パクス ブリタニカ。 パクス・ブリタニカとは

パクスブリタニカとは、何を表す言葉ですか?

パクス ブリタニカ

この記事にはやの一覧が含まれていますが、 による参照が不十分であるため、情報源が依然不明確です。 適切な位置に脚注を追加して、記事のにご協力ください。 ( 2019年1月) パクス・ブリタニカ(: Pax Britannica (パークス・ブリタンニカ))とは、の最盛期である19世紀半ばごろから20世紀初頭までの期間を表した言葉。 特に「世界の工場」と呼ばれた1850年頃から1870年頃までを指すことも多い。 イギリスはこの時期、による卓抜した経済力と軍事力を背景に、やを情勢に応じて使い分けとして栄えた。 周辺地域での軍事的衝突やによる武力行使などはあったものの、やの時期に比べれば、特に中核地域は比較的平和であったことから、黄金期の「(ローマによる平和)」にならい「パクス・ブリタニカ(イギリスによる平和)」と呼ばれる。 「」はローマ神話の平和と秩序の女神に由来する。 概論 [ ] 歴史家はから第一次世界大戦勃発までの、いわゆる「」を三期に分け、からまでを「革命の時代」、1848年からまでを「資本の時代」、1878年からまでを「帝国の時代」と呼んだ。 イギリス帝国の全盛期パクス・ブリタニカはこの区分のうち、「資本の時代」および「帝国の時代」とほぼ重なる。 パクス・ブリタニカには厳密な定義があるわけではなく、時期についてはいくつかのヴァリエーションが存在する。 一般的にはイギリスが「世界の工場」となった1850年頃に始まるとされ、終わりについては、その地位を失った1870年頃と第一次世界大戦の始まる1914年の二つのパターンがある。 またあまり一般的でないが、ナポレオン戦争終了時(1815年)から第一次世界大戦勃発(1914年)まで という広義的な見方もある。 確かに「平和」という点からすると、ナポレオン戦争終結の1815年から第一次世界大戦が始まる1914年という約100年は比較的平和な時期である。 しかし、1815年の時点では世界に先駆けて工業化を開始したとはいえ、イギリスもまだ産業革命の途中であり、まだ優位はそれほど顕在化していない。 イギリスに最盛期が訪れるのは革命と改革の嵐が過ぎ去った「資本の時代」になってからである。 ひとくちに最盛期といっても1860年代から70年代を挟み、イギリス帝国はその容貌を大きく変えている。 1860年以前は自由貿易全盛の時期であったが、1860年代にはヨーロッパ大陸でもが進み、世界の工場としての優位性は次第に失われていった。 この時期をパクス・ブリタニカの絶頂とする見解はこの「世界の工場」としての地位を基準としている。 とはいうものの、ヨーロッパ市場はドイツなどの保護貿易を採った後発国に席捲されたが、アジア、アフリカなどの市場は依然としてイギリスが支配的であったし、そもそも後発国の工業化はイギリスの金融市場と資金によって成し遂げられたものである。 イギリスが「世界の工場」であったのはほんの20年ほどであり、むしろ「世界の銀行」としての役割の方がイギリスにとっては重要であり、19世紀後半のイギリス帝国を牽引するのは製造業ではなく、金融業であったと今日では考えられている。 したがって「世界の工場」としての地位が失われた1870年代以降についてもパクス・ブリタニカと呼ぶのも不自然ではない。 むしろこの言葉が19世紀末に使われ始めたことを考えると、その頃に顕在化する、帝国という目に見える繁栄の証こそがパクス・ブリタニカの本来のイメージに合致するとも言える。 語源 [ ] " pax" はで「平和」を意味し、" -ica" はの " -ic" にあたるである。 したがって、「パクス・ブリタニカ( Pax Britannica)」の意味は「イギリス()の平和」となる。 Oxford English Dictionary では、のによる Pax Britannica という詩が最初の使用例とされている。 海軍力 [ ] パクス・ブリタニカはナポレオン戦争中に確立されたの絶対的優位性を背景としていた。 平時はやの取り締まりなどが主であるため、常時大艦隊を揃えるというようなことはなかったが、必要とあれば他の列強以上の早さで戦列艦を建造する能力をイギリスは備えていた。 特に19世紀末のイギリス海軍整備の基本方針は二国標準( Two-Power Standard)として知られる。 1889年の Naval Defence Act で銘記されたこの原則は、端的に言えば第二位、第三位の国の海軍力を併せたよりも更に大きな海軍力を整備するという方針である。 当初、具体的なは伝統的な競争相手であるフランスとロシアを想定していた。 1900年頃からフランスとロシアに代わって、新たにドイツ帝国とアメリカ合衆国が政治的・経済的・軍事的な競争相手して現れると、建艦競争は激しさを増し二国標準は立ち行かなくなったが、公式には1909年まで掲げられた。 対外政策 [ ] 19世紀のイギリス外交は、、そしてナポレオン戦争の教訓から、「海路の支配」・「戦略地域の安全確保」・「対英同盟の阻止」という三つの原則に則って進められた。 海路の支配 [ ] 最も重要なのは、エンパイア=ルート( Empire Route) と呼ばれる帝国通商路、つまりエジプトを経由してイギリス(本国)とインド(最重要植民地)を結ぶ航路の確保である。 とによって海上でのイギリスの優位は確立されていたが、これをさらに維持・強化する必要があった。 交易上の問題だけでなく、兵力の迅速な輸送にも関わったためである。 、、など、イギリスにとっての戦略重要地点が戦争中に占領され、でその領有が認められた。 これら交易路上の要地にはが建設された。 エジプトにが出来ると、これもただちに影響下に置いた。 戦略地域の安全確保 [ ] ・や対岸のといった地政学上重要な地域はその安全と中立が課題となった。 イギリスと海を挟んだ反対側、現在のにあたる地域は、喉元に突きつけられた短剣とも言え、歴代のイギリス政府はこの地域の中立化に心血を注いできた。 カトリック国のスペインからプロテスタントのオランダが独立する際はそれを支持し、オランダからが分離するならばフランスの影響下に入ることのないように注意を払った。 対英同盟の阻止 [ ] いかにイギリスといえどもアメリカ独立戦争やナポレオン戦争の時のようにヨーロッパの複数の国に連携して対抗されてはいかにも分が悪い。 故にイギリスに対して同盟が結ばれたり、単独でイギリスを脅かすような大国がヨーロッパに現れることは何としても防がなければならなかった。 伝統的な敵国であったフランスとロシアが常に警戒の対象であったため、両国を牽制する新勢力としてされたが現れ、を打倒したときは当初は歓迎すらされた。 しかし、ドイツ帝国や、同じくを乗り越えて再統一を果たしたアメリカ合衆国のような新興国が台頭すると、イギリスをはじめ旧来の大国は相対的に地位を低下させる。 さらに、親英的で対外政策には慎重であったを更迭したが親政を開始すると、「新航路」政策とも呼ばれる彼の対外積極政策がイギリス帝国の利害と対立するようになった。 そして、ではで予想外の苦戦を強いられ、イギリスは国力や威信を大きく損ねた。 そこで、ロシアを抑え込む目的で、当時は近代化の途上にあった東洋の小国である日本とを結び、「栄光ある孤立」政策をも放棄した。 その2年後にはで長年の宿敵であったフランスと事実上の同盟関係を結び、ドイツ帝国の膨張政策に対抗しようとした。 さらに、での日本の勝利と日露の和解()を経てを締結し、主にドイツを仮想敵とするの構造を形成することになる。 脚注 [ ]• 田所、2006、p. 前掲書、p. 234• この金融業は産業資本家たちではなく、イギリスの伝統的支配階級であるジェントルマンの手によって運営されていたため、「」とも呼ばれる• Wheelock, Frederic M. Wheelock's Latin. HarperCollins : New York• OEDでは名を挙げていないが、1899年時点での桂冠詩人はアルフレッド・オースティンである。 ただし、オースティンが最初にこの言葉使ったという記述はない。 Haigh,1990, p. 265 主要参考文献 [ ]• Haigh, Christopher, The Cambridge Historical Encyclopedia of Great Britain and Ireland Paperback Edition , Cambridge U. : Cambridge, 1990• 加藤佑三、川北稔著『世界の歴史25 アジアと欧米世界』、中央公論社、1998• 佐久間康夫、中野葉子、太田雅孝著『概説イギリス文化史』、ミネルヴァ書房、2002• 田所昌幸編『ロイヤル・ネイヴィーとパクス・ブリタニカ』有斐閣、2006• G・M・トレヴェリアン『イギリス史3』大野真弓監訳、みすず書房、1975• 村岡健次、木畑洋一編『イギリス史3 近現代』山川出版社、1991 関連項目 [ ]•

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パクス ブリタニカ

この記事にはやの一覧が含まれていますが、 による参照が不十分であるため、情報源が依然不明確です。 適切な位置に脚注を追加して、記事のにご協力ください。 ( 2019年1月) パクス・ブリタニカ(: Pax Britannica (パークス・ブリタンニカ))とは、の最盛期である19世紀半ばごろから20世紀初頭までの期間を表した言葉。 特に「世界の工場」と呼ばれた1850年頃から1870年頃までを指すことも多い。 イギリスはこの時期、による卓抜した経済力と軍事力を背景に、やを情勢に応じて使い分けとして栄えた。 周辺地域での軍事的衝突やによる武力行使などはあったものの、やの時期に比べれば、特に中核地域は比較的平和であったことから、黄金期の「(ローマによる平和)」にならい「パクス・ブリタニカ(イギリスによる平和)」と呼ばれる。 「」はローマ神話の平和と秩序の女神に由来する。 概論 [ ] 歴史家はから第一次世界大戦勃発までの、いわゆる「」を三期に分け、からまでを「革命の時代」、1848年からまでを「資本の時代」、1878年からまでを「帝国の時代」と呼んだ。 イギリス帝国の全盛期パクス・ブリタニカはこの区分のうち、「資本の時代」および「帝国の時代」とほぼ重なる。 パクス・ブリタニカには厳密な定義があるわけではなく、時期についてはいくつかのヴァリエーションが存在する。 一般的にはイギリスが「世界の工場」となった1850年頃に始まるとされ、終わりについては、その地位を失った1870年頃と第一次世界大戦の始まる1914年の二つのパターンがある。 またあまり一般的でないが、ナポレオン戦争終了時(1815年)から第一次世界大戦勃発(1914年)まで という広義的な見方もある。 確かに「平和」という点からすると、ナポレオン戦争終結の1815年から第一次世界大戦が始まる1914年という約100年は比較的平和な時期である。 しかし、1815年の時点では世界に先駆けて工業化を開始したとはいえ、イギリスもまだ産業革命の途中であり、まだ優位はそれほど顕在化していない。 イギリスに最盛期が訪れるのは革命と改革の嵐が過ぎ去った「資本の時代」になってからである。 ひとくちに最盛期といっても1860年代から70年代を挟み、イギリス帝国はその容貌を大きく変えている。 1860年以前は自由貿易全盛の時期であったが、1860年代にはヨーロッパ大陸でもが進み、世界の工場としての優位性は次第に失われていった。 この時期をパクス・ブリタニカの絶頂とする見解はこの「世界の工場」としての地位を基準としている。 とはいうものの、ヨーロッパ市場はドイツなどの保護貿易を採った後発国に席捲されたが、アジア、アフリカなどの市場は依然としてイギリスが支配的であったし、そもそも後発国の工業化はイギリスの金融市場と資金によって成し遂げられたものである。 イギリスが「世界の工場」であったのはほんの20年ほどであり、むしろ「世界の銀行」としての役割の方がイギリスにとっては重要であり、19世紀後半のイギリス帝国を牽引するのは製造業ではなく、金融業であったと今日では考えられている。 したがって「世界の工場」としての地位が失われた1870年代以降についてもパクス・ブリタニカと呼ぶのも不自然ではない。 むしろこの言葉が19世紀末に使われ始めたことを考えると、その頃に顕在化する、帝国という目に見える繁栄の証こそがパクス・ブリタニカの本来のイメージに合致するとも言える。 語源 [ ] " pax" はで「平和」を意味し、" -ica" はの " -ic" にあたるである。 したがって、「パクス・ブリタニカ( Pax Britannica)」の意味は「イギリス()の平和」となる。 Oxford English Dictionary では、のによる Pax Britannica という詩が最初の使用例とされている。 海軍力 [ ] パクス・ブリタニカはナポレオン戦争中に確立されたの絶対的優位性を背景としていた。 平時はやの取り締まりなどが主であるため、常時大艦隊を揃えるというようなことはなかったが、必要とあれば他の列強以上の早さで戦列艦を建造する能力をイギリスは備えていた。 特に19世紀末のイギリス海軍整備の基本方針は二国標準( Two-Power Standard)として知られる。 1889年の Naval Defence Act で銘記されたこの原則は、端的に言えば第二位、第三位の国の海軍力を併せたよりも更に大きな海軍力を整備するという方針である。 当初、具体的なは伝統的な競争相手であるフランスとロシアを想定していた。 1900年頃からフランスとロシアに代わって、新たにドイツ帝国とアメリカ合衆国が政治的・経済的・軍事的な競争相手して現れると、建艦競争は激しさを増し二国標準は立ち行かなくなったが、公式には1909年まで掲げられた。 対外政策 [ ] 19世紀のイギリス外交は、、そしてナポレオン戦争の教訓から、「海路の支配」・「戦略地域の安全確保」・「対英同盟の阻止」という三つの原則に則って進められた。 海路の支配 [ ] 最も重要なのは、エンパイア=ルート( Empire Route) と呼ばれる帝国通商路、つまりエジプトを経由してイギリス(本国)とインド(最重要植民地)を結ぶ航路の確保である。 とによって海上でのイギリスの優位は確立されていたが、これをさらに維持・強化する必要があった。 交易上の問題だけでなく、兵力の迅速な輸送にも関わったためである。 、、など、イギリスにとっての戦略重要地点が戦争中に占領され、でその領有が認められた。 これら交易路上の要地にはが建設された。 エジプトにが出来ると、これもただちに影響下に置いた。 戦略地域の安全確保 [ ] ・や対岸のといった地政学上重要な地域はその安全と中立が課題となった。 イギリスと海を挟んだ反対側、現在のにあたる地域は、喉元に突きつけられた短剣とも言え、歴代のイギリス政府はこの地域の中立化に心血を注いできた。 カトリック国のスペインからプロテスタントのオランダが独立する際はそれを支持し、オランダからが分離するならばフランスの影響下に入ることのないように注意を払った。 対英同盟の阻止 [ ] いかにイギリスといえどもアメリカ独立戦争やナポレオン戦争の時のようにヨーロッパの複数の国に連携して対抗されてはいかにも分が悪い。 故にイギリスに対して同盟が結ばれたり、単独でイギリスを脅かすような大国がヨーロッパに現れることは何としても防がなければならなかった。 伝統的な敵国であったフランスとロシアが常に警戒の対象であったため、両国を牽制する新勢力としてされたが現れ、を打倒したときは当初は歓迎すらされた。 しかし、ドイツ帝国や、同じくを乗り越えて再統一を果たしたアメリカ合衆国のような新興国が台頭すると、イギリスをはじめ旧来の大国は相対的に地位を低下させる。 さらに、親英的で対外政策には慎重であったを更迭したが親政を開始すると、「新航路」政策とも呼ばれる彼の対外積極政策がイギリス帝国の利害と対立するようになった。 そして、ではで予想外の苦戦を強いられ、イギリスは国力や威信を大きく損ねた。 そこで、ロシアを抑え込む目的で、当時は近代化の途上にあった東洋の小国である日本とを結び、「栄光ある孤立」政策をも放棄した。 その2年後にはで長年の宿敵であったフランスと事実上の同盟関係を結び、ドイツ帝国の膨張政策に対抗しようとした。 さらに、での日本の勝利と日露の和解()を経てを締結し、主にドイツを仮想敵とするの構造を形成することになる。 脚注 [ ]• 田所、2006、p. 前掲書、p. 234• この金融業は産業資本家たちではなく、イギリスの伝統的支配階級であるジェントルマンの手によって運営されていたため、「」とも呼ばれる• Wheelock, Frederic M. Wheelock's Latin. HarperCollins : New York• OEDでは名を挙げていないが、1899年時点での桂冠詩人はアルフレッド・オースティンである。 ただし、オースティンが最初にこの言葉使ったという記述はない。 Haigh,1990, p. 265 主要参考文献 [ ]• Haigh, Christopher, The Cambridge Historical Encyclopedia of Great Britain and Ireland Paperback Edition , Cambridge U. : Cambridge, 1990• 加藤佑三、川北稔著『世界の歴史25 アジアと欧米世界』、中央公論社、1998• 佐久間康夫、中野葉子、太田雅孝著『概説イギリス文化史』、ミネルヴァ書房、2002• 田所昌幸編『ロイヤル・ネイヴィーとパクス・ブリタニカ』有斐閣、2006• G・M・トレヴェリアン『イギリス史3』大野真弓監訳、みすず書房、1975• 村岡健次、木畑洋一編『イギリス史3 近現代』山川出版社、1991 関連項目 [ ]•

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パクス ブリタニカ

選挙権が欲しければ金持ちになれ。 と発言し、フランスで参政権を求める市民が蜂起し、 『二月革命』が起こるわけだ。 そしてイギリスでも当初は選挙権が『資産家のみ』に限られていたのである。 では、イギリスでも同じような現象が起きたかというと、確かに『 チャーティスト運動(1837~1850年頃)』のような運動はあり、イギリス国内で労働者が選挙制度の改善などを求めた。 しかし、 1832年から選挙法の改正が行われ、選挙の不平等は少しずつ解消されていたのである。 また、もともとイギリスでは王権に対して議会が強かった。 1688年、議会は当時の英国王ジェームズ2世追放を決議し、 メアリ2世(在位:1689年2月13日 — 1694年12月28日)と ウィリアム3世(在位:1689年2月13日 — 1702年3月8日)の夫妻を共同統治王として迎えることにした。 [メアリ2世とウィリアム3世] 両王は、『王よりも議会が優位である』ことを宣言した『 権利の宣言』を認め、『 権利の章典』として国民に発布し、これによって議会が政治を主導するイギリスの立憲王政が確立した。 こうして、 『王は君臨すれども統治せず』 という原則が固定化されたのである。 その前の詳しい流れは下記の記事にまとめてある。 したがって、民衆はフランス等のようにわざわざ『革命』を起こす必要はなく、 議会に『改革』を求めればその意見が通りやすかったのだ。 わざわざ革命的に、武力行使をする必要はなかったので、それもフランスと同じ轍を踏まなかった理由として挙げられるのである。 これによって、東インド会社の商業活動が全面禁止され、アジア貿易に自由に参加できるようになり、『 清』の開国を求めて アヘン戦争につながっていったわけである。 ヴィクトリア女王時代 1839年、清国政府はアヘンの輸入を禁止し、『 林則徐(りんそくじょ)』を広州へ派遣。 その2年前の 1837年、イギリスは新たな『女王』の時代が幕を開けていた。 現エリザベス2世の高祖母にあたり、在位期間はイギリス史上最も長く、人類の4分の1を支配する『大英帝国』作り出した女、 ヴィクトリア女王その人である。 [1835年のヴィクトリアの自画像のスケッチ] 彼女がこのあたりの時代に書いた自画像が、とても華奢で繊細に見える。 とてもじゃないがこれから世界を支配する女王には見えない。 それは、彼女の母であるヴィクトリア妃の肖像画を見ても同じ印象を受ける。 [母のヴィクトリア妃] だが、18歳で即位した彼女の1835年と言えば、16歳。 初々しさが残るのは当然。 彼女は間違いなくここから『大英帝国』の女王として 63年7か月もの間、イギリスに君臨し続けるのだ。 下記の記事で『世界一有名な女王』としてエリザベス女王の名を挙げたが、それで言うならヴィクトリア女王は『大英帝国の黄金期を作った女王』だ。 『イギリスを世界一にした女王』と言ってもいいだろう。 パクス・ブリタニカ 実は、 いくつかの参考書に描かれる彼女らの印象はこの肖像画のとおりである。 母は、多くの愛人をかけていた夫とは違って質素堅実をモットーにしていて、退廃した英王室からヴィクトリアを隔離し、厳しく、口やかましくしつけられた。 その結果、物怖じせず、相手をまっすぐ見つめ、自分の意見をハッキリという真面目でお堅い性格になったのだ。 だから彼女は多くの国民から愛されたのであった。 産業革命で『世界の工場』となり、『 アルマダの海戦』でスペインの無敵艦隊に勝ち、『 トラファルガーの海戦』ではあのナポレオンに打ち勝つほどの強大な海軍力を持ち、その海軍力に支えられた世界一の植民地帝国となったイギリスは、その圧倒的な経済力・軍事力から『 パクス=ブリタニカ』と讃えられた。 [トラファルガーの海戦(ターナー画)] パクス=ブリタニカイギリスはこの時期、産業革命による卓抜した経済力と軍事力を背景に、自由貿易や植民地化を情勢に応じて使い分け覇権国家として栄えた。 周辺地域での軍事的衝突や砲艦外交による武力行使などはあったものの、ナポレオン戦争や第一次世界大戦の時期に比べれば、特にヨーロッパ中核地域は比較的平和であったことから、ローマ帝国黄金期の「パクス・ロマーナ(ローマの平和)」にならい「パクス・ブリタニカ(イギリスの平和)」と呼ばれる。 「パクス」はローマ神話の平和と秩序の女神に由来する。 ディズレーリとグラッドストン 『大英帝国の黄金期を作った女王』と言っても、結婚したアルバート公に 『王は君臨すれども統治せず』という教えを学んでいたため、特に彼女が何かを直接指示して行ったわけではなかった。 議会では地主や資本家を支持基盤とする率いる『保守党』と、振興の商工業者を支持基盤とする率いる『自由党』の二大政党制が確立していて、彼らがお互いにやるべきことをした。 ディズレーリは、• スエズ運河買収• インド帝国樹立• ロシア南下政策阻止 等、植民地や勢力圏をうちたてる帝国主義政策を行う。 グラッドストンは、• 平和外交• 選挙法改正• アイルランド自治 に尽力。 労働組合の合法化や小選挙区の採用など自由主義改革を実行した。 グラッドストンは英国民から親しまれたが、ヴィクトリア女王はディズレーリがお気に入りで、彼が死去するまで女王との交流は続いていたようだ。 [ベンジャミン・ディズレーリ] しかし彼女が愛したのは夫であるアルバートで、彼が死んだ後はすべてに絶望し、42歳からの 10年間も喪に服した。 このような逸話からも、彼女がどれだけ真面目な人間だったかということがよくわかるわけである。 アルバートが遺した子女の多くが欧州各国の王室と結ばれたため、彼女は『 ヨーロッパの祖母』ともいわれているようだ。 イギリスは正義か悪か しかしもちろん、彼女も含めた『大英帝国』の栄光の陰には、未来永劫には自慢できない 『闇』の要素もあった。 例えば、先ほど何気なく出ている『 植民地』だ。 収入源としては最高で、収入を得る方はそりゃあ文句はないだろうが、植民地にされる側としては、理不尽極まりない話である。 『 奴隷』も同じことだ。 そうした犠牲と代償の上に成り立つ栄光は、未来永劫には続かないのが真理から見た結論なのである。 『キャプテン・クック』ことジェームズ・クックは、海洋探検家の代名詞である。 イギリスの海軍軍人であり、海図製作者でもあった探検家のクックは、 1769年、ニュージーランドに到達。 翌年にはオーストラリアに上陸することに成功する。 オーストラリアで領有を宣言し、 1788年よりオーストラリアはイギリスの流刑植民地となる。 [クックの最期] MEMOキャプテン・クックは1778年、ハワイ諸島を発見しするも原住民とトラブルになり、ハワイで刺殺される。 だが、イギリスの最初の植民地はアイルランドだ。 アイルランドは 1801年にイギリスに併合されたが、英国国教会を信仰するイギリスは、カトリックが多かったアイルランドで宗教差別をし、英国国教会教徒以外は公職に就けなくなる。 弁護士のオコンネルがカトリック協会を設立し、 1829年に『カトリック教徒解放法』を成立させるが、経済格差は残る。 1922年にアイルランド自由国が成立し、 1938年にイギリス連邦内の独立国となり、 1949年にイギリス連邦から離脱して正式に独立しアイルランド共和国となったが、今でもイギリスとアイルランドには遺恨が残っている。 オーストラリアでは、 1851年に金鉱が発見され、『ゴールドラッシュ』が始まった。 1880年代以降はオセアニア(オーストラリア大陸、ポリネシア・ミクロネシア・メラネシア)の分割は本格化し、イギリス、ドイツ、フランスなどが勢力圏を築いた。 また、タイ以外の東南アジアはすべて列強諸国の植民地となった。 列強諸国が植民地から手を引いた年(東南アジア諸国が独立した年) ビルマ(ミャンマー) 1948年 ラオス 1953年 ベトナム 1945年 カンボジア 1953年 フィリピン 1946年 マレーシア 1963年 ブルネイ 1984年 シンガポール 1965年 インドネシア 1949年 東ティモール 2002年 [ウォルター・クレインによって描かれた1886年の地図。 英旭菱が赤色で示され、右上の囲みには100年前の1786年の英国領が示されている。 先ほどディズレーリがインド帝国を樹立したとあったが、彼女はインドの初代皇帝でもある。 下の写真は彼女が 70歳前後のものだが、この時には随分女王としての貫禄がついているように見える。 [ヴィクトリア女王 1887年] を見てみよう。 実 際のヴィクトリアはイギリスの植民地支配を揺るがす反乱に対して容赦のない主張をしていたが、被支配民の間では「帝国の母」としてその「子供」たちである世界中の臣民たちに慈愛を注ぐヴィクトリアのイメージが広まり、大英帝国の支配への抵抗心を和らげたのである。 カナダのインディアンのスー族やクリー族はヴィクトリアを「白い母」と呼んで敬意を払っていた。 あるインド藩王はヴィクトリアのインド女帝即位にあたってのデリーでの大謁見式(ヴィクトリアは欠席)において 「ああ、母上。 ロンドンの宮殿にいます親愛なる陛下。 」と呼びかけている。 1865年に反乱を起こしたジャマイカの黒人たちもヴィクトリア女王個人には忠誠を誓っており、裁判所を襲撃して囚人を解放した際に 「我々はヴィクトリア女王陛下に反乱を起こしているわけではないから、陛下の所有物を略奪してはならない」として囚人服を置いていかせたという。 かのガンジーもヴィクトリアを インドの自由のために尽くす女帝として敬愛していた。 ヴィクトリア自身も支配下におさめた非白人国家の王や首長の子供たちを後見したり、教育を与えたり、自分の名前(男性の場合はヴィクトリアの男性名ヴィクターや夫の名前アルバートなど)を与えるなどして「女王は人種に寛大」というイメージを守ることに努めた。 ヴィクトリア女王の実態 ヴィクトリア女王がどのような女性だったかというのは、この文章の最初の方を見ると、『穏やかで、真面目で、誠実で、政治に口出しをしない人』であるが、後になるほど『奴隷や植民地の上に成り立つ大英帝国を黙認し、そこに長い間君臨した女帝』という印象が浮かび上がることになる。 参考書には彼女の気性が荒いとか、そういうことは書いていない。 しかし、Wikipediaには、『 実際のヴィクトリアはイギリスの植民地支配を揺るがす反乱に対して容赦のない主張をしていた』とあるわけだ。 そしてそれは別にWikipediaにあるからというわけではなく、冷静に考えてイギリス女王として国を動かすディズレーリのような人間とともに行動し、あるいはその盛衰と利害の影響をストレートに受ける環境にいて、 女王陛下とうまく付き合うコツは、決して拒まず、決して反対せず、(受け入れ難い女王の要求に対しては)時々物忘れをすること。 と語っている。 彼女に対する意見が分かれているようだ。 参考書だけでは彼女はとても繊細で真面目。 夫が死んだら10年も喪に服すほどの誠実さで、だからこそ国民に愛され、長い間女王の座にいることができたというイメージしか見えてこない。 しかし、Wikipediaやこの時代を俯瞰で見たときに浮かび上がってくるのは、女王気質のヴィクトリア女王。 やはり、この時代が『大英帝国黄金の時代』なのは、女王気質であったヴィクトリア女王の存在が大きかったのかもしれない。 [列強諸国による中国分割を描いた風刺画。 孫にあたるドイツ皇帝ヴィルヘルム2世と睨みあうヴィクトリア女王。 ] 中田敦彦のyoutube大学 オリエンタルラジオの中田敦彦さんがこのあたりの時代をまとめた人気動画があります。 次の記事 該当する年表 SNS.

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