松田聖子 中山圭子。 Profile

初期・松田聖子は爆発的声量で叫び、吠えた。

松田聖子 中山圭子

* * * 1980年4月1日、松田聖子のデビュー曲『裸足の季節』は、日本のアイドル史を変える革命となった。 以来、今なおトップに君臨し、昨年の大みそかも『NHK紅白歌合戦』でヒットメドレーを披露している。 作曲家の故・平尾昌晃は、聖子がまだ本名の「蒲池法子」だった1978年に出会った。 主宰する音楽学院の福岡校に、聖子は久留米からレッスンを受けに来ていた。 「トロフィーを持って帰ったら、生まれて初めて父に引っぱたかれたんですよ」 それが初対面の聖子の言葉だった。 1978年に開催された「ミス・セブンティーンコンテスト」で、聖子は九州大会のグランプリに輝く。 次は全国大会となるはずが、厳格な父に反対されて断念する。 それでも、聖子の信念は揺るがなかったと平尾は記憶する。 「先生、私は歌手になって必ず成功するから!」 歌手になることを「夢見る」子は多いが、その先に自分の成功を「イメージ」できている子は珍しいと平尾は感心していた。 まだ正式なデビューは決まらなかったものの、聖子は父親を説得して高3の夏に上京。 サンミュージックプロダクションに籍を置くが、同社とCBS・ソニー(当時)は、大型新人として中山圭子(現・圭以子)を売り出す予定でいた。 中山を獲得するにあたり、サンミュージックはこんな覚書を親と交わした。 「向こう1年間は(他の)新人をデビューさせない」 こうした大人たちの思惑をよそに、聖子と圭子は仲の良い日々を過ごした。 「初めて会ったのは私が中3、聖子さんが高3の時です。 同じサンミュージックに所属して、同じ指導者のもとでダンスレッスンを受けていました」 レッスンの終わりには圭子がピアノを弾き、それに合わせて聖子が歌うことも多かった。 完成した圭子のデビュー曲に「いい曲ね、涙が出ちゃった」と聖子は素直に祝福したという。 圭子のデビュー曲は輸入シャンプーのCMソングとして世に大々的に流れるはずだったが、日本では禁止成分が入っていたため発売そのものが中止に。 そしてサンミュージックでもソニーでも急速に評価が高まっていた聖子が4月にデビューすることとなる。 あれほど破格の扱いだった圭子に、サンミュージックは冷たい宣告をした。 「キミへの宣伝費は聖子に回すから」 結局、圭子は1年半で一度引退するが、それでも、同世代の一番星としての聖子を見守り続けた。 聖子がデビューした1980年は、田原俊彦、河合奈保子、岩崎良美、そして松村和子も並んだことで「黄金の80年組」と呼ばれた。 特に聖子と良美は同い年、同じ堀越学園で机を並べ、親友の間柄であった。 「アイドル誌の撮影で私たちにショートケーキが出されたんです。 ところが法子(聖子の本名)は半分も食べない。 その理由を聞くと『良美ね、これ全部食べたら後悔すると思うの』って」 その言葉に良美は徹底したプロ意識を感じた。 この年の新人は仲が良く、誰が最優秀新人賞に輝いても全員が祝福したという。 聖子と誕生日が13日違いの松村和子は、楽屋ではイメージと違ってキャピキャピしたところがなく、自分を客観視できる女性という印象を持った。 「私は聖子ちゃんに1年遅れて1981年に紅白に初出場。 そこの楽屋ではお互いファンの立場に戻り、私が『やっぱりカッコいいな、ゴロー(野口五郎)は』と言うと、聖子ちゃんが『うちのヒロミ(郷ひろみ)のほうがカッコいいわよ』って、無邪気に盛り上がっていましたね」 いかにも聖子らしかった。 【プロフィール】いしだ・しんや/1961年、熊本県生まれ。 「週刊アサヒ芸能」を中心に芸能ノンフィクションを執筆。 主な著書に『ちあきなおみに会いたい。 』(徳間文庫)、『甲斐バンド40周年 嵐の季節』(ぴあ)などがあり、最新刊『1980年の松田聖子』(徳間書店)が発売中。

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松田聖子 中山圭子

「デモテープでワンフレーズ聴いただけで、半端じゃなくいい声だと思い、これは大スターになるぞと確信しました」 松田聖子を見いだしたプロデューサーの若松宗雄さんは、初めて彼女の声を聴いた瞬間をこう語る。 その後、父親の猛反対に遭いながらも芸能界を夢見続けた聖子が上京するまで、若松さんは1年半にわたり、説得を続けたという。 「聖子からは毎週のように『私は歌手になりたい』と切々とつづられた手紙が届きました。 最後には『お父さんが許してくれなければ家を出ます』と言い切った。 それでようやく親父さんも『若松さんに預ける』と決断してくれたんです。 そのあとは所属事務所探しに奔走。 サンミュージックの相沢秀禎社長(当時/故人)には『うちはイチオシの中山圭子がいるから』と渋られたが、なんとか食い下がって承諾してもらったんです」(若松さん・以下同) そして若松さんの確信どおり、デビュー後は瞬く間に大ブレーク。 一過性で終わらせてなるものかと若松さんは思案したという。 「『文学的なイメージを打ち出し、音楽的に見せよう』という2つのコンセプトを掲げました。 聖子は物覚えが早く、勘もいい。 根性は並外れてあり、作品を自分のものにする力も持っていました」 デビュー曲のイメージに満足せず、楽曲は松本隆、松任谷由実、佐野元春ら、才能あるアーティストを次々と起用。 デビュー当時は「結婚したら、かわいいお嫁さんになりたいから引退」と語っていた聖子だったが、ママドルの先駆者となり、日本の女性の生き方を変えたといわれる存在に。 「最初から聖子が意図していたというより、歌い続けるなかで生き方が変わってきたのでしょう」 若松さんはその後、CBS・ソニーを退社して独立。 再びタッグを組んだ時期もあったが、結局、また袂を分かつことになった。 「聖子と離れた理由には、一時期、(神田)沙也加を担当したこともあります。 彼女を『歌手デビューさせよう』と私が提案したあたりから距離ができたかな。 方針の行き違いがあり、聖子も譲れなかったのでしょう。 でも、それが大スターというもの。 松田聖子という存在は、常に嵐のなかで生きているような特別なものですから」 「女性自身」2020年2月4日号 掲載.

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松田聖子

松田聖子 中山圭子

来歴・人物 [ ] 、父のと共に出演した『』がきっかけでスカウトされ、、本名の 中山圭以子名義での作詞による「そよ風のベンジー」(アメリカ映画『』の日本公開時のタイアップ主題歌)でから歌手デビューした。 学業に専念するため、の学習雑誌のモデルの仕事をこなす以外は芸能活動をセーブしたが、から熱烈なスカウトを受け 、中学卒業と共に本格的に大型新人アイドルとしてデビューする事が決定した。 、満を持してプロデュース、作詞:、作曲:のコンビによる楽曲「パパが私を愛してる」で、のシャンプー「」のまで付けた大々的なデビューが予定されていた。 しかし、このシャンプーに日本で認可されていない成分が含まれている事が判明し、輸入が延期されCMも放送中止になるというアクシデントに見舞われた。 タイアップ戦略を失い、楽曲のみで売り出す事となったこともあり、彼女のデビューは当初の計画とは程遠いものとなった。 その後も本人出演ののCMタイアップ曲として2曲目をリリースするが、ヒットには恵まれなかった。 、サンミュージックを退社し、芸能活動を休止。 『オールスター家族対抗歌合戦』の審査員だったのに弟子入りし、声楽を学ぶ事となった。 、立川の個人事務所から本名の 中山圭以子名義で再デビュー。 からまで、『』で歌のお姉さんとしてレギュラー出演。 その後は童謡等を歌うファミリーコンサートを行った。 エピソード [ ]• にスカウトされた際の契約条項として、自身のデビューにあたり事務所の総力を挙げて取り組み、2年間は他の新人歌手をデビューさせないという誓約がかわされていたという。 同時期にによるスカウトからサンミュージックに所属した新人として2歳上のがいた。 中山と松田は共に歌やダンスのレッスンに励み、すぐに打ち解けて親しくなったという。 ただ、中山とサンミュージックが交わした上記の誓約により松田の歌手としてのデビューは後回しとなる予定であった。 しかし、社運をかけて臨んだ中山のデビューが失敗に終わり、急遽、松田に資金を投じて歌手デビューさせる方針を打ち出す事となった。 サンミュージックからこの提案を受けた中山は、松田のデビューを快く受け入れたという。 1980年放送の『』にて、競争種目で松田聖子らと対戦をしている。 その際、前方を走っていた松田が転倒し、後方の中山がそれを避けきれず、松田の後頭部に膝が直撃するというハプニングを披露している。 ディスコグラフィー [ ] シングル [ ]• 中山圭以子名義• 「ふるさと野津」 (発売日不明。 立川清登とのデュエット。 のイメージソング)• 中山圭子名義• 「グランドチャンピオン大会」(1976年4月4日、)• (1980年、)• (1980年、TBS) - 伊藤サユリ役(レギュラー)• (1980年10月14日、フジテレビ) - 紅組選手として出場。 「100m競争」でレース中に転んだ松田聖子の後頭部に中山の左膝が接触する場面は、後の同局の『』などの回顧番組で幾度となく取り上げられている。 『娘の日』(1981年3月1日、TBS)- 主演• (1984年 - 1988年。

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