関係を伴わない個人的な欲求しか持たないという意味で、動物化した主体はキャラゲームからの離脱者であると述べている。 ただし、彼らが好むコンテンツを消費する中では、個人的な範囲でキャラの操作や構築が行われており、キャラゲームが他者との媒介を含むレベルではなく個人のレベルに変化したともいえるという。 キャラとキャラクター [ ] のは、漫画・アニメなどの物語(虚構)の登場人物という意味でのキャラクターを論じる際に、「キャラクター」と「キャラ」を区別することを提唱した。 具体的には、物語の中で独自の個性・存在感を持って描かれるものを「キャラクター」とし、単純な線画で描かれ異なる文脈への越境可能性を持った(例えばを通じて別の環境へ移植されても同一性を失わない)ものを「キャラ」と呼んでいる。 対人関係用の仮想人格としてのキャラについて論じられるときも、この伊藤のキャラクター論と結びつけて言及されることがある。 具体的には、作中において「いじり」 の対象が流動的に入れ替わる描写を考えれば「いじられキャラ」は「キャラ」であり、隠蔽していた元オタクであるという過去が知られたとたんに対等な人間関係から疎外されるという描写を考えれば「オタクキャラ」は「キャラクター」である、というようになる。 評論家のは、「キャラ」と「キャラクター」の成立順序に注目している。 は、例えばのが(本来与えられていた家庭環境などの設定=物語を忘却して)などの別のキャラクターを演じるようになった(キャラクターのキャラ化の進行)ことは、現代人が「大きな物語」 を失い周囲の状況に即して臨機応変に外キャラを演じるようになったことを暗示しているように思えると述べている。 キャラによるコミュニケーションがみられる空間 [ ] キャラを用いたコミュニケーションが顕著に現れている空間として(の教室)がある。 教室内で各生徒に割り振られるキャラは、そこでの人気の序列を表すに如実に影響を及ぼし、印象の悪いキャラを与えられることはカーストの最底辺へ押し込まれること、さらには(場合によっては)の対象となる危険性をも意味することになる。 また、教室内で設定されるキャラがしばしば固定的であることは、スクールカーストの固定性とも関係している。 教室内で様々なキャラが発生する背景には、やパソコンによる環境の普及があり、オンライン上でのコミュニケーションはオフラインでの人間関係にも影響を与えている。 やらが出演するの・・も、キャラの確立が重要視される空間である。 所属の男性アイドルから などの女性アイドルグループまでの分野でも、(・スタイルや歌唱力・演技力といったスキルの巧拙よりもむしろ)「キャラ」の確立の成否が人気を維持する上で重大な要素となっている。 特に、なんらかの架空の星からやってきた、というような現実離れしたキャラ設定をアイドルが用いる手法は1990年代からののブームから定着したものである。 また、若者のコミュニケーション作法自体が、お笑い芸人のそれを模倣している面があり 、以降の・の競争においては「いかにユニークなキャラを立てるか」ということが名前を売る上で重要視されている。 また、キャラ設定自体が一種の「フリ」になっていると解釈することも可能であり、例えば「遅刻キャラ」であればそのキャラ設定自体が一種の「フリ」であって、彼または彼女が実際に遅刻をすれば「やっぱり遅刻した」という形でパターン化された笑いが生まれることになり、さらに仮に遅刻をしなかったとしても図式からの意外なズレという意味でそれが笑いに転化する可能性がある。 空間(・・など)でも現実の人格とは必ずしも一致しない仮想人格(キャラ)によるコミュニケーションが行われている面が強く、性別を偽って振舞う「/」の存在や自己の分身としてのキャラクターを意味するはその象徴であるといえる。 も、インターネット技術の発展はの「キャラ分けニーズ」を補助するものであるとしており、さらに若者が自身のキャラを調整・プロデュースする上で重要な役割を果たしているものとしてを挙げている。 例えばをつけたり・などで装飾を施したり することは(工業製品として大量生産された)携帯電話に個性を持たせて自身のキャラをアピールする意味があり、・といったを駆使して自分自身が演出したいキャラの設定を明確にすることもできる。 女児向けアニメ『』でヒロインの少女が変身するためのキーアイテムとして携帯電話を模したキャラクターが採用されていることはその象徴といえる。 これら以外にも、キャラによるコミュニケーションはの場 や・など大人世代にも広く浸透している。 ・などの創作物の中にも、現実世界でのキャラ的人間関係を反映した描写がみられることがある。 といわれる一連の作品群においてスクールカーストと関連してキャラの確立をめぐる駆け引きが描かれているほか、の『』や(前述ののひとつである)『』において「キャラチェンジ」というコンセプトが打ち出されている。 類似する概念 [ ] 他者とのコミュニケーションのために使い分けられるインターフェイスという意味で、でいうペルソナとキャラは類似した概念であるといえる。 しかしによると、欧米型のペルソナモデルでは背後に「欠如した単一の主体」が想定されその欠如ゆえに複数のペルソナを所有することになるが(主体とペルソナの関係は「一対多」となる)、日本型のキャラモデル の場合はキャラは単一の主体を持つものではなく、主体の複数性を背景として持ち各々の主体がその人格を得るための生成的な記号として機能している(主体とキャラの関係が「多対多」となる)という点が異なると指摘している。 古代からやで用いられる仮面は、遊戯的になにかを演じるツールという意味ではキャラと類似したものであるといえる。 しかし、思想家のによる遊びの4要素である「競争」「偶然」「模擬」「眩暈」 を軸に比較すると、仮面は「模擬」と「眩暈」を結合するものであるのに対し、キャラゲームでは「模擬」の要素はあっても「眩暈」の要素が無いといえる。 すなわち、仮面をつけることは他者を演じることによって(眩暈を起こすほどの陶酔を伴うような)「自我の忘却」の状態を得ることになるが、キャラは他者を演じるのではなく自分自身を演じるという面があるため、「眩暈」の要素は欠けているのである。 系 若者言葉で、したような同じ傾向を持った人たちからなるグループを「~系」という。 まず教室空間が(オタク系・系といったように)「~系」という形でいくつかのグループに分断し、さらにそのグループの中で「~キャラ」が与えられるという構造になる。 ただし、この言葉の用法には揺らぎがあり、実際には「~系」が「~キャラ」とほぼ同じ意味で使用されることもある。 「~系」という若者言葉の興隆の前には(・のような)「~族」という言葉が乱造されていたが、社会学者のは「社会がある若者集団に対して与えた呼称」から「若者同士が自他の若者集団に与えた呼称」への変化と捉えており 、これはキャラ世代の心性とも符合するものといえる。 関連用語・表現 [ ] キャラリング したようにその場その場に応じてキャラを使い分けること。 キャラがかぶる 「かぶる」とは、若者言葉で重複することを意味し、「キャラがかぶる」とはグループ内に同一の(あるいは類似した)キャラの者が複数存在することをいう( キャラかぶりということもある )。 キャラの重複は当事者間での競争を招いて敗者がそのグループから排斥される可能性もあり、とされる。 これはテレビ番組でのキャスティングのときから日常生活まで広く使用される表現で、は一般の視聴者が番組を制作するディレクターのような視点を持ち始めたのだと述べている。 さらに、「自分の居場所が無い」「自分の居場所を探す」というような言い回しをするときの「居場所」とは、キャラがかぶっていない場所なのかもしれないとしている 実際にが若者に対して行ったアンケート調査では過半数が「キャラがかぶっても抵抗は無い」と答えている。 ただし、そもそもグループ内ではキャラがかぶらないように発生していくものであって実際にキャラがかぶることは少ない(キャラがかぶったことを経験している人が少ない)から、「抵抗がある」と答える人も少なかったとも考えられる。 キャラが薄い/濃い キャラが薄いとは、存在感がない(キャラが十分に確立されていない)こと。 キャラが濃いはその逆で、前述の(同一グループ内における)「キャラかぶり」が発生した際にはかぶった相手よりも濃いキャラになるという対処法が考えられる。 キャラチェンジ 一度設定されたキャラを変更すること。 学校内でのキャラ設定は固定性が強いため「いじられキャラ」「いじめられキャラ」などに設定されてしまった場合の挽回は難しいとされる。 といわれる物語群の中でいえば、の『』では中学時代に「いじられキャラ」だった少年が高校でキャラを変更して人気者になろうとするさまが描かれ、の『』ではいじめを受けている状態の少年(版では少女)を、別の少年が(深刻ないじめとの対象にはならない範囲での)「いじめられキャラ いじられキャラ 」としてプロデュースし直そうとするところから物語がスタートする。 さらに省略して キャラチェンあるいは キャラ替えとも。 の一環としてネガティヴなキャラからポジティブなキャラへ変更することが推奨されることもある。 「キャラが立つ」とは個性が際立っているという意味で若者の間では肯定的に使われている。 の製作業界で使われていた専門用語に由来し、特に演技として意図的に構築された性格ではなく、素のままの性格というニュアンスがある。 2007年9月のでもが自分自身について「キャラが立っている」という表現を使用している。 他者から見た自分らしさを確立するという意味で「キャラを立てる」という表現をすることもある。 陽キャラ・陰キャラ 陽気なキャラクターの人を「 陽キャラ(ようキャラ)」と呼び、陰気なキャラクターの人を「 陰キャラ(いんキャラ)」と呼ぶ。 それぞれ「 陽キャ」「 陰キャ」と略すことがある。 では、陽キャラが上位に属し、陰キャラが下位に属すとされる。 1980年代から1990年代半ば頃の・に近い言葉。 脚注 [ ] 注釈 [ ]• これらの表現は順に・・・・が使用している。 のはこれを 島宇宙化と呼んだ。 同じ傾向を持った友人同士は「類友」といわれ 、者のがいう「社会的性格」に相当すると考えられる。 彼の言葉では、する「モバイル的実存」または「断片型キャラクター的実存」となる。 宇野はもともとこれを モバイル的実存と キャラクター的実存と呼んでいたが 、後に上であまりうまくない命名であったと述べて改めた。 この意味では本記事で論じられているのは基本的には外キャラで、で述べた「本当の自分」が内キャラに相当する。 も参照。 ここでいう「利益社会」「共同社会」はそれぞれ「ゲゼルシャフト」「ゲマインシャフト」に相当する。 も参照。 特定の個人に対してのような振る舞いを強制するようなコミュニケーション関与のこと。 広義の(コミュニケーション操作型いじめ)に相当する。 社会に共有される規範・枠組みのこと。 の到来はこれが失われたことだと論じられる。 やを参照。 「(人気投票)」というシステムの導入や「会いに行けるアイドル」という直接的な交流を重視したコンセプトによって効率的に個々のメンバーのキャラ(すべりキャラの、ボーイッシュキャラのなど)を確立させてファンに消費させていることが や から指摘されている。 詳細はを参照。 ここでいう「フリ」とは相手にボケのきっかけを与える行為のことで、それがうまく「ボケ」に連結されると笑いにつながる。 さらにそのボケに対応してそのおかしさや間違いなどを常識的な観点から指摘するのが「ツッコミ」である。 を参照。 はこれを「CPM(Characterized Psychoanalytic Matrix)モデル」と呼んでいる。 を参照。 出典 [ ]• 『キャラ論』77頁。 『キャラ論』180-182頁• 『ゼロ年代の想像力』43-44頁。 『ゼロ年代の想像力』163頁。 『キャラ論』22頁。 『キャラ論』62頁。 『キャラ論』63-64頁。 『キャラ化するニッポン』125頁。 『キャラクター精神分析 マンガ・文学・日本人』20頁。 『キャラ論』93頁。 『日本はなぜ諍いの多い国になったのか - 「マナー神経症」の時代』89頁。 「暴力と悪というコミュニケーション」『コミュニケーションの社会学』305頁。 「フラット化するコミュニケーション」『コミュニケーションの社会学』275頁。 『キャラ論』81-82頁・85頁・129頁。 『学校の「空気」 若者の気分 』、2011年、54頁。。 『キャラ論』82頁。 「「キャラ」で成り立つ寂しい関係」『中央公論』 2002年6月号、91頁。 『キャラ論』84頁。 『キャラ論』83・85頁• 『キャラ論』131頁。 「遊びと笑いというコミュニケーション」『コミュニケーションの社会学』156-158頁。 『キャラクター精神分析 マンガ・文学・日本人』31-33頁。 『キャラ論』156-157頁。 『キャラクター精神分析 マンガ・文学・日本人』32頁。 『キャラ論』158頁。 「「キャラ」で成り立つ寂しい関係」『中央公論』 2002年6月号、52-53頁。 『ゼロ年代の想像力』316-317頁。 宇野常寛「ポスト・ゼロ年代の想像力-ハイブリッド化と祝祭モデルについて」『〈vol. 4〉特集・想像力』、2009年、329-330頁。。 『ゼロ年代の想像力』312頁。 『ゼロ年代の想像力』317頁。 2009年12月12日のツイート• 『日本はなぜ諍いの多い国になったのか - 「マナー神経症」の時代』89頁。 『日本はなぜ諍いの多い国になったのか - 「マナー神経症」の時代』105頁。 『キャラ論』108頁。 『キャラ論』109-110頁。 『キャラクター精神分析 マンガ・文学・日本人』33頁。 『キャラクター精神分析 マンガ・文学・日本人』24頁。 『日本はなぜ諍いの多い国になったのか - 「マナー神経症」の時代』173-174頁・180-181頁。 「」東浩紀の渦状言論 はてな避難版(2009年5月19日)• 『カーニヴァル化する社会』 講談社、2005年、130-131頁。。 太田省一「遊びと笑いというコミュニケーション」『コミュニケーションの社会学』163-164頁。 「解説」『りはめより100倍恐ろしい』、2007年、217頁。。 『キャラクター精神分析 マンガ・文学・日本人』29頁。 『キャラクター精神分析 マンガ・文学・日本人』123頁・182-184頁。 宇野常寛「AKB48の歌詞世界 キャラクター生成の永久機関」『 総力特集 秋元康』、2011年。。 『キャラ化するニッポン』85頁。 『キャラクター精神分析 マンガ・文学・日本人』182頁。 『萌え萌えジャパン 2兆円市場の萌える構造』 、2005年、160頁。。 太田省一「遊びと笑いというコミュニケーション」『コミュニケーションの社会学』156-157頁。 『キャラ論』203-206頁。 『キャラ化するニッポン』70頁。 ・ 『合コンの社会学』 、2007年、89頁。。 「「キャラ」で成り立つ寂しい関係」『中央公論』 2002年6月号、51-52頁。 『ふしぎなふしぎな子どもの物語 なぜ成長を描かなくなったのか?』、2011年、297-298頁。。 宇野常寛・黒瀬陽平・石岡良治・泉信行「誌上ニコ生PLANETS ハートキャッチプリキュア! 」『PLANETS SPECIAL 2011 夏休みの終わりに』第二次惑星開発委員会、2011年、109頁。。 太田省一「遊びと笑いというコミュニケーション」『コミュニケーションの社会学』161頁。 『キャラ論』112-116頁。 「」社会学部紀要第98号、107頁。 2005年3月。 『キャラ論』186-187頁。 『日本はなぜ諍いの多い国になったのか - 「マナー神経症」の時代』87頁。 「「キャラ」で成り立つ寂しい関係」『中央公論』 2002年6月号、51頁。 『キャラ論』124-125頁。 『キャラ論』126頁。 『いますぐキャラを変えなさい』 、2009年。。 『キャラクター精神分析 マンガ・文学・日本人』13頁。 『日本はなぜ諍いの多い国になったのか - 「マナー神経症」の時代』84頁。 マイナビ. 2019年12月12日閲覧。 2019年12月12日閲覧。 松本ミゾレ. キャリコネ. 2019年12月12日閲覧。 参考文献 [ ]• 『キャラ論』STUDIO CELLO、2007年。。 『ゼロ年代の想像力』 、2008年。。 『キャラクター精神分析 マンガ・文学・日本人』 、2011年。。 『キャラ化するニッポン』 、2007年。。 『日本はなぜ諍いの多い国になったのか - 「マナー神経症」の時代』、2005年。。 ・編『コミュニケーションの社会学』 、2009年。。 「「キャラ」で成り立つ寂しい関係」『』 2002年6月号。 関連項目 [ ]•

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キャラ が 立つ

キャラとは、(: character、・)を省略したで、の場における振舞い方に関する類型的な役割を意味する。 その具体的な役割に応じて、例えば「キャラ」「キャラ」「キャラ」「キャラ」のようにさまざまなものが存在する。 この用法の「キャラ」という語の発祥は定かではないが、1999年の『』や記事での使用が確認されているため、その頃からの若者の間で浸透した表現だと考えられる(・などのキャラクターの省略形としての「キャラ」はそれより以前からの使用が確認されている)。 本項で説明している「キャラ」は、省略されることなく「キャラクター」といわれることもあり 、実質的にはといえる。 もともと「」という言葉には「の登場人物」という意味があるが、この意味での「物語」を「小さな共同体(コミュニティ)」と読み替え、「コミュニティ内での個人の位置(イメージ)」という意味で「キャラ/キャラクター」という言葉を使うような思考形式が生まれていったのだと考えられる。 キャラによるコミュニケーション [ ] 現代の日本の若者の間では、「キャラ」と呼ばれる類型的役割に応じて振舞うというコミュニケーション作法が浸透しており、このような現象・状況は キャラ化・ キャラ的コミュニケーション・ キャラ的人間関係・ キャラゲーム・ キャラ戦争などと表現される。 例えば学校ではクラスが似たような傾向を持った人が集まる細かいいくつかのグループに分かれる現象がみられるが 、この細分化された各々の小集団の内部でさらに個人に対して「キャラ」「いじられキャラ」などの具体的な役割が割り振られていくことになる。 グループ内における各自のキャラは自身の本来の性格というより普段行動をともにしているグループのリーダーやほかのメンバーといった他者からあるいは自然発生的に与えられることが多く、による圧力として本人の意図とは無関係に強制されることもある。 酔った勢いで羽目を外して卑猥な発言をしたのがきっかけで「キャラ」扱いされるようになるというように、なんらかの具体的な事件をきっかけにキャラが設定されることもあれば、交遊を深めていく中でいつからともなく自然にキャラが確立されていくこともある。 個人に与えられる役割分担という意味では、人類は・採集などで生活していた時代から現代に至るまでずっと分業を行っていたともいえるが、のによれば「キャラ」は(生活・仕事を成り立たせるためではなく)楽しくコミュニケーションを盛り上げるために割り当てられるという点が異なるという。 のの表現を借りれば、若者たちが演じるキャラ( 仮想的キャラ)は、大人の世界で「上司」「教師」のように社会的な文脈によって与えられる規範( 社会的キャラ)と違って社会的な要素が欠如しているといえる。 キャラ的コミュニケーションのほかに若者の間の人間関係に存在する暗黙の規範としては、摩擦を回避するために仲間内では上下関係をなるべくつけないという「対等性原則」がある。 その意味で若者たちのキャラ化は、実際には存在している上下関係を、(例えば「いじりキャラ」と「いじられキャラ」のような形で)表面的にはフラットな関係に読み替えることによって隠蔽するという側面があるといえる。 キャラと演技性 [ ] 周囲から与えられるキャラに即した振る舞いをするという意味ではキャラ的なコミュニケーションは演技性を帯びたものであるといえる。 もっとも、人間が日常生活をおくる上でも無意識に演技の切り替えを行っているということは以前からのが指摘していることである。 ただし、実際に若者を対象とした調査では必ずしも意識的にキャラを演じていると答える者が多数派ということではない。 この調査を行ったのは、少数でない割合とはいえ6割以上はキャラをつくらずにコミュニケーションを行っていることになるため若者のキャラ演出という現象を過剰に重視すべきではないだろうと述べている。 元の研究者であるによる若者への調査でも、キャラを演じている意識があるのは58人中10人と少数であった。 キャラによるコミュニケーションといっても興ざめするほど演技性が見え透いてしまうのは嫌われる傾向もある。 そのため、集団に対して行った瀬沼文彰のインタビュー調査では周囲の他者に配慮して演技していないと答えた者が多かったとも考えられる。 演技性の無いニュートラルな状態は若者言葉で 素(す)といわれるが、実際には「素という演技しない状態を演技している」 あるいは「(キャラと素をはっきりと使い分けるというより)両者の配分のバランスを調整しながらコミュニケーションをとっている」 という面があるともいえる。 社会学者のによると、キャラをめぐる遊戯的なコミュニケーション(キャラゲーム)においてはキャラの演技を完遂できずに素が露呈することは織り込み済みであり、演技の破綻によって結果的に当人の素の人間性が確認されるという形で共同体への帰属意識が強化されるというような効果があるのだとしている。 メリット・デメリット [ ] キャラを演じることのメリットとして、実際の本人の性格がどうあれその場で設定されている単純なコードに合わせて振舞うことによって予定調和的なコミュニケーションを円滑化させ、またそれにより親密さを感じることができるという点がある。 瀬沼文彰は、「ケチキャラ」「おやじキャラ」のような一見すればネガティブな属性であっても、それをキャラとして捉えてをいれてに昇華することができるなど、互いが傷つかずにコミュニケーションがとれるという利点を指摘している。 さらに別の側面としては、それが虚構的なキャラにずきないということを織り込み済みで演技的に振舞うことにより、「本当の自分」の存在が裏付けられる感覚を得ることもできる。 他方で、人間関係の流動性の低い学校空間では、特定のキャラを強制するが暴走して(いじられキャラがいじめられキャラになるなど)につながるなどの弊害があるほか()、キャラ的人間関係への適応の困難がと関係しているといった指摘もある()。 また、楽しむことや衝突の回避を重視するキャラを介した人間関係は希薄で脆弱なものに過ぎないともいわれる。 のは、ディスコミュニケーション(コミュニケーション圏同士の断絶)の進む現代社会において「キャラ同士」ではなく「人同士」がコミュニケーションをとりあう場を用意するべきであるとし、キャラ的人間関係に対して否定的な見解を示している。 のも同様に現代社会における閉鎖的なトライブ間でのコミュニケーションの分断化を指摘しているが、キャラ的人間関係 については、人々はそれが顕在化した時代の是非について極端な反応をしがちであるとし、その長所と短所をふまえた上でコミュニケーションがすべてを決定する社会をうまく克服していくべきだと述べている。 キャラとアイデンティティ [ ] キャラによるコミュニケーションの特色は、その場に応じて演じられるキャラは切り替わりうるという部分にある。 は、個人のコミュニケーションの結果に応じて漸次上書きされていくような(しばしばにみられる)現実世界でののあり方を 断片型キャラクター的実存と呼び、(などでみられる)一貫した自己像を保ち続けようとする 全人格型キャラクター的実存と対比している。 同様に、評論家のは、一貫した自己像にもとづいて成長していこうという アイデンティティ型自己モデルではなく、臨機応変に適応スタイルを選択する キャラ型自己モデルが現代社会には適していると整理している。 荻上チキによれば、個人は趣味・所属する部活・職業・学歴など様々な要素と関係したキャラをあらかじめ複数ストックしており、その中から適当ないくつかを「仕事での打ち合わせ」「プライベートでの友人との交遊」といった文脈に応じて適宜呼び出してコミュニケーションを行うという「キャラ分けニーズ」が高まっているのだという。 のは、キャラを自分自身の中のゆるぎない自己イメージとしての 内キャラと、周囲の状況()に適応する形で演技的に振舞う 外キャラの2つにわけて論じている。 それによれば、「大きな物語」「超越的な他者」といったものが消失して人生の拠り所とすべき価値観・理想像が不透明になった現代社会()では、アイデンティティの不安を無効化するために決して相対化されることのない準拠点として内キャラが必要とされる一方、(全体に共有されるような「大きな空気」はすでに崩壊しているため)状況に応じて様々に異なる「場の空気」に対応する必要性があり、そのためには一貫性のあるアイデンティティは邪魔になるので外キャラを用意することになるのだという。 つまり、外キャラは他者と向き合うため、内キャラは自己と向き合うためのものといえる。 キャラが所属集団といった文脈によって使い分けられるということと、したようにキャラが「コミュニケーションを楽しむ」ために用いられていることを考えると、キャラとは(「共同社会」に対する)「利益社会化」 を表しているともいえる。 「共同社会」とは(の社会のように)・により人々が全人格的に結合され、個人が所属する集団を自由に選択できない社会を意味し、それに対する「利益社会」は仕事の達成などによる利益の共有というような紐帯により人々が断片的に結び付けられ、個人が所属する集団を自由に選択可能で流動性の高い社会を意味する。 つまり、キャラ的人間関係とは「楽しさ」「思い出作り」といったことを目的とした利益の共有による紐帯を結ぼうとする利益社会と考えることができるのである。 はアイデンティティを「社会的アイデンティティ」(社会的な地位に関する属性など)と「個人的アイデンティティ」(親しい間柄でのみ了解されうるもの)の2つに分けて論じているが、若者が演じるキャラは社会的文脈によって与えられるものではないということを考えれば、「個人的アイデンティティ」の方に相当することになる。 他方で、土井隆義が内キャラと呼んだような自分らしさの信念としてのキャラには、社会的に認められる存在になりたいという願望もみられるといえる。 のは、キャラの使い分けの現象をの患者における交代人格のようなものだと述べている。 解離性同一性障害の発祥事例自体は、欧米と比較して日本では低いとされているが、斎藤はこれを「キャラ化することによって病理から逃れている」と解釈できると述べている。 その一方で日本におけるキャラ文化が別の問題を引き起こすこともあるとして、を挙げている。 斎藤は、末に行った若者を対象としたインタビュー調査の際にそのメンタリティを「引きこもり系/系(は低いが自己イメージは安定している」と「自分探し系/系(コミュニケーション能力は高いが自己イメージが不安定)」に大別したが、自己イメージが不明確であるぶんキャラを自在に操るのは「自分探し系」の者が得意とするものであり、「引きこもり系」の者はキャラのコントロールをうまくできないと整理できる。 キャラの使い分けと引きこもりとの関係については、もキャラ的人間関係に特有の役割を演じて周囲に合わせる(を読む)ということに後ろめたさを感じることが優等生的な引きこもりにつながると述べている。 若者が演じるキャラは、批評家のが提示した「」「動物化」といったキーワードと関連付けて言及されることがある。 東浩紀は、主に日本の・などの系文化での・の興隆に注目しながら、その文化圏における様々な情報を集積した「データベース」から適当にいくつかの個別的な要素を組み合わせる形でキャラクターが生成され、それらの登場する作品自体を消費しているようでいて実際にはその背後にあるデータベース(の要素)が消費の対象になっていると論じ、さらにオタクがデータベースから取り出された記号的な要素に「」という脊髄反射的な反応を示すように他者を媒介した欲望を失って自己完結的な欲求のみを求めるような傾向を動物化と呼んだ。 東浩紀自身は、「キャラを演じる」と表現されるのが(本項で述べているような)擬似人格としてのキャラであり、「キャラを立てる」という語で表現されるのが要素の組み合わせによって生じる偽者のアイデンティティとしてのキャラだと整理しているが 、によれば若者が演じる社会的な文脈に依拠しない「仮想的キャラ」も、このデータベース消費論でいわれているように・などのにおいて蓄積されたキャラクター類型を参考にしそこから適当なものを呼び出すような形で生成されているという。 のは、その場で演じるキャラを決めるために対人関係のデータベースを参照しているという意味では、キャラの使い分けも(「対人関係への」ではなく)データベースと自己を往復するだけの「自己への嗜癖」であると述べている。 他方では、他者との関係を伴わない個人的な欲求しか持たないという意味で、動物化した主体はキャラゲームからの離脱者であると述べている。 ただし、彼らが好むコンテンツを消費する中では、個人的な範囲でキャラの操作や構築が行われており、キャラゲームが他者との媒介を含むレベルではなく個人のレベルに変化したともいえるという。 キャラとキャラクター [ ] のは、漫画・アニメなどの物語(虚構)の登場人物という意味でのキャラクターを論じる際に、「キャラクター」と「キャラ」を区別することを提唱した。 具体的には、物語の中で独自の個性・存在感を持って描かれるものを「キャラクター」とし、単純な線画で描かれ異なる文脈への越境可能性を持った(例えばを通じて別の環境へ移植されても同一性を失わない)ものを「キャラ」と呼んでいる。 対人関係用の仮想人格としてのキャラについて論じられるときも、この伊藤のキャラクター論と結びつけて言及されることがある。 具体的には、作中において「いじり」 の対象が流動的に入れ替わる描写を考えれば「いじられキャラ」は「キャラ」であり、隠蔽していた元オタクであるという過去が知られたとたんに対等な人間関係から疎外されるという描写を考えれば「オタクキャラ」は「キャラクター」である、というようになる。 評論家のは、「キャラ」と「キャラクター」の成立順序に注目している。 は、例えばのが(本来与えられていた家庭環境などの設定=物語を忘却して)などの別のキャラクターを演じるようになった(キャラクターのキャラ化の進行)ことは、現代人が「大きな物語」 を失い周囲の状況に即して臨機応変に外キャラを演じるようになったことを暗示しているように思えると述べている。 キャラによるコミュニケーションがみられる空間 [ ] キャラを用いたコミュニケーションが顕著に現れている空間として(の教室)がある。 教室内で各生徒に割り振られるキャラは、そこでの人気の序列を表すに如実に影響を及ぼし、印象の悪いキャラを与えられることはカーストの最底辺へ押し込まれること、さらには(場合によっては)の対象となる危険性をも意味することになる。 また、教室内で設定されるキャラがしばしば固定的であることは、スクールカーストの固定性とも関係している。 教室内で様々なキャラが発生する背景には、やパソコンによる環境の普及があり、オンライン上でのコミュニケーションはオフラインでの人間関係にも影響を与えている。 やらが出演するの・・も、キャラの確立が重要視される空間である。 所属の男性アイドルから などの女性アイドルグループまでの分野でも、(・スタイルや歌唱力・演技力といったスキルの巧拙よりもむしろ)「キャラ」の確立の成否が人気を維持する上で重大な要素となっている。 特に、なんらかの架空の星からやってきた、というような現実離れしたキャラ設定をアイドルが用いる手法は1990年代からののブームから定着したものである。 また、若者のコミュニケーション作法自体が、お笑い芸人のそれを模倣している面があり 、以降の・の競争においては「いかにユニークなキャラを立てるか」ということが名前を売る上で重要視されている。 また、キャラ設定自体が一種の「フリ」になっていると解釈することも可能であり、例えば「遅刻キャラ」であればそのキャラ設定自体が一種の「フリ」であって、彼または彼女が実際に遅刻をすれば「やっぱり遅刻した」という形でパターン化された笑いが生まれることになり、さらに仮に遅刻をしなかったとしても図式からの意外なズレという意味でそれが笑いに転化する可能性がある。 空間(・・など)でも現実の人格とは必ずしも一致しない仮想人格(キャラ)によるコミュニケーションが行われている面が強く、性別を偽って振舞う「/」の存在や自己の分身としてのキャラクターを意味するはその象徴であるといえる。 も、インターネット技術の発展はの「キャラ分けニーズ」を補助するものであるとしており、さらに若者が自身のキャラを調整・プロデュースする上で重要な役割を果たしているものとしてを挙げている。 例えばをつけたり・などで装飾を施したり することは(工業製品として大量生産された)携帯電話に個性を持たせて自身のキャラをアピールする意味があり、・といったを駆使して自分自身が演出したいキャラの設定を明確にすることもできる。 女児向けアニメ『』でヒロインの少女が変身するためのキーアイテムとして携帯電話を模したキャラクターが採用されていることはその象徴といえる。 これら以外にも、キャラによるコミュニケーションはの場 や・など大人世代にも広く浸透している。 ・などの創作物の中にも、現実世界でのキャラ的人間関係を反映した描写がみられることがある。 といわれる一連の作品群においてスクールカーストと関連してキャラの確立をめぐる駆け引きが描かれているほか、の『』や(前述ののひとつである)『』において「キャラチェンジ」というコンセプトが打ち出されている。 類似する概念 [ ] 他者とのコミュニケーションのために使い分けられるインターフェイスという意味で、でいうペルソナとキャラは類似した概念であるといえる。 しかしによると、欧米型のペルソナモデルでは背後に「欠如した単一の主体」が想定されその欠如ゆえに複数のペルソナを所有することになるが(主体とペルソナの関係は「一対多」となる)、日本型のキャラモデル の場合はキャラは単一の主体を持つものではなく、主体の複数性を背景として持ち各々の主体がその人格を得るための生成的な記号として機能している(主体とキャラの関係が「多対多」となる)という点が異なると指摘している。 古代からやで用いられる仮面は、遊戯的になにかを演じるツールという意味ではキャラと類似したものであるといえる。 しかし、思想家のによる遊びの4要素である「競争」「偶然」「模擬」「眩暈」 を軸に比較すると、仮面は「模擬」と「眩暈」を結合するものであるのに対し、キャラゲームでは「模擬」の要素はあっても「眩暈」の要素が無いといえる。 すなわち、仮面をつけることは他者を演じることによって(眩暈を起こすほどの陶酔を伴うような)「自我の忘却」の状態を得ることになるが、キャラは他者を演じるのではなく自分自身を演じるという面があるため、「眩暈」の要素は欠けているのである。 系 若者言葉で、したような同じ傾向を持った人たちからなるグループを「~系」という。 まず教室空間が(オタク系・系といったように)「~系」という形でいくつかのグループに分断し、さらにそのグループの中で「~キャラ」が与えられるという構造になる。 ただし、この言葉の用法には揺らぎがあり、実際には「~系」が「~キャラ」とほぼ同じ意味で使用されることもある。 「~系」という若者言葉の興隆の前には(・のような)「~族」という言葉が乱造されていたが、社会学者のは「社会がある若者集団に対して与えた呼称」から「若者同士が自他の若者集団に与えた呼称」への変化と捉えており 、これはキャラ世代の心性とも符合するものといえる。 関連用語・表現 [ ] キャラリング したようにその場その場に応じてキャラを使い分けること。 キャラがかぶる 「かぶる」とは、若者言葉で重複することを意味し、「キャラがかぶる」とはグループ内に同一の(あるいは類似した)キャラの者が複数存在することをいう( キャラかぶりということもある )。 キャラの重複は当事者間での競争を招いて敗者がそのグループから排斥される可能性もあり、とされる。 これはテレビ番組でのキャスティングのときから日常生活まで広く使用される表現で、は一般の視聴者が番組を制作するディレクターのような視点を持ち始めたのだと述べている。 さらに、「自分の居場所が無い」「自分の居場所を探す」というような言い回しをするときの「居場所」とは、キャラがかぶっていない場所なのかもしれないとしている 実際にが若者に対して行ったアンケート調査では過半数が「キャラがかぶっても抵抗は無い」と答えている。 ただし、そもそもグループ内ではキャラがかぶらないように発生していくものであって実際にキャラがかぶることは少ない(キャラがかぶったことを経験している人が少ない)から、「抵抗がある」と答える人も少なかったとも考えられる。 キャラが薄い/濃い キャラが薄いとは、存在感がない(キャラが十分に確立されていない)こと。 キャラが濃いはその逆で、前述の(同一グループ内における)「キャラかぶり」が発生した際にはかぶった相手よりも濃いキャラになるという対処法が考えられる。 キャラチェンジ 一度設定されたキャラを変更すること。 学校内でのキャラ設定は固定性が強いため「いじられキャラ」「いじめられキャラ」などに設定されてしまった場合の挽回は難しいとされる。 といわれる物語群の中でいえば、の『』では中学時代に「いじられキャラ」だった少年が高校でキャラを変更して人気者になろうとするさまが描かれ、の『』ではいじめを受けている状態の少年(版では少女)を、別の少年が(深刻ないじめとの対象にはならない範囲での)「いじめられキャラ いじられキャラ 」としてプロデュースし直そうとするところから物語がスタートする。 さらに省略して キャラチェンあるいは キャラ替えとも。 の一環としてネガティヴなキャラからポジティブなキャラへ変更することが推奨されることもある。 「キャラが立つ」とは個性が際立っているという意味で若者の間では肯定的に使われている。 の製作業界で使われていた専門用語に由来し、特に演技として意図的に構築された性格ではなく、素のままの性格というニュアンスがある。 2007年9月のでもが自分自身について「キャラが立っている」という表現を使用している。 他者から見た自分らしさを確立するという意味で「キャラを立てる」という表現をすることもある。 陽キャラ・陰キャラ 陽気なキャラクターの人を「 陽キャラ(ようキャラ)」と呼び、陰気なキャラクターの人を「 陰キャラ(いんキャラ)」と呼ぶ。 それぞれ「 陽キャ」「 陰キャ」と略すことがある。 では、陽キャラが上位に属し、陰キャラが下位に属すとされる。 1980年代から1990年代半ば頃の・に近い言葉。 脚注 [ ] 注釈 [ ]• これらの表現は順に・・・・が使用している。 のはこれを 島宇宙化と呼んだ。 同じ傾向を持った友人同士は「類友」といわれ 、者のがいう「社会的性格」に相当すると考えられる。 彼の言葉では、する「モバイル的実存」または「断片型キャラクター的実存」となる。 宇野はもともとこれを モバイル的実存と キャラクター的実存と呼んでいたが 、後に上であまりうまくない命名であったと述べて改めた。 この意味では本記事で論じられているのは基本的には外キャラで、で述べた「本当の自分」が内キャラに相当する。 も参照。 ここでいう「利益社会」「共同社会」はそれぞれ「ゲゼルシャフト」「ゲマインシャフト」に相当する。 も参照。 特定の個人に対してのような振る舞いを強制するようなコミュニケーション関与のこと。 広義の(コミュニケーション操作型いじめ)に相当する。 社会に共有される規範・枠組みのこと。 の到来はこれが失われたことだと論じられる。 やを参照。 「(人気投票)」というシステムの導入や「会いに行けるアイドル」という直接的な交流を重視したコンセプトによって効率的に個々のメンバーのキャラ(すべりキャラの、ボーイッシュキャラのなど)を確立させてファンに消費させていることが や から指摘されている。 詳細はを参照。 ここでいう「フリ」とは相手にボケのきっかけを与える行為のことで、それがうまく「ボケ」に連結されると笑いにつながる。 さらにそのボケに対応してそのおかしさや間違いなどを常識的な観点から指摘するのが「ツッコミ」である。 を参照。 はこれを「CPM(Characterized Psychoanalytic Matrix)モデル」と呼んでいる。 を参照。 出典 [ ]• 『キャラ論』77頁。 『キャラ論』180-182頁• 『ゼロ年代の想像力』43-44頁。 『ゼロ年代の想像力』163頁。 『キャラ論』22頁。 『キャラ論』62頁。 『キャラ論』63-64頁。 『キャラ化するニッポン』125頁。 『キャラクター精神分析 マンガ・文学・日本人』20頁。 『キャラ論』93頁。 『日本はなぜ諍いの多い国になったのか - 「マナー神経症」の時代』89頁。 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