美輪 明宏 自宅。 美輪明宏は子供の頃に長崎で原爆に被爆していた!

美輪明宏の養子 実は渡辺えりの「ご寵愛」受けた俳優だった|NEWSポストセブン

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「当時は日本だけじゃなくいろんな軍で慰安婦制度を活用していた。 弾丸が飛び交う中で命をかけて走っているとき、どこかで休息させてあげようと思ったら、慰安婦制度が必要なのはこれは誰だってわかる……」 橋下大阪市長の「従軍慰安婦」に関する発言が、世界に大きな波紋を投げかけている。 戦時下においては必要だったとされる「慰安婦制度」。 そもそも「従軍慰安婦」とは、1932年の満州事変から1945年の敗戦までの期間に、戦地・占領地で日本軍の監督下の置かれた「慰安所」に集められ、軍人軍属の性交の相手をさせられた未成年も含む女性たちのことである。 当時10歳の美輪明宏は長崎の自宅で原爆にあった。 その当時の思い出を、You Tubeであげられた「美輪明宏が語る原爆体験」で、こう語っている。 「……家の前に立っていたら、ボロボロの矢絣の着物を来た女の人が来るんです。 火傷で腫れがあった唇で『水をください……』と言っているのがわかった。 お水を入れたお椀をその方に渡そうしたら、持てないっていうんです。 そしたら、手がないんです。 ぐじゃぐじゃになっていて。 そうか……と思って、その方の口に水を注いであげました。 ……私はまだ子どもなのに(涙)手を合わせて拝むんですその方が『ありがとうございます……』って。 そして、しばらくして眠ったと思ったら、その方は死んでいるんです。 水をあげたら死んじゃうんです。 そしたら、次から次へと来るんです。 男の人やおじいさんやらいろんな人が。 私1人ではさばき切れないんで、お手伝いさんと一緒に、一生懸命に水を飲ませてあげました。 末期の水ですよね。 本当に悲惨というかね……」 美輪自身も被爆し、髪の毛が抜けたり悪性の貧血で悩まされたりする後遺症があった。 当時の強烈な原爆体験が、戦争反対を訴えるきっかけになったのではなかろうか。 貧しく苦しい生活のなかでも、お互いを思いやる母と子の絆を描いた戦後の名曲である。 日雇い労働者である母の職業差別を受け、いじめにあう主人公が、戦後の復興期の貧しい少年時代を経て高度成長期に立派なエンジニアへと成長。 「苦労、苦労」で死んでいった母への思いを唄ったものだ。 この唄の背景には、美輪自身の体験がある。 美輪明宏は、17歳の時シャンソン歌手デビューし、『メケメケ』などのヒット曲を飛ばした。 「神武以来の美少年」「シスターボーイ」などと絶賛され、中性的な魅力ときらびやかな衣装で一斉を風靡し、国民的歌手となる。 しかしある時、美輪の運命を変える出来ごとが。 地方巡業で、炭鉱の町でコンサートを開いた美輪。 当時、炭鉱不況が始まったころで、お客は来ないだろうと思っていたが会場は満員。 炭じんが染みこんで、手や顔が真っ黒けの炭鉱労働者の人たちばかりだった。 安い賃金をつぎ込んで歌を聞きに来てくれた人々。 美輪は衝撃を受け、この人たちのための歌を作ろうと決意した。 当時の日本は流行歌ばかり。 アメリカにあるようなワークソング(労働者のための歌)はなかった。 だから、自分がその先駆者になろうと思ったのだった。 そして、美輪明宏の代表作ともいうべき『ヨイトマケの唄』が誕生。 当時は、原爆の後遺症の吐血や貧血に悩まされながら、必死に作詞作曲を行っていたという。 『ヨイトマケの唄』の趣旨に合うように、美輪は派手な衣装を脱ぎ捨て、素顔にワイシャツ一枚で歌った。 1965年にリリースされた『ヨイトマケの唄』は大反響を受けて40万枚の大ヒット。 だが、「差別用語が入っている」という理由で放送禁止曲に指定される。 「歌詞を変えろ」と言われても、「歌詞を変えれば、親子の絆を表現することができない」と美輪は主張。 その後、仕事を干されることになったという。 どんなに批判を浴びても美輪は決して信念を曲げなかったのである。 そう、弱者のために権力と闘う歌手なのである。

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病み上がりの美輪明宏がゲストで、自宅(?)からなのか、映像出演である。2人のMC(船越と美保)が長いのはなぜか <ごごナマ ゲスト 美輪明宏>(NHK総合): J

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美輪明宏さんの特徴としては、 芸能人有名人に、 熱狂的なファンが数多くいること。 2016年に再結成を果たし、 初の紅白歌合戦にも出場された、 イエモンこと「THE YELLOW MONKEY」の 吉井和哉さんや、 かつて薬局マツモトキヨシの CMでブレイク、 ドラマ相棒の演技も光った 及川光博さん、 さらには中居正広さん司会の「金スマ」出演、 その際に中居正広さんの 心のこもった差し入れのお話などを ブログで報告している、 華道家の 假屋崎省吾さんといった、 やはりご自身も 独特の美意識を持っている有名人から、 多くの支持を得ています。 美輪明宏ファンの芸能人はたくさん! 特に華道家の假屋崎省吾さんは 美輪明宏さんご本人から 公認を受けている「おっかけ」といいますから、 美輪明宏さんに対する思いは 相当なのでしょうね。 今回はそんな美輪明宏さんの 「三島由紀夫との交友関係・若い頃・自宅・住所」についてまとめてみたいと思います。 美輪明宏の若い頃は? さて、美輪明宏さんの若い頃といいますと、 その写真を見たことがある方は 誰もが思うことでしょうが、 本当にお美しいんです! その美貌に加え、歌唱力、 そして知性とユーモアにあふれる会話で、 さまざまな文化人を夢中にさせていました。 具体的には、 江戸川乱歩、寺山修司といった作家や、 画家でアートデザイナーの横尾忠則さん、 作詞家のなかにし礼さんといった方です。 美輪明宏の本名は、丸山明宏?丸山臣吾? ちなみに美輪明宏さん、 若い頃は 丸山明宏という芸名でで、 現在は本名もこの丸山明宏なのですが、 生まれた時のお名前は丸山臣吾さんといいます。 美輪明宏という名前に改名したのは、 ある日さっとこの名前が ひらめいたからだといいます。 いかにも美輪明宏さんらしい エピソードですね。 美輪明宏の若い頃の親友・三島由紀夫との関係 さて、お話したように 芸能人有名人からもファンの多い 美輪明宏さんですが、 美輪明宏さんの若い頃の交友関係の中で、 いまも話題にのぼるものといえば、 作家・三島由紀夫との関係です。 年齢は三島由紀夫のほうが年上ですが、 関係は美輪明宏さんが リードするものだったようです。 美輪明宏の若い頃の親友・三島由紀夫とは? 三島由紀夫は、 祖父、父、そして三島由紀夫本人と、 三代続く東大卒、 そして三代続くエリート官僚の 家系に生まれたのですが、 その三島由紀夫が 自分と同じ美意識、 そして文学や芸術の知識を持ちながら、 世間のしがらみから自由に生きている 美輪明宏さんの存在に、 心惹かれたのでした。 要するに、美輪明宏さんと 三島由紀夫の関係とは、 三島由紀夫から見たら、 文字通り自分を自由にしてくれる 存在だったのだと思います。 美輪明宏と三島由紀夫の、若い頃のエピソード 美輪明宏さんが 三島由紀夫の世界を広げるアシストをした、 こんな話があります。 ある日、 美輪明宏さんが三島由紀夫に対して、 「あなた世間のしがらみとか 常識とか気にしなくていいと言ったら、 何をしたいの?」 と聞いたところ、 「ジーパンを履きたい 」と言ったとか! いやあ三島由紀夫、可愛いですね! それで美輪明宏さんと三島由紀夫、二人でアメ横まで、 ジーンズを買いに行ったそうです。 想像すると、シュールすぎます! 美輪明宏と、三島由紀夫のジーパンエピソードの後日談 このエピソードには続きがありまして、 晴れて三島由紀夫がジーンズを入手して 履きだしたところ、 美輪明宏さんは、 三島由紀夫の母親の倭文重(ふみえ)から 「うちの公威(きみたけ・三島由紀夫の本名)が ジーパンなんて履くようになったのは、あなたのせいだ」と 言われたそうです(笑) 美輪明宏の若い頃の、日本の価値観 ちなみに戦前の価値観では、 ジーパンと並んで 人前で襟のないシャツを着ることもまた、 下品だと思われていたそうですね。 かつてホリエモンこと 堀江貴文さんがプロ野球の近鉄バファローズの買収、 さらには新規球団参加に乗り出した際に Tシャツで記者会見をして 当時の読売新聞の 渡辺恒雄会長から反発をうけたのも、 そういう理由なのでしょうね。 美輪明宏は、若い頃は不遇の時代も… さて、美輪明宏さんは若い頃、 芸能界から干されたと言っていいような 時期があります。 それまで上品な世界ばかりを歌う シャンソンの歌詞に反発し、 庶民的な言葉での訳詞や 「ヨイトマケの歌」をはじめとする オリジナルソングが、 下品でシャンソンのイメージを 壊すものであると批判され、 芸能界から干されてしまったのです。 またその時期は、 信頼していた人に騙されたりと、 美輪明宏さんはいろいろ苦労をされたようです。 美輪明宏と三島由紀夫の素敵な関係 そんな若い頃の美輪明宏さんでしたが、 お金に困っても、三島由紀夫には 一切生活上の苦労を話さなかったといいます。 数年して そんな事実があったことを知った 三島由紀夫は、 そんなに困ってたのなら、 言ってくれればよかったのにと 美輪明宏さんに言ったそうなのですが、 当の美輪明宏さんは、 その時に三島由紀夫に対して お金を借りたりして 対等の関係を壊したくなかったから 言わなかったのだと告白、 それを聞いた三島由紀夫は、 僕のことをそんな風に思ってくれてありがとうと、 美輪明宏さんに姿勢を正して一礼したそうです。 二人の関係が伝わってくる、 なんとも素敵なエピソードですね。 美輪明宏と三島由紀夫、二人の天才 ちなみにその三島由紀夫に対して、 美輪明宏さんが どうして自分とこんなに仲良く 関係をもってくれるのかと 聞いたことがあったそうなのですが、 それに対して三島由紀夫は、 「普通人間は、ある程度親しくなると 抱きあげた猫が肩まで上がってきて、 顔を舐めまわしてくるように、 だらしない付き合いになるものだが、 君にはそういうところがなかったから」 と答えたそうです。 いかにも天才作家・ 三島由紀夫といった表現ですが、 美輪明宏さんと三島由紀夫という、 二つの才能の関係がわかる言葉です。 美輪明宏の自宅は世田谷区駒沢の豪邸 さて、美輪明宏さんの自宅は 世田谷区駒沢ではないかと言われていますが、 その理由は幾多にも及ぶ 美輪明宏さんの目撃情報! 普通芸能人の方は プライベートで街を歩く時は マスクやサングラスといったかたちで 変装をして行動をするものですが、 美輪明宏さんはその性格や思想信条、 もっといえば 美輪明宏さんの美意識から考えるに、 そのようなことはしないはずですので、 テレビや雑誌に出ている 美輪明宏さんそのものの格好で 歩いているものだと思われます。 美輪明宏さんが街を歩いていたら、 絶対に見入ってしまいますよね! 美輪明宏の世田谷区駒沢の自宅豪邸のインテリアは? ちなみにこの世田谷区駒沢の 美輪明宏さんの自宅にある家具は、 すべて美輪明宏さんがお芝居で使う 大道具としても使われます。 つまり、美輪明宏さんは、 毎日を演劇の舞台セットの中で生活をしている、 ということになりますね! 今回は、美輪明宏さんの 「三島由紀夫との関係・若い頃・自宅・住所」について書いてみました。

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美輪明宏の生い立ちは?兄弟や母親、父親は?実家、長崎の家族は?

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略歴 [ ] 長崎時代(1935年5月15日- 1951年) [ ] ()、において、丸山作一・ヌメの間に、5人兄弟の次男として誕生する。 美輪の実家は、長崎市内の「」と呼称された街であり、「世界」という名前のを経営していた。 12月、やとの戦争体制に入った中で父親は「敵性文化を商売にする事は時局にそぐわぬ」と言われて、やむ無くカフェを閉店せざるを得なくなり、金融業に転業する。 美輪明宏(10歳)は、時、長崎市本石灰町(爆心地から約4キロ)の自宅におり無事だったが 、その後、近くので待機した後に、6日後の終戦の日に爆心地近くにあった生母の実家へ祖父母を1人で探しに行き、惨状を目の当たりにする。 (20年)、雲1つない快晴の日、長崎県長崎市本石灰町にある自宅において、美輪明宏(10歳)は窓際で夏休みの宿題にの「」の絵を製作していた。 自身が製作した絵の仕上がりを確認するため、2、3歩後方に下がった時、が長崎県に投下された。 何千ものを焚いたような白い光だった。 美輪明宏は、雷光かと思い、天気の良い日なのにと不思議に思う。 しかし、直後には、世界が息を止めたような深い静寂に包まれるのを実感したと言う。 その直後に、激しい爆発音が聞こえ、家がぐらぐら揺れて傾いた。 お手伝いに促され2人で布団をかぶるとが鳴りだし、その後爆風で机の下に飛ばされていた兄を起こし3人で防空壕に向かうが、景色が一変していることを知る。 隣接する劇場は天井が崩れ落ち、のの宿舎は形を残していなかった。 原爆により、父の貸付先が相次いで破産・他界したため、返金を受けられなくなった美輪一家は貧乏生活を余儀なくされた。 その前に美輪の父の後妻が他界しており、父の後々妻も失踪する等の不幸に見舞われ、美輪は幼い異母弟達と辛い日々を送ることとなった。 終戦後、自身が鑑賞した映画に出演していたのに衝撃を受け、程無くして、声楽とピアノのレッスンを受け始める。 海星中学では、同期にがいた。 歌手 丸山明宏 [ ] やの様な歌手、コンサート歌手を夢見て、の春、美輪明宏(15歳)は、国立音楽高等学校(現・)進学するため上京する。 しかし家業の倒産をきっかけに高校を中退、進駐軍のキャンプ廻りをしながらジャズを歌唱する。 2015年時点で「芸歴64年、1951年 昭和26年 に進駐軍のキャンプ廻りでジャズを歌いギャラを頂いたことがプロとしての始まり」と本人が語っている。 翌、美輪明宏(17歳)は、新宿駅で寝泊りしていたが、7丁目にある喫茶「」(~)の美少年募集の張り紙広告をきっかけに、シャンソン喫茶「銀巴里」との専属契約を交わし、デビューを飾る。 国籍・年齢・性別不詳として売り出す。 次第に人気を博し、、、、、、、、等、文化人の支持を得る。 、シャンソン「」を日本語でし、艶麗な容貌で、シャンソンを歌い上げ、一躍人気を博す。 時代の衣装を洋装に取り入れ、地のワイシャツ等を身に纏いファッションと 、三島由紀夫が「天上界の美」と絶賛した美貌で、から「以来の美少年」、「シスターボーイ」と評され一世を風靡する。 同じ、1957年製作の映画『』(監督。 )に歌手として出演している。 「メケメケ」以来のブームは、1年程で沈静化。 そんな逆風の中、作詞・作曲活動を開始。 今もって美輪の主要なレパートリーとなっている「うす紫」、「金色の星」、「ふるさとの空の下」等の音楽作品は、この頃、既に作詞・作曲していた。 しかし、その活動は当時の聴衆からも歌謡界からも理解を得られず、レコード化すらできなかった。 美輪曰く「人様の情けに生かされた」不遇の時代が続くと共に、吐血等に悩まされ始める事になる。 しかし、には、らの助力により日本初となる全作品、自らの作品によるリサイタルを開催。 翌、には、「」を初めてステージで披露する。 、前年の内にレコード化された「ヨイトマケの唄」 「ふるさとの空の下で」とのカップリング が注目され、人気が再燃する。 俳優 丸山明宏 [ ] 、寺山修司の実験室・旗揚げ公演で、寺山が美輪のために書き下ろした舞台作品『青森県のせむし男』や『』に主演する。 、自叙伝『紫の履歴書』を発表する。 (初版は大光社より) 原作、三島由紀夫脚本の舞台作品『』に主演して以降も、『』、『』、原作『』といった舞台や『』、『』等の映画・テレビドラマでの主演を続ける。 また、からは、「」を担当し、芸能人が担当する人生相談としては、異例の25年という長期に渡り続いた。 美輪明宏への改名と体調の悪化 [ ] 、読経中に『美輪』の字が浮かび、神が与えてくれた名前だと思い、姓名判断を調べると、完全無欠な画数だったため、丸山明宏から美輪明宏に改名。 「女優引退宣言」(女性役を演じなくなるので、当時こう表現された)を行い、歌手活動に専念する。 銀巴里やでのライヴや全国各地でのリサイタルを精力的に行い、『』(1975年)等のアルバムも多数発表した。 また、男性役では、映画( 原作『』)やドラマ(『さくらの唄』)に出演している。 『』(原作 )で舞台活動を再開するが、幼い頃よりやに中心で食生活を過ごしてきたことによる影響が出始め、この頃よりになり、年々悪化。 俳優、歌手活動に支障を来たし始め、トークショー等のテレビ出演を控える様になる。 しかし、その後も演劇では、にの生涯を描いた、自作自演となる『』を初演したり、のTVアニメ「」では夜の女王役を演じている。 には、舞台『』や『青森県のせむし男』を再演。 更にには、『双頭の鷲』を再演するが、体調は悪化する一方で、の『』(原作・演出 )を最後にの『黒蜥蜴』再演まで舞台から遠ざかった。 この頃の通院時に医師からは「3ヶ月の命かもしれない」と告げられたこともあったという(放送「・」より)。 歌手としては、にパリで、には、パリ、、でリサイタルを開催し、『』、『』を始め多数の新聞・雑誌に紹介・絶賛された。 また、からはでのロングリサイタルが開始され、それ以外にも、全国各地でのリサイタル公演を開催し、舞台に立てなくなった後も切れ目なく活動を続けた。 、の公演『』を演出。 この時、既に『黒蜥蜴』再演の企画は持ち上がっていたが、体調面から断念している。 また、この年、40年近く唄い続けて来た銀座のシャンソン喫茶店・銀巴里が閉店となり、美輪は最後の日の「さよならコンサート」で自ら作詞作曲した『いとしの銀巴里』を涙ながらに歌い上げた。 この模様を各メディアは挙って大きく報じ、また翌の映画『黒蜥蜴』のニューヨークでのヒットなども重なり、美輪が曰く、この頃から、「メケメケ、ヨイトマケ、黒蜥蜴に続く四回目のブーム」の時期が訪れ、テレビやCM等への出演が増えた。 黒蜥蜴再演 [ ] 、1985年の『大典礼』以来、舞台に立てない程に悪化していた持病が、前年に奇跡的に完治した事で、24年ぶりに待望の『黒蜥蜴』を再演。 前売りのチケットは発売日当日に完売する等、世間から脚光を浴びた。 また、この再演時には、自ら主演、演出、美術、衣装、選曲を担当。 以降、上演される舞台は、1994年、1996年の『』以外、全て美輪自身の演出となった。 自身が、大道具、小道具、美術・衣装・選曲を務める事が多く、脚本・振り付けを担当した作品(美輪明宏版「椿姫」)や原作まで担当した作品 「愛の讃歌」)もある。 には、海外から演出、照明、音楽等、当代一流のスタッフを招き、舞台『』を再演。 この形式は、の再演時にも継承されるが、美輪曰く「演出があんまりひどい時は、私が手直しした」との事で、結局、の再演では、自ら演出する事となる。 キャストも美少女を含め、全員男性で演じる本来の形式に戻された。 、三島由紀夫が30年来熱望していた美輪演出・主演による『より、・』を上演。 三島を歓喜させた当初のプラン通り、葵上では、舞台デザインにとを取り入れ、音楽は、武満徹の『』を取り入れ、99歳の老婆から19歳の美女への早替り(卒塔婆小町)など趣向を凝らした舞台となる。 また、その年の秋には『愛の讃歌』を17年ぶりに再演した。 声優としても活動 [ ] 、13年ぶりの『』再演で優秀賞を受賞。 宮崎駿監督アニメーション映画『』では、山犬神、モロの君の役でを務め、助演男優賞を受賞する。 「黙れ小僧! 」は特に印象的な台詞として多くの人に記憶された。 には、『葵上・卒塔婆小町』を再演、秋には原作「美輪明宏版 」を30年ぶりに再演する。 この年2本の芝居を上演したのを最後に、翌年の『双頭の鷲』以降、舞台作品は年1本の上演ペースとなる。 一方、美輪が舞台活動を再開した1993年以降、芝居のスケジュールとの調整が必要となり公演がない年(1996、1997年)もあったでのロングリサイタルは1998年以降「音楽会」と名を改め、毎年行われる様になる。 以来、美輪のステージは春先の芝居、秋の音楽会で定着した。 、銀巴里閉店後、唯一のライヴ活動の場となっていた渋谷ジァン・ジァンが閉場となり、2000年3月29日が美輪のジァンジァンにおけるラストライヴとなった(閉場は2000年4月25日)。 そして、エディット・ピアフの生涯を描いた舞台『エディットピアフ物語愛の讃歌』を上演。 また、この年、アルバム『』が再発売される。 が系『』内で『』を歌ったのもこの年である。 に芸能生活50周年を迎える。 この年には、三島由紀夫の三十三回忌に際して、『近代能楽集より 葵上・卒塔婆小町』を再演している。 (相手役は) にジブリアニメ映画ので「荒れ地の魔女」の声を演じる。 には、テレビ番組『』が始まり、「愛の伝道師」として出演している。 、美輪明宏原作、演出、美術、衣装、主演、舞台『エディットピアフ物語愛の讃歌』を再演。 、美輪明宏携帯サイト「美輪明宏 麗人だより」を開設。 、 劇場版ポケモン第12弾 でを演じる。 、三島由紀夫原作の舞台『近代能楽集より 葵上・卒塔婆小町』を再演。 (相手役は木村彰吾、) 、『』に初出場を果たし、「」を歌った。 77歳での『』初出場は史上最年長で、デビュー60年での初出場も史上最長記録である。 歴代出場者全体の年齢から見ても、の『』に満78歳で出場したに次ぐ歴代2位。 発売の「」で、約8年前に自身の個人事務所「オフィス・ミワ」社長としている事が報じられた。 美輪の17歳年下で、文学座の研究生だった17歳の頃、美輪の付き人が辞めることとなり、知人の紹介で付き人となって以来、身の回りの世話をするようになった。 その後は『青年座』や『青俳』などに在籍、NHK大河ドラマ『』にも出演経験があり、声優としても活動していた(芸名:藤堂貴也)。 「オフィス・ミワ」前社長が高齢の為退任した後、社長に就任し、名実ともに美輪を支えてきた。 『』に出場し、藤山一郎の持つ最年長出場に並んだ。 同じく2013年、フランス人の映画監督による美輪明宏のドキュメンタリー映画が作られ、DVDにもなった。 ナレーションはフランスの産業大臣の夫人が担当した。 4月から、美輪明宏主演の舞台『愛の賛歌〜エディット・ピアフ物語』がリバイバルで全国公演される。 前回の公演ではこの舞台を見たが感激して楽屋を訪れ、「私は今まで映画や舞台をたくさん見てきたが、この芝居が一番感動した」と言って号泣したという。 同じく、この舞台を見たも感激して美輪の楽屋を訪れ、「僕、今まで自分がこんなに泣けるとは思わなかったですよ」と言い号泣したという。 同年『』に出場し、史上最年長出場記録を打ち立てた。 、『』に出場を果たし(翌年落選し、これが最後の出場となっている)、自身の持つ史上最年長を更新すると同時に史上初の80代での出場となる。 なお、当時80歳での美輪の出場は正規枠では最年長出場記録を保持しているものの、正規出場者以外ではの『』に当時83歳で出演したがいる。 2018年、東京都に顕彰される。 脳梗塞からの回復 [ ] 、軽いを発症し入院。 舞台公演が中止になる。 その後入院から約2か月後の2019年11月17日、TBSラジオ「美輪明宏薔薇色の日曜日」にて仕事復帰。 同年12月17日に東京・西新宿で行われた「明治きのこの山・たけのこの里国民総選挙2019」の結果発表会に出席し公の場での復帰を果たす。 人物 [ ]• 昔、ラジオで人生相談の番組を長年担当していた(詳細は略歴「」の節を参照)。 敬愛するのサイン入りの古いレコードを持っている。 これはフランス人の映画監督からお土産としてもらったものである。 中性的な風貌から、『』の第16話の準備稿ではのイメージキャストとして丸山 明宏(美輪の本名)が挙げられている。 2011年3月28日、『』に出演した際には、「いろんな病気をして来て肺を患った時、30代で一気に白髪になった」旨の発言をしている。 その後長らく髪の毛を黒く染めていたが、1998年頃よりに基づき黄色く染めロング・ヘアーにしている。 「好きな食べ物は? 」との質問に、「人の悩みを食べて、涙を飲んで生きてるの」と答えた。 長年、『法華経』を信仰し、朗子会館で人生相談のボランティアをしていた。 かつてはを愛車にしていた。 恋愛相談などにも乗っているが、本人は独身を貫いている。 交友関係 [ ]• 長崎時代の同級生に(第28代)が居り、両者は西岡が亡くなるまで親交が深かった。 美輪は、西岡の荒々しい性格と行動力に一目置いていた事や、西岡の純粋さを好んでいた事を語っている。 銀巴里時代から数多くの作家(三島由紀夫、、、、、、、等)や画家(、、等)、演劇人(、、、、、、、、、、など)、作曲家(など)、歌手(、等)と交流を深める。 『』初代編集長のとは、同誌創刊時(1971年)に美輪がを訪れて祝福する等の間柄であった。 その時、美輪はロールスロイスを運転して、ボロ家の第二書房に買い行き、その数年後には、豪華な門灯を贈っている。 伊藤は1970年代半ばに美輪が新宿5丁目のQフラットビルに開いたクラブ「巴里」の客であり、巴里に触発された伊藤は同じビルの向かいに「談話室 祭」を開店させている。 2005年4月には『』復刊号で美輪と伊藤は対談している。 スピリチュアルカウンセラーに信頼を置き、とも親交関係を築いており、金銭目的で占い師、霊能者を自称する輩が殆どである中で「数少ない本物」であると認めている。 の監督作品『』を絶賛しており、奥山が松竹を追放された後に、設立した会社「チームオクヤマ」の名付け親になるなど応援し続けている。 華道家のは美輪明宏のおっかけ(本人公認)を自認しており、美輪から「美を紡ぎ出す手を持つ人」と評されたことを誇りにしている。 交友関係にあった作曲家・の最後の門下生であったの名付け親でもある(本名の丸山明宏より苗字と名前のそれぞれ一文字ずつとったもの)。 1994年に刊行された前党首の(当時はまだ国会議員ではない)との対談では、意気投合し、美輪の側から食事に誘い、交流続けていくことで一致して終わっている。 2013年の福島のツイッター上の投稿では、新幹線の車内で美輪が福島に声をかけ、社会情勢について意見交換をしたエピソードが紹介されている。 その他 [ ]• 発行の月刊誌「」で、2007年9月号から2008年1月号までノンフィクション作家・が、美輪明宏の評伝を連載した。 タイトルは『オーラの素顔』。 美輪の少年時代から始まり、との哀恋、三島由紀夫や寺山修司との芸術的交流、江原啓之との出会い、『』の裏話まで、美輪の人生が精緻な取材で描かれており、単行本化されている。 のインタビューで、楯の会の青年が楽屋にきたことがあり、いきなり「申し訳ありませんっ」と土下座したという。 美輪が「どうなすったの?」って聞いたら、「三島先生や川端(康成)先生のような方がオカマごときのファンなのはけしからんから、いいかげんなものだったらメチャクチャにしてやろうと思った」という。 でも彼は、「コンサートは泣けて仕方なかった。 天才たちがファンになったのは分かりました。 申し訳ない」と言われたという。 三島由紀夫は、「君の欠点は、僕に惚れないことだ」と言っており、映画『』では、美輪とのキスシーンがあるとの事で台詞のない役を引き受けたほどであった。 ある時、美輪のコンサートにバラの花束を直に差し入れに来たが、ただならぬ様子があったものの問いただすことが出来なかったという。 そして、が起きて、これが今生の別れとなってしまったという。 2015年に成立したに反対の姿勢を表明しており、さらに「もに投票した人もまず自分が戦地に行きなさい」と述べている。 作品 [ ] シングル [ ]• ヨイトマケの唄 (1966年、SKK-167)• 丸山明宏デラックス (1969年、SKD-10)• おんなと愛を唄う(SKD-20)• (1973年)• (1975年)(2000年)(2006年)(2011年)• (2013年12月) 編集アルバム [ ]• 華麗な世界(1973年、SKA-60)• 美輪明宏の世界 (1987年4月21日)(1994年)(2006年11月)• 愛の贈り物(1991年8月21日)(2006年11月)• 全曲集(1996年9月21日)• 全曲集(1999年9月3日、KICX-2523• 全曲集(2000年9月6日、KICX-2616)• 全曲集(2001年9月5日、KICX-2711• 全曲集(2002年9月2日、KICX-2812)• 全曲集(2003年9月3日、KICX-2912)• 全曲集(2004年9月1日 KICX-3212)• ベストセレクション シャンソン・アルバム(2004年12月1日)• 全曲集 (2005年9月7日、KICX-3312)• テイチク・ワークス 1970-1971(2006年4月26日)• 全曲集(2006年9月6日、KICX-3412)• 全曲集(2007年9月5日、KICX-3512)• 全曲集 2009(2008年09月10日)• ベストセレクション(2008年11月26日)• 全曲集 2010(2009年9月9日)• ベストセレクション2010(2010年4月7日)• 全曲集 2011(2010年10月6日)• 全曲集 2012(2011年9月)• 全曲集 2013(2012年10月)• 全曲集 2014(2013年9月)• 全曲集 2015(2014年9月) 企画アルバム [ ]• 懐かしの欧州ヒット曲集 シャンソンとタンゴ(1973年、)• ヨーロッパ・ヒットをうたう(1992年10月21日)• 昭和の名歌を唄う(1995年9月6日)• 日本の心を歌う(1999年8月27日)• 《愛》を歌う(2001年2月21日)• 古賀メロディーを唄う(2002年10月22日)• 日本の詩を唄う(2006年11月8日)• メケ・メケ (2014年2月、)• 愛の讃歌 エディット・ピアフに寄せて(2014年7月) ライブアルバム [ ]• 魅惑のコンサート(1977年、)• 老女優は去り行く 美輪明宏のすべて(1978年、)• ジァン・ジァンライブ'94(1995年2月20日) ボックス・セット [ ]• 美輪明宏全集(2002年3月6日)• 美輪明宏大全集(2015年12月) オムニバス [ ]• シャンソン・ド・銀巴里(1970年4月5日)(2012年6月)• 魅惑のシャンソン(1997年12月)• 魅惑のムード・ヴォーカル 癒しの歌声コレクション(2010年2月) 映像作品 [ ]• 人生愛と美の法則1(2006年3月24日)• 人生愛と美の法則2(2006年3月24日)• 2001年版 (2011年5月)• 雪之丞変化 DVD-BOX (2013年6月)• 青森県のせむし男(1967年、1983年)• (1967年、1983年、1994年、1996年、2001年、2009年)• (1968年、1969年、1993年、1994年、1997年、2003年、2005年、2008年、2013年、2015年)• (1968年、1984年、1997年、1999年、2007年、2008年)• (1968年、1969年、1998年、2004年、2012年)• マタ・ハリ(1969年)• 枯葉の寝床(1978年)• 愛の讃歌 物語(1979年、1981年、1996年、2000年、2006年、2011年、2014年)• (1979年)• (1980年)• の大典礼(1985年)• より 葵上・卒塔婆小町(1996年、1998年、2002年、2010年) 映画 [ ]• (1957年) - シャンソン歌手役• 1957年 - KRテレビ(現在のTBS)に出演中の歌手役• 1958年 - 歌手役(オープニングで同名主題歌を歌う)• 東京野郎と女ども(1958年) - 舶来のシスターボーイ役• (1958年) - ジャン役• 愛情の都(1958年) - 歌手役(銀座のクラブの出演歌手として歌う)• 体当りすれすれ娘(1959年) - 佐伯登役• 新婚列車(1959年) - 君島登役• 未婚(1959年) - 四人組仙吉役• 激闘(1959年) - 香港ジョー役• 夜の配役(1959年) - 吉岡役• 愛の濃淡(1959年) - ロロ役• 続べらんめえ芸者(1960年) - 小柳明役• 銀座退屈娘(1960年) - 大沢ジロー役• 風流滑稽譚 (1961年) - 洗濯屋の小僧役• (1964年) - 本人役• (1968年 監督) - 黒蜥蜴(緑川夫人)役• (1969年、松竹、深作欣二監督) - 藤尾竜子役• (1970年、、監督) - 竜神のお松• (1971年、、監督) - 地獄のマヤ役• (1976年、、監督) - シャンソン歌手役• (2005年、松竹/オフィス北野、監督) - 大物歌手(本人)役• ドキュメンタリー映画『追憶』(2016年) - ナレーション テレビドラマ [ ]• (1959年10月2日 - 1961年4月7日、)• 第27話「野良猫天国」(1960年11月6日、)• 「銀座の山賊」(1962年11月10日、NHK)• プロ(1963年8月24日、)• 「恋すれば物語」(1964年12月18日、NHK)• (1965年9月4日 - 25日、)• (1976年、TBS)• (1979年) - 火見王役• (2005年) - 役• 「」(2014年、NHK) - ナレーション バラエティ他 [ ]• (、1968年) - 司会(金曜日)• (、1991年4月20日 - 1992年3月21日)• (日本テレビ)• TBS• (日本テレビ)• (テレビ朝日系、2005年 - 2009年)• 「人生 愛と美の法則」() - 2005年2月 - 3月の月曜日の講義• ・私のこだわり人物伝「」(NHK、2006年4月)• (日本テレビ、2006年10月 - 2007年3月)• 「ビートたけしが斬る! 大河スペシャル 昭和の真相 1989年! 『つづく。 で終る物語』」(2007年12月26日、テレビ朝日系)• 「ブラボー! ニッポン 美輪明宏からの遺言…」(2008年1月8日 TBS)• (NHK) - サポーター(月1回程度出演)• (日本テレビ系) - 初期準レギュラー)• (2010年10月 - 、テレビ東京系)• (2011年6月11日 - 、、)• (2011年7月30日、NHK Eテレ)• (2012年10月20日 - 1月26日、TBS)• 真夏の夜の美輪明宏スペシャル(2013年8月21日、NHK)• SONGS 美輪明宏(2013年9月21日、NHK)• BSプレミアム「100年インタビュー美輪明宏」(2013年12月30日 NHK BS)• 奇跡の絶景 霊峰富士(2014年1月12日、BS-TBS) - ナレーション• (2014年10月 - 、フジテレビ) - 主宰者• (2016年4月 - 、NHK Eテレ) - みわサンの声 NHK紅白歌合戦出場歴 [ ] 2016年・2017年は未出場。 対戦相手の歌手名の 内の数字は、その歌手との対戦回数、備考のトリ等の次にある はトリ等を務めた回数を表す。 劇場アニメ [ ]• (1983年、、監督) - フロイ役• (1997年、、監督) - モロの君役• (2004年、スタジオジブリ、宮崎駿監督) - 荒地の魔女役• (2009年、、監督) - 役 テレビアニメ [ ]• (1980年1月9日 - 7月9日、フジテレビ) - 夜の女王役 ラジオ [ ]• 「」( - 2020年3月29日 、)• 「」( - 、TBSラジオ) CM [ ]• オリーブバージンオイル• Creap• Switch! 紅茶花伝• (2006年)• フランスパン工房(2007年)このCM中の衣裳は自前である。 リクルート• - ナレーター• ウィザーディング・ワールド・オブ・ハリー・ポッター• - 「2017年度全国キャンペーン 『苦情殺到!桃太郎』」 2017年7月— 携帯公式サイト [ ]• 「」(2007年11月26日 - ) 音声ガイド [ ]• 東京国立博物館「伊勢神宮と神々の美術展」(2009年) 著書 [ ] 単著 [ ]• 丸山明宏『紫の履歴書』大光社 1968 のち角川文庫、水書坊• 『新・紫の履歴書』面白半分 1976• 『獅子の座蒲団 霊感・人生相談』 1983年 のち「獅子の座ぶとん」文庫• 『霊の実在』明日香出版社 1984 現代辻説法• 『生きるって簡単』 1987年• 『悩まなくてよい本 霊能的雑業家の開運アドバイス』佼成出版社 ダルマブックス 1987• 『ほほえみの首飾り 南無の会辻説法』水書坊 1989• 『光をあなたに:美輪明宏の心麗相談』 1995年• 『人生ノート』 1998年• 『天声美語』 2000年• 『強く生きるために』 2000年• 『ああ正負の法則』パルコ出版 2002年• 『愛の話 幸福の話』 2002年• 『地獄を極楽にする方法』 2003年• 『霊ナァンテコワクナイヨー』パルコ出版 2004年• 『人生学校虎の巻』 2005年• 『戦争と平和 愛のメッセージ』 2005年• 『美輪明宏のおしゃれ大図鑑』集英社 2005年• 『世なおしトークあれこれ』パルコ出版 2007年• 『続・人生学校虎の巻』家の光協会 2008年• 『乙女の教室』集英社 2008年• 『愛と美の法則』パルコ出版 2009年• 『花言葉』パルコ出版 2010年• 『悩みも苦しみもメッタ斬り!』家の光協会 2011年• 『人生はドンマイドンマイ』家の光協会 2013年• 『ぴんぽんぱんふたり話』共著 集英社 2003年4月• 『人生讃歌 愉しく自由に美しく、又のびやかに』共著 2004年5月• 『憲法を変えて戦争に行こうという世の中にしないための18人の発言』 ・・・・・・・・・・・・・・・・共著 岩波書店() 2005年• 『日本人なら「気品」を身につけなさい ボクらの時代』瀬戸内寂聴・共著 扶桑社 2008• 『美輪明宏が語る寺山修司 私のこだわり人物伝』寺山修司共著 角川文庫 2010年6月• 『祈り ナガサキノート2』 朝日新聞長崎総局編著 朝日新聞社文庫 2010年7月• 夏休みの宿題である絵を描いていて、その仕上がりを見ようと二、三歩後ろへ下がった途端、ぴかっと光った。 偶然、後ろに下がったため、一命を取り留めたと語っている。 2005年のNHKの番組『』に被爆者の一人として、インタビューイとして、出演した時には、1945年8月15日に、実家に戻ると水を求めてきた瀕死の被爆者らが押し寄せて、一家総出で水を与えたと証言している。 とりわけ女性の被爆者に水を与えたところ、幼い自分を拝んでそのまま逝去する女性の姿に言及すると、涙ぐみ、「まさに地獄ですよ」と、語った。 朝日新聞の『祈り ナガサキノート2』では「あの地獄のような光景が私の歌づくりの原点になっています」と語り(これは同書の帯に使用された)、赤子を抱えた母親の死体を見て、「無償の愛」(美輪の作品のテーマのひとつである)を知った。 「衣装革命」と称し、着飾ったが、この前衛的な美輪の活動も、保守的であった世間からは冷遇され、「丸山明宏を芸能界から追放せよ」と言った内容の批判記事が、全国紙に掲載されたり、見知らぬ人から、石やビール瓶の蓋を投げ付けられた事もあった• 『黒蜥蜴』の再演は93年以来、、、と続けられている。 11月に発売された桑田のベストアルバム『』には11月30日 - 12月2日に国立大ホールで行われたライブ「桑田佳祐が選ぶ20世紀ベストソング」からのライヴテイクによる「ヨイトマケの唄」が収録されている。 これ以降もやを始めとして、多くのアーティストによる優れたカバーが発表されている。 長く放送自粛となっていた民放各局(NHKでは自粛対象ではなかった)で放送される機会も増え、ついに美輪自身も放送の『・祝400回スペシャル』内でこの曲の誕生秘話を語り、フルコーラスを歌っている。 ただし、の『』に出場したのメンバーであるのプロフィール上の年齢は100027歳(当時)であり、プロフィール上の年齢も考慮した場合はそちらが史上最年長になる。 出典 [ ]• 美輪明宏著『紫の履歴書』• 「戦後70年あの夏9」美輪明宏• 「第二章 天上界の麗人 美輪明宏」(, pp. 55-94)• 美輪の著書『霊ナァンテコワクナイヨー』(2004年)にて、記述• [ ]• nikkansports. com 2013年1月24日. 2013年3月12日閲覧。 東京都公式ウェブサイト 報道発表資料 2018年08月31日 生活文化局• ORICON NEWS oricon ME. 2019年9月11日. 2019年9月12日閲覧。 DVD「ウルトラQ」第4巻ブックレットより• 福岡放送制作 日本テレビ系「新型テレビ」。 [ ] 毎日新聞 2011年11月6日閲覧• 月刊『薔薇族』編集長 伊藤文學の談話室より。 伊藤文學のひとりごと。 2007年12月28日• 福島瑞穂ほか『出すぎた杭は打たれない 福島瑞穂対談集(シリーズ女の決断)』NTT出版, 1994年• 福島みずほツイッター、2013年11月16日23:54投稿• ,LITERA,2015年7月14日• 映画ナタリー. 2016年9月20日. 2016年9月20日閲覧。 ORICON STYLE 2016年1月27日. 2016年1月27日閲覧。 最年長初出場歌手 当時77歳• 最年長出場歌手記録更新 当時79歳、昨年まではが一位• 金曜ロードSHOW!. 2016年6月18日閲覧。 金曜ロードSHOW!. 2016年6月6日閲覧。 TBSラジオ 2020年3月29日. 2020年3月29日閲覧。 参考文献 [ ]• 『が愛した美女たち』 書房、2016年10月。 美輪明宏 『紫の履歴書』 水書房、1992年11月。 - 原版(大光社)は1968年9月• 美輪明宏 『愛の話 幸福の話』 、2002年6月。 外部リンク [ ]•

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