なら トワ。 「グラントワ・カンタート」

マリー・アントワネット

なら トワ

一覧参照• フランスの「」で処刑された。 の娘であり 、「美貌、な反面、、」だったとされており 、乱費や民衆蔑視によって国民から反発されていた。 の宮廷生活を享楽し、その浪費などから「夫人」「オーストリア女」と呼ばれた。 また、アントワネットはさまざまなに常に反対し、青年貴族たち(特に)との情愛に溺れた。 の王妃をめぐる、無実の詐欺事件「」も、結果的に国民の反感へとつながった。 のフランス革命に反対し、宮廷の勢力を形成したアントワネットは、派(やなど)へ接近することさえも拒んだ。 維持を目的として武力干渉を諸外国に要請し 、特に宮廷との秘密交渉を進め、外国軍隊のフランス侵入を期待した。 しかしに失敗 、反革命の中心人物として処刑された。 少女時代のアントーニア 1755年11月2日、との十一女としてで誕生した。 名は、 マリア・アントーニア・ヨーゼファ・ヨハンナ・フォン・ハプスブルク=ロートリンゲン。 やダンス、作曲家のもとで身につけたやなどの演奏を得意とした。 3歳年上のが嫁ぐまでは同じ部屋で養育され、姉妹は非常に仲がよかった。 オーストリア宮廷は非常に家庭的で、幼いころから家族揃って狩りに出かけたり、家族でバレエやオペラを観覧したりした。 また幼いころからバレエやオペラを皇女らが演じている。 当時のオーストリアは、の脅威から伝統的な外交関係を転換してフランスとの同盟関係を深めようとしており()、その一環として母は、自分の娘とフランス国王の孫、ルイ・オーギュスト(のちの)との政略結婚を画策した。 当初はがその候補であったが、ナポリ王と婚約していたすぐ上の姉が1767年、結婚直前に急死したため、翌1768年に急遽マリア・カロリーナがナポリのフェルディナンド4世へ嫁ぐことになった。 そのため、アントーニアがフランスとの政略結婚候補に繰り上がった。 5月、結婚の使節としてが駐仏大使としてフランスに派遣されたが、ルイ・オーギュストの父で王太子、母(王兼フリードリヒ・アウグスト2世の娘)がともに結婚に反対で、交渉ははかばかしくは進まなかった。 にルイ・フェルディナンが死去した。 6月、ようやくルイ15世からマリア・テレジアへ婚約文書が送られた。 このときアントーニアはまだが修得できていなかったため、司教であるヴェルモン神父について本格的に学習を開始することとなった。 、マリア・アントーニアが14歳のとき、王太子となっていたルイとの結婚式がにて挙行され、アントーニアはフランス王太子妃 マリー・アントワネットと呼ばれることとなった。 このとき『マリー・アントワネットの讃歌』が作られ、盛大に祝福された。 宮廷生活 [ ] デュ・バリー夫人との対立 [ ] 1769年の肖像画(画) ルイ15世はこの対立に激怒し、母マリア・テレジアからも対立をやめるよう忠告を受けたアントワネットは、7月に貴婦人たちの集まりでデュ・バリー夫人に声をかけることになった。 しかし、声をかける寸前にアデライード王女が突如アントワネットの前に走り出て「さあ時間でございます!ヴィクトワールの部屋に行って、国王陛下をお待ちしましょう!」と言い放ち、皆が唖然とするなかで、アントワネットを引っ張って退場したと言われている。 2人の対決は1月1日に、新年のあいさつに訪れたデュ・バリー夫人に対し、あらかじめ用意された筋書きどおりに「本日のヴェルサイユは大層な人出ですこと」とアントワネットが声をかけることで表向きは終結した。 その後、アントワネットはアデライード王女らとは距離を置くようになった。 結婚生活 [ ] での農婦姿のアントワネット。 (1791年、セザリーヌ・フランク画を基にした、ルイ=シャルル・ルオット作の版画) 母マリア・テレジアは娘の身を案じ、たびたび手紙を送って戒めていたが、効果はなかった(この往復書簡は現存し、オーストリア国立公文書館に所蔵されている)。 時にパリのでに遊び、またにも狂的に熱中したと言われる。 賭博に関しては子供が生まれたことをきっかけに訪れた心境の変化から止めている。 ただの向こう見ずな浪費家でしかないように語られる反面、自らのために城を建築したりもせず、宮廷内で貧困にある者のためのカンパを募ったり、子供らにおもちゃを我慢させたりもしていた。 母親としてはいい母親であったようで [ ]、もともとのために建てられるも、完成直後に当人が死んで無人だったを与えられてからは、と、そこに家畜用の庭ないし農場を増設し、子供を育てながら家畜を眺める生活を送っていたという。 フランス王妃として [ ] 麦藁帽子にモスリンの「田舎風の装い」の王妃(1783年) 、ルイ16世の即位によりフランス王妃となった。 王妃になったアントワネットは、朝の接見を簡素化させたり、全王族の食事風景を公開することや、王妃に直接物を渡してはならないなどのベルサイユの習慣や儀式を廃止・緩和させた。 しかし、誰が王妃に下着を渡すかでもめたり、廷臣の地位によって便器の形が違ったりすることが一種のステータスであった宮廷内の人々にとっては、アントワネットが彼らが無駄だと知りながらも今まで大切にしてきた特権を奪う形になり、逆に反感を買った。 こうした中で、マリー・アントワネットとの貴族との浮き名が、宮廷ではもっぱらの噂となった。 地味な人物である夫のルイ16世を見下しているところもあったという。 ただしこれは彼女だけではなく大勢の貴族達の間にもそのような傾向は見られたらしい。 一方、彼女は大貴族たちを無視し、彼女の寵に加われなかった貴族たちは、彼女とその寵臣をこぞって非難した。 彼らは宮廷を去ったアデライード王女や宮廷を追われたデュ・バリー夫人の居城にしばしば集まっていた。 ヴェルサイユ以外の場所、特にではアントワネットへの がひどかった [ ]という。 多くは流言飛語の類だったが、結果的にこれらの中傷がパリの民衆の憎悪をかき立てることとなった [ ]。 にはマリー・アントワネットの名を騙った詐欺師集団による、ブルボン王朝末期を象徴するスキャンダルであるが発生する。 このように彼女に関する騒動は絶えなかった。 フランス革命 [ ] 幽閉中の王妃 7月14日、フランスでは王政に対する民衆の不満が爆発し、が勃発した。 (伯爵夫人から昇格)ら、それまでマリー・アントワネットから多大な恩恵を受けていた貴族たちは彼女を見捨てた恰好でしてしまう。 彼女に最後まで誠実だったのは、王妹とだけであった。 国王一家はからパリのに身柄を移されたが、そこでマリー・アントワネットはフェルセンの力を借り、フランスを脱走してオーストリアにいる兄に助けを求めようと計画する。 6月20日、計画は実行に移され、国王一家は庶民に化けてパリを脱出する。 アントワネットも家庭教師に化けた。 フェルセンは疑惑をそらすために国王とマリー・アントワネットは別々に行動することを勧めたが、マリー・アントワネットは家族全員が乗れる広くて豪奢な(そして、足の遅い)ベルリン馬車に乗ることを主張して譲らず、結局ベルリン馬車が用意された。 また馬車には、銀食器、衣装箪笥、食料品などの日用品や、喉がすぐ乾く国王のために酒蔵一つ分のワインが積み込まれた。 このため、もともと足の遅い馬車の進行速度をさらに遅らせてしまい、逃亡計画を大いに狂わせることとなった。 結局、国境近くのヴァレンヌで身元が発覚し、6月25日にパリへ連れ戻される。 このにより、国王一家は親国王派の国民からも見離されてしまう。 、が勃発すると、マリー・アントワネットが敵軍にフランス軍の作戦を漏らしているとの噂が立った。 8月10日、パリ市民と義勇兵はテュイルリー宮殿を襲撃し、マリー・アントワネット、ルイ16世、、、エリザベート王女の国王一家はに幽閉される()。 タンプル塔では、幽閉生活とはいえ家族でチェスを楽しんだり、楽器を演奏したり、子供の勉強を見たりするなど、束の間の家族団らんの時間があった。 10皿以上の夕食、30人のお針子を雇うなど待遇は決して悪くなかった。 革命裁判 [ ] ギロチン台へひきたてられるアントワネット 1月、革命裁判は夫のルイ16世に判決を下し、による斬首刑とした。 7月3日、王位継承者のルイ17世と引き離される。 タンプル塔の階下に移され、ルイ17世は後継人となったの靴屋であるアントワーヌ・シモンをはじめとする革命急進派から虐待を受けた。 マリー・アントワネットは8月2日にに囚人第280号として移送され、その後裁判が行われた。 しかし、アントワネットは提示された罪状についてほぼ無罪を主張し、裁判は予想以上に難航。 業を煮やした裁判所はやアナクサゴラス・ショーメットらにルイ17世の非公開尋問を行い、「母親に性的行為を強要された」とアントワネットが息子に対して無理矢理にを犯した旨を証言させた。 しかし、アントワネットは裁判の傍聴席にいたすべての女性に自身の無実を主張し、 大きな共感を呼んだ [ ]。 処刑前の王妃の様子のスケッチ しかし、この出来事も判決を覆すまでには至らず、に彼女は革命裁判で死刑判決を受け、翌、において夫の後を追ってギロチン送りに処せられることとなった。 処刑の前日、アントワネットはルイ16世の妹エリザベート宛てのを書き残している。 内容は「犯罪者にとって死刑は恥ずべきものだが、無実の罪で断頭台に送られるなら恥ずべきものではない」というものであった。 この遺書は看守からのちに革命の独裁者となるに渡され、ロベスピエールはこれを自室の書類入れに眠らせてしまう。 遺書は革命後に再び発見され、革命下を唯一生き延びた第一子のマリー・テレーズがこの文章を読むのはまで待たなければならなかった。 ギロチン処刑 [ ] 王妃マリー・アントワネットのギロチン処刑 遺書を書き終えた彼女は、朝食についての希望を部屋係から聞かれると「何もいりません。 すべて終わりました」と述べたと言われ、そして白衣に白い帽子を身に着けた。 斬首日当日、マリー・アントワネットは特別な囚人として肥桶の荷車でギロチンへと引き立てられていった。 コンシェルジュリーを出たときから、苦なく死ねるように髪を短く刈り取られ両手を後ろ手に縛られていた。 19世紀スコットランドの歴史家アーチボルド・アリソンの著した『1789年のフランス革命勃発からブルボン王朝復古までのヨーロッパ史』などによれば、その最期の言葉は、の足を踏んでしまった際に発した「お赦しくださいね、ムッシュウ。 わざとではありませんのよ(Pardonnez-moi, monsieur. ) 」だとされている。 通常はギロチンで処刑の際に顔を下に向けるが、マリー・アントワネットのときには顔をわざと上に向け、上から刃が落ちてくるのが見えるようにされたという噂が流れたという説もある。 12時15分、ギロチンが下ろされ刑が執行された。 それまで息を殺していた何万という群衆は「共和国万歳!」と叫び続けたという。 その後、群衆は昼飯の時間帯であったこともあり一斉に退散し、広場は閑散とした。 数名の憲兵がしばらく断頭台を見張っていたが、やがて彼女の遺体は刑吏によって小さな手押し車に、首は手押し車の足に載せられ運び去られた。 死後 [ ] 遺体はまず集団墓地となっていたマドレーヌ墓地 に葬られた。 のちにが到来すると、新しく国王となったは私有地となっていた旧墓地 を地権者から購入し、兄夫婦の遺体の捜索を命じた。 その際、密かな王党派だった地権者が国王と王妃の遺体が埋葬された場所を植木で囲んでいたのが役に立った。 発見されたマリー・アントワネットの亡骸はごく一部であったが、、歴代のフランス国王が眠るに夫のルイ16世とともに改葬された。 研究上の評価 [ ] サン=ドニ大聖堂の慰霊碑 『』において、「的」な王妃ではあるが、「嫁してを軽んじ、でありながらを裏切った」とされている。 ()が開始された理由は、打倒のためではなかった。 革命当初のスローガンは「、、!」であり、時代の雰囲気は、人民と君主が(国法)のもとで協力すれば、世の中をできるというものだった。 一部に流血が発生しても、たちは者だった。 革命開始から数年経過しても、君主主義や国王びいきは、にさえ相変わらず当てはまっていた。 しかし、ルイ十六世もマリー・アントワネットも、好機を活かすことができなかった。 個人性・使命感 [ ] アントワネットは非常に個性が強かった。 当時、君主主義・ので「期待される王妃像」は、君主の後ろにそっと寄り添うような女性だった。 しかし彼女は、最高に「高貴」な・について揺るぎない矜持を持っていたと同時に、「的女性」としての面もあった。 この王妃は、普通のとして生きたいという願望を持っていたが、そのように振る舞うことでさまざまな摩擦が生じ、徐々に評判は悪くなった。 アントワネットは、王妃としてのを果たさなければならぬと強く思ってはいた。 その思いは、王家の威信が危機に瀕するほど、王家の立場が悪くなるほど、一層表現された (生前の彼女はよく、遊び好きで家な王妃だと非難されていたが、そのような単なるであるなら、わざわざ革命と対決するという面倒事をした理由を説明できない )。 彼女は革命から逃避するよりも、対決することを選んだ。 その「健気」な姿が共感を誘いもしたが、それは必ずしも正確な状況判断に基づいてはいなかった。 君主主義・神政主義・反民主主義 [ ] 王妃の二枚の肖像。 1778年(左)、1779年(右) アントワネットが王妃になったのは18歳だったが、いかにも王妃らしい女性だった。 フランス革命前の時代では、国家は王家の「」のようなものであり、君主が好きにしてよかった。 アントワネットは、そのような時代に生まれ育った。 そのため、君主権に「一般の国民」が異議を唱えることに関して、忌まわしいとアントワネットは思っていた。 彼女にとって、国は特権階級の所有物であり、主権システムは「」ではなく「」でなければならず、ほかの人間や革命家が口を差し挟むこと自体が許せなかった。 アントワネットからしてみれば、革命前の君主制が「正しきもの」であり、何としてでも革命を潰して、元の君主制へ回帰しようとした。 一方、アントワネットは過去や君主制を懐古するだけの愚者ではなかった。 実際、革命後に時代を経てが発生したため、その点では彼女の考えは当たっていた。 とはいえ、復古した王政は16年しか保たなかった。 その他 マリー・アントワネットに対するフランス国民の怒りは、むしろ革命が始まってからの方が大きかったと言われている。 フランスの情報を実家であるオーストリア帝室などに流し、革命に対する手立てが取れない夫ルイ16世に代わっての立場を取ったことが裏切り行為ととられた(外敵通牒)。 「パンがなければ…」の発言 [ ] 1788年の肖像画 マリー・アントワネットは、フランス革命前に民衆が貧困と食料難に陥った際、「がなければお菓子を食べればいいじゃない」と発言したと紹介されることがある(ルイ16世の叔母であるの発言とされることもある)。 ブリオッシュは現代ではパンの一種の扱いであるが、かつては原料は小麦粉・塩・水・イーストだけのパン()でなく、バターと卵を使うことからお菓子の一種の扱いをされていたものである。 お菓子ではなくまたはと言ったという変形もある。 なおフランスを代表するイメージであるクロワッサンやコーヒーを飲む習慣は、彼女がオーストリアから嫁いだときにフランスに伝えられたと言われている。 1791年の肖像画 しかし、 これはマリー・アントワネット自身の言葉ではないことが判明している。 の『 』(ごろ執筆)の第6巻に、ワインを飲むためにパンを探したが見つけられないルソーが、家臣からの「農民にはパンがありません」との発言に対して「それならブリオッシュを食べればよい」とさる大公夫人が答えたことを思い出したとあり、この記事が有力な原典のひとつであるといわれている。 庇護者で愛人でもあったヴァラン夫人とルソーが気まずくなり、マブリ家に家庭教師として出向いていた時代(ごろ)のことという。 ()は、に出版した『悪女たち』の中で、執筆の際にはこの発言はすでにマリー・アントワネットのものとして流布していたが、1760年出版のある本に「の公爵夫人」のものとして紹介されている、と書かれている。 実際はこれは彼女を妬んだほかの貴族たちの作り話で、彼女自身は飢饉の際に子供の宮廷費を削って寄付したり、ほかの貴族達から寄付金を集めたりするなど、国民を大事に思うとても心優しい人物であったとされる。 トスカーナは1760年当時、マリー・アントワネットの父であるが所有しており、その後もハプスブルク家に受け継がれたことから、こじつけの理由の一端になったともされる。 現代のフランスにおいて、この発言は今なおマリー・アントワネットを象徴するものだと信じられている。 2016年、保守派議員のジャンフランソワ・コペが「パン・オ・ショコラ」の価格について言い間違えたのを、現代のマリー・アントワネットのようだと報じられた。 人物・言行 [ ] 幼少期 [ ] 幼いマリー・アントワネットの・・・フランスなどのには、ヴェルモンが派遣されてきた。 この33歳の神父はを取得し、図書館でもあった。 神父はアントワネットの信頼を勝ち得たが、の勉強はあまり成果が上がらず、5分以上集中させることもできなかった。 彼女は家庭教師を手懐けて勉強を回避する術を心得ていたため、学科ではなく、楽しいおしゃべりへと仕向けるのだった。 ヴェルモン神父は、駐仏オーストリア大使メルシ・アルジャントへ次のような手紙を宛てている。 娘の美しき日々は終わったと私は思っています。 と語った。 であるルイ15世だけには逆らえなかったアントワネットだが、祖父という「重し」が取れると、これからを取り仕切るのは王妃たる自分であると思うようになり、宮廷をもっと住みよい場所にしようとした。 宮廷では、アントワネット主催で定期的にが開かれるようになった。 からプロのを招いて宮廷で上演することは以前から週2回行われていたが、アントワネットはそれを週3回に増やした。 しかし劇好きな彼女にとっては、これでもまだ不足であり、しかも宮廷ではは上演できなかった。 そのため舞踏会、劇、オペラなどのため頻繁にパリへ出かけた。 夫であるルイ16世が同伴していれば問題はなかったが、夫はこうした遊びを好まず、アントワネットも若いたちと行くことをずっと楽しんでいた。 しかも彼女はお忍びで頻繁にパリへ遊びに行き、帰りはよくになっていたため、人々から相当の顰蹙を買った。 ほかにやにも熱中しており、賭け金が大きかったためをすることもあった。 王妃は「いちばん美しい女性」であらねばならぬという思いがある彼女は、の最先端を行こうともした。 のローズ・ベルタンと相談し、次々に新しいファッションを打ち出した。 パリの上流婦人たちは必死に王妃のファッションを追っていたが、 自然はでいいがするもの ということが、当然の前提とされていた。 トリアノンの一連の工事事業には、・・関係業者に加え、一流のや優秀な職人が大量動員された。 その庭園の注意書きには、「国王の命により」ではなく、「王妃の命により」と書かれることになった。 トリアノンはアントワネットにとって、「の世界」または「を実現させた世界」だった。 そんな「トリアノンの女王」であることは、彼女の評判をさらに下げた。 かかった費用が大きかったうえに、人々は彼女が「ヴェルサイユ宮廷の王妃」であるべきだと思っていたからだった。 首飾り事件 [ ] では、に無罪判決が出たため、世間の疑惑はアントワネットに向けられた。 彼女がロアンを利用し、首飾りを手に入れたのではないかと疑われた。 彼女は激怒して泣きくれ、フランス全体について 財政状態がそんなに悪いことに、どうして私が気づくことができたでしょうか? 私が5万要求すると、10万リーヴル持ってくる、というふうだったのですもの。 と語っている。 こうしたヴェルサイユ宮廷の人々は、従来の世の中がいつまでも続くと思っており、をさらに増大させようとしていた。 ごろ、アントワネットは以前とは異なり国全体について考え、倹約もするようになったが、そのころには「夫人」と呼ばれるようになっていた。 パリでの評判があまりに悪くなっていたため、は不測の事態を恐れ、彼女に「パリにはお出でにならないように」と警告した。 革命中 [ ] パリで武装蜂起した(=・)によってバスティーユ陥落が起こり、ルイ16世はパリとの和解の道を選んだ。 マリー・アントワネットは、夫にもしものことがあったら国会に避難しようと思い、国会で読み上げる声明書を作成し、 この不幸な人々に信頼感を持たせなければなりません。 私たちに対して不信感を持つように、そして、それが持続するように、ずいぶんと工作がなされてきたのですもの! 人々を私たちのほうに引き戻すには、忍耐の限りを尽くし、私たちの意図のさを知らしめるしかありません。 人々は遅かれ早かれ、自分たち自身の幸福のために、唯一の指導者とともにあることがどんなに大切かを知ることでしょう。 「過激派」批判・反民主主義 [ ] アントワネットはパリの人々のほかに、貴族の動向も気にしていた。 早々に亡命し、を拠点とした貴族たちは、武力で革命を潰そうとしていた。 彼らはアントワネットを「者」とみなしていた。 彼らのような家にとって、民主主義とは罵りの言葉である。 アントワネットとしてはやむを得ず革命に協調的態度を取っていたが、反革命家から見れば、彼女は「革命に与している」のだった。 一方アントワネットは、少しでも的な人物であるなら誰でも「」と呼んでいた。 たとえば、王家のために様々な尽力をしたラ・ファイエット侯爵を、彼女は「革命家」として嫌っていた。 確かに、ラ・ファイエットはから影響され、「フランスに自由を打ち立てる」ために革命に参入したが、彼はあくまでも君主制を当然の前提としていた。 ラ・ファイエットは革命前から、「両世界の」として有名だった人物である(「両世界」とは、新世界()と旧世界(ヨーロッパ)のこと)。 革命前にヴェルサイユ宮殿の舞踏会で、アントワネットは彼とダンスしたこともあった。 亡命貴族たちは革命に対して種々の挑発を行っていた。 こうした行動を、アントワネットは非常に迷惑がった。 彼女が亡命貴族たちと連携しているのではないかと革命家から疑われ、パリでの王家の評判が悪くなるからだった。 君主主義・反革命・フェルセン [ ] アントワネットとルイ16世はを頼るほうが現実的だったが、2人はこれまで通りやを一番頼りになる「味方」として信頼し続けた。 ミラボーは、革命に依拠したうえでの君主権強化を考えていたが、フェルセンたちにとって君主権強化とは、革命を否定したうえで成り立つものだった。 バスティーユ陥落以降、アントワネットが「」と信じていた人々は次々に去っていったが、フェルセンは残った。 国王一家がパリへ移されてからは、アントワネットにとってフェルセンの政治的重要性が増し、2人は毎日のように会うようになった。 「」する女にとって、愛しい男の意見に従おうとするのは珍しくない。 アントワネットは彼の政治的意見を最重要視するようになったが、それは君主制にとっていい結果をもたらさなかった。 ヴァレンヌ逃亡事件 [ ] 1791年5月6日付の手紙で、アントワネットはメルシーへこう語った。 の中にあっても、危険を回避することよりもむしろ美しくあることを考える と語っており、これは彼女の本質を突いている。 アントワネットは敗北を認めず、仮に敗れるとしても「美しく敗れる」ことを目指していた。 アントワネットは的教育・を一切受けたことがなかった。 彼女は政治的状況を冷静に分析して方針を出すということはできなかった。 彼女の方針はもっぱら、• 革命に対する・• 君主権は「神聖にして侵すべからず」という から導き出されていた。 王家のためを思って彼女が打ち出した方針は、多くの場合、王家にとってマイナスの結果に終わった。 その最たる例が、このとされている。 アントワネットは、自分たちが成功するだろうという期待感や信条の中で動いていた。 君主が従僕に変装してまでも逃亡しようとしたことに、人々は憤慨した。 「国王は外国のに頼って革命をつぶそうとしている」という噂が、一気に信憑性を増すことになった。 この逃亡事件をきっかけに、君主制廃止の声がフランス全土から沸き起こった。 それまでの君主は、と同じように「自然」であり、不可欠であるはずだった。 しかし、君主がいなくなった5日間、人々は変わらず生活できており、は昇って沈んだ。 君主がいなくなっても国は亡くなりはせず、別に困りはしないということを、君主自らが証明してしまった。 アントワネットは、によってヨーロッパ諸国が力を誇示し、フランス人を震え上がらせることを望んだが、この宣言は火に油を注いだ。 革命が潰されて的やへのが復活することを、一般のフランス人は極度に恐れていた。 ゆえに大多数のフランス人は、何としてでも革命を守ろうとした。 アントワネットは、軍事的に革命を屈服させ、君主権を再確立したいという思いのほかに、自分へ数々の無礼を働いた「不逞の輩」(のや革命家)を処罰したいという思いもあった。 「国王のもとに結集するよきフランス人」によってフランスは平和になる、と彼女は夢想していた。 憲法・立憲君主制 [ ] 君主は神から国を統治する権限を委任されたとする「」は、革命によって否定された。 ヴァレンヌから帰った当初は君主制廃止が議論されていたが、一応混乱は収束され、が成立した。 アントワネットは、近代的なを受け入れるふりをしたが、本当は彼女にとって憲法とは ハープを奏でる王妃(1777年) 上記の通り、ウィーン時代にらから音楽を教わっていた。 また彼女が7歳だった9月、各国での演奏旅行の途上、でのを前にした御前演奏に招かれた(当時6歳)からプロポーズされたという音楽史上よく知られたエピソードも持つ。 後年、ルイ16世のもとに嫁いでからもを愛奏していたという。 タンプル塔へ幽閉された際もハープが持ち込まれた。 歌劇のあり方などをめぐるオペラ改革の折にはグルックを擁護し、彼のオペラのパリ上演の後援もしている。 なおマリー・アントワネットは作曲もし、少なくとも12曲の歌曲が現存している。 彼女の作品の多くは時に焼き捨てられ、ごく一部がに収蔵されているのみである。 このマリー・アントワネットの曲集は日本で世界初の楽譜 も出版された。 入浴・香水 [ ] マリー・アントワネットが幼少期を過ごしたオーストリアには当時からの習慣があった。 母マリア・テレジアも幼いころから彼女に入浴好きになるよう教育している。 入浴の習慣がなかったフランスへ嫁いだあとも彼女は入浴の習慣を続け、幽閉されたタンプル塔にも浴槽が持ち込まれたという記録がある。 入浴をする習慣は、体臭を消すという目的が主だったに大きな影響をもたらした。 マリー・アントワネットは当時のヨーロッパ貴族が愛用していたや動物系香料を混ぜた非常に濃厚な東洋風の香りよりも、やの花やなどの植物系香料から作られる軽やかな香りの現代の香水に近い物を愛用し、これがやがて貴族たちの間でも流行するようになった。 もちろん、このお気に入りの香水もタンプル塔へ持ち込まれている。 家具 [ ] 家具に非常に興味を持っており、世界中から沢山の木材を取り寄せた。 、、、ブラジル産などを使い家具を作らせた。 やも家具の装飾用として使われた。 ドイツ人家具職人を多く抱え、ルイ16世様式()の家具を多く貴族に広めている。 また日本製や中国製の家具やをとても好んでおり、マリア・テレジアからも贈られている。 これらは現在もに展示されている。 ファッション・リーダー [ ] 当時の貴族女性は、相手が驚くようなヘア・スタイルを競っていた。 アントワネットも王妃になってまもなく、 ()という新進ファッション・デザイナーを重用する。 ベルタンのデザインするドレスや髪型、宝石はフランス宮廷だけでなく、スペインやポルトガル、ロシアの上流階級の女性たちにも流行し、アントワネットはヨーロッパのファッションリーダーとなっていった。 何より女性たちの視線を集めたのがその髪型で、当初は顔の1. 5倍の高さだった盛り髪スタイルは徐々にエスカレートし、飾りも草木を着けた「庭ヘアー」や船の模型を載せた「船盛りヘアー」など、とにかく革新的なスタイルで周囲の目を惹きつけた。 即位後最初の数年間を過ぎてからは、簡素なデザインのものを好むようになった。 このころベルタンは、アントワネットのために袖や長い裳裾を取り払ったをデザインしている。 容姿 [ ] 身長は154cm。 裁縫師のエロフ夫人の日誌によると、ウエストは58〜59cm、バストが109cmで、当時のモードに合った体型であった。 一方で、30歳のときにはかなりふくよかな体型だったようで、その豊満さを覆い隠すようなギリシャ風の装いを考案している。 エロフ婦人が計ったところ、コルセットで58cm(23インチ)までウェストは締め付けるものの、バストは112cm(44インチ)を超えていたという。 顔は瓜実顔で額が広すぎ、鼻は少し鷲鼻気味で、顎がぼってりし、「」と言われる特徴があった。 しかし、輝くばかりの真珠のような白い肌と、眩い金髪を持つ魅力的な容姿であった。 教育係であったド・ヴェルモン神父は、「もっと整った美しさの容姿を見つけ出すことはできるが、もっとこころよい容姿を見つけ出すことはできない」、王妃の小姓であったド・ティリー男爵は、「美しくはないが、すべての性格の人々をとらえる眼をしている」「肌はすばらしく、肩と頸もすばらしかった。 これほど美しい腕や手は、その後二度と見たことがない」、王妃の御用画家であったは、「顔つきは整っていなかったが、肌は輝かんばかりで、すきとおって一点の曇りもなかった。 思い通りの効果を出す絵の具が私にはなかった」と述べている。 身のこなしの優雅さでも知られ、前述のド・ティリー男爵は「彼女ほど典雅なお辞儀をする人はいなかった」、ルブラン夫人は「フランス中で一番りっぱに歩く婦人だった」と述べている。 子女 [ ] マリー・アントワネットとマリー・テレーズ王女、ルイ王太子(ルイ17世)• - アングレーム公爵夫人 1778年12月19日 - 1851年10月19日• - ( - )• - 、王太子、ルイ17世 1785年3月27日 - 1795年6月8日• ( - ) 4人の子供のうち3人は夭逝。 長女マリー・テレーズは結婚して夫と添い遂げ、子女の中で唯一、天寿を全うした。 マリー・テレーズは結婚13年目のに懐妊したが、流産。 その後は妊娠することがなく子どもを残していないため、直系の子孫はいない。 女官・侍女 [ ]• 侍女長ないし女官長。 1775年、が女官の新たな筆頭職に就いたのと入れ替わりで辞職。 1794年6月27日、夫ともどもパリで刑に処された。 1786年に部屋つき第一侍女に就任(第一侍女は数人いた。 なお、侍女長ないし女官長だったノワイユ伯爵夫人、さらに侍女総監ないし女官総監だったランバル公妃やらとは別の役職)。 父は外交官ないし高級官僚。 帝政下に開いた学校にての子女を教育したことを理由に、はから絶縁される。 その後マリー・アントワネットの回想録を出版した。 カンパン夫人と同じ部屋つき第一侍女。 ()将軍は再婚相手。 1789年の勃発以降、スイス方面に亡命を余儀なくされたポリニャック公爵夫人に代わり、国王子女の養育係に任命された。 では国王一家と同行し逮捕。 常に王室に忠実であり、帝政時代初期まで数回投獄されている。 トゥルゼール公爵夫人の娘。 母とともにテュイルリー宮殿で国王一家に付き従っていた。 結婚後はベアルン伯爵夫人。 マリー・テレーズとは生涯友情関係にあり 、復古王政期にマリー・テレーズの侍女になった。 参考文献 [ ]• (アリソン 1855) Sir Archibald Alison 1855. Parent• 安達正勝『マリー・アントワネット:フランス革命と対決した王妃』中央公論新社、2014年。 (佐伯 2010) 『マリー・アントワネット曲集 王妃様の作った愛の歌』中央アート出版社、2010年6月。 (藤本 2006) 『王妃マリー・アントワネット 青春の光と影』、2006年10月。 (藤本 2010) 藤本ひとみ『マリー・アントワネット物語 中 恋する姫君』〈講談社 284-2 歴史発見! ドラマシリーズ〉、2010年11月。 (Erickson 1991) 1991-03. To the Scaffold: The Life of Marie Antoinette. 関連書籍 [ ] 日本語で発行された書籍のみを記す。 による評伝• 「マリー・アントアネット」(/、共訳、青磁社、上・下、1948年11月、 )• のち、で刊行(三笠書房〈世界文學選書〉、上・下、1950年-1951年、 )• のち、で文庫化(岩波書店〈〉、上・中・下、1952年-1953年、 )• のち改版、(『マリー・アントワネット』、秋山英夫改訳版、岩波文庫、上・下、1980年6月、 )• 「マリー・アントワネット 或る月並な女人の肖像」(ツヴァイク/訳、角川書店〈角川文庫〉、上・下、1958年-1959年、 )• のち、角川文庫で再版(『マリー・アントワネット』ツヴァイク/山下肇訳、角川書店〈角川文庫 名著コレクション〉、上・下、1984年、ISBN 、 )• 新訳版「マリー・アントワネット」(シュテファン・ツヴァイク/訳、角川書店〈角川文庫〉、上・下、2007年1月)• 「マリー・アントワネット」(、訳、『ツヴァイク全集 11・12』、、全2巻、1962年、 )• のち、新装版(『ツヴァイク全集 13・14』、みすず書房、全2巻、1974年、 )• のち、改訂版(『ツヴァイク伝記文学コレクション 3・4』、みすず書房、全2巻、1998年9月、 )• 「マリー・アントワネット」(訳、河出書房新社〈第3集 世界文学全集 第15巻 ツワイク〉、1965年5月、 )• のち、河出文庫で改訂再刊(河出書房新社〈河出文庫〉、上・下、1989年6月 、新装版2006年11月、 ) 伝記・評伝• 「マリー・アントワネット」( ()/訳、潮書房、1956年10月、 )• 「マリー・アントワネット」(/、訳、小山書店新社、1957年10月)• 「物語マリー・アントワネット」((窪田般弥)、白水社、1985年1月/白水社〈 1007〉、1991年6月)。 新書判• 「デュバリー伯爵夫人と王妃マリ・アントワネット ロココの落日」(、文化出版局、1985年3月)• 「マリー・アントワネットの生涯」(藤本ひとみ、中央公論社、1998年7月/〈〉、2001年6月)• 「マリー・アントワネット」( ()/櫻井郁恵訳、近代文芸社、1999年6月)• 「王妃マリー・アントワネット」( ()/監修、遠藤ゆかり訳、創元社〈〉、2001年11月)• 「マリー・アントワネットとマリア・テレジア 秘密の往復書簡」(パウル・クリストフ編/訳、岩波書店、2002年9月)• 「マリー・アントワネットとヴェルサイユ-華麗なる宮廷に渦巻く愛と革命のドラマ」(新人物往来社〈別冊歴史読本〉、2003年8月)• 「ロココの花嫁マリー・アントワネット ベルサイユへの旅路」(ケーラー・鹿子木美恵子、叢文社、2005年5月)• 「マリー・アントワネット」 (/訳、ハヤカワ文庫、上・下、2006年12月)• 「マリー・アントワネット38年の生涯 断頭台に散った悲運の王妃」(新人物往来社〈別冊歴史読本〉、2008年1月)• 「王妃マリー・アントワネット 華やかな悲劇のすべて」(、角川書店、2008年6月)• 「マリー・アントワネットとフランスの女たち 甘美なるロココの源流」(堀江宏樹、春日出版、2008年8月)• 「マリー・アントワネットの「首飾り事件」」( ()/リンツビヒラ裕美訳、彩流社、2008年10月)• 「王妃マリー・アントワネット」(新人物往来社編〈ビジュアル選書〉、2010年4月)• 「王妃マリー・アントワネット 美の肖像」(写真、世界文化社、2011年3月)• 「マリー・アントワネット運命の24時間 知られざるフランス革命ヴァレンヌ逃亡」(中野京子、朝日新聞出版、2012年2月)• のち、文藝春秋で文庫化(文藝春秋〈文春文庫〉、2014年8月、)• 「マリー・アントワネット ファッションで世界を変えた女」(、河出書房新社、2014年6月、)• 「マリー・アントワネット フランス革命と対決した王妃」(、中央公論新社〈〉、2014年9月、)• 「マリー・アントワネット 華麗な遺産がかたる王妃の生涯」(エレーヌ・ドラレクス、 ()、ニコラ・ミロヴァノヴィチ/岩澤雅利訳、原書房、2015年3月、) マリー・アントワネットを扱った作品 [ ] 小説 [ ]• 「SOSタイム・パトロール」- 著、朝日ソノラマ、1972年。 小説)• 「王妃マリー・アントワネット」 - 著、朝日新聞社、1979年-1980年。 のち新潮文庫)• 「 ()」 - ()著、、2012年11月13日刊行。 翻訳: *2002年受賞 映画化題『』• 「マリー・アントワネット物語」 - 著、絵、青い鳥文庫 歴史発見!ドラマシリーズ、2010年。 上「夢みる姫君」、中「恋する姫君」、下「戦う姫君」の全3巻。 小説) 映画 [ ]• 『』 - 監督、主演のマリー・アントワネットを主人公にした原作『 ()』の映画化。 『マリー・アントワネット』 - ジャン・ドラノワ監督、主演のフランス映画。 VHS発売題『愛と欲望の果てに/ドレスの下のフランス革命』より「マリー・アントワネット」• が オーストリア女の最後を演じた、フランス映画。 『』 - 監督。 からまでの駐フランス公使時期を描くことで、マリー・アントワネット () が断頭台に送られる前後も描いた 作曲のオペラ《ダルダニュス》の再現や、舞台、会食、謁見なども。 『』 - 監督、主演のマリー・アントワネットを主人公に、80年代の音楽なども混ぜて創作した青春映画。 『』 - 2006年に放映された、フランス・合作のテレビ映画作品。 『』 - 監督、主演、2012年のフランス歴史映画。 革命発生時のマリー・アントワネット()を朗読係の目から描く。 舞台作品 [ ]• ミュージカル『』 - 原作:『王妃マリー・アントワネット』• ミュージカル『』• 舞台劇『首のない王妃・マリーアントアネットのその後』 - 2011年9月舞台、主演。 オペラ『 ()』 - 作曲 ラジオドラマ [ ]• 『フランツ・ルフレルの天使たち』 - 杉崎智介のle Salon テレビ東京InterFM - フランス革命前後のマリー・アントワネットを描いたラジオドラマ。 (声:ReeSya)、脚本・杉崎智介 漫画 [ ]• 『』 - ルイ15世末期からフランス革命前後までのを舞台とした漫画。 『』 - フランス革命初期からロベスピエール処刑までを舞台とした漫画。 他の作品と違い、この作品ではアントワネットの悪行をメインに描いている。 『』 - マリー・アントワネットの親友となった女流画家を主人公に、2人の友情を描いた作品。 『マリー・アントワネット』 - 「週刊」()で連載された漫画。 史上初のによる。 そのため、アントワネットは名もない幽霊となってさ迷う。 『』-国王ルイ十六世の斬首刑の指揮を執った実在の死刑執行人を主人公にしている。 マリー・アントワネットはアンリ・サンソンの妹・マリーの自由な生き様に憧れを抱く。 『』-18世紀ので反政府運動をおこなう平民のギデオン・エーメがルイ16世夫妻と知り合い、交流を深めるが時代の波を止められず、に至る動向が描かれる。 アニメーション [ ]• 『』 - フランス革命の頃のパリが舞台のテレビアニメ。 アントワネットは知らなかったが、彼女の父君ロートリンゲン公フランツ1世がフランスのオペラ座の歌姫との間に設けたシモーヌ・ロランという異母妹がいるという設定。 ゲーム [ ]• 『ワールドチェイン』- レブナントとして登場。 『』- 英雄として登場。 『IdentityV』- 血の女王として登場。 関連項目 [ ] ウィキメディア・コモンズには、 に関連するメディアがあります。 - 兄の孫で、相手は皇帝と、やはりフランスへ嫁いだ。 - の黒幕的存在。 同時代に生きたアントワネットとは対照的な"女王"だった。 - プチ・トリアノンにある"王妃の村里"。 - マリー・アントワネットの亡霊を小トリアノン宮殿で目撃したとされる事件• - 香水• - 同社のマリービスケットは、アントワネットが宮殿で初めて高級ビスケットを作らせ、自分の名マリーと名付けて常に愛用したという伝から創業者が命名。 脚注 [ ] 注釈 [ ]• , p. 126「はみ出し者」- p. 159「元旦のできこと」• [ ]• , p. 157. 作:訳:、『マリー・アントワネット 下 』、1980年改訳第1刷発行、344, 345頁より引用• 『世界大百科事典』(2014年改定新版第6刷)189ページ。 , pp. vi-vii. vii. 247. , pp. 247-248. 248. 89およびp. 135• Jean-Jacques Rousseau. www. afpbb. com. 2020年2月15日閲覧。 , pp. 8-9. , pp. 9-10. , p. , pp. 30-31. , p. , p. , pp. 108-109. , p. 109. 131. , p. 136. , pp. 136-137. 137. 143. 143-144. , p. 150. , pp. 150-151. 151. , p. 152. 161. , pp. 161-162. , p. 162. 172. 173. 174. , p. 175. , pp. 175-176. , p. 176. [ ]• 『ビジュアル百科 世界史1200人 1冊で丸わかり』145頁。 , p. 211. マリー・アントワネット 154cm? 山梨の歴史研究家 肖像画から身長解析『』2010年8月18日29面• , p. 298. , p. 177. , pp. 5, 185-187. , p. 186. 『マリー・テレーズ』恐怖政治の子供、マリー・アントワネットの娘の運命 スーザン・ネーゲル著 2009年 近代文学社 P268• ネーゲル P122,124,171• ネーゲル p106,138,333• 森永長壹郎、同志社大学『新島研究』103号、2012-02-28 外部リンク [ ]• 先代: フランス王妃 1774年 - 1792年 ナバラ王妃 1774年 - 1791年 次代: () (皇后).

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なら トワ

一覧参照• フランスの「」で処刑された。 の娘であり 、「美貌、な反面、、」だったとされており 、乱費や民衆蔑視によって国民から反発されていた。 の宮廷生活を享楽し、その浪費などから「夫人」「オーストリア女」と呼ばれた。 また、アントワネットはさまざまなに常に反対し、青年貴族たち(特に)との情愛に溺れた。 の王妃をめぐる、無実の詐欺事件「」も、結果的に国民の反感へとつながった。 のフランス革命に反対し、宮廷の勢力を形成したアントワネットは、派(やなど)へ接近することさえも拒んだ。 維持を目的として武力干渉を諸外国に要請し 、特に宮廷との秘密交渉を進め、外国軍隊のフランス侵入を期待した。 しかしに失敗 、反革命の中心人物として処刑された。 少女時代のアントーニア 1755年11月2日、との十一女としてで誕生した。 名は、 マリア・アントーニア・ヨーゼファ・ヨハンナ・フォン・ハプスブルク=ロートリンゲン。 やダンス、作曲家のもとで身につけたやなどの演奏を得意とした。 3歳年上のが嫁ぐまでは同じ部屋で養育され、姉妹は非常に仲がよかった。 オーストリア宮廷は非常に家庭的で、幼いころから家族揃って狩りに出かけたり、家族でバレエやオペラを観覧したりした。 また幼いころからバレエやオペラを皇女らが演じている。 当時のオーストリアは、の脅威から伝統的な外交関係を転換してフランスとの同盟関係を深めようとしており()、その一環として母は、自分の娘とフランス国王の孫、ルイ・オーギュスト(のちの)との政略結婚を画策した。 当初はがその候補であったが、ナポリ王と婚約していたすぐ上の姉が1767年、結婚直前に急死したため、翌1768年に急遽マリア・カロリーナがナポリのフェルディナンド4世へ嫁ぐことになった。 そのため、アントーニアがフランスとの政略結婚候補に繰り上がった。 5月、結婚の使節としてが駐仏大使としてフランスに派遣されたが、ルイ・オーギュストの父で王太子、母(王兼フリードリヒ・アウグスト2世の娘)がともに結婚に反対で、交渉ははかばかしくは進まなかった。 にルイ・フェルディナンが死去した。 6月、ようやくルイ15世からマリア・テレジアへ婚約文書が送られた。 このときアントーニアはまだが修得できていなかったため、司教であるヴェルモン神父について本格的に学習を開始することとなった。 、マリア・アントーニアが14歳のとき、王太子となっていたルイとの結婚式がにて挙行され、アントーニアはフランス王太子妃 マリー・アントワネットと呼ばれることとなった。 このとき『マリー・アントワネットの讃歌』が作られ、盛大に祝福された。 宮廷生活 [ ] デュ・バリー夫人との対立 [ ] 1769年の肖像画(画) ルイ15世はこの対立に激怒し、母マリア・テレジアからも対立をやめるよう忠告を受けたアントワネットは、7月に貴婦人たちの集まりでデュ・バリー夫人に声をかけることになった。 しかし、声をかける寸前にアデライード王女が突如アントワネットの前に走り出て「さあ時間でございます!ヴィクトワールの部屋に行って、国王陛下をお待ちしましょう!」と言い放ち、皆が唖然とするなかで、アントワネットを引っ張って退場したと言われている。 2人の対決は1月1日に、新年のあいさつに訪れたデュ・バリー夫人に対し、あらかじめ用意された筋書きどおりに「本日のヴェルサイユは大層な人出ですこと」とアントワネットが声をかけることで表向きは終結した。 その後、アントワネットはアデライード王女らとは距離を置くようになった。 結婚生活 [ ] での農婦姿のアントワネット。 (1791年、セザリーヌ・フランク画を基にした、ルイ=シャルル・ルオット作の版画) 母マリア・テレジアは娘の身を案じ、たびたび手紙を送って戒めていたが、効果はなかった(この往復書簡は現存し、オーストリア国立公文書館に所蔵されている)。 時にパリのでに遊び、またにも狂的に熱中したと言われる。 賭博に関しては子供が生まれたことをきっかけに訪れた心境の変化から止めている。 ただの向こう見ずな浪費家でしかないように語られる反面、自らのために城を建築したりもせず、宮廷内で貧困にある者のためのカンパを募ったり、子供らにおもちゃを我慢させたりもしていた。 母親としてはいい母親であったようで [ ]、もともとのために建てられるも、完成直後に当人が死んで無人だったを与えられてからは、と、そこに家畜用の庭ないし農場を増設し、子供を育てながら家畜を眺める生活を送っていたという。 フランス王妃として [ ] 麦藁帽子にモスリンの「田舎風の装い」の王妃(1783年) 、ルイ16世の即位によりフランス王妃となった。 王妃になったアントワネットは、朝の接見を簡素化させたり、全王族の食事風景を公開することや、王妃に直接物を渡してはならないなどのベルサイユの習慣や儀式を廃止・緩和させた。 しかし、誰が王妃に下着を渡すかでもめたり、廷臣の地位によって便器の形が違ったりすることが一種のステータスであった宮廷内の人々にとっては、アントワネットが彼らが無駄だと知りながらも今まで大切にしてきた特権を奪う形になり、逆に反感を買った。 こうした中で、マリー・アントワネットとの貴族との浮き名が、宮廷ではもっぱらの噂となった。 地味な人物である夫のルイ16世を見下しているところもあったという。 ただしこれは彼女だけではなく大勢の貴族達の間にもそのような傾向は見られたらしい。 一方、彼女は大貴族たちを無視し、彼女の寵に加われなかった貴族たちは、彼女とその寵臣をこぞって非難した。 彼らは宮廷を去ったアデライード王女や宮廷を追われたデュ・バリー夫人の居城にしばしば集まっていた。 ヴェルサイユ以外の場所、特にではアントワネットへの がひどかった [ ]という。 多くは流言飛語の類だったが、結果的にこれらの中傷がパリの民衆の憎悪をかき立てることとなった [ ]。 にはマリー・アントワネットの名を騙った詐欺師集団による、ブルボン王朝末期を象徴するスキャンダルであるが発生する。 このように彼女に関する騒動は絶えなかった。 フランス革命 [ ] 幽閉中の王妃 7月14日、フランスでは王政に対する民衆の不満が爆発し、が勃発した。 (伯爵夫人から昇格)ら、それまでマリー・アントワネットから多大な恩恵を受けていた貴族たちは彼女を見捨てた恰好でしてしまう。 彼女に最後まで誠実だったのは、王妹とだけであった。 国王一家はからパリのに身柄を移されたが、そこでマリー・アントワネットはフェルセンの力を借り、フランスを脱走してオーストリアにいる兄に助けを求めようと計画する。 6月20日、計画は実行に移され、国王一家は庶民に化けてパリを脱出する。 アントワネットも家庭教師に化けた。 フェルセンは疑惑をそらすために国王とマリー・アントワネットは別々に行動することを勧めたが、マリー・アントワネットは家族全員が乗れる広くて豪奢な(そして、足の遅い)ベルリン馬車に乗ることを主張して譲らず、結局ベルリン馬車が用意された。 また馬車には、銀食器、衣装箪笥、食料品などの日用品や、喉がすぐ乾く国王のために酒蔵一つ分のワインが積み込まれた。 このため、もともと足の遅い馬車の進行速度をさらに遅らせてしまい、逃亡計画を大いに狂わせることとなった。 結局、国境近くのヴァレンヌで身元が発覚し、6月25日にパリへ連れ戻される。 このにより、国王一家は親国王派の国民からも見離されてしまう。 、が勃発すると、マリー・アントワネットが敵軍にフランス軍の作戦を漏らしているとの噂が立った。 8月10日、パリ市民と義勇兵はテュイルリー宮殿を襲撃し、マリー・アントワネット、ルイ16世、、、エリザベート王女の国王一家はに幽閉される()。 タンプル塔では、幽閉生活とはいえ家族でチェスを楽しんだり、楽器を演奏したり、子供の勉強を見たりするなど、束の間の家族団らんの時間があった。 10皿以上の夕食、30人のお針子を雇うなど待遇は決して悪くなかった。 革命裁判 [ ] ギロチン台へひきたてられるアントワネット 1月、革命裁判は夫のルイ16世に判決を下し、による斬首刑とした。 7月3日、王位継承者のルイ17世と引き離される。 タンプル塔の階下に移され、ルイ17世は後継人となったの靴屋であるアントワーヌ・シモンをはじめとする革命急進派から虐待を受けた。 マリー・アントワネットは8月2日にに囚人第280号として移送され、その後裁判が行われた。 しかし、アントワネットは提示された罪状についてほぼ無罪を主張し、裁判は予想以上に難航。 業を煮やした裁判所はやアナクサゴラス・ショーメットらにルイ17世の非公開尋問を行い、「母親に性的行為を強要された」とアントワネットが息子に対して無理矢理にを犯した旨を証言させた。 しかし、アントワネットは裁判の傍聴席にいたすべての女性に自身の無実を主張し、 大きな共感を呼んだ [ ]。 処刑前の王妃の様子のスケッチ しかし、この出来事も判決を覆すまでには至らず、に彼女は革命裁判で死刑判決を受け、翌、において夫の後を追ってギロチン送りに処せられることとなった。 処刑の前日、アントワネットはルイ16世の妹エリザベート宛てのを書き残している。 内容は「犯罪者にとって死刑は恥ずべきものだが、無実の罪で断頭台に送られるなら恥ずべきものではない」というものであった。 この遺書は看守からのちに革命の独裁者となるに渡され、ロベスピエールはこれを自室の書類入れに眠らせてしまう。 遺書は革命後に再び発見され、革命下を唯一生き延びた第一子のマリー・テレーズがこの文章を読むのはまで待たなければならなかった。 ギロチン処刑 [ ] 王妃マリー・アントワネットのギロチン処刑 遺書を書き終えた彼女は、朝食についての希望を部屋係から聞かれると「何もいりません。 すべて終わりました」と述べたと言われ、そして白衣に白い帽子を身に着けた。 斬首日当日、マリー・アントワネットは特別な囚人として肥桶の荷車でギロチンへと引き立てられていった。 コンシェルジュリーを出たときから、苦なく死ねるように髪を短く刈り取られ両手を後ろ手に縛られていた。 19世紀スコットランドの歴史家アーチボルド・アリソンの著した『1789年のフランス革命勃発からブルボン王朝復古までのヨーロッパ史』などによれば、その最期の言葉は、の足を踏んでしまった際に発した「お赦しくださいね、ムッシュウ。 わざとではありませんのよ(Pardonnez-moi, monsieur. ) 」だとされている。 通常はギロチンで処刑の際に顔を下に向けるが、マリー・アントワネットのときには顔をわざと上に向け、上から刃が落ちてくるのが見えるようにされたという噂が流れたという説もある。 12時15分、ギロチンが下ろされ刑が執行された。 それまで息を殺していた何万という群衆は「共和国万歳!」と叫び続けたという。 その後、群衆は昼飯の時間帯であったこともあり一斉に退散し、広場は閑散とした。 数名の憲兵がしばらく断頭台を見張っていたが、やがて彼女の遺体は刑吏によって小さな手押し車に、首は手押し車の足に載せられ運び去られた。 死後 [ ] 遺体はまず集団墓地となっていたマドレーヌ墓地 に葬られた。 のちにが到来すると、新しく国王となったは私有地となっていた旧墓地 を地権者から購入し、兄夫婦の遺体の捜索を命じた。 その際、密かな王党派だった地権者が国王と王妃の遺体が埋葬された場所を植木で囲んでいたのが役に立った。 発見されたマリー・アントワネットの亡骸はごく一部であったが、、歴代のフランス国王が眠るに夫のルイ16世とともに改葬された。 研究上の評価 [ ] サン=ドニ大聖堂の慰霊碑 『』において、「的」な王妃ではあるが、「嫁してを軽んじ、でありながらを裏切った」とされている。 ()が開始された理由は、打倒のためではなかった。 革命当初のスローガンは「、、!」であり、時代の雰囲気は、人民と君主が(国法)のもとで協力すれば、世の中をできるというものだった。 一部に流血が発生しても、たちは者だった。 革命開始から数年経過しても、君主主義や国王びいきは、にさえ相変わらず当てはまっていた。 しかし、ルイ十六世もマリー・アントワネットも、好機を活かすことができなかった。 個人性・使命感 [ ] アントワネットは非常に個性が強かった。 当時、君主主義・ので「期待される王妃像」は、君主の後ろにそっと寄り添うような女性だった。 しかし彼女は、最高に「高貴」な・について揺るぎない矜持を持っていたと同時に、「的女性」としての面もあった。 この王妃は、普通のとして生きたいという願望を持っていたが、そのように振る舞うことでさまざまな摩擦が生じ、徐々に評判は悪くなった。 アントワネットは、王妃としてのを果たさなければならぬと強く思ってはいた。 その思いは、王家の威信が危機に瀕するほど、王家の立場が悪くなるほど、一層表現された (生前の彼女はよく、遊び好きで家な王妃だと非難されていたが、そのような単なるであるなら、わざわざ革命と対決するという面倒事をした理由を説明できない )。 彼女は革命から逃避するよりも、対決することを選んだ。 その「健気」な姿が共感を誘いもしたが、それは必ずしも正確な状況判断に基づいてはいなかった。 君主主義・神政主義・反民主主義 [ ] 王妃の二枚の肖像。 1778年(左)、1779年(右) アントワネットが王妃になったのは18歳だったが、いかにも王妃らしい女性だった。 フランス革命前の時代では、国家は王家の「」のようなものであり、君主が好きにしてよかった。 アントワネットは、そのような時代に生まれ育った。 そのため、君主権に「一般の国民」が異議を唱えることに関して、忌まわしいとアントワネットは思っていた。 彼女にとって、国は特権階級の所有物であり、主権システムは「」ではなく「」でなければならず、ほかの人間や革命家が口を差し挟むこと自体が許せなかった。 アントワネットからしてみれば、革命前の君主制が「正しきもの」であり、何としてでも革命を潰して、元の君主制へ回帰しようとした。 一方、アントワネットは過去や君主制を懐古するだけの愚者ではなかった。 実際、革命後に時代を経てが発生したため、その点では彼女の考えは当たっていた。 とはいえ、復古した王政は16年しか保たなかった。 その他 マリー・アントワネットに対するフランス国民の怒りは、むしろ革命が始まってからの方が大きかったと言われている。 フランスの情報を実家であるオーストリア帝室などに流し、革命に対する手立てが取れない夫ルイ16世に代わっての立場を取ったことが裏切り行為ととられた(外敵通牒)。 「パンがなければ…」の発言 [ ] 1788年の肖像画 マリー・アントワネットは、フランス革命前に民衆が貧困と食料難に陥った際、「がなければお菓子を食べればいいじゃない」と発言したと紹介されることがある(ルイ16世の叔母であるの発言とされることもある)。 ブリオッシュは現代ではパンの一種の扱いであるが、かつては原料は小麦粉・塩・水・イーストだけのパン()でなく、バターと卵を使うことからお菓子の一種の扱いをされていたものである。 お菓子ではなくまたはと言ったという変形もある。 なおフランスを代表するイメージであるクロワッサンやコーヒーを飲む習慣は、彼女がオーストリアから嫁いだときにフランスに伝えられたと言われている。 1791年の肖像画 しかし、 これはマリー・アントワネット自身の言葉ではないことが判明している。 の『 』(ごろ執筆)の第6巻に、ワインを飲むためにパンを探したが見つけられないルソーが、家臣からの「農民にはパンがありません」との発言に対して「それならブリオッシュを食べればよい」とさる大公夫人が答えたことを思い出したとあり、この記事が有力な原典のひとつであるといわれている。 庇護者で愛人でもあったヴァラン夫人とルソーが気まずくなり、マブリ家に家庭教師として出向いていた時代(ごろ)のことという。 ()は、に出版した『悪女たち』の中で、執筆の際にはこの発言はすでにマリー・アントワネットのものとして流布していたが、1760年出版のある本に「の公爵夫人」のものとして紹介されている、と書かれている。 実際はこれは彼女を妬んだほかの貴族たちの作り話で、彼女自身は飢饉の際に子供の宮廷費を削って寄付したり、ほかの貴族達から寄付金を集めたりするなど、国民を大事に思うとても心優しい人物であったとされる。 トスカーナは1760年当時、マリー・アントワネットの父であるが所有しており、その後もハプスブルク家に受け継がれたことから、こじつけの理由の一端になったともされる。 現代のフランスにおいて、この発言は今なおマリー・アントワネットを象徴するものだと信じられている。 2016年、保守派議員のジャンフランソワ・コペが「パン・オ・ショコラ」の価格について言い間違えたのを、現代のマリー・アントワネットのようだと報じられた。 人物・言行 [ ] 幼少期 [ ] 幼いマリー・アントワネットの・・・フランスなどのには、ヴェルモンが派遣されてきた。 この33歳の神父はを取得し、図書館でもあった。 神父はアントワネットの信頼を勝ち得たが、の勉強はあまり成果が上がらず、5分以上集中させることもできなかった。 彼女は家庭教師を手懐けて勉強を回避する術を心得ていたため、学科ではなく、楽しいおしゃべりへと仕向けるのだった。 ヴェルモン神父は、駐仏オーストリア大使メルシ・アルジャントへ次のような手紙を宛てている。 娘の美しき日々は終わったと私は思っています。 と語った。 であるルイ15世だけには逆らえなかったアントワネットだが、祖父という「重し」が取れると、これからを取り仕切るのは王妃たる自分であると思うようになり、宮廷をもっと住みよい場所にしようとした。 宮廷では、アントワネット主催で定期的にが開かれるようになった。 からプロのを招いて宮廷で上演することは以前から週2回行われていたが、アントワネットはそれを週3回に増やした。 しかし劇好きな彼女にとっては、これでもまだ不足であり、しかも宮廷ではは上演できなかった。 そのため舞踏会、劇、オペラなどのため頻繁にパリへ出かけた。 夫であるルイ16世が同伴していれば問題はなかったが、夫はこうした遊びを好まず、アントワネットも若いたちと行くことをずっと楽しんでいた。 しかも彼女はお忍びで頻繁にパリへ遊びに行き、帰りはよくになっていたため、人々から相当の顰蹙を買った。 ほかにやにも熱中しており、賭け金が大きかったためをすることもあった。 王妃は「いちばん美しい女性」であらねばならぬという思いがある彼女は、の最先端を行こうともした。 のローズ・ベルタンと相談し、次々に新しいファッションを打ち出した。 パリの上流婦人たちは必死に王妃のファッションを追っていたが、 自然はでいいがするもの ということが、当然の前提とされていた。 トリアノンの一連の工事事業には、・・関係業者に加え、一流のや優秀な職人が大量動員された。 その庭園の注意書きには、「国王の命により」ではなく、「王妃の命により」と書かれることになった。 トリアノンはアントワネットにとって、「の世界」または「を実現させた世界」だった。 そんな「トリアノンの女王」であることは、彼女の評判をさらに下げた。 かかった費用が大きかったうえに、人々は彼女が「ヴェルサイユ宮廷の王妃」であるべきだと思っていたからだった。 首飾り事件 [ ] では、に無罪判決が出たため、世間の疑惑はアントワネットに向けられた。 彼女がロアンを利用し、首飾りを手に入れたのではないかと疑われた。 彼女は激怒して泣きくれ、フランス全体について 財政状態がそんなに悪いことに、どうして私が気づくことができたでしょうか? 私が5万要求すると、10万リーヴル持ってくる、というふうだったのですもの。 と語っている。 こうしたヴェルサイユ宮廷の人々は、従来の世の中がいつまでも続くと思っており、をさらに増大させようとしていた。 ごろ、アントワネットは以前とは異なり国全体について考え、倹約もするようになったが、そのころには「夫人」と呼ばれるようになっていた。 パリでの評判があまりに悪くなっていたため、は不測の事態を恐れ、彼女に「パリにはお出でにならないように」と警告した。 革命中 [ ] パリで武装蜂起した(=・)によってバスティーユ陥落が起こり、ルイ16世はパリとの和解の道を選んだ。 マリー・アントワネットは、夫にもしものことがあったら国会に避難しようと思い、国会で読み上げる声明書を作成し、 この不幸な人々に信頼感を持たせなければなりません。 私たちに対して不信感を持つように、そして、それが持続するように、ずいぶんと工作がなされてきたのですもの! 人々を私たちのほうに引き戻すには、忍耐の限りを尽くし、私たちの意図のさを知らしめるしかありません。 人々は遅かれ早かれ、自分たち自身の幸福のために、唯一の指導者とともにあることがどんなに大切かを知ることでしょう。 「過激派」批判・反民主主義 [ ] アントワネットはパリの人々のほかに、貴族の動向も気にしていた。 早々に亡命し、を拠点とした貴族たちは、武力で革命を潰そうとしていた。 彼らはアントワネットを「者」とみなしていた。 彼らのような家にとって、民主主義とは罵りの言葉である。 アントワネットとしてはやむを得ず革命に協調的態度を取っていたが、反革命家から見れば、彼女は「革命に与している」のだった。 一方アントワネットは、少しでも的な人物であるなら誰でも「」と呼んでいた。 たとえば、王家のために様々な尽力をしたラ・ファイエット侯爵を、彼女は「革命家」として嫌っていた。 確かに、ラ・ファイエットはから影響され、「フランスに自由を打ち立てる」ために革命に参入したが、彼はあくまでも君主制を当然の前提としていた。 ラ・ファイエットは革命前から、「両世界の」として有名だった人物である(「両世界」とは、新世界()と旧世界(ヨーロッパ)のこと)。 革命前にヴェルサイユ宮殿の舞踏会で、アントワネットは彼とダンスしたこともあった。 亡命貴族たちは革命に対して種々の挑発を行っていた。 こうした行動を、アントワネットは非常に迷惑がった。 彼女が亡命貴族たちと連携しているのではないかと革命家から疑われ、パリでの王家の評判が悪くなるからだった。 君主主義・反革命・フェルセン [ ] アントワネットとルイ16世はを頼るほうが現実的だったが、2人はこれまで通りやを一番頼りになる「味方」として信頼し続けた。 ミラボーは、革命に依拠したうえでの君主権強化を考えていたが、フェルセンたちにとって君主権強化とは、革命を否定したうえで成り立つものだった。 バスティーユ陥落以降、アントワネットが「」と信じていた人々は次々に去っていったが、フェルセンは残った。 国王一家がパリへ移されてからは、アントワネットにとってフェルセンの政治的重要性が増し、2人は毎日のように会うようになった。 「」する女にとって、愛しい男の意見に従おうとするのは珍しくない。 アントワネットは彼の政治的意見を最重要視するようになったが、それは君主制にとっていい結果をもたらさなかった。 ヴァレンヌ逃亡事件 [ ] 1791年5月6日付の手紙で、アントワネットはメルシーへこう語った。 の中にあっても、危険を回避することよりもむしろ美しくあることを考える と語っており、これは彼女の本質を突いている。 アントワネットは敗北を認めず、仮に敗れるとしても「美しく敗れる」ことを目指していた。 アントワネットは的教育・を一切受けたことがなかった。 彼女は政治的状況を冷静に分析して方針を出すということはできなかった。 彼女の方針はもっぱら、• 革命に対する・• 君主権は「神聖にして侵すべからず」という から導き出されていた。 王家のためを思って彼女が打ち出した方針は、多くの場合、王家にとってマイナスの結果に終わった。 その最たる例が、このとされている。 アントワネットは、自分たちが成功するだろうという期待感や信条の中で動いていた。 君主が従僕に変装してまでも逃亡しようとしたことに、人々は憤慨した。 「国王は外国のに頼って革命をつぶそうとしている」という噂が、一気に信憑性を増すことになった。 この逃亡事件をきっかけに、君主制廃止の声がフランス全土から沸き起こった。 それまでの君主は、と同じように「自然」であり、不可欠であるはずだった。 しかし、君主がいなくなった5日間、人々は変わらず生活できており、は昇って沈んだ。 君主がいなくなっても国は亡くなりはせず、別に困りはしないということを、君主自らが証明してしまった。 アントワネットは、によってヨーロッパ諸国が力を誇示し、フランス人を震え上がらせることを望んだが、この宣言は火に油を注いだ。 革命が潰されて的やへのが復活することを、一般のフランス人は極度に恐れていた。 ゆえに大多数のフランス人は、何としてでも革命を守ろうとした。 アントワネットは、軍事的に革命を屈服させ、君主権を再確立したいという思いのほかに、自分へ数々の無礼を働いた「不逞の輩」(のや革命家)を処罰したいという思いもあった。 「国王のもとに結集するよきフランス人」によってフランスは平和になる、と彼女は夢想していた。 憲法・立憲君主制 [ ] 君主は神から国を統治する権限を委任されたとする「」は、革命によって否定された。 ヴァレンヌから帰った当初は君主制廃止が議論されていたが、一応混乱は収束され、が成立した。 アントワネットは、近代的なを受け入れるふりをしたが、本当は彼女にとって憲法とは ハープを奏でる王妃(1777年) 上記の通り、ウィーン時代にらから音楽を教わっていた。 また彼女が7歳だった9月、各国での演奏旅行の途上、でのを前にした御前演奏に招かれた(当時6歳)からプロポーズされたという音楽史上よく知られたエピソードも持つ。 後年、ルイ16世のもとに嫁いでからもを愛奏していたという。 タンプル塔へ幽閉された際もハープが持ち込まれた。 歌劇のあり方などをめぐるオペラ改革の折にはグルックを擁護し、彼のオペラのパリ上演の後援もしている。 なおマリー・アントワネットは作曲もし、少なくとも12曲の歌曲が現存している。 彼女の作品の多くは時に焼き捨てられ、ごく一部がに収蔵されているのみである。 このマリー・アントワネットの曲集は日本で世界初の楽譜 も出版された。 入浴・香水 [ ] マリー・アントワネットが幼少期を過ごしたオーストリアには当時からの習慣があった。 母マリア・テレジアも幼いころから彼女に入浴好きになるよう教育している。 入浴の習慣がなかったフランスへ嫁いだあとも彼女は入浴の習慣を続け、幽閉されたタンプル塔にも浴槽が持ち込まれたという記録がある。 入浴をする習慣は、体臭を消すという目的が主だったに大きな影響をもたらした。 マリー・アントワネットは当時のヨーロッパ貴族が愛用していたや動物系香料を混ぜた非常に濃厚な東洋風の香りよりも、やの花やなどの植物系香料から作られる軽やかな香りの現代の香水に近い物を愛用し、これがやがて貴族たちの間でも流行するようになった。 もちろん、このお気に入りの香水もタンプル塔へ持ち込まれている。 家具 [ ] 家具に非常に興味を持っており、世界中から沢山の木材を取り寄せた。 、、、ブラジル産などを使い家具を作らせた。 やも家具の装飾用として使われた。 ドイツ人家具職人を多く抱え、ルイ16世様式()の家具を多く貴族に広めている。 また日本製や中国製の家具やをとても好んでおり、マリア・テレジアからも贈られている。 これらは現在もに展示されている。 ファッション・リーダー [ ] 当時の貴族女性は、相手が驚くようなヘア・スタイルを競っていた。 アントワネットも王妃になってまもなく、 ()という新進ファッション・デザイナーを重用する。 ベルタンのデザインするドレスや髪型、宝石はフランス宮廷だけでなく、スペインやポルトガル、ロシアの上流階級の女性たちにも流行し、アントワネットはヨーロッパのファッションリーダーとなっていった。 何より女性たちの視線を集めたのがその髪型で、当初は顔の1. 5倍の高さだった盛り髪スタイルは徐々にエスカレートし、飾りも草木を着けた「庭ヘアー」や船の模型を載せた「船盛りヘアー」など、とにかく革新的なスタイルで周囲の目を惹きつけた。 即位後最初の数年間を過ぎてからは、簡素なデザインのものを好むようになった。 このころベルタンは、アントワネットのために袖や長い裳裾を取り払ったをデザインしている。 容姿 [ ] 身長は154cm。 裁縫師のエロフ夫人の日誌によると、ウエストは58〜59cm、バストが109cmで、当時のモードに合った体型であった。 一方で、30歳のときにはかなりふくよかな体型だったようで、その豊満さを覆い隠すようなギリシャ風の装いを考案している。 エロフ婦人が計ったところ、コルセットで58cm(23インチ)までウェストは締め付けるものの、バストは112cm(44インチ)を超えていたという。 顔は瓜実顔で額が広すぎ、鼻は少し鷲鼻気味で、顎がぼってりし、「」と言われる特徴があった。 しかし、輝くばかりの真珠のような白い肌と、眩い金髪を持つ魅力的な容姿であった。 教育係であったド・ヴェルモン神父は、「もっと整った美しさの容姿を見つけ出すことはできるが、もっとこころよい容姿を見つけ出すことはできない」、王妃の小姓であったド・ティリー男爵は、「美しくはないが、すべての性格の人々をとらえる眼をしている」「肌はすばらしく、肩と頸もすばらしかった。 これほど美しい腕や手は、その後二度と見たことがない」、王妃の御用画家であったは、「顔つきは整っていなかったが、肌は輝かんばかりで、すきとおって一点の曇りもなかった。 思い通りの効果を出す絵の具が私にはなかった」と述べている。 身のこなしの優雅さでも知られ、前述のド・ティリー男爵は「彼女ほど典雅なお辞儀をする人はいなかった」、ルブラン夫人は「フランス中で一番りっぱに歩く婦人だった」と述べている。 子女 [ ] マリー・アントワネットとマリー・テレーズ王女、ルイ王太子(ルイ17世)• - アングレーム公爵夫人 1778年12月19日 - 1851年10月19日• - ( - )• - 、王太子、ルイ17世 1785年3月27日 - 1795年6月8日• ( - ) 4人の子供のうち3人は夭逝。 長女マリー・テレーズは結婚して夫と添い遂げ、子女の中で唯一、天寿を全うした。 マリー・テレーズは結婚13年目のに懐妊したが、流産。 その後は妊娠することがなく子どもを残していないため、直系の子孫はいない。 女官・侍女 [ ]• 侍女長ないし女官長。 1775年、が女官の新たな筆頭職に就いたのと入れ替わりで辞職。 1794年6月27日、夫ともどもパリで刑に処された。 1786年に部屋つき第一侍女に就任(第一侍女は数人いた。 なお、侍女長ないし女官長だったノワイユ伯爵夫人、さらに侍女総監ないし女官総監だったランバル公妃やらとは別の役職)。 父は外交官ないし高級官僚。 帝政下に開いた学校にての子女を教育したことを理由に、はから絶縁される。 その後マリー・アントワネットの回想録を出版した。 カンパン夫人と同じ部屋つき第一侍女。 ()将軍は再婚相手。 1789年の勃発以降、スイス方面に亡命を余儀なくされたポリニャック公爵夫人に代わり、国王子女の養育係に任命された。 では国王一家と同行し逮捕。 常に王室に忠実であり、帝政時代初期まで数回投獄されている。 トゥルゼール公爵夫人の娘。 母とともにテュイルリー宮殿で国王一家に付き従っていた。 結婚後はベアルン伯爵夫人。 マリー・テレーズとは生涯友情関係にあり 、復古王政期にマリー・テレーズの侍女になった。 参考文献 [ ]• (アリソン 1855) Sir Archibald Alison 1855. Parent• 安達正勝『マリー・アントワネット:フランス革命と対決した王妃』中央公論新社、2014年。 (佐伯 2010) 『マリー・アントワネット曲集 王妃様の作った愛の歌』中央アート出版社、2010年6月。 (藤本 2006) 『王妃マリー・アントワネット 青春の光と影』、2006年10月。 (藤本 2010) 藤本ひとみ『マリー・アントワネット物語 中 恋する姫君』〈講談社 284-2 歴史発見! ドラマシリーズ〉、2010年11月。 (Erickson 1991) 1991-03. To the Scaffold: The Life of Marie Antoinette. 関連書籍 [ ] 日本語で発行された書籍のみを記す。 による評伝• 「マリー・アントアネット」(/、共訳、青磁社、上・下、1948年11月、 )• のち、で刊行(三笠書房〈世界文學選書〉、上・下、1950年-1951年、 )• のち、で文庫化(岩波書店〈〉、上・中・下、1952年-1953年、 )• のち改版、(『マリー・アントワネット』、秋山英夫改訳版、岩波文庫、上・下、1980年6月、 )• 「マリー・アントワネット 或る月並な女人の肖像」(ツヴァイク/訳、角川書店〈角川文庫〉、上・下、1958年-1959年、 )• のち、角川文庫で再版(『マリー・アントワネット』ツヴァイク/山下肇訳、角川書店〈角川文庫 名著コレクション〉、上・下、1984年、ISBN 、 )• 新訳版「マリー・アントワネット」(シュテファン・ツヴァイク/訳、角川書店〈角川文庫〉、上・下、2007年1月)• 「マリー・アントワネット」(、訳、『ツヴァイク全集 11・12』、、全2巻、1962年、 )• のち、新装版(『ツヴァイク全集 13・14』、みすず書房、全2巻、1974年、 )• のち、改訂版(『ツヴァイク伝記文学コレクション 3・4』、みすず書房、全2巻、1998年9月、 )• 「マリー・アントワネット」(訳、河出書房新社〈第3集 世界文学全集 第15巻 ツワイク〉、1965年5月、 )• のち、河出文庫で改訂再刊(河出書房新社〈河出文庫〉、上・下、1989年6月 、新装版2006年11月、 ) 伝記・評伝• 「マリー・アントワネット」( ()/訳、潮書房、1956年10月、 )• 「マリー・アントワネット」(/、訳、小山書店新社、1957年10月)• 「物語マリー・アントワネット」((窪田般弥)、白水社、1985年1月/白水社〈 1007〉、1991年6月)。 新書判• 「デュバリー伯爵夫人と王妃マリ・アントワネット ロココの落日」(、文化出版局、1985年3月)• 「マリー・アントワネットの生涯」(藤本ひとみ、中央公論社、1998年7月/〈〉、2001年6月)• 「マリー・アントワネット」( ()/櫻井郁恵訳、近代文芸社、1999年6月)• 「王妃マリー・アントワネット」( ()/監修、遠藤ゆかり訳、創元社〈〉、2001年11月)• 「マリー・アントワネットとマリア・テレジア 秘密の往復書簡」(パウル・クリストフ編/訳、岩波書店、2002年9月)• 「マリー・アントワネットとヴェルサイユ-華麗なる宮廷に渦巻く愛と革命のドラマ」(新人物往来社〈別冊歴史読本〉、2003年8月)• 「ロココの花嫁マリー・アントワネット ベルサイユへの旅路」(ケーラー・鹿子木美恵子、叢文社、2005年5月)• 「マリー・アントワネット」 (/訳、ハヤカワ文庫、上・下、2006年12月)• 「マリー・アントワネット38年の生涯 断頭台に散った悲運の王妃」(新人物往来社〈別冊歴史読本〉、2008年1月)• 「王妃マリー・アントワネット 華やかな悲劇のすべて」(、角川書店、2008年6月)• 「マリー・アントワネットとフランスの女たち 甘美なるロココの源流」(堀江宏樹、春日出版、2008年8月)• 「マリー・アントワネットの「首飾り事件」」( ()/リンツビヒラ裕美訳、彩流社、2008年10月)• 「王妃マリー・アントワネット」(新人物往来社編〈ビジュアル選書〉、2010年4月)• 「王妃マリー・アントワネット 美の肖像」(写真、世界文化社、2011年3月)• 「マリー・アントワネット運命の24時間 知られざるフランス革命ヴァレンヌ逃亡」(中野京子、朝日新聞出版、2012年2月)• のち、文藝春秋で文庫化(文藝春秋〈文春文庫〉、2014年8月、)• 「マリー・アントワネット ファッションで世界を変えた女」(、河出書房新社、2014年6月、)• 「マリー・アントワネット フランス革命と対決した王妃」(、中央公論新社〈〉、2014年9月、)• 「マリー・アントワネット 華麗な遺産がかたる王妃の生涯」(エレーヌ・ドラレクス、 ()、ニコラ・ミロヴァノヴィチ/岩澤雅利訳、原書房、2015年3月、) マリー・アントワネットを扱った作品 [ ] 小説 [ ]• 「SOSタイム・パトロール」- 著、朝日ソノラマ、1972年。 小説)• 「王妃マリー・アントワネット」 - 著、朝日新聞社、1979年-1980年。 のち新潮文庫)• 「 ()」 - ()著、、2012年11月13日刊行。 翻訳: *2002年受賞 映画化題『』• 「マリー・アントワネット物語」 - 著、絵、青い鳥文庫 歴史発見!ドラマシリーズ、2010年。 上「夢みる姫君」、中「恋する姫君」、下「戦う姫君」の全3巻。 小説) 映画 [ ]• 『』 - 監督、主演のマリー・アントワネットを主人公にした原作『 ()』の映画化。 『マリー・アントワネット』 - ジャン・ドラノワ監督、主演のフランス映画。 VHS発売題『愛と欲望の果てに/ドレスの下のフランス革命』より「マリー・アントワネット」• が オーストリア女の最後を演じた、フランス映画。 『』 - 監督。 からまでの駐フランス公使時期を描くことで、マリー・アントワネット () が断頭台に送られる前後も描いた 作曲のオペラ《ダルダニュス》の再現や、舞台、会食、謁見なども。 『』 - 監督、主演のマリー・アントワネットを主人公に、80年代の音楽なども混ぜて創作した青春映画。 『』 - 2006年に放映された、フランス・合作のテレビ映画作品。 『』 - 監督、主演、2012年のフランス歴史映画。 革命発生時のマリー・アントワネット()を朗読係の目から描く。 舞台作品 [ ]• ミュージカル『』 - 原作:『王妃マリー・アントワネット』• ミュージカル『』• 舞台劇『首のない王妃・マリーアントアネットのその後』 - 2011年9月舞台、主演。 オペラ『 ()』 - 作曲 ラジオドラマ [ ]• 『フランツ・ルフレルの天使たち』 - 杉崎智介のle Salon テレビ東京InterFM - フランス革命前後のマリー・アントワネットを描いたラジオドラマ。 (声:ReeSya)、脚本・杉崎智介 漫画 [ ]• 『』 - ルイ15世末期からフランス革命前後までのを舞台とした漫画。 『』 - フランス革命初期からロベスピエール処刑までを舞台とした漫画。 他の作品と違い、この作品ではアントワネットの悪行をメインに描いている。 『』 - マリー・アントワネットの親友となった女流画家を主人公に、2人の友情を描いた作品。 『マリー・アントワネット』 - 「週刊」()で連載された漫画。 史上初のによる。 そのため、アントワネットは名もない幽霊となってさ迷う。 『』-国王ルイ十六世の斬首刑の指揮を執った実在の死刑執行人を主人公にしている。 マリー・アントワネットはアンリ・サンソンの妹・マリーの自由な生き様に憧れを抱く。 『』-18世紀ので反政府運動をおこなう平民のギデオン・エーメがルイ16世夫妻と知り合い、交流を深めるが時代の波を止められず、に至る動向が描かれる。 アニメーション [ ]• 『』 - フランス革命の頃のパリが舞台のテレビアニメ。 アントワネットは知らなかったが、彼女の父君ロートリンゲン公フランツ1世がフランスのオペラ座の歌姫との間に設けたシモーヌ・ロランという異母妹がいるという設定。 ゲーム [ ]• 『ワールドチェイン』- レブナントとして登場。 『』- 英雄として登場。 『IdentityV』- 血の女王として登場。 関連項目 [ ] ウィキメディア・コモンズには、 に関連するメディアがあります。 - 兄の孫で、相手は皇帝と、やはりフランスへ嫁いだ。 - の黒幕的存在。 同時代に生きたアントワネットとは対照的な"女王"だった。 - プチ・トリアノンにある"王妃の村里"。 - マリー・アントワネットの亡霊を小トリアノン宮殿で目撃したとされる事件• - 香水• - 同社のマリービスケットは、アントワネットが宮殿で初めて高級ビスケットを作らせ、自分の名マリーと名付けて常に愛用したという伝から創業者が命名。 脚注 [ ] 注釈 [ ]• , p. 126「はみ出し者」- p. 159「元旦のできこと」• [ ]• , p. 157. 作:訳:、『マリー・アントワネット 下 』、1980年改訳第1刷発行、344, 345頁より引用• 『世界大百科事典』(2014年改定新版第6刷)189ページ。 , pp. vi-vii. vii. 247. , pp. 247-248. 248. 89およびp. 135• Jean-Jacques Rousseau. www. afpbb. com. 2020年2月15日閲覧。 , pp. 8-9. , pp. 9-10. , p. , pp. 30-31. , p. , p. , pp. 108-109. , p. 109. 131. , p. 136. , pp. 136-137. 137. 143. 143-144. , p. 150. , pp. 150-151. 151. , p. 152. 161. , pp. 161-162. , p. 162. 172. 173. 174. , p. 175. , pp. 175-176. , p. 176. [ ]• 『ビジュアル百科 世界史1200人 1冊で丸わかり』145頁。 , p. 211. マリー・アントワネット 154cm? 山梨の歴史研究家 肖像画から身長解析『』2010年8月18日29面• , p. 298. , p. 177. , pp. 5, 185-187. , p. 186. 『マリー・テレーズ』恐怖政治の子供、マリー・アントワネットの娘の運命 スーザン・ネーゲル著 2009年 近代文学社 P268• ネーゲル P122,124,171• ネーゲル p106,138,333• 森永長壹郎、同志社大学『新島研究』103号、2012-02-28 外部リンク [ ]• 先代: フランス王妃 1774年 - 1792年 ナバラ王妃 1774年 - 1791年 次代: () (皇后).

次の

マリー・アントワネット

なら トワ

一覧参照• フランスの「」で処刑された。 の娘であり 、「美貌、な反面、、」だったとされており 、乱費や民衆蔑視によって国民から反発されていた。 の宮廷生活を享楽し、その浪費などから「夫人」「オーストリア女」と呼ばれた。 また、アントワネットはさまざまなに常に反対し、青年貴族たち(特に)との情愛に溺れた。 の王妃をめぐる、無実の詐欺事件「」も、結果的に国民の反感へとつながった。 のフランス革命に反対し、宮廷の勢力を形成したアントワネットは、派(やなど)へ接近することさえも拒んだ。 維持を目的として武力干渉を諸外国に要請し 、特に宮廷との秘密交渉を進め、外国軍隊のフランス侵入を期待した。 しかしに失敗 、反革命の中心人物として処刑された。 少女時代のアントーニア 1755年11月2日、との十一女としてで誕生した。 名は、 マリア・アントーニア・ヨーゼファ・ヨハンナ・フォン・ハプスブルク=ロートリンゲン。 やダンス、作曲家のもとで身につけたやなどの演奏を得意とした。 3歳年上のが嫁ぐまでは同じ部屋で養育され、姉妹は非常に仲がよかった。 オーストリア宮廷は非常に家庭的で、幼いころから家族揃って狩りに出かけたり、家族でバレエやオペラを観覧したりした。 また幼いころからバレエやオペラを皇女らが演じている。 当時のオーストリアは、の脅威から伝統的な外交関係を転換してフランスとの同盟関係を深めようとしており()、その一環として母は、自分の娘とフランス国王の孫、ルイ・オーギュスト(のちの)との政略結婚を画策した。 当初はがその候補であったが、ナポリ王と婚約していたすぐ上の姉が1767年、結婚直前に急死したため、翌1768年に急遽マリア・カロリーナがナポリのフェルディナンド4世へ嫁ぐことになった。 そのため、アントーニアがフランスとの政略結婚候補に繰り上がった。 5月、結婚の使節としてが駐仏大使としてフランスに派遣されたが、ルイ・オーギュストの父で王太子、母(王兼フリードリヒ・アウグスト2世の娘)がともに結婚に反対で、交渉ははかばかしくは進まなかった。 にルイ・フェルディナンが死去した。 6月、ようやくルイ15世からマリア・テレジアへ婚約文書が送られた。 このときアントーニアはまだが修得できていなかったため、司教であるヴェルモン神父について本格的に学習を開始することとなった。 、マリア・アントーニアが14歳のとき、王太子となっていたルイとの結婚式がにて挙行され、アントーニアはフランス王太子妃 マリー・アントワネットと呼ばれることとなった。 このとき『マリー・アントワネットの讃歌』が作られ、盛大に祝福された。 宮廷生活 [ ] デュ・バリー夫人との対立 [ ] 1769年の肖像画(画) ルイ15世はこの対立に激怒し、母マリア・テレジアからも対立をやめるよう忠告を受けたアントワネットは、7月に貴婦人たちの集まりでデュ・バリー夫人に声をかけることになった。 しかし、声をかける寸前にアデライード王女が突如アントワネットの前に走り出て「さあ時間でございます!ヴィクトワールの部屋に行って、国王陛下をお待ちしましょう!」と言い放ち、皆が唖然とするなかで、アントワネットを引っ張って退場したと言われている。 2人の対決は1月1日に、新年のあいさつに訪れたデュ・バリー夫人に対し、あらかじめ用意された筋書きどおりに「本日のヴェルサイユは大層な人出ですこと」とアントワネットが声をかけることで表向きは終結した。 その後、アントワネットはアデライード王女らとは距離を置くようになった。 結婚生活 [ ] での農婦姿のアントワネット。 (1791年、セザリーヌ・フランク画を基にした、ルイ=シャルル・ルオット作の版画) 母マリア・テレジアは娘の身を案じ、たびたび手紙を送って戒めていたが、効果はなかった(この往復書簡は現存し、オーストリア国立公文書館に所蔵されている)。 時にパリのでに遊び、またにも狂的に熱中したと言われる。 賭博に関しては子供が生まれたことをきっかけに訪れた心境の変化から止めている。 ただの向こう見ずな浪費家でしかないように語られる反面、自らのために城を建築したりもせず、宮廷内で貧困にある者のためのカンパを募ったり、子供らにおもちゃを我慢させたりもしていた。 母親としてはいい母親であったようで [ ]、もともとのために建てられるも、完成直後に当人が死んで無人だったを与えられてからは、と、そこに家畜用の庭ないし農場を増設し、子供を育てながら家畜を眺める生活を送っていたという。 フランス王妃として [ ] 麦藁帽子にモスリンの「田舎風の装い」の王妃(1783年) 、ルイ16世の即位によりフランス王妃となった。 王妃になったアントワネットは、朝の接見を簡素化させたり、全王族の食事風景を公開することや、王妃に直接物を渡してはならないなどのベルサイユの習慣や儀式を廃止・緩和させた。 しかし、誰が王妃に下着を渡すかでもめたり、廷臣の地位によって便器の形が違ったりすることが一種のステータスであった宮廷内の人々にとっては、アントワネットが彼らが無駄だと知りながらも今まで大切にしてきた特権を奪う形になり、逆に反感を買った。 こうした中で、マリー・アントワネットとの貴族との浮き名が、宮廷ではもっぱらの噂となった。 地味な人物である夫のルイ16世を見下しているところもあったという。 ただしこれは彼女だけではなく大勢の貴族達の間にもそのような傾向は見られたらしい。 一方、彼女は大貴族たちを無視し、彼女の寵に加われなかった貴族たちは、彼女とその寵臣をこぞって非難した。 彼らは宮廷を去ったアデライード王女や宮廷を追われたデュ・バリー夫人の居城にしばしば集まっていた。 ヴェルサイユ以外の場所、特にではアントワネットへの がひどかった [ ]という。 多くは流言飛語の類だったが、結果的にこれらの中傷がパリの民衆の憎悪をかき立てることとなった [ ]。 にはマリー・アントワネットの名を騙った詐欺師集団による、ブルボン王朝末期を象徴するスキャンダルであるが発生する。 このように彼女に関する騒動は絶えなかった。 フランス革命 [ ] 幽閉中の王妃 7月14日、フランスでは王政に対する民衆の不満が爆発し、が勃発した。 (伯爵夫人から昇格)ら、それまでマリー・アントワネットから多大な恩恵を受けていた貴族たちは彼女を見捨てた恰好でしてしまう。 彼女に最後まで誠実だったのは、王妹とだけであった。 国王一家はからパリのに身柄を移されたが、そこでマリー・アントワネットはフェルセンの力を借り、フランスを脱走してオーストリアにいる兄に助けを求めようと計画する。 6月20日、計画は実行に移され、国王一家は庶民に化けてパリを脱出する。 アントワネットも家庭教師に化けた。 フェルセンは疑惑をそらすために国王とマリー・アントワネットは別々に行動することを勧めたが、マリー・アントワネットは家族全員が乗れる広くて豪奢な(そして、足の遅い)ベルリン馬車に乗ることを主張して譲らず、結局ベルリン馬車が用意された。 また馬車には、銀食器、衣装箪笥、食料品などの日用品や、喉がすぐ乾く国王のために酒蔵一つ分のワインが積み込まれた。 このため、もともと足の遅い馬車の進行速度をさらに遅らせてしまい、逃亡計画を大いに狂わせることとなった。 結局、国境近くのヴァレンヌで身元が発覚し、6月25日にパリへ連れ戻される。 このにより、国王一家は親国王派の国民からも見離されてしまう。 、が勃発すると、マリー・アントワネットが敵軍にフランス軍の作戦を漏らしているとの噂が立った。 8月10日、パリ市民と義勇兵はテュイルリー宮殿を襲撃し、マリー・アントワネット、ルイ16世、、、エリザベート王女の国王一家はに幽閉される()。 タンプル塔では、幽閉生活とはいえ家族でチェスを楽しんだり、楽器を演奏したり、子供の勉強を見たりするなど、束の間の家族団らんの時間があった。 10皿以上の夕食、30人のお針子を雇うなど待遇は決して悪くなかった。 革命裁判 [ ] ギロチン台へひきたてられるアントワネット 1月、革命裁判は夫のルイ16世に判決を下し、による斬首刑とした。 7月3日、王位継承者のルイ17世と引き離される。 タンプル塔の階下に移され、ルイ17世は後継人となったの靴屋であるアントワーヌ・シモンをはじめとする革命急進派から虐待を受けた。 マリー・アントワネットは8月2日にに囚人第280号として移送され、その後裁判が行われた。 しかし、アントワネットは提示された罪状についてほぼ無罪を主張し、裁判は予想以上に難航。 業を煮やした裁判所はやアナクサゴラス・ショーメットらにルイ17世の非公開尋問を行い、「母親に性的行為を強要された」とアントワネットが息子に対して無理矢理にを犯した旨を証言させた。 しかし、アントワネットは裁判の傍聴席にいたすべての女性に自身の無実を主張し、 大きな共感を呼んだ [ ]。 処刑前の王妃の様子のスケッチ しかし、この出来事も判決を覆すまでには至らず、に彼女は革命裁判で死刑判決を受け、翌、において夫の後を追ってギロチン送りに処せられることとなった。 処刑の前日、アントワネットはルイ16世の妹エリザベート宛てのを書き残している。 内容は「犯罪者にとって死刑は恥ずべきものだが、無実の罪で断頭台に送られるなら恥ずべきものではない」というものであった。 この遺書は看守からのちに革命の独裁者となるに渡され、ロベスピエールはこれを自室の書類入れに眠らせてしまう。 遺書は革命後に再び発見され、革命下を唯一生き延びた第一子のマリー・テレーズがこの文章を読むのはまで待たなければならなかった。 ギロチン処刑 [ ] 王妃マリー・アントワネットのギロチン処刑 遺書を書き終えた彼女は、朝食についての希望を部屋係から聞かれると「何もいりません。 すべて終わりました」と述べたと言われ、そして白衣に白い帽子を身に着けた。 斬首日当日、マリー・アントワネットは特別な囚人として肥桶の荷車でギロチンへと引き立てられていった。 コンシェルジュリーを出たときから、苦なく死ねるように髪を短く刈り取られ両手を後ろ手に縛られていた。 19世紀スコットランドの歴史家アーチボルド・アリソンの著した『1789年のフランス革命勃発からブルボン王朝復古までのヨーロッパ史』などによれば、その最期の言葉は、の足を踏んでしまった際に発した「お赦しくださいね、ムッシュウ。 わざとではありませんのよ(Pardonnez-moi, monsieur. ) 」だとされている。 通常はギロチンで処刑の際に顔を下に向けるが、マリー・アントワネットのときには顔をわざと上に向け、上から刃が落ちてくるのが見えるようにされたという噂が流れたという説もある。 12時15分、ギロチンが下ろされ刑が執行された。 それまで息を殺していた何万という群衆は「共和国万歳!」と叫び続けたという。 その後、群衆は昼飯の時間帯であったこともあり一斉に退散し、広場は閑散とした。 数名の憲兵がしばらく断頭台を見張っていたが、やがて彼女の遺体は刑吏によって小さな手押し車に、首は手押し車の足に載せられ運び去られた。 死後 [ ] 遺体はまず集団墓地となっていたマドレーヌ墓地 に葬られた。 のちにが到来すると、新しく国王となったは私有地となっていた旧墓地 を地権者から購入し、兄夫婦の遺体の捜索を命じた。 その際、密かな王党派だった地権者が国王と王妃の遺体が埋葬された場所を植木で囲んでいたのが役に立った。 発見されたマリー・アントワネットの亡骸はごく一部であったが、、歴代のフランス国王が眠るに夫のルイ16世とともに改葬された。 研究上の評価 [ ] サン=ドニ大聖堂の慰霊碑 『』において、「的」な王妃ではあるが、「嫁してを軽んじ、でありながらを裏切った」とされている。 ()が開始された理由は、打倒のためではなかった。 革命当初のスローガンは「、、!」であり、時代の雰囲気は、人民と君主が(国法)のもとで協力すれば、世の中をできるというものだった。 一部に流血が発生しても、たちは者だった。 革命開始から数年経過しても、君主主義や国王びいきは、にさえ相変わらず当てはまっていた。 しかし、ルイ十六世もマリー・アントワネットも、好機を活かすことができなかった。 個人性・使命感 [ ] アントワネットは非常に個性が強かった。 当時、君主主義・ので「期待される王妃像」は、君主の後ろにそっと寄り添うような女性だった。 しかし彼女は、最高に「高貴」な・について揺るぎない矜持を持っていたと同時に、「的女性」としての面もあった。 この王妃は、普通のとして生きたいという願望を持っていたが、そのように振る舞うことでさまざまな摩擦が生じ、徐々に評判は悪くなった。 アントワネットは、王妃としてのを果たさなければならぬと強く思ってはいた。 その思いは、王家の威信が危機に瀕するほど、王家の立場が悪くなるほど、一層表現された (生前の彼女はよく、遊び好きで家な王妃だと非難されていたが、そのような単なるであるなら、わざわざ革命と対決するという面倒事をした理由を説明できない )。 彼女は革命から逃避するよりも、対決することを選んだ。 その「健気」な姿が共感を誘いもしたが、それは必ずしも正確な状況判断に基づいてはいなかった。 君主主義・神政主義・反民主主義 [ ] 王妃の二枚の肖像。 1778年(左)、1779年(右) アントワネットが王妃になったのは18歳だったが、いかにも王妃らしい女性だった。 フランス革命前の時代では、国家は王家の「」のようなものであり、君主が好きにしてよかった。 アントワネットは、そのような時代に生まれ育った。 そのため、君主権に「一般の国民」が異議を唱えることに関して、忌まわしいとアントワネットは思っていた。 彼女にとって、国は特権階級の所有物であり、主権システムは「」ではなく「」でなければならず、ほかの人間や革命家が口を差し挟むこと自体が許せなかった。 アントワネットからしてみれば、革命前の君主制が「正しきもの」であり、何としてでも革命を潰して、元の君主制へ回帰しようとした。 一方、アントワネットは過去や君主制を懐古するだけの愚者ではなかった。 実際、革命後に時代を経てが発生したため、その点では彼女の考えは当たっていた。 とはいえ、復古した王政は16年しか保たなかった。 その他 マリー・アントワネットに対するフランス国民の怒りは、むしろ革命が始まってからの方が大きかったと言われている。 フランスの情報を実家であるオーストリア帝室などに流し、革命に対する手立てが取れない夫ルイ16世に代わっての立場を取ったことが裏切り行為ととられた(外敵通牒)。 「パンがなければ…」の発言 [ ] 1788年の肖像画 マリー・アントワネットは、フランス革命前に民衆が貧困と食料難に陥った際、「がなければお菓子を食べればいいじゃない」と発言したと紹介されることがある(ルイ16世の叔母であるの発言とされることもある)。 ブリオッシュは現代ではパンの一種の扱いであるが、かつては原料は小麦粉・塩・水・イーストだけのパン()でなく、バターと卵を使うことからお菓子の一種の扱いをされていたものである。 お菓子ではなくまたはと言ったという変形もある。 なおフランスを代表するイメージであるクロワッサンやコーヒーを飲む習慣は、彼女がオーストリアから嫁いだときにフランスに伝えられたと言われている。 1791年の肖像画 しかし、 これはマリー・アントワネット自身の言葉ではないことが判明している。 の『 』(ごろ執筆)の第6巻に、ワインを飲むためにパンを探したが見つけられないルソーが、家臣からの「農民にはパンがありません」との発言に対して「それならブリオッシュを食べればよい」とさる大公夫人が答えたことを思い出したとあり、この記事が有力な原典のひとつであるといわれている。 庇護者で愛人でもあったヴァラン夫人とルソーが気まずくなり、マブリ家に家庭教師として出向いていた時代(ごろ)のことという。 ()は、に出版した『悪女たち』の中で、執筆の際にはこの発言はすでにマリー・アントワネットのものとして流布していたが、1760年出版のある本に「の公爵夫人」のものとして紹介されている、と書かれている。 実際はこれは彼女を妬んだほかの貴族たちの作り話で、彼女自身は飢饉の際に子供の宮廷費を削って寄付したり、ほかの貴族達から寄付金を集めたりするなど、国民を大事に思うとても心優しい人物であったとされる。 トスカーナは1760年当時、マリー・アントワネットの父であるが所有しており、その後もハプスブルク家に受け継がれたことから、こじつけの理由の一端になったともされる。 現代のフランスにおいて、この発言は今なおマリー・アントワネットを象徴するものだと信じられている。 2016年、保守派議員のジャンフランソワ・コペが「パン・オ・ショコラ」の価格について言い間違えたのを、現代のマリー・アントワネットのようだと報じられた。 人物・言行 [ ] 幼少期 [ ] 幼いマリー・アントワネットの・・・フランスなどのには、ヴェルモンが派遣されてきた。 この33歳の神父はを取得し、図書館でもあった。 神父はアントワネットの信頼を勝ち得たが、の勉強はあまり成果が上がらず、5分以上集中させることもできなかった。 彼女は家庭教師を手懐けて勉強を回避する術を心得ていたため、学科ではなく、楽しいおしゃべりへと仕向けるのだった。 ヴェルモン神父は、駐仏オーストリア大使メルシ・アルジャントへ次のような手紙を宛てている。 娘の美しき日々は終わったと私は思っています。 と語った。 であるルイ15世だけには逆らえなかったアントワネットだが、祖父という「重し」が取れると、これからを取り仕切るのは王妃たる自分であると思うようになり、宮廷をもっと住みよい場所にしようとした。 宮廷では、アントワネット主催で定期的にが開かれるようになった。 からプロのを招いて宮廷で上演することは以前から週2回行われていたが、アントワネットはそれを週3回に増やした。 しかし劇好きな彼女にとっては、これでもまだ不足であり、しかも宮廷ではは上演できなかった。 そのため舞踏会、劇、オペラなどのため頻繁にパリへ出かけた。 夫であるルイ16世が同伴していれば問題はなかったが、夫はこうした遊びを好まず、アントワネットも若いたちと行くことをずっと楽しんでいた。 しかも彼女はお忍びで頻繁にパリへ遊びに行き、帰りはよくになっていたため、人々から相当の顰蹙を買った。 ほかにやにも熱中しており、賭け金が大きかったためをすることもあった。 王妃は「いちばん美しい女性」であらねばならぬという思いがある彼女は、の最先端を行こうともした。 のローズ・ベルタンと相談し、次々に新しいファッションを打ち出した。 パリの上流婦人たちは必死に王妃のファッションを追っていたが、 自然はでいいがするもの ということが、当然の前提とされていた。 トリアノンの一連の工事事業には、・・関係業者に加え、一流のや優秀な職人が大量動員された。 その庭園の注意書きには、「国王の命により」ではなく、「王妃の命により」と書かれることになった。 トリアノンはアントワネットにとって、「の世界」または「を実現させた世界」だった。 そんな「トリアノンの女王」であることは、彼女の評判をさらに下げた。 かかった費用が大きかったうえに、人々は彼女が「ヴェルサイユ宮廷の王妃」であるべきだと思っていたからだった。 首飾り事件 [ ] では、に無罪判決が出たため、世間の疑惑はアントワネットに向けられた。 彼女がロアンを利用し、首飾りを手に入れたのではないかと疑われた。 彼女は激怒して泣きくれ、フランス全体について 財政状態がそんなに悪いことに、どうして私が気づくことができたでしょうか? 私が5万要求すると、10万リーヴル持ってくる、というふうだったのですもの。 と語っている。 こうしたヴェルサイユ宮廷の人々は、従来の世の中がいつまでも続くと思っており、をさらに増大させようとしていた。 ごろ、アントワネットは以前とは異なり国全体について考え、倹約もするようになったが、そのころには「夫人」と呼ばれるようになっていた。 パリでの評判があまりに悪くなっていたため、は不測の事態を恐れ、彼女に「パリにはお出でにならないように」と警告した。 革命中 [ ] パリで武装蜂起した(=・)によってバスティーユ陥落が起こり、ルイ16世はパリとの和解の道を選んだ。 マリー・アントワネットは、夫にもしものことがあったら国会に避難しようと思い、国会で読み上げる声明書を作成し、 この不幸な人々に信頼感を持たせなければなりません。 私たちに対して不信感を持つように、そして、それが持続するように、ずいぶんと工作がなされてきたのですもの! 人々を私たちのほうに引き戻すには、忍耐の限りを尽くし、私たちの意図のさを知らしめるしかありません。 人々は遅かれ早かれ、自分たち自身の幸福のために、唯一の指導者とともにあることがどんなに大切かを知ることでしょう。 「過激派」批判・反民主主義 [ ] アントワネットはパリの人々のほかに、貴族の動向も気にしていた。 早々に亡命し、を拠点とした貴族たちは、武力で革命を潰そうとしていた。 彼らはアントワネットを「者」とみなしていた。 彼らのような家にとって、民主主義とは罵りの言葉である。 アントワネットとしてはやむを得ず革命に協調的態度を取っていたが、反革命家から見れば、彼女は「革命に与している」のだった。 一方アントワネットは、少しでも的な人物であるなら誰でも「」と呼んでいた。 たとえば、王家のために様々な尽力をしたラ・ファイエット侯爵を、彼女は「革命家」として嫌っていた。 確かに、ラ・ファイエットはから影響され、「フランスに自由を打ち立てる」ために革命に参入したが、彼はあくまでも君主制を当然の前提としていた。 ラ・ファイエットは革命前から、「両世界の」として有名だった人物である(「両世界」とは、新世界()と旧世界(ヨーロッパ)のこと)。 革命前にヴェルサイユ宮殿の舞踏会で、アントワネットは彼とダンスしたこともあった。 亡命貴族たちは革命に対して種々の挑発を行っていた。 こうした行動を、アントワネットは非常に迷惑がった。 彼女が亡命貴族たちと連携しているのではないかと革命家から疑われ、パリでの王家の評判が悪くなるからだった。 君主主義・反革命・フェルセン [ ] アントワネットとルイ16世はを頼るほうが現実的だったが、2人はこれまで通りやを一番頼りになる「味方」として信頼し続けた。 ミラボーは、革命に依拠したうえでの君主権強化を考えていたが、フェルセンたちにとって君主権強化とは、革命を否定したうえで成り立つものだった。 バスティーユ陥落以降、アントワネットが「」と信じていた人々は次々に去っていったが、フェルセンは残った。 国王一家がパリへ移されてからは、アントワネットにとってフェルセンの政治的重要性が増し、2人は毎日のように会うようになった。 「」する女にとって、愛しい男の意見に従おうとするのは珍しくない。 アントワネットは彼の政治的意見を最重要視するようになったが、それは君主制にとっていい結果をもたらさなかった。 ヴァレンヌ逃亡事件 [ ] 1791年5月6日付の手紙で、アントワネットはメルシーへこう語った。 の中にあっても、危険を回避することよりもむしろ美しくあることを考える と語っており、これは彼女の本質を突いている。 アントワネットは敗北を認めず、仮に敗れるとしても「美しく敗れる」ことを目指していた。 アントワネットは的教育・を一切受けたことがなかった。 彼女は政治的状況を冷静に分析して方針を出すということはできなかった。 彼女の方針はもっぱら、• 革命に対する・• 君主権は「神聖にして侵すべからず」という から導き出されていた。 王家のためを思って彼女が打ち出した方針は、多くの場合、王家にとってマイナスの結果に終わった。 その最たる例が、このとされている。 アントワネットは、自分たちが成功するだろうという期待感や信条の中で動いていた。 君主が従僕に変装してまでも逃亡しようとしたことに、人々は憤慨した。 「国王は外国のに頼って革命をつぶそうとしている」という噂が、一気に信憑性を増すことになった。 この逃亡事件をきっかけに、君主制廃止の声がフランス全土から沸き起こった。 それまでの君主は、と同じように「自然」であり、不可欠であるはずだった。 しかし、君主がいなくなった5日間、人々は変わらず生活できており、は昇って沈んだ。 君主がいなくなっても国は亡くなりはせず、別に困りはしないということを、君主自らが証明してしまった。 アントワネットは、によってヨーロッパ諸国が力を誇示し、フランス人を震え上がらせることを望んだが、この宣言は火に油を注いだ。 革命が潰されて的やへのが復活することを、一般のフランス人は極度に恐れていた。 ゆえに大多数のフランス人は、何としてでも革命を守ろうとした。 アントワネットは、軍事的に革命を屈服させ、君主権を再確立したいという思いのほかに、自分へ数々の無礼を働いた「不逞の輩」(のや革命家)を処罰したいという思いもあった。 「国王のもとに結集するよきフランス人」によってフランスは平和になる、と彼女は夢想していた。 憲法・立憲君主制 [ ] 君主は神から国を統治する権限を委任されたとする「」は、革命によって否定された。 ヴァレンヌから帰った当初は君主制廃止が議論されていたが、一応混乱は収束され、が成立した。 アントワネットは、近代的なを受け入れるふりをしたが、本当は彼女にとって憲法とは ハープを奏でる王妃(1777年) 上記の通り、ウィーン時代にらから音楽を教わっていた。 また彼女が7歳だった9月、各国での演奏旅行の途上、でのを前にした御前演奏に招かれた(当時6歳)からプロポーズされたという音楽史上よく知られたエピソードも持つ。 後年、ルイ16世のもとに嫁いでからもを愛奏していたという。 タンプル塔へ幽閉された際もハープが持ち込まれた。 歌劇のあり方などをめぐるオペラ改革の折にはグルックを擁護し、彼のオペラのパリ上演の後援もしている。 なおマリー・アントワネットは作曲もし、少なくとも12曲の歌曲が現存している。 彼女の作品の多くは時に焼き捨てられ、ごく一部がに収蔵されているのみである。 このマリー・アントワネットの曲集は日本で世界初の楽譜 も出版された。 入浴・香水 [ ] マリー・アントワネットが幼少期を過ごしたオーストリアには当時からの習慣があった。 母マリア・テレジアも幼いころから彼女に入浴好きになるよう教育している。 入浴の習慣がなかったフランスへ嫁いだあとも彼女は入浴の習慣を続け、幽閉されたタンプル塔にも浴槽が持ち込まれたという記録がある。 入浴をする習慣は、体臭を消すという目的が主だったに大きな影響をもたらした。 マリー・アントワネットは当時のヨーロッパ貴族が愛用していたや動物系香料を混ぜた非常に濃厚な東洋風の香りよりも、やの花やなどの植物系香料から作られる軽やかな香りの現代の香水に近い物を愛用し、これがやがて貴族たちの間でも流行するようになった。 もちろん、このお気に入りの香水もタンプル塔へ持ち込まれている。 家具 [ ] 家具に非常に興味を持っており、世界中から沢山の木材を取り寄せた。 、、、ブラジル産などを使い家具を作らせた。 やも家具の装飾用として使われた。 ドイツ人家具職人を多く抱え、ルイ16世様式()の家具を多く貴族に広めている。 また日本製や中国製の家具やをとても好んでおり、マリア・テレジアからも贈られている。 これらは現在もに展示されている。 ファッション・リーダー [ ] 当時の貴族女性は、相手が驚くようなヘア・スタイルを競っていた。 アントワネットも王妃になってまもなく、 ()という新進ファッション・デザイナーを重用する。 ベルタンのデザインするドレスや髪型、宝石はフランス宮廷だけでなく、スペインやポルトガル、ロシアの上流階級の女性たちにも流行し、アントワネットはヨーロッパのファッションリーダーとなっていった。 何より女性たちの視線を集めたのがその髪型で、当初は顔の1. 5倍の高さだった盛り髪スタイルは徐々にエスカレートし、飾りも草木を着けた「庭ヘアー」や船の模型を載せた「船盛りヘアー」など、とにかく革新的なスタイルで周囲の目を惹きつけた。 即位後最初の数年間を過ぎてからは、簡素なデザインのものを好むようになった。 このころベルタンは、アントワネットのために袖や長い裳裾を取り払ったをデザインしている。 容姿 [ ] 身長は154cm。 裁縫師のエロフ夫人の日誌によると、ウエストは58〜59cm、バストが109cmで、当時のモードに合った体型であった。 一方で、30歳のときにはかなりふくよかな体型だったようで、その豊満さを覆い隠すようなギリシャ風の装いを考案している。 エロフ婦人が計ったところ、コルセットで58cm(23インチ)までウェストは締め付けるものの、バストは112cm(44インチ)を超えていたという。 顔は瓜実顔で額が広すぎ、鼻は少し鷲鼻気味で、顎がぼってりし、「」と言われる特徴があった。 しかし、輝くばかりの真珠のような白い肌と、眩い金髪を持つ魅力的な容姿であった。 教育係であったド・ヴェルモン神父は、「もっと整った美しさの容姿を見つけ出すことはできるが、もっとこころよい容姿を見つけ出すことはできない」、王妃の小姓であったド・ティリー男爵は、「美しくはないが、すべての性格の人々をとらえる眼をしている」「肌はすばらしく、肩と頸もすばらしかった。 これほど美しい腕や手は、その後二度と見たことがない」、王妃の御用画家であったは、「顔つきは整っていなかったが、肌は輝かんばかりで、すきとおって一点の曇りもなかった。 思い通りの効果を出す絵の具が私にはなかった」と述べている。 身のこなしの優雅さでも知られ、前述のド・ティリー男爵は「彼女ほど典雅なお辞儀をする人はいなかった」、ルブラン夫人は「フランス中で一番りっぱに歩く婦人だった」と述べている。 子女 [ ] マリー・アントワネットとマリー・テレーズ王女、ルイ王太子(ルイ17世)• - アングレーム公爵夫人 1778年12月19日 - 1851年10月19日• - ( - )• - 、王太子、ルイ17世 1785年3月27日 - 1795年6月8日• ( - ) 4人の子供のうち3人は夭逝。 長女マリー・テレーズは結婚して夫と添い遂げ、子女の中で唯一、天寿を全うした。 マリー・テレーズは結婚13年目のに懐妊したが、流産。 その後は妊娠することがなく子どもを残していないため、直系の子孫はいない。 女官・侍女 [ ]• 侍女長ないし女官長。 1775年、が女官の新たな筆頭職に就いたのと入れ替わりで辞職。 1794年6月27日、夫ともどもパリで刑に処された。 1786年に部屋つき第一侍女に就任(第一侍女は数人いた。 なお、侍女長ないし女官長だったノワイユ伯爵夫人、さらに侍女総監ないし女官総監だったランバル公妃やらとは別の役職)。 父は外交官ないし高級官僚。 帝政下に開いた学校にての子女を教育したことを理由に、はから絶縁される。 その後マリー・アントワネットの回想録を出版した。 カンパン夫人と同じ部屋つき第一侍女。 ()将軍は再婚相手。 1789年の勃発以降、スイス方面に亡命を余儀なくされたポリニャック公爵夫人に代わり、国王子女の養育係に任命された。 では国王一家と同行し逮捕。 常に王室に忠実であり、帝政時代初期まで数回投獄されている。 トゥルゼール公爵夫人の娘。 母とともにテュイルリー宮殿で国王一家に付き従っていた。 結婚後はベアルン伯爵夫人。 マリー・テレーズとは生涯友情関係にあり 、復古王政期にマリー・テレーズの侍女になった。 参考文献 [ ]• (アリソン 1855) Sir Archibald Alison 1855. Parent• 安達正勝『マリー・アントワネット:フランス革命と対決した王妃』中央公論新社、2014年。 (佐伯 2010) 『マリー・アントワネット曲集 王妃様の作った愛の歌』中央アート出版社、2010年6月。 (藤本 2006) 『王妃マリー・アントワネット 青春の光と影』、2006年10月。 (藤本 2010) 藤本ひとみ『マリー・アントワネット物語 中 恋する姫君』〈講談社 284-2 歴史発見! ドラマシリーズ〉、2010年11月。 (Erickson 1991) 1991-03. To the Scaffold: The Life of Marie Antoinette. 関連書籍 [ ] 日本語で発行された書籍のみを記す。 による評伝• 「マリー・アントアネット」(/、共訳、青磁社、上・下、1948年11月、 )• のち、で刊行(三笠書房〈世界文學選書〉、上・下、1950年-1951年、 )• のち、で文庫化(岩波書店〈〉、上・中・下、1952年-1953年、 )• のち改版、(『マリー・アントワネット』、秋山英夫改訳版、岩波文庫、上・下、1980年6月、 )• 「マリー・アントワネット 或る月並な女人の肖像」(ツヴァイク/訳、角川書店〈角川文庫〉、上・下、1958年-1959年、 )• のち、角川文庫で再版(『マリー・アントワネット』ツヴァイク/山下肇訳、角川書店〈角川文庫 名著コレクション〉、上・下、1984年、ISBN 、 )• 新訳版「マリー・アントワネット」(シュテファン・ツヴァイク/訳、角川書店〈角川文庫〉、上・下、2007年1月)• 「マリー・アントワネット」(、訳、『ツヴァイク全集 11・12』、、全2巻、1962年、 )• のち、新装版(『ツヴァイク全集 13・14』、みすず書房、全2巻、1974年、 )• のち、改訂版(『ツヴァイク伝記文学コレクション 3・4』、みすず書房、全2巻、1998年9月、 )• 「マリー・アントワネット」(訳、河出書房新社〈第3集 世界文学全集 第15巻 ツワイク〉、1965年5月、 )• のち、河出文庫で改訂再刊(河出書房新社〈河出文庫〉、上・下、1989年6月 、新装版2006年11月、 ) 伝記・評伝• 「マリー・アントワネット」( ()/訳、潮書房、1956年10月、 )• 「マリー・アントワネット」(/、訳、小山書店新社、1957年10月)• 「物語マリー・アントワネット」((窪田般弥)、白水社、1985年1月/白水社〈 1007〉、1991年6月)。 新書判• 「デュバリー伯爵夫人と王妃マリ・アントワネット ロココの落日」(、文化出版局、1985年3月)• 「マリー・アントワネットの生涯」(藤本ひとみ、中央公論社、1998年7月/〈〉、2001年6月)• 「マリー・アントワネット」( ()/櫻井郁恵訳、近代文芸社、1999年6月)• 「王妃マリー・アントワネット」( ()/監修、遠藤ゆかり訳、創元社〈〉、2001年11月)• 「マリー・アントワネットとマリア・テレジア 秘密の往復書簡」(パウル・クリストフ編/訳、岩波書店、2002年9月)• 「マリー・アントワネットとヴェルサイユ-華麗なる宮廷に渦巻く愛と革命のドラマ」(新人物往来社〈別冊歴史読本〉、2003年8月)• 「ロココの花嫁マリー・アントワネット ベルサイユへの旅路」(ケーラー・鹿子木美恵子、叢文社、2005年5月)• 「マリー・アントワネット」 (/訳、ハヤカワ文庫、上・下、2006年12月)• 「マリー・アントワネット38年の生涯 断頭台に散った悲運の王妃」(新人物往来社〈別冊歴史読本〉、2008年1月)• 「王妃マリー・アントワネット 華やかな悲劇のすべて」(、角川書店、2008年6月)• 「マリー・アントワネットとフランスの女たち 甘美なるロココの源流」(堀江宏樹、春日出版、2008年8月)• 「マリー・アントワネットの「首飾り事件」」( ()/リンツビヒラ裕美訳、彩流社、2008年10月)• 「王妃マリー・アントワネット」(新人物往来社編〈ビジュアル選書〉、2010年4月)• 「王妃マリー・アントワネット 美の肖像」(写真、世界文化社、2011年3月)• 「マリー・アントワネット運命の24時間 知られざるフランス革命ヴァレンヌ逃亡」(中野京子、朝日新聞出版、2012年2月)• のち、文藝春秋で文庫化(文藝春秋〈文春文庫〉、2014年8月、)• 「マリー・アントワネット ファッションで世界を変えた女」(、河出書房新社、2014年6月、)• 「マリー・アントワネット フランス革命と対決した王妃」(、中央公論新社〈〉、2014年9月、)• 「マリー・アントワネット 華麗な遺産がかたる王妃の生涯」(エレーヌ・ドラレクス、 ()、ニコラ・ミロヴァノヴィチ/岩澤雅利訳、原書房、2015年3月、) マリー・アントワネットを扱った作品 [ ] 小説 [ ]• 「SOSタイム・パトロール」- 著、朝日ソノラマ、1972年。 小説)• 「王妃マリー・アントワネット」 - 著、朝日新聞社、1979年-1980年。 のち新潮文庫)• 「 ()」 - ()著、、2012年11月13日刊行。 翻訳: *2002年受賞 映画化題『』• 「マリー・アントワネット物語」 - 著、絵、青い鳥文庫 歴史発見!ドラマシリーズ、2010年。 上「夢みる姫君」、中「恋する姫君」、下「戦う姫君」の全3巻。 小説) 映画 [ ]• 『』 - 監督、主演のマリー・アントワネットを主人公にした原作『 ()』の映画化。 『マリー・アントワネット』 - ジャン・ドラノワ監督、主演のフランス映画。 VHS発売題『愛と欲望の果てに/ドレスの下のフランス革命』より「マリー・アントワネット」• が オーストリア女の最後を演じた、フランス映画。 『』 - 監督。 からまでの駐フランス公使時期を描くことで、マリー・アントワネット () が断頭台に送られる前後も描いた 作曲のオペラ《ダルダニュス》の再現や、舞台、会食、謁見なども。 『』 - 監督、主演のマリー・アントワネットを主人公に、80年代の音楽なども混ぜて創作した青春映画。 『』 - 2006年に放映された、フランス・合作のテレビ映画作品。 『』 - 監督、主演、2012年のフランス歴史映画。 革命発生時のマリー・アントワネット()を朗読係の目から描く。 舞台作品 [ ]• ミュージカル『』 - 原作:『王妃マリー・アントワネット』• ミュージカル『』• 舞台劇『首のない王妃・マリーアントアネットのその後』 - 2011年9月舞台、主演。 オペラ『 ()』 - 作曲 ラジオドラマ [ ]• 『フランツ・ルフレルの天使たち』 - 杉崎智介のle Salon テレビ東京InterFM - フランス革命前後のマリー・アントワネットを描いたラジオドラマ。 (声:ReeSya)、脚本・杉崎智介 漫画 [ ]• 『』 - ルイ15世末期からフランス革命前後までのを舞台とした漫画。 『』 - フランス革命初期からロベスピエール処刑までを舞台とした漫画。 他の作品と違い、この作品ではアントワネットの悪行をメインに描いている。 『』 - マリー・アントワネットの親友となった女流画家を主人公に、2人の友情を描いた作品。 『マリー・アントワネット』 - 「週刊」()で連載された漫画。 史上初のによる。 そのため、アントワネットは名もない幽霊となってさ迷う。 『』-国王ルイ十六世の斬首刑の指揮を執った実在の死刑執行人を主人公にしている。 マリー・アントワネットはアンリ・サンソンの妹・マリーの自由な生き様に憧れを抱く。 『』-18世紀ので反政府運動をおこなう平民のギデオン・エーメがルイ16世夫妻と知り合い、交流を深めるが時代の波を止められず、に至る動向が描かれる。 アニメーション [ ]• 『』 - フランス革命の頃のパリが舞台のテレビアニメ。 アントワネットは知らなかったが、彼女の父君ロートリンゲン公フランツ1世がフランスのオペラ座の歌姫との間に設けたシモーヌ・ロランという異母妹がいるという設定。 ゲーム [ ]• 『ワールドチェイン』- レブナントとして登場。 『』- 英雄として登場。 『IdentityV』- 血の女王として登場。 関連項目 [ ] ウィキメディア・コモンズには、 に関連するメディアがあります。 - 兄の孫で、相手は皇帝と、やはりフランスへ嫁いだ。 - の黒幕的存在。 同時代に生きたアントワネットとは対照的な"女王"だった。 - プチ・トリアノンにある"王妃の村里"。 - マリー・アントワネットの亡霊を小トリアノン宮殿で目撃したとされる事件• - 香水• - 同社のマリービスケットは、アントワネットが宮殿で初めて高級ビスケットを作らせ、自分の名マリーと名付けて常に愛用したという伝から創業者が命名。 脚注 [ ] 注釈 [ ]• , p. 126「はみ出し者」- p. 159「元旦のできこと」• [ ]• , p. 157. 作:訳:、『マリー・アントワネット 下 』、1980年改訳第1刷発行、344, 345頁より引用• 『世界大百科事典』(2014年改定新版第6刷)189ページ。 , pp. vi-vii. vii. 247. , pp. 247-248. 248. 89およびp. 135• Jean-Jacques Rousseau. www. afpbb. com. 2020年2月15日閲覧。 , pp. 8-9. , pp. 9-10. , p. , pp. 30-31. , p. , p. , pp. 108-109. , p. 109. 131. , p. 136. , pp. 136-137. 137. 143. 143-144. , p. 150. , pp. 150-151. 151. , p. 152. 161. , pp. 161-162. , p. 162. 172. 173. 174. , p. 175. , pp. 175-176. , p. 176. [ ]• 『ビジュアル百科 世界史1200人 1冊で丸わかり』145頁。 , p. 211. マリー・アントワネット 154cm? 山梨の歴史研究家 肖像画から身長解析『』2010年8月18日29面• , p. 298. , p. 177. , pp. 5, 185-187. , p. 186. 『マリー・テレーズ』恐怖政治の子供、マリー・アントワネットの娘の運命 スーザン・ネーゲル著 2009年 近代文学社 P268• ネーゲル P122,124,171• ネーゲル p106,138,333• 森永長壹郎、同志社大学『新島研究』103号、2012-02-28 外部リンク [ ]• 先代: フランス王妃 1774年 - 1792年 ナバラ王妃 1774年 - 1791年 次代: () (皇后).

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