コロナ 憎い。 新型コロナウイルスが憎いですか?

夏のボーナスは出ないだろうな コロナが憎いし会社もやめたい 笑

コロナ 憎い

戦時中、平安中の野球部員だった原田さん。 1941年夏の甲子園中止も経験した(京都市中京区) 今夏に開催予定だった第102回全国高校野球選手権は新型コロナウイルスの影響で、戦時中の1941(昭和16)年以来となる中止に追い込まれた。 同年は地方大会まで実施され京都は平安中(現龍谷大平安高)が優勝したが、甲子園大会は開かれなかった。 平安中のメンバーだった原田清さん(93)=京都市中京区=は「戦争とコロナでは全く違う理由だが、日本中で大変なことになっているのは同じ。 コロナが憎いね」と、約80年前と同じように甲子園という目標を失った高校球児たちに思いを寄せる。 平安中は同年の京都大会決勝で京都一商(現西京高)を下して優勝。 だが、戦局が深刻化し全国広域での移動が制限されたため、甲子園大会は実施されなかった。 捕手だった原田さんは「下級生で控え選手だったと思う。 あの頃はまだ野球はできていた」と振り返る。 次第に戦局が悪化し、43年頃には練習もできなくなった。 「戦争一色で軍需工場に毎日通って鉄砲の弾を作っていた」。 平安中で最後の夏となった43年は地方大会も開かれず、翌44年春に卒業。 予科練生として全国に駐屯し「1、2年上の先輩は特攻隊でたくさん死んだ。 ええ選手が多かった。 もっと野球したかったやろな…」と記憶をたどる。 夏の大会は45年まで中止が続いたが、42年夏に国民の戦意高揚のために甲子園球場で「錬成大会」が開かれている。 平安中も出場し、正捕手の原田さんやエース富樫淳さん(故人)の活躍で準優勝。 この大会は文部省(現文部科学省)主催という異例の形だったため日本高野連の記録としては残らない「幻の甲子園」とも呼ばれる。 戦争に大きく影響された野球人生を歩んだ原田さんは「今はこんな平和な時代なのに試合もできないとは、選手はどれほど悔しいだろう」と後輩に当たる高校球児を思いやる。 「満員の甲子園でプレーしたことが幻と言われると今も悔しい。 でも今の選手の気持ちを思うと、甲子園で野球ができた私の方がまだ良かったと思わないといけないね」と複雑な胸中を語った。 41年の第27回大会は戦局悪化のため鉄道による広域の移動が制限されたことで地方大会途中で中止。 7~10月にかけて代替大会が開かれ、リーグ戦を行った地域もあった。 終戦の45年まで中断し、46年夏の第28回大会で復活した。

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無念の閉店「コロナ憎い」 約40年続く居酒屋おがわ(北日本新聞)

コロナ 憎い

ノートには毎日の治療の様子が細かく記されていた 新型コロナウイルスに感染し亡くなった福井県内12例目の会社役員男性(57)=越前市=は、陽性判明後に急速に容体が悪化し、2日後には集中治療室(ICU)に入った。 濃厚接触者となり自宅待機を余儀なくされた妻(57)は、「病院からの電話が怖かった」と当時を振り返る。 一方、男性はICUに入る前まで、病床で顧客に断りの電話を入れるなど会社の今後を考え、社員を気遣った。 妻は「仕事第一の人。 もっと一緒にいたかった」としのんだ。 夫はその日の夜、熱っぽいということで早めに寝た。 熱は治まらず24日に病院へ行き、解熱剤をもらった。 風邪だと思った。 再び熱が出て26日にも病院へ行ったが、レントゲンに影は映っていなかった。 27日には熱が39・4度まで上がり、そのとき夫から初めて体温計を見せられた。 28日昼前のPCR検査で陽性が判明。 意識がある夫を見たのは、入院の着替えを持っていったこの日が最後になった。 私と同居の娘は自宅待機になった。 その日の夜、夫からは電話でテレビ番組の録画を頼まれた。 29日、夫は病床で顧客に仕事の断りの電話を入れたり、今後の会社の対応をパソコンに打ち込んだりしていた。 夜にメールをしたら「今日一日休めなかったから、うとうとしていたところでした」と返ってきた。 30日午前には電話で会話し、メールもしたのに夫は午後にICUに入った。 医師からは電話で「基礎疾患があるので、(死を含め)あらゆる可能性がある」と言われた。 現実がよく分からなかった。 同日午後11時ごろ、病院から電話があった。 声は夫だった。 「人工呼吸器になると話せなくなるから。 社員を休ませてほしい」と言った。 苦しい思いを社員にさせたくなかったのかもしれない。 「苦しいの?」と聞いたら「ちょっと」と答えた。 私の隣にいた娘は「お父さん頑張って」と言った。 夫の声を聞いたのは、これが最後になった。 夫の容体を伝えてくる病院からの突然の電話が、ものすごく怖かった。 スピーカー音にして、娘と一緒に聞いた。 すべてメモを取った。 その後、毎日午前10時半に、こちらから病院へ電話をするようにした。 多忙な医師や看護師には申し訳ないと思ったが、そうしないと耐えられなかった。 「(人工心肺装置の)ECMO(エクモ)は順調に動いてます」「他の臓器は異常ありません」。 医師はデータを示し、丁寧に夫の状態を教えてくれた。 少しでも改善していると聞くと一日ほっとして過ごせた。 自宅にいると、12例目の男性(夫)が重体で、エクモを装着していることがニュースで流れていた。 医師から説明を受けているのに、ニュースで初めて「重体」であることを実感した。 変な感覚だった。 「できる、できる、必ずできる」がモットーで粘り強く、負けん気が強かった夫は最後まで闘い抜き、4月26日に亡くなった。 つながれていたいろいろな管が外され、しばらくすると、きれいな顔で私たちの前に現れた。 眠っているようで、目には涙がたまっているようにも見えた。 「帰ってきて」と最期まで叫び続けた私たちの声が届いていたのかな、と思った。 翌日、遺体は病院から斎場に運ばれ火葬された。 100メートルほど離れた駐車場から見守ることしかできなかった。 車から出され、斎場に入る棺を一瞬だけ見ることができた。 約2時間後、スタッフ3人が姿勢を正して三つの骨壺(こつつぼ)を駐車場まで持ってきてくれた。 「まだ温かいので触ってあげてください」と言われた。 ここまで悪さをするウイルスは本当に憎い。 同時に当たり前の日常が、どれほど素晴らしく、ありがたいものであるかを教えられた1カ月でもあった。

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新型コロナが憎い!

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北海道・東北• 東海・甲信越• 近畿・北陸• 中国・四国• 九州・沖縄• 志村けんさんの死去を受け、ザ・ドリフターズのメンバーが所属するイザワオフィスのホームページで追悼コメントを発表した。 コメントは以下の通り。 皆さんも身近に感じて、気を付けてくださるようお願い致します。 非常に悔しいです。 3年前に、久しぶりにドリフでコントやった時、「高木さんも80歳過ぎて、頑張ってるんだから、自分も頑張らなきゃなぁ」って言ってたよね。 また一緒にコントやりたかったのに。 心よりご冥福をお祈り申し上げます。

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