三好長治 麒麟。 三好長慶

【麒麟がくる】三好三人衆とは?三好長逸・三好宗渭・岩成友通それぞれどんな人物?

三好長治 麒麟

今回は 細川晴元と 三好長慶の 覇権争いが主体の話でしたね。 この2人の関係を見るには、まずはこの時代の 政局について知る必要があります。 足利義輝が将軍職に就いていたこの時代、 室町幕府の権威は 地に落ちたも同然の状態でした。 この時代より80年ほど前に起きた 応仁の乱を幕府が収拾できなかったことで、 将軍の存在意義がなくなってしまっていたんですね。 代わって実権を握ったのが、 幕府ナンバー2のポジションにあった 管領、特に 細川氏でした。 室町幕府の管領は当初、 斯波氏、細川氏、畠山氏の三家(三管領家)が 持ち回りで務めましたが、これも応仁の乱以降、細川氏以外の二氏は急速に勢力を失い、細川氏が 独占するようになっていました。 本来、管領は 将軍を補佐する立場だったのですが、いつしか彼らは将軍の言うことなど聞かなくなり、むしろ、歯向かえば逆に攻撃してくるほど 力関係は逆転していた状態で、義輝の祖父の代には、将軍家は京を追われて 近江国に逃れていました。 そのため、義輝が生まれたのも、近江国だったといいます。 そんな細川氏の中でも、 権力争いが絶えませんでした。 父の死によって7歳で家督を継いだ 細川晴元は、13歳のとき、父の政敵だった 細川高国打倒の兵を挙げ、この戦いに勝利します。 このとき晴元の力となったのが、三好長慶の父・ 三好元長でした。 三好氏は 阿波細川氏に代々仕える 譜代の臣で、この功績により、更に重臣としての地位を高めます。 しかし、その関係も長くはつづかず、三好元長が細川高国との和睦を図ったことによって 不仲 となります。 その後も両者は勢力争いのなかで 対立、和睦を繰り返しますが、やがて元長は晴元によって 自害に追い込まれます。 そうすると、今度は元長の嫡男・長慶と和睦して配下に組み入れます。 この晴元と長慶の関係も、 ひっついたり離れたりを繰り返すのですが、ドラマのこの時期は、 関係が悪化していた時期ですね。 ネタバレになりますが、晴元はやがて長慶によって 失脚させられます。 まあ、長慶にしてみれば、 父の仇ですからね。 当然の反逆だったといえるでしょう。 なぜ晴元は、対立と和睦を繰り返しながらも三好氏を配下に組み入れたかというと、激しい覇権争いの続くなか、政権を維持するには 三好氏の武力を頼るしかなかったんですね。 将軍・ 足利義輝は、父の 足利義晴とともに晴元によって京を追われていましたが、ドラマのこの前年に晴元と和睦し、京に戻ってきていました。 ドラマで三好長慶と 松永久秀の襲撃計画を聞きつけた 明智光秀が、 三淵藤英と 細川藤孝に助けを求めにいったところ、三好も松永も 昨年までは争っていた間柄で、駆けつける理由がないと断っていましたが、そういう背景からの台詞だったわけです。 ドラマでは三好長慶と松永久秀を助けるために家臣を現場に向かわせた義輝でしたが、この翌年には長慶と対立することとなり、これもネタバレになりますが、この15年後、松永久秀と三好一族の 三好三人衆によって 殺害されます。 まさに、 昨日の友は今日の敵。 誰と誰が味方で誰が敵か、わけのわからない時代でした。 つくづく、こんな時代に生まれなくてよかったと思います。 いちばん 恐るべきは隣国の敵よりも有力な家臣、そんな時代だったんですね。 その 秩序の乱れを、 「何かが違う」と憂うドラマの光秀。 もっとも、明智光秀その人こそ、 日本史上最も有名な反逆事件を起こすことになるんですけどね。 ブログ村ランキングに参加しています。 よろしければ、応援クリック頂けると励みになります。 また、お叱りや反論、批判はかまいませんが、批難、誹謗、中傷とみなされるもの、その他不適切と判断したコメントについては、管理人の権限で削除させていただく場合がありますので、あらかじめご了承ください。 応援クリックいただければ、励みになります。

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剣豪将軍・足利義輝を苦しめ続けた三好長慶と松永久秀(PHP Online 衆知(歴史街道))

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三好長慶の生い立ち 三好長慶は戦国時代にあたる大永2年 1552 2月13日、父・三好元長、母・慶春院殿南岸智英大姉の嫡男として現在の徳島県三好市で誕生しました。 父・三好元長は山城国下五郡守護代であり、室町幕府管領・細川晴元の重臣であったとされ、細川晴元の仇敵である細川高国を滅ぼしたことから、功労者として認められていました。 しかし、三好長慶が10歳となった享禄5年(1532)6月、功労者として認められ本国阿波のみならず山城国にも勢力を伸ばしていた父・三好元長は、その勢威を恐れた主君・細川晴元、また一族の三好政長・木沢長政らの策謀によって勃発した一向一揆によって命を落とします。 一向一揆を鎮圧 父・三好元長を死に追いやった一向一揆は、勢威を恐れた主君・細川晴元らによって策謀されたものでしたが、父・三好元長亡き後も一向一揆の勢いは収まらず、遂には 細川晴元の手にも負えなくなり、享禄・天文の乱と呼ばれる戦乱にまで発展しました。 そこで、 未だ元服を迎えていない三好長慶が天文2年(1533)6月20日、一向一揆と細川晴元の和睦を斡旋したところ、父・三好元長の死後1年にして、細川晴元と一向一揆の関係は石山本願寺で和談するまで回復したとされています。 三好長慶は一向一揆と細川晴元の和睦を斡旋した直後の11歳になった頃に元服したとされています。 しかし、15歳になるまでは「千熊丸」という幼名で呼ばれていました。 細川晴元に仕える 元服を迎えた天文2年(1533)8月、三好長慶は本願寺から分離する講和に応じない一揆衆が蜂起したため、三好長慶は一揆衆を抑えるため一揆を戦い、摂津越水城を奪回します。 翌年の天文3年(1534)8月11日には本願寺に味方し細川晴元軍と、10月には潮江庄(尼崎市)において細川方についた三好政長と争いましたが、この時、三好長慶はまだ少年であったこと、また河内守護代・木沢長政の仲介によって、三好長慶は細川晴元に仕えることとなりました。 主君・細川晴元との対立 その後も三好長慶は細川晴元の家臣として戦に参加しました。 天文8年(1539)1月15日、 三好長慶は主君・細川晴元に対し河内十七箇所の代官職を自らに与えるよう要求します。 もともとこの職は三好長慶の亡き父・三好元長が就いていたものでした。 しかし、 父の死後、この職に任命されたのは同族でもあり政敵であった三好政長だったのです。 これに対し、三好長慶は三好政長ではなく自身を河内十七箇所の代官職を自らに与えるよう細川晴元に要求しましたが、聞き入れてはもらえませんでした。 このようなことがあり、 三好長慶は主君・細川晴元と良好な関係を築くことができなかったとされています。 そのため、12代将軍・足利義晴は細川晴元と三好長慶の和睦交渉を斡旋するなど、関係回復のための工作を続けました。 そんな中、政局の変化によって京都の治安が悪化します。 そのため 将軍・足利義晴は三好長慶に対し京都の治安維持をするよう命じました。 京都の治安維持を命じられる 将軍・足利義晴から京都の治安維持を命じられた三好長慶は本国・阿波を後にし天文8年(1539)8月に摂津越水城に入城しました。 入城以降は本国・阿波に戻らなかったとされているため摂津国を三好氏の本拠地にしたということが分かります。 その後、三好長慶は摂津守護代となり幕府に仕えるようになり、摂津・河内・北陸・近江の軍勢を上洛させるなどしました。 このようにして三好長慶は将軍・足利義晴と信頼関係を築いていくことととなりましたが、一方で主君・細川晴元は三好長慶の実力に脅威を感じはじめ、ますます2人の関係は悪化となっていくこととなりました。 主君・細川晴元との関係の悪化 天文10年(1541年)9月頃、 三好長慶は主君・細川晴元の許しを得ず、独断で段銭徴収を行います。 これに対し、主君・細川晴元は段銭徴収をやめるよう命じました。 しかし、三好長慶は主君・細川晴元の命令を無視し、主君・細川晴元に対し敵意を表します。 このように2人が対立する中で、三好長慶に味方するものがどんどんと増え始め、三好長慶の実力は石山本願寺にも認められる程となっていました。 しかし、天文16年(1547年)3月頃になると、 三好長慶と主君・細川晴元は和睦したとされ、両者の関係は一時的に回復に向かいます。 三好政権の誕生 主君・細川晴元と和睦を結んだあとは同族であり政敵である三好政長もともに軍事行動を共にしましたが、再び三好政長と関係悪化となり、天文17年(1548)7月、三好長慶は三好政長を討とうと決意します。 そのため翌月の8月に主君・細川晴元に対し三好政長父子の追討を願い出ましたが、主君・細川晴元は三好政長に対し厚い信頼を注いでいたため、追討の願いは受け入れられませんでした。 これによって 三好長慶は10月18日、かつての敵である細川氏綱・遊佐長教と手を結び、主君・細川晴元に対し反旗を翻し天文18年(1549)2月、三好長慶軍と同族の三好政長の戦いである江口の戦いが勃発します。 この戦いにおいて 三好長慶は勝利を収め、 主君・細川晴元、三好政長は撤退に追い込まれる結果となり、これにより細川政権は事実上崩壊し、三好政権の誕生となったのです。 足利義輝との対立 天文19年(1550)2月、この頃、 近江国に亡命をしていた足利義晴が京都奪回を図り中尾城を築きます。 足利義晴は三好長慶と細川晴元が対立した際、細川晴元に味方していましたが、江口の戦いにおいて細川晴元が敗れたため、近江国へと亡命していたのです。 しかし、天文19年(1550)5月に 足利義晴が病死すると、その息子・足利義輝が京都奪回を図ります。 京都奪回を図る足利義輝は天文19年(1550)、三好長慶軍と交戦するも敗走します。 中尾城の戦い しかし、この時は三好長慶と対面することなく、尾張国へと戻っていきました。 信長が上洛したのは、機内で実権を掌握していた三好長慶の評判を聞くためだったのではと考えられています。 また同年、三好長慶の嫡男・慶興が将軍の足利義輝から「義」の字を与えられ「義長」と改名するなど、 三好長慶の権威は英華を極めていました。 しかし三好長慶の英華は長くは続かず、和泉の支配を任せていた弟・十河一存が永禄4年(1561年)4月に急死したのを機に、 三好長慶の衰退が始まります。 和泉を支配していた弟・十河一存が急死したため、和泉の支配が脆弱し、それを機に畠山高政と六角義賢が三好家に攻撃を仕掛けてきたのです。 久米田の戦い この戦いにおいて弟の三好実休が戦死しています。 松永久秀の活躍 一方、京都では松永久秀と三好長慶の嫡男・三好義興が三好軍を率いて善戦し、永禄5年(1562年)5月19日に和泉を支配していた畠山高政を追放し河内を再平定、翌月の6月に京都を一時的に支配していた六角氏と三好家を和睦に導きます。 こうして松永久秀と三好長慶の嫡男・三好義興の働きによって三好家は畠山高政と六角義賢の争いに勝利することとなりましたが、 三好長慶がこの戦いに出陣した形跡はなく、この頃から病に犯されていたと考えられています。 三好家の衰退 永禄5年(1562年)8月、幕府の政所執事・伊勢貞孝が畠山・六角の両家と通じ、京都で挙兵します。 しかし、翌月の9月に松永久秀と嫡男・三好義興によって伊勢貞孝は討たれます。 このように、松永久秀は三好家において多くの功績を残すようになり、三好家の次第に握るようになりました。 そんな中、永禄6年(1563)1月和泉で根来衆と三好軍が激突、また大和においても松永久秀の三好軍と多武峯宗徒の衝突が勃発、永禄6年(1563)2月には細川晴元の残党による反乱が勃発するなど、各地で反三好家による対立が勃発しました。 また永禄6年(1563)8月には三好長慶の嫡男・三好義興が22歳若さで亡くなり、12月になると名目上の主君・細川氏綱も病死します。 このように三好政権の政権維持に必要であった形式上の管領などを失ったことで三好政権は徐々に中核から崩れかけていくのでした。 実は、三好長慶の相次ぐ身内の不幸は部下である 松永久秀による暗殺によるものではないかと考えられてます。 三好長慶の最期 永禄7年(1564)5月9日になると松永久秀は三好長慶に対し、弟の安宅冬康が謀反を企んでいると忠告します。 息子を亡くし、名目上の主君も亡くした三好長慶はショックのあまりこの忠告を信じ込み、 弟・安宅冬康を居城の飯盛山城に呼び出し、殺害に至りました。 その後、弟・安宅冬康が謀反を起こそうとしているのは松永久秀による讒言であったことを知ると、一層ショックを受け病状は悪化となります。 その後も病状は回復せず永禄7年(1564)7月4日、43歳で亡くなりました。 三好長慶の死後 三好長慶の死後、三好義継が後を継ぎましたが、まだ若年であったため松永久秀と三好三人衆と呼ばれる三好長逸・三好政康・岩成友通が後見役と三好家を支えました。 しかし、松永久秀と三好三人衆は三好家の家臣であるにも関わらず、独自の働きを見せ永禄8年(1565)5月19日、将軍・足利義輝を殺害するなど行うのでした。 逸話 三好長慶は保守的で柔弱な性格であったという評価が多くされています。 その性格を表す逸話をご紹介いたします。 敵を徹底的に追い詰めない 三好長慶は長年、将軍・足利義輝と争っていました。 天文19年(1550)11月21日に勃発した中尾城の戦いにおいて、三好長慶は足利義輝と細川晴元を合戦で破ります。 敗れた足利義輝と細川晴元は近江国の朽木へと逃れました。 実際、 三好長慶は2人を追撃することができましたが、三好長慶は追撃を行わなかったとされています。 またその後、 5年間もの間も朽木を襲撃した形跡は見つかっていません。 このように追撃できるにも関わらず、追撃をしなかった理由として、 敵を徹底的に追い詰めない三好長慶の性格が反映されているとされており、織田信長のように徹底的に敵を追い詰める性格と比べると、保守的で柔弱な性格であったと評価されています。 家紋 三好長慶が使用していた家紋は「三階菱に釘抜」とされています。 もともと三好氏は阿波の大族で清和源氏小笠原氏の一族であり、鎌倉時代初期、小笠原長清の嫡男・長経が阿波守護となり、その子孫が三好郡に住んでいたため三好を名乗り始めました。 三好氏が使用する家紋「三階菱に釘抜」は小笠原氏の家紋である「三階菱」と「釘抜紋」を組み合わせたものです。 「釘抜紋」は四国地方で多く使用されている家紋とされており、三好氏は小笠原氏の家紋である「三階菱」と四国地方で多く使用されている「釘抜紋」を使用することによって小笠原の流れを組む阿波国の武将であることを示していたとされています。

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「三好長慶」細川氏に代わり、政権を樹立した日本の副王。

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【 】 長宗我部 元親(ちょうそかべ もとちか)は、 戦国時代から安土桃山時代にかけての土佐国の です。 第21代当主。 位階は従五位下で死後に正五位、 昭和3年(19288年)には正三位が贈られました。 【概要】 土佐国の守護職を兼ねる 細川京兆家当主で管領の より、 京兆家の通字である「元」の一字を受けたため、 かつて同じく細川氏より「元」の字を受けた 南北朝時代の第15代当主である 長宗我部元親と同名を名乗ることとなりました。 【生涯】 土佐の国人から戦国大名に成長し、 阿波・讃岐の三好氏、 伊予の西園寺氏・河野氏らと戦い 四国に勢力を広げていきます。 けれども、その後に の手が差し迫り、 織田信長の後継となった に敗れ 土佐一国に減知となりました。 豊臣政権時、 で 愛息である を亡くすと生活は荒れ、 家中を混乱させたままこの世を去りました。 【姫和子の初陣と家督相続】 天文8年(1539年)、 で生まれたとされています。 永禄3年(1560年)5月、 父である長宗我部国親が、 土佐郡朝倉城主の本山氏を攻めた 長浜の戦いにおいて 実弟である親貞(後の )と共に初陣します。 数え年23歳というこの時代では遅い初陣でしたが、 長宗我部元親は長浜表において 本山勢を襲撃した長宗我部勢に加わり、 自ら槍を持って突撃するという 勇猛さを見せたといわれています。 この一戦で長宗我部元親の武名は高まり、 長浜戦に続く潮江城の戦いでも戦果を挙げました。 同年6月、父の長宗我部国親が急死すると、 家督を相続しました。 【土佐統一に向けて】 【本山氏との戦い】 長宗我部元親は剽悍な を動員して 勢力拡大を行いました。 長浜戦で敗れた本山茂辰は 長宗我部元親の攻撃に押される一方となり、 永禄3年末の段階で現在の高知市における 西南部の一端を除いて長宗我部元親は そのほとんどを支配下に置きました。 【本山氏、朝倉城を放棄する】 永禄4年(1561年)3月、 本山方の神田・石立を落として 本山茂辰を朝倉城と吉良城に追い込みます。 土佐国司で幡多郡 を中心に影響力を持ち、 と呼ばれていた公家大名の一条氏と共同し、 永禄5年(1562年)9月16日、 朝倉城攻めを開始しました。 このときは本山茂辰の子で 長宗我部元親の甥に当たる 本山親茂の奮戦で敗北しました。 9月18日には鴨部の宮前で 両軍が決戦するも痛み分けに終わりました。 けれども勢力圏の縮小から本山茂辰を見限って 長宗我部元親に寝返る家臣が相次ぎ、 永禄6年(1563年)1月、 本山茂辰は朝倉城を放棄して本山城に籠もります。 【元親の婚姻と弟たち】 この年、美濃斎藤氏から正室を迎え、 長弟の親貞に吉良氏を継がせています。 また、次弟の親泰は長宗我部国親の生前に 香宗我部氏を継いでおり、 土佐東部の安芸郡を支配する とも戦いました。 本山方は5月に頽勢挽回を図って 岡豊城を攻撃を企てるも失敗しました。 永禄7年(1564年)4月7日には 本山を放棄して瓜生野城に籠もって徹底抗戦しました。 【本山氏の敗北と降伏】 しかしながらこの最中に本山茂辰が病死しました。 ただ、病死については史料的根拠はないそうです。 一説には、本山茂辰は出家を条件に助命されて 長宗我部元親の庇護に置かれましたが、 これに納得しない妻(元親の姉)や 家臣が本山親茂を擁して抵抗を続けたとあります。 しかし 跡を継いだ親茂は抗戦しましたが、 遂に敗れて、永禄11年(1568年)冬に降伏しました。 ただし親茂の降伏は元亀2年のこととする説もあります。 【一条氏からの自立を目指して】 長宗我部元親は永禄10年(1567年)の 毛利氏の伊予出兵によって勢力を激減させた 一条兼定からの自立を目論みます。 河野氏へ独自に戦勝祝いを送るなど 独立性を強めていきます。 永禄12年(1569年)、 八流の戦いで安芸国虎を滅ぼして 土佐東部を平定しました。 元亀2年(1571年)、 一条氏の家臣である津野氏を滅ぼして 三男である長宗我部親忠を 養子として送り込みます。 天正2年(1574年)2月、 一条家の内紛に介入して一条兼定を追放して 一条兼定の子である一条内政に娘を嫁がせて 「大津御所」という傀儡を立てました。 こうして長宗我部元親は 土佐国をほぼ制圧したのでした。 【 】 天正3年(1575年)、 一条兼定が伊予南部の諸将を率いて 再起を図り土佐国に攻め込んできたときは、 一時窮地に追い込まれましたが、 弟の吉良親貞の尽力のもと、 四万十川の戦いでこれを撃破し、 土佐国を完全に統一したのでした。 【阿波・讃岐・伊予への侵攻】 土佐統一後、 中央で統一事業を進めていた織田信長と 正室の縁戚関係から同盟を結び、 伊予国や阿波国、讃岐国へ侵攻していきます。 【阿波・讃岐】 阿波・讃岐方面では、 畿内に大勢力を誇っていた三好氏が 織田信長に敗れて衰退していましたが、 や三好康長ら三好氏の生き残りによる抵抗や、 天正4年(1576年)の吉良親貞の早世などもあり、 当初は思うように攻略が進まなかったとのことです。 けれども天正5年(1577年)、 三好長治が戦死し、三好氏の凋落が顕著になりました。 天正6年(1578年)2月、 長宗我部元親は阿波 を攻め、 を討りました。 また次男の長宗我部親和を 讃岐国の有力豪族・香川信景の養子として送り込みました。 阿波国では三好長治の実弟である十河存保と 三好康俊が激しく抵抗しましたが、 長宗我部元親は天正7年(1579年)夏、 重清城を奪って十河軍に大勝しました。 三好康俊に対しても岩倉城に追い詰めて 実子を人質にとって降伏させました。 この年には讃岐国の羽床氏なども 長宗我部元親の前に降伏し、 天正8年(1580年)までに 阿波・讃岐の両国をほぼ制圧したのでした。 【伊予】 伊予方面においては、 南予地方では軍代であった久武親信が 天正7年(1579年)春に岡本城攻めで 土居清良に討ち取られました。 一方、東予地方では白地から圧力と誘いをかけて 金子元宅や妻鳥友春・石川勝重らを味方にして平定。 それに対して、 中予地方を支配していた伊予守護の河野氏は 毛利氏の援助を得て長宗我部元親に抵抗したため、 長宗我部元親の伊予平定は長期化することになりました。 【織田信長との対立】 天正8年(1580年)、 織田信長は長宗我部元親の 四国征服をよしとしませんでした。 、 理由としては、長宗我部元親が 三好氏との戦いを進めるために織田信長だけでなく とも関係を強めて 三好氏を孤立させる外交路線を取っておりました。 織田信長による中国攻めの本格化後も 長宗我部元親がその方針を変えなかったために 織田信長が長宗我部元親の向背を不安視して 不信感を抱いたとする見方があります。 【長宗我部元親への包囲網】 織田信長は、長宗我部元親に 土佐国と阿波南半国のみの領有を認めて 臣従するよう迫ります。 そうした背景の一つとして、 織田信長と敵対していた 三好康長が織田信長に降下しました。 そして、三好氏本領である 阿波の回復を織田信長に願い出ていました。 また長宗我部元親に圧迫された河野氏も 織田信長に援助を求め、 西園寺公広などに至っては 「元親は西国の名将であり、 将来的には信長に屈せず反抗するでしょう」 と述べて援助を求めたということが挙げられます。 けれども長宗我部元親は 織田信長の要求を拒絶します。 【 の使者も】 このため織田信長と長宗我部元親は 敵対関係になりました。 の重臣である の異父妹が 長宗我部元親の正室であることから、 使者を土佐に送って 長宗我部元親の翻意を求めましたが、 長宗我部元親は返事すら寄越さなかったのでした。 【織田信長からの包囲網】 天正9年(1581年)3月、 織田信長の助力を得た 三好康長・十河存保らの反攻を受けました。 三好康長は息子の康俊を寝返らせ、 十河存保は中国で毛利氏と交戦している と通じて元親に圧迫を加えていきます。 【長宗我部元親の撤退】 天正10年(1582年)5月、 神戸信孝を総大将とした 四国攻撃軍が編成されるなどの危機に陥っていきます。 このため三好氏旧臣らは 長宗我部元親を見限って三好康長に寝返り、 さらに阿波の一宮城と夷山城を落とされました。 そこで長宗我部元親は斎藤利三宛の書状で 織田信長に対し恭順する意向を表しています。 ただし、「石谷家文書」によると 長宗我部元親は織田信長の命に従い 撤退したとあるそうです。 【 で危機を脱す】 四国攻撃軍は62日に渡海の予定でした。 その日、 の変が起こって 織田信長が明智光秀に殺されました。 織田信長の死によって、 軍は解体して撤退したので、 長宗我部元親は危機を脱しました。 【本能寺の変は斎藤利三主導??】 長宗我部元親の正室は明智光秀の重臣である 斎藤利三の異父妹です。 織田信長の四国の違約に恨みをもった 斎藤利三は本能寺の変で 主導的な立場を務めたとされています。 【光秀の苦悩】 織田信長が四国全土を長宗我部元親に与えると 承知しておきながら違約した事に、 織田信長と長宗我部元親間の仲介を務めた 明智光秀は板ばさみになり困ったとされています。 また明智光秀自身も、 四国征伐の任は自分に与えてほしいのに 織田信長が与えてくれず、 しかも、ライバルである羽柴秀吉に任を与えた として不満を抱いたとされています。 【四国平定と秀吉との対立】 【第一次 の戦い】 織田信長の死で危機を脱した長宗我部元親は 近畿の政治空白に乗じて再び勢力拡大を図り、 宿敵であった十河存保を8月に で破ります。 そして阿波の大半を支配下に置いたのでした。 更に9月には に籠もった十河存保を破り、 阿波を完全に平定しました。 10月には十河存保が逃れた や十河城を攻め続けました。 【秀吉軍を敗退されるも勝家死す】 天正11年(1583年)の では、 と手を結んで 羽柴秀吉(豊臣秀吉)と対抗しました。 これに対して羽柴秀吉は家臣である を淡路洲本に入れて備えました。 また長宗我部元親に追われた十河存保は 羽柴秀吉に援軍を求め、羽柴秀吉は仙石秀久に 屋島城・高松城など讃岐の 長宗我部方の城を攻めさせましたが敗退します。 さらに の水軍に香西浦を攻めさせましたが、 これも敗退しました。 けれども、4月に柴田勝家は 羽柴秀吉に敗れて滅んでしまいました。 このため5月に羽柴秀吉は 長宗我部元親を討つべく軍勢を準備したのでした。 【引田の戦い、第二次 】 天正12年(1584年)の でも、 や らと結んで羽柴秀吉に対抗し、 羽柴秀吉が送り込んできた仙石秀久の軍勢を破りました。 また東予の金子元宅と同盟し、 南予の西園寺公広の諸城を落とすなど、 伊予国においても勢力を拡大しました。 6月11日には十河城を落として讃岐を平定しました。 けれども小牧の戦いは 羽柴秀吉と織田信雄の和睦で終結したのでした。 伊予国の平定は予想以上に手間取ったそうです。 天正12年3月、 毛利氏は宍戸元孝を河野氏救援のために派遣し、 恵良で長宗我部軍と衝突しました。 4月には高山で、5月から6月にかけては 恵良・菊間(菊万)で合戦を行っています。 8月には小早川氏の将である杉就良によって 現在の新居浜市を落とされました。 けれども長宗我部元親は 東予の金子元宅との同盟をさらに強固にして 9月から反攻に転じます。 そのうち渡海して遠征していた毛利軍は次第に劣勢になり、 12月には遂に河野氏は長宗我部元親に降伏しました。 その後、天正13年(1585年)春までに 西予の豪族なども降伏させたのでした。 【四国統一を巡る見解】 通説によりますと天正13年(1585年)には 四国全土のほぼ統一に成功したとされています。 が、統一されていないと主張する研究者も複数おり、 見解は分かれているとのことです。 【秀吉に降伏】 天正13年(1585年)春、 羽柴秀吉が紀州征伐に出てこれを平定します。 そしてすぐに秀吉は長宗我部元親に対して 伊予・讃岐の返納命令を出しました。 長宗我部元親は伊予を割譲することで 和平を講じようとしたそうです。 更に讃岐・阿波を返上する代わりに 土佐・伊予2国を領する案も出しており、 羽柴秀吉もこの案に乗りかけたそうですが、 伊予を巡って長宗我部元親と対立関係にある毛利氏が 同国の領有を目指して強硬な態度を示したために まとまらなかったということです。 結局、羽柴秀吉は許さず、 弟である を総大将とする 10万超の軍が派遣されますと、 長宗我部元親は阿波白地城を本拠に 阿波・讃岐・伊予の海岸線沿いに 防備を固め抗戦したのでした。 羽柴秀吉は ・黒田孝高らを讃岐へ、 ・ 率いる毛利勢を伊予へ、 羽柴秀長・秀次の兵を阿波へと同時に派遣し、 長宗我部方の城を相次いで攻略しました。 そして阿波戦線が崩壊して 白地城までの道が裸に晒されると、 長宗我部元親は反戦派の家臣である谷忠澄の言を容れて、 7月25日に降伏し、阿波・讃岐・伊予は没収。 土佐一国のみを安堵されたのでした。 長宗我部元親は上洛して羽柴秀吉に謁見し、 臣従を誓ったということです。 これを機に ・家政が 長宗我部氏の取次になったとされていますが、 取次としての実態が不明なために 疑問視する研究者もおり、 を取次とする説もあるそうです。 【豊臣政権下】 【長宗我部信親の死】 天正14年(1586年)、 豊臣秀吉の九州征伐に 嫡男の長宗我部信親とともに従軍し、 の圧迫に苦しむ大友氏の救援に向かいます。 けれども、12月の戸次川の戦いで 四国勢の軍監・仙石秀久の独断により、 島津軍の策にはまって敗走し、 長宗我部信親は討死してしまいました。 長宗我部元親は嫡男の信親の死を知って 自害しようとしましたが家臣の諌めで 伊予国の日振島に落ち延びていきました。 【家督相続問題】 天正15年より本拠地の移転を開始して、 天正16年(1588年)、 本拠地を大高坂城へ移転しました。 理由は交通の利便さと生産性の向上 のためだということです。 そして、その後に家督継承問題が勃発しました。 家督を継ぐのは次男の香川親和や 三男の ではなく、 四男の盛親に家督を譲ることを決定したのでした。 成人していた次男と三男を嗣子にしなかった 理由の一つとしては、 戦死した長男の長宗我部信親の娘を 正室にする場合の年齢差だったということが 挙げられるそうです。 その際、反対派の家臣であり一門でもある 比江山親興・吉良親実などを粛清し、 盛親への家督相続を強行したのでした。 【羽柴姓、賜る】 天正17年(1589年)ころに、 羽柴の名字を与えられたとされています。 【 攻めに参加】 天正18年(1590)、 の際には長宗我部水軍を率いて参加し、 小田原北条氏の を攻め、 さらに小田原城包囲に参加しました。 【大阪にクジラを持ち込む】 天正19年(1591年)1月、 浦戸湾に迷い込んだ体長9尋の鯨を 数十隻の船団と100人余の人夫でもって 大坂城内へ丸ごと持ち込み、 豊臣秀吉や大坂の町人を大いに驚かせたということです。 【本拠地を に移す】 年末頃には本拠を浦戸城へ移転しました。 これまでは、洪水の多い大高坂城を 長宗我部元親が嫌ったからとされていました。 けれども近年では浦戸城は朝鮮出兵に備えた 軍事拠点として築かれたものであり、 将来的には大高坂城を本拠に戻すことを前提に 引き続き整備が進められていたとする 指摘がされているとのことです。 更に、朝鮮出兵がなくとも 行政機構整備は行われたとする指摘もあるとのことです。 【朝鮮への出兵】 文禄元年(1592年)から 朝鮮出兵(文禄・慶長の役)にも従軍しました。 豊臣政権は諸大名の石高に応じて軍役人数を課しましたが、 長宗我部の軍役は3000人で固定され、 水軍としての軍事力を期待されていたそうです。 慶長元年(11596年)には サン=フェリペ号事件に対処し、 豊臣秀吉によるキリスト教迫害の 引き金を作ったとされています。 領内では検地を行い、 慶長2年(1597年)3月、 と共に分国法である 「長宗我部元親百箇条」を制定しました。 【秀吉の死と元親の最期】 慶長3年(1598年)8月18日、 豊臣秀吉が死去し、政情が不安定になっていきます。 長宗我部元親は年末まで伏見屋敷に滞在し、 11月26日に徳川家康の訪問を受けています。 その後、年末か年明けに土佐に帰国したとのことです。 慶長4年(1599年)3月、 三男である津野親忠を幽閉しています。 その直後から体調を崩しだしたとのことです。 4月、病気療養のために上洛し、 伏見屋敷に滞在しています。 4月23日には に謁見しています。 けれども5月に入って重病となり、 や大坂から名医が呼ばれるも快方には向かわず、 死期を悟った長宗我部元親は5月10日に 長宗我部盛親に遺言を残して、5月19日に死去しました。 享年は61歳でした。 高知県高知市長浜にある天甫寺に葬られました。 法号は雪蹊恕三禅定門。 【長宗我部元親の人となり】 【土佐編】 土佐一国を統一する大名に成長し、 土佐の出来人と呼ばれました。 【四国統一の夢を語る】 土佐を統一した後の天正5年(1577年)、 阿波の雲辺寺の住職の俊崇坊に 四国統一の夢を語ったそうです。 住職: 「薬缶の蓋で水瓶の蓋をする様なものである」 元親: 「我が蓋は元親という名工が鋳た蓋である。 いずれは四国全土を覆う蓋となろう」 と答えたとのことです。 【雪蹊恕三(雪渓如三)の意味】 土佐統一を果たした年、37歳で 「雪蹊恕三(雪渓如三)」と法号を称しています。 その法号の意味は「雪蹊」には徳のある人物には 多くの人が自然に帰服し、 「恕三」には広く大きな心で事に処せば、 前途に万物が生じるという意味が 込められているとのことです。 【家臣からの質問に対する答え】 家臣からの質問: 「四国の覇者をなぜ目指すのか」 元親の回答: 「家臣に十分な恩賞を与え、 家族が安全に暮らしていくには土佐だけでは不十分だから」 讃岐国の羽床・鷲山で敵を兵糧攻めにした時、 城付近の麦を刈る麦薙戦術を行いましたが、 全部刈り取っては領民が気の毒だと思い、 一畦おきに刈取らせたとのことです。 【豊臣秀吉からの饅頭】 豊臣秀吉から饅頭をもらった大名は その場で食べましたが、 長宗我部元親は 端をちぎって食べただけで紙に包んだそうです。 それを見た豊臣秀吉から 秀吉: 「その饅頭をどうするつもりか」 元親: 「太閤殿下から頂いたありがたい饅頭ですので、 持って帰り家来にも分け与えます」 この回答に豊臣秀吉は大いに気に入り、 用意した饅頭を全て与えたということです。 【正室と子供たち】 長宗我部元親の正室は美濃斎藤氏の娘(元親夫人)で、 永禄6年(1563年)に結婚しています。 家臣らは遠国の美濃からではなく、 四国の有力者から迎えるべきと薦めたそうです。 これに対して長宗我部元親は 武勇の血を引く彼女の系譜を重んじたということです。 この正室は明智光秀の重臣である 斎藤利三の異父妹で、 正確には室町幕府奉公衆である石谷氏の娘です。 また、斎藤利三の生母は明智光秀の叔母とされています。 このことからのちにこの関係を通じて 明智光秀、そして織田信長と 関係を持つことになったとあります。 【正室との間に4男4女】 夫人に関する史料は不明ですが、 長男の信親から四男の盛親までの4人の男児、 長女の一条内政正室から4女の吉松十左衛門正室までの 4男4女までを授かっていることから、 夫婦仲は良好だったと推測されています。 また、側室に阿波の細川氏に 嫁いでいた がいたとされていますが、 年齢が合わないため、疑問視されているとのことです。

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