宮沢 賢治 春 と 修羅。 宮沢賢治 「春と修羅」(『心象スケッチ 春と修羅』より)

岩手)賢治自筆署名の「春と修羅」初版を寄贈:朝日新聞デジタル

宮沢 賢治 春 と 修羅

童話作家であり詩人の宮沢賢治は、1896年(明治29年)8月、岩手県花巻に生を受けました。 24歳のとき、在家日蓮宗系国粋主義の新興宗教団体「国柱会」に入会、それ以降、浄土真宗を信仰する実家の父と対立し、25歳の時には国柱会に身を寄せるために家出をしています。 国柱会を立ち上げた田中智學(たなかちがく 1861~1939年 は、あの太平洋戦争のスローガン「八紘一宇」という言葉を広めた人物であり(ただし田中本人は反戦主義者でした)、また宮沢賢治のもっとも有名な文章(詩ではなくメモ帳の覚書き)は戦時下、滅私奉公・清貧推奨の鏡として政治的に利用されたことなどもあり、戦後の宮沢賢治の評価は右翼・軍国主義の加担者のイメージがつきまとい、決して肯定的ではなく、ファンも多かったわけではありませんでした。 1980年代、経済成長の鈍化や環境破壊の反省から「自分探し」ブームやエコロジーブームが起こり、それにマッチする要素を持つ賢治作品が見直され、文庫全集刊行やアニメなどの影響もあり、賢治フィーバーがまき起こります。 現在の宮沢賢治人気はその頃に定着したものです。 そして、宮沢賢治の作品や思想から、国柱会の国粋主義や日蓮宗への帰依や影響を極力縮小し、場合によっては消し去ろうという恣意的操作が多くの信者により企てられました。 「雨ニモマケズ」の最後には、「南無無辺行菩薩/南無上行菩薩/南無多宝如来/南無妙法蓮華経/南無釈迦牟尼仏/南無浄行菩薩/南無安立行菩薩」と書かれており、死の間際の賢治が日蓮宗、国柱会への帰依信仰を堅持していたにもかかわらず、それを無視した論争や評価が横行し、「賢治は国柱会の活動や信仰には熱心ではなかった」という嘘や、信者の中には賢治を親鸞の人物像や思想と重ねることすら行われています。 賢治は親鸞の浄土真宗を信仰する父との葛藤で生涯苦しんだことを思えば、こうした歪曲は賢治への冒涜ですらあります。 賢治文学、賢治思想の根源を賢治本人が真っ向から書いたものは、「農民芸術概論綱要」を除けば「春と修羅 序」しかありません。 そして宮沢賢治はそこで素直に読みさえすれば決してわかりにくくは書いてはいないのです。 では、読み解いてみましょう。 「わたくしという現象」とは賢治のことではない わたくしといふ現象は 仮定された有機交流電燈の ひとつの青い照明です (あらゆる透明な幽霊の複合体) 風景やみんなといっしょに せはしくせはしく明滅しながら いかにもたしかにともりつづける 因果交流電燈の ひとつの青い照明です (ひかりはたもち その電燈はうしなはれ) 「序」の中でも特に難解とされる冒頭部分です。 多くの人がまずつまづくのはまさに最初の言葉「わたくし」です。 詩集の序文で「わたくし」と来れば、誰もがそれは宮沢賢治本人の自己紹介だと思うでしょう。 そして、「わたしなんてものは不明確についたり消えたりしてる電燈みたいに頼りないものです。 あなたもですよ」と言うような意味に取られがち。 しかし賢治はここでそんな曖昧で情緒的なことを書いているわけではありません。 「わたくしは」でも「わたくしという存在は」でも「わたくしなんてものは」でもないことにご注目ください。 「わたくしという現象は」と書いているのです。 気取ってるわけでも奇をてらってるわけでもありません。 つまり語られているのは「自我・自意識」とは何であり、どう出来上がっているか、です。 賢治は自我・自意識を「(あらゆる透明な幽霊の複合体)」であるとまず規定します。 「透明な幽霊」とは何か。 これは「青い照明」に対比しています。 自意識という明かりがつくためには何が必要か。 電球であれ星であれ、照明、つまり可視光線は、目に見えない 透明な 光子・光量子 幽霊 が集合して(複合体)発現するものです。 目に見えない透明な数限りない光の粒が集まって星のように輝きだすように、数限りない透明な幽霊が集まってはじめて「わたくしという現象」となってともる、と言っているのです。 透明な幽霊はさまざまな「わたくし」の一部に「せはしくせはしく」移り変わり、一方「わたくし」はともって(生まれ)消えて(死ぬ)終わるのです。 これを「(ひかりはたもち その電燈はうしなはれ)」とあらわしています。 生物の細胞は、ミトコンドリアレベルで全ての体験を記憶している、という説があります。 とすると、分子、原子レベルでも、その体験した記憶はその者の死後も原子の中に損なわれず蓄積され、そして別の「わたくし」の一部になる、ということがあるともいえます。 「透明な幽霊」として。 難解な序文の冒頭で語られている意味はそういうことです。 そして「有機交流」「因果交流」という言葉にあらわれる「交流」とは、今までの解釈でありがちの「いのちは関係しながら成り立っている」とか「人はさまざまなものから影響を受け、また与えつつ存在している」と言った一般論ではなく、ずばり「食」と「呼吸」、そして因果とは食い食われる関係で生じた食われる側の感情や痛みを食う側が自分のこととして受け取ることに他なりませんでした。 読み解く鍵は「食」と「呼吸」である 宮沢賢治は極端な菜食主義で、とある集いで刺身が出たときには「殺された魚が『こいつはせっかく死んだ俺の体を不味そうに食べている』と見つめている」と感じるほどの、「食べる」ことへの困難を抱えた人でした。 これは逆に言うと、「食べる」ということが賢治にとってのっぴきならない重大な関心事であり、倫理観や思想の根源であることを示しています。 「序」の中にも、 これらについて人や銀河や修羅や海胆(うに)は 宇宙塵を食べ また空気や塩水を呼吸しながら と食べること、呼吸する描写が出てきます。 生きているものの生理現象はもちろん、銀河や霊的存在 修羅 もまた、何かを食べ呼吸している。 だからこそ、すべてのものは、かつてあれでもありこれでもあり、将来またあらゆるすべてに「なる」のです。 それが (すべてがわたくしの中のみんなであるやうに みんなおのおののなかのすべてなのですから) というくだりにつながっています。 それは美辞麗句や教訓ではなく、この世の存在のありようを見れば、食べられ、食べる関係があることこそ自分が全てで全てが自分、という道理を自明のものとし、それを法華経はといている、賢治は感じていたのです。 「雨ニモマケズ」にも「一日ニ玄米四合ト味噌ト少シノ野菜ヲタベ」と、食べ物のことが出てきます。 賢治にとって「食べる」ことは楽しみでも快楽でもなく、この世界、生物たちとの「交流」であり、また同時にその「交流」は、賢治に食べられる生き物への義理を作り、その義理に対して報いるよう自らを強いる契約でした。 しかし、というかそれでありながら賢治が直面するのは、殺されるもの、食われるもの悲しみ、愛するものと別れるときの「私」の悲しみがどこから来るのか、ということでした。 最愛の妹トシの死は、賢治の最高傑作「銀河鉄道の夜」をはじめ、童話・詩の数々の傑作を生み出すことになりますが、トシの死をうたった「永訣の朝」でもひとわんの「あめゆき」という食べ物(雪)をトシに持ち帰ることが詩の主旋律となっています。 「よだかの星」では、他の鳥からいじめられてダメージを受けていたヨダカは、夜口を空けて虫を食べていたときにふいに悲しみがこみ上げてきて、星の世界へと駆け上っていきます。 「(ああ、かぶとむしや、たくさんの羽虫が、毎晩僕に殺される。 そしてそのただ一つの僕がこんどは鷹に殺される。 それがこんなにつらいのだ。 「よだかの星」より」一方、「なめとこ山の熊」では、殺し殺される関係である淵沢小十郎と熊たちとは互いに悲しみを分かち合う不思議な共感と慈愛の関係として描かれます。 「雁の童子」では、天人たちは猟師に殺されるために雁に転生します。 「銀河鉄道の夜」では、鷺取りに捕まる鷺は眠るように捕まえられ、自ら美味しい砂糖菓子へと変化します。 と、このように見ていくと、「殺し殺される関係が悲しい、つらい」と感じることはその者が修羅道にあるからである、と賢治が考えていただろうと推測できます。 より解脱し、菩薩、如来へと高まっていけば、殺されることなどなんでもない、喜びであるという境地を賢治が希求していたことは明らかです。 やや高踏的で思弁的な前半部と比べ、後半では賢治らしいのびのびしたポエジーで、人間の歴史認識と科学の進歩が、そう思われているような普遍的客観性に基づくものではないことを説きます。 これについては「春と修羅 序 後半を読み解く」にて、詳しく叙述したいと思います。 参照 日本の詩歌 宮沢賢治 中央公論社.

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「春と修羅・序」について

宮沢 賢治 春 と 修羅

宮沢賢治の作品は、詩集や童話を含めて数多く残されています。 しかし彼は早逝で、ほぼ全ての作品はその死後に出版されているのです。 生前出版されたのは、唯一2冊だけ。 童話では『注文の多い料理店』。 そして初の詩集となる本作、『春と修羅』なのです。 作者の原点ともいえる詩集で、後の宮沢作品や、それにともなう彼自身の心の内面が描かれており、宮沢賢治という人物の目次のような作品といえるかもしれません。 本作は世に出たとはいえ、ほぼ自費出版のようなもの。 世間からはまったく評価されておらず、わずかしか売れませんでした。 しかし、その豊かな個性が気づかれ始めてからは、宮沢賢治作品は時代も国境すらも越えて、人々を魅了し続けているのです。 あまりにも独特な世界観と描写に時代が追いつけなかったという意見があるとおり、本作の言葉の数々は、かなり異質で難解。 詩というのは絵画と似ていて、見る人や読む人によって受け取り方が違います。 そこから読み取れるものが1つではないのが特徴です。 そんな本作が象徴的に使われているのが、映画『シン・ゴジラ』の一場面。 この映画の冒頭、東京湾を漂流するボートが出てきます。 中は無人。 残されていたのはテーブルに置かれた『春と修羅』と、折鶴が1つだけです。 このボートに乗っていたのはゴジラ誕生に深く関わりのある人物ですが、揃えられた靴から、本人は自ら命を絶ったものと思われます。 意味深で不可思議なこの場面は、ゴジラがなぜ誕生したかという謎解きのヒントとして提示されているのです。 しかし、具体的な解釈は明確にされていません。 どんなふうに読み取るかを、観る側にまかせているような設定なのです。 『春と修羅』の「序」で、賢治は自分の存在を1つの現象として捉えています。 ゴジラの存在が何かの現象とするならば、そこに共通点を見出すこともできるかもしれません。 『春と修羅』のなかには、24歳で亡くなった妹「トシ」の死を悼む詩がいくつか見られます。 この「永訣の朝」もその1つで、もっとも有名なものといえるでしょう。 死にゆく妹がふいに「雨雪(みぞれ)がほしい」と言いました。 賢治は幼い頃から兄妹で使っていた椀を持ち、表に飛び出します。 わたくしのやさしいいもうとの さいごのたべものをもらつていかう わたしたちがいつしよにそだつてきたあひだ みなれたちやわんのこの藍のもやうにも もうけふおまへはわかれてしまふ (『春と修羅』より引用) 真っ白な雪の中の情景と、みぞれを見つめながら妹への思いを溢れさせた言葉が、あまりにも悲しく美しく連なっていきます。 ほんたうにけふおまへはわかれてしまふ あぁあのとざされた病室の くらいびやうぶやかやのなかに やさしくあをじろく燃えてゐる わたくしのけなげないもうとよ この雪はどこをえらばうにも あんまりどこもまつしろなのだ あんなおそろしいみだれたそらから このうつくしい雪がきたのだ (『春と修羅』より引用) 「永訣の朝」のなかで有名なのが、 「(あめゆじゆとてちてけんじや)」という一節です。 「あめゆきをとってきてください」という妹の言葉なのですが、詩のなかで何度も象徴的に、効果的に使われています。 このなかの最後の「けんじや」という言葉が、「方言」の1つで意味のない言葉なのか、「賢治」に呼びかけている言葉なのかは、いまだに意見が別れるところのようです。 賢治のその後の世界観において、この妹の死は大きく関わっているといわれています。 「死」というモチーフやテーマが少なくない彼の作品を思うと、確かにかなりの影響を受けたのだと感じざるを得ません。 解説2「序」……「透明な幽霊」とは? わたくしといふ現象は 仮定された有機交流電燈の ひとつの青い照明です (『春と修羅』より引用) この一文から始まる『春と修羅』の冒頭「序」も、難解なものとして有名です。 さまざまな解釈や研究がなされてきましたが、説明してくれる当人がもういないのですから、推測するしかありません。 自分というものを「現象」としてとらえた宮沢賢治の世界観は、異質なものです。 熱心な仏教徒であったということもあるのでしょうが、自分という存在や命というものを、個々の物質として捉えていないように思えます。 風景やみんなといつしょに せはしくせはしく明滅しながら いかにもたしかにともりつづける 因果交流電燈の ひとつの青い照明です (『春と修羅』より引用) 自然の風景や人々との交流によって明滅する現象が、自分という存在なのだと言っているようです。 つまりそれを表しているのが「有機交流電燈」でしょうか。 単に序文として捉えることができないのが「序」の難解さと、作者特有の宇宙観を交えた世界観なのです。 解説3「春と修羅」 天山の雪の稜さへひかるのに (かげろふの波と白い偏光) まことのことばはうしなはれ 雲はちぎれてそらをとぶ ああかがやきの四月の底を はぎしり燃えてゆききする おれはひとりの修羅なのだ (『春と修羅』より引用) 詩集の表題となっている詩です。 有名なのが、何度か現れる 「おれはひとりの修羅なのだ」という一節。 春の穏やかで美しい背景と対比するように、激しく乱れる情景が並べられ、その後に 「おれはひとりの修羅なのだ」で締めくくられ、それが何度も波打つようにくり返されるのです。 「修羅」とは仏教の世界観で、六道の1つ。 激しい感情や怒り、争いなど、穏やかさや優しさと正反対の意味を持つ世界として使われています。 賢治は仏教徒だったので、阿修羅の持つ激しさと怒りと、それらの煩悩を制御することができない修羅の苦しみの部分も、よく理解していたのではないでしょうか。 心の乱れを表すように、詩を並べた文字列は、まるで波のようにうねうねとうねった形で書かれてい、る独特な詩になっています。 宮沢賢治が初めて小岩井農場を訪れたのは、中学2年の登山遠足の時になります。 以来、何度となくそこを訪れ、花巻農学校の教師になってからも生徒たちと一緒に遠足に行ったり、非常に関わりが深い場所です。 馬車がいちだいたつてゐる 馭者(ぎょしゃ)がひとことなにかいふ 黒塗りのすてきな馬車だ 光沢消(つやけ)しだ 馬も上等のハツクニー このひとはかすかにうなづき それからじぶんといふ小さな荷物を 載つけるといふ気軽(きがる)なふうで 馬車にのぼつてこしかける (『春と修羅』より引用) 難解な言葉が並ぶ本作のなかにおいて、「小岩井農場」はまるで童話を読んでいるように、穏やかな光景が浮かぶ描写が多い、長い詩です。 小岩井農場で見たり聞いたりしたものや体験が、創作にも少なからず影響を与えているのではないでしょうか。 当時、敷地から駅まで走っていた馬が引く列車など、小岩井農場の美しい光景や雰囲気を知ることもできます。 彼にとって、ここは特別な思い入れがある場所。 そのため、詩や童話のなかにも何度も登場しているのです。 解説5「無声慟哭」 (*おら おかないふうしてらべ) 何といふあきらめたやうな悲痛なわらひやうをしながら またわたくしのどんなちひさな表情も けつして見遁さないやうにしながら おまへはけなげに母に訊(き)くのだ (『春と修羅』より引用) 「私はおっかない顔になっているでしょ?」 諦めたような悲痛な笑顔で、私のどんな小さな表情も見逃さないようにしながら、おまえは健気に母に聞くのだ。 「無声慟哭」の一部分です。 「永訣の朝」とほぼ同じ時期に書かれた、妹トシの死の情景を詠んだ詩。 病床の中「自分はおっかない顔をしているか」「自分は臭くないか」と母親に聞きます。 その場にいながら声をかけてあげられない、賢治の心の中の声が聞こえてくるようです。 純粋な姿で死んでいく妹と、修羅の心を持ったままそこにいる自分を対とし、苦しい思いが表現されています。 宗教的な結びつきでも同胞であった妹との死別。 悲しみの極限を表す思いと同時に、自分自身の内面を見つめている詩でもあるようです。 妹が見つめる賢治の「ふたつのこころ」という描写に、そんな部分が表されているのかもしれません。 解説6「オホーツク挽歌」 賢治が教え子の就職のために出かけた、サハリンへの旅を詠んだ作品群です。 時期的にトシが亡くなった後のことなので、本来の用事とは別に、実質的にはトシの魂を求めての旅であったといわれています。 こんなやみよののはらのなかをゆくときは 客車のまどはみんな水族館の窓になる (乾いたでんしんばしらの列が せはしく遷つてゐるらしい きしやは銀河系の玲瓏(れいろう)レンズ 巨きな水素のりんごのなかをかけてゐる) (『春と修羅』より引用) 後に発表される代表作『銀河鉄道の夜』に、この旅は大きく影響をおよぼしました。 『銀河鉄道の夜』のモデルは岩手軽便鉄道だといわれていますが、この詩を読むと、表現されたイメージや雰囲気が、銀河鉄道の描写を思いおこさせます。 物語の核となる内容が、慰霊の旅でもあったサハリンの旅と共通しているのではないでしょうか。 『春と修羅』の名言をネタバレ紹介!美しい言葉たち 雲の信号 あゝいゝな せいせいするな 風が吹くし 農具はぴかぴか光つてゐるし 山はぼんやり岩頸(がんけい)だつて岩鐘(がんしよう)だつて みんな時間のないころのゆめをみてゐるのだ そのとき雲の信号は もう青白い春の 禁慾のそら高く掲(かか)げられてゐた 山はぼんやり きつと四本杉には 今夜は雁もおりてくる (『春と修羅』より引用) 爽やかな風景が目の前に広がる、清々しい空気感の詩です。 宮座賢治の詩をテーマにした、黒井健のイラスト集の表題作にもなっています。 報告 さつき火事だとさわぎましたのは虹でございました もう一時間もつづいてりんと張つて居ります (『春と修羅』より引用) 最も短い詩の1つです。 鮮やかな虹が目に見えるよう。 いったい誰が誰に報告したのか、謎です。 電線工夫 でんしんばしらの気まぐれ碍子の修繕者 雲とあめとの下のあなたに忠告いたします それではあんまりアラビアンナイト型です からだをそんなに黒くかつきり鍵にまげ 外套の裾もぬれてあやしく垂れ ひどく手先を動かすでもないその修繕は あんまりアラビアンナイト型です あいつは悪魔のためにあの上に つけられたのだと云はれたとき どうあなたは弁解をするつもりです (『春と修羅』より引用) 電線を修理する工夫を見て連想したとされています。 「あんまりアラビアンナイト型です」など、賢治特有の、独特な表現や言葉が面白いです。 『春と修羅』をめくると、私たちを魅了する美しい言葉の数々と、独自の世界観が溢れだします。 この本以後、世に出るさまざまな物語や詩の原点が、そこかしこに散りばめられているようです。 決してハッピーエンドばかりとはいえない賢治の物語たちは、生きる苦しみを背負った彼の修羅そのものであるのかもしれません。

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『春と修羅 (愛蔵版詩集シリーズ)』(宮沢賢治)の感想(28レビュー)

宮沢 賢治 春 と 修羅

北海道・東北• 東海・甲信越• 近畿・北陸• 中国・四国• 九州・沖縄• 宮沢賢治の詩集「春と修羅」の署名入りの初版本が24日、賢治の教え子の遺族から宮沢賢治記念館(岩手県花巻市)に寄贈された。 生前に発刊された唯一の詩集。 現存は数十部しかないうえ、署名入りはほとんどないといい、記念館は「大変貴重な資料だ」と感激している。 寄贈されたのは、賢治が花巻農学校時代の教え子の故・安藤寛(かん)氏(旧姓・桜羽場)に自ら贈った初版本。 安藤氏の末娘で元教員、広田ゆき子さん(71)=神奈川県寒川町=が40年ほど前、父から譲り受けて保存していた。 「春と修羅」は1924(大正13)年4月、賢治が自費出版した詩集で、妹トシの最期をうたった「永訣の朝」などが収録されている。 1千部発行したが、当時無名だった賢治の作品はほとんど売れず、売れ残った本は賢治が引き取り、一部は親しい人などに贈った。 記念館によると現存しているのは30部ほど。 献呈署名があるのは寄贈本を含めて2部だけだという。 寄贈された本には、裏表紙の次….

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