東風 谷 早苗 誕生 日。 东风谷早苗

東風谷早苗とは (コチヤサナエとは) [単語記事]

東風 谷 早苗 誕生 日

( ) (事実上 ) 最大の都市 (23区を一つの自治体と見なす場合 ) 政府 総計 () 水面積率 0. 詳しくはおよびを参照。 日本の首都を東京都と定める法令は現存しない。 ただし、東京都は広く国民に首都と認知されているとする政府見解がある。 詳しくはを参照。 23区はの集合体であり、ひとつの地方公共団体ではない。 国土交通省 国土地理院 2020年3月26日. 2020年3月29日閲覧。 「太陽暦御頒行神武天皇御即位ヲ以テ紀元ト定メラルニ付十一月二十五日御祭典」(明治5年太政官布告第342号)• の節も参照。 日本国(にほんこく、にっぽんこく、: Japan)、または 日本(にほん、にっぽん)は、に位置し、 および・・などからなる。 首都は。 はの変化に富み、国土の多くはで、人口は沿岸の部に集中している。 国内にはとして47のがあり、・・・系の人々などが居住し、事実上のとしてが使用される。 においては、後のにを制定しとなった。 その後、後のには現行のを施行。 の一つとして数えられており、、、およびの参加国である。 においては、からに加盟しており、を採っている。 概要 を通用するがの大半を占める。 自然地理的には、ユーラシア大陸の東縁に位置しており、を構成する。 であり、の四方を海に囲まれているため地続きの国境は存在しない。 日本列島は、も含めて6,848(時代により変動)の島を有する。 気候区分は、北はから南はまで様々な気候区分に属している。 日本は古くから大陸()、との関係が深く、飛鳥時代・奈良時代には、といった交易を通して制度・・・等を輸入し、国家体制の構築に役立てている。 また、に・を由来とする文化財が複数含まれることを例にとれるように、唐や朝鮮に限らず交易を通じてアジア・シルクロード文化も流入している。 体制樹立後の末期よりが成立し、幾度も交替する。 に至って交際国を限定する「」を行ったが、外圧を受けて開国し、で2番目の憲法となるを制定し、としての歩みを始めた。 敗戦により、(GHQ)の指示を受けて、、を謳う日本国憲法が制定され、民主制国家となった。 戦後復興ののち、から期に入り、工業化が加速し科学技術立国が推進された結果にもなったが、末の崩壊後は経済停滞期に入った。 現代日本社会はが進んでおり、であるとされる。 文化面では、日本語やなどの、やといったが海外からの注目を集めている。 も戦略を実行するなど、観光立国を推進している。 には が、にはが開催される予定で、国際的イベントの招致にも力を入れる。 国名として「日本国」、英称として「JAPAN」の文字が記されている 「日本」というによるの表記は、日本列島がから見て東の果て、つまり「 日の本(ひのもと)」に位置することに由来するという説がある。 近代の二つの憲法の表題は、「」および「」であるが、国号を「 日本国」または「 日本」と直接かつ明確に規定した法令は存在しない。 ただし、(Japanese Industrial Standard)では日本国、英語表記を Japanと規定。 更に、(ISO)では3文字略号を JPN、2文字略号を JPと規定している。 また、日本のから発給されるの表紙には「日本国」の表記と を提示している。 法令で日本を指し示す表記には統一されておらず「日本」、「日本国」、「本邦」、「わが国」などが混在している。 日本語の表現 発音 「 にっぽん」、「 にほん」と読まれる。 どちらも多く用いられているため、は正式な読み方をどちらか一方には定めておらず、どちらの読みでも良いとしている。 7世紀の後半の国際関係から生じた「日本」国号は、当時の国際的な読み(音読)で「ニッポン」(呉音)ないし「ジッポン」(漢音)と読まれたものと推測される。 いつ「ニホン」の読みが始まったか定かでない。 仮名表記では「にほん」と表記された。 平安時代には「 ひのもと」とも和訓されるようになった。 室町時代の謡曲・狂言は、中国人に「ニッポン」と読ませ、日本人に「ニホン」と読ませている。 安土桃山時代に人が編纂した『』や『日本小文典』等には、「ニッポン」「ニホン」「ジッポン」の読みが見られ、その用例から判断すると、改まった場面・強調したい場合に「ニッポン」が使われ、日常の場面で「ニホン」が使われていた。 このことからは、中世の日本人が中国語的な語感のある「ジッポン」を使用したのは、中国人・西洋人など対外的な場面に限定されていて、日常だと「ニッポン」「ニホン」が用いられていたのでは、と推測している。 なお、現在に伝わっていない「ジッポン」音については、も参照。 近代以降も「ニッポン」「ニホン」両方使用される中、1934年には臨時国語調査会が「にっぽん」に統一して外国語表記もJapanを廃してNipponを使用するという案を示したこともあったが、不完全に終わった。 同年、(NHK)は「放送上、国号としては『にっぽん』を第一の読み方とし、『にほん』を第二の読み方とする」旨の決定をした。 その後現在も両方使用されており、2009年6月30日に政府は、「『にっぽん』『にほん』という読み方については、いずれも広く通用しており、どちらか一方に統一する必要はない」とする答弁書を閣議決定している。 現在、通商や交流の点で自国外と関連のある、などには「NIPPON」と描かれ(紙幣発券者も「にっぽんぎんこう」である)ているほか、 、、、、、、、、・・ 、、、、、 ・ 、、などで「NIPPON」(にっぽん)表記を用いる一方、 「NIHON」(にほん)表記を用いる例は、、、、、・、、、、、、などがある。 テレビ番組名では「にっぽん」が使われることが多くなってきている。 なお、日本国憲法の読みについて、は、読み方について特に規定がなく、どちらでもよいとしている。 日本国憲法制定の際、読みについての議論で、憲法担当大臣は「ニホン、ニッポン両様の読み方がともに使われることは、通念として認められている」と述べており、どちらかに決められることはなかった。 日本のオリンピック選手団は入場行進時のプラカード表記を英語表記の『JAPAN』としているが、1912年の初参加となったののみ『NIPPON』の表記を使っていた。 東京と大阪にある橋の名称と地名になっているは、東京(及び)の日本橋は "にほんばし"、大阪の日本橋は "にっぽんばし"とそれぞれ読む。 名における読みは、次のとおり(国会に複数の議席を有したことのある政党)。 「ニッポン」• (1945-1996)、(1953-1954)、(2005-2015)、(2010-2012)、(2012-2014)、(2012)、(2015-2018)、(2015-2018)、(2016-) 「ニホン」• (1922-)、(1926-1928)、(1945-1948)、(1945-1947)、(1945-1946)、(1947-1949)、(1954-1955)、(1992-1994) ()は、一貫して「にほん」と読んでいる。 別称 古くから多様である。 あきつしま - 「秋津(あきつ)」は、「とんぼ」の意。 の都の名「室秋津島宮」に由来するとされる。 「秋津島」• 「大倭豊秋津島」(『古事記』本州の別名として)• 「大日本豊秋津洲」(『日本書紀』神代)• あしはらなかつくに - 「葦原」は、豊穣な地を表すとも、かつての一地名とも言われる。 「」(あしはらのなかつくに)(『古事記』、『日本書紀』神代)• 「豊葦原(とよあしはら)」• 「豊葦原之千秋長五百秋之水穂国(とよあしはらのちあきながいほあきのみずほのくに)」(『古事記』)• 「豊葦原千五百秋瑞穂国(とよあしはらのちいほあきのみずほのくに)」(『日本書紀』神代)• うらやすのくに - 心安(うらやす)の国の意。 「浦安国」(日本書紀・神武紀)• おおやしま - 国生み神話で、最初に創造された八個の島で構成される国の意。 古事記では順に淡路島:四国:隠岐:九州:壱岐:対馬:佐渡:本州。 「大八島」「太八島」• 「大八洲」(『養老令』)• 「大八洲国」(『日本書紀』神代)• くわしほこちたるくに - 精巧な武器が備わっている国の意。 「細矛千足国」(日本書紀・神武紀)• しきしま - 「しきしま」は、の都「磯城島金刺宮」に由来するとされる。 「師木島」(『古事記』)• 「磯城島」「志貴島」(『万葉集』)• 「敷島」• たまかきうちのくに• 「玉牆内国」(日本書紀・神武紀)• 「玉垣内国」(『神皇正統記』)• ひのいづるところ - 遣隋使が煬帝へ送った国書にある「日出處」を訓読したもの• 「日出処」(隋書)• ひのもと - でこう読むこともある。 ほつまのくに• 「磯輪上秀真国(しわかみの:ほつまのくに)」(日本書紀・神武紀)• みづほのくに - みずみずしい稲穂の実る国の意。 「国」• やまと - ()を特に指すとともに日本全体の意味にも使われる。 『古事記』や『日本書紀』では「倭」「日本」として表記されている。 等の中国史書では日本(ヤマト)は「邪馬臺」国と借音で表記されている。 また『日本書紀』では「夜摩苔」とも表記されている。 「日本」の国号が成立する前、日本列島には、中国の王朝から「倭国」・「倭」と称される国家ないし民族があった。 『日本書紀』は、「ヤマト」の勢力が中心に倭を統一した古代の日本では、漢字の流入と共に「倭」を借字として「ヤマト」と読むようになり、時間と共に「倭」が「大倭」になり「大和」へと変化していく。 その後に更に「大和」を「日本」に変更し、これを「ヤマト」と読んだとする が、『旧唐書』など、これを疑う立場もある。 漢語 「倭」「倭国」「大倭国(大和国)」「倭奴国」「倭人国」の他、伝説に準えた「扶桑」 、「蓬莱」などの雅称があるが、雅称としては特に(えいしゅう)・(とうえい)と記される。 このほかにも、「東海姫氏国」「東海女国」「女子国」「君子国」「若木国」「日域」「日東」「日下」「烏卯国」「阿母郷」(阿母山・波母郷・波母山)などがあった。 「皇朝」は、もともとの天子の王朝をさすだが、日本で天皇の王朝をさす漢文的表現として使われ、はこれを「すめみかど」ないし「すめらみかど」などと訓読した。 「神国」「皇国」「神州」「天朝」「天子国」などは雅語(美称)たる「皇朝」の言い替えであって、国名や国号の類でない。 「本朝」も「我が国」といった意味であって国名でない。 のなどは、日本を指して「中華」「中原」「中朝」「中域」「中国」などと書くことがあったが、これも国名でない。 「大日本」と大を付けるのは、国名の前に大・皇・有・聖などの字を付けて天子の王朝であることを示す中国の習慣から来ている。 ただし、「おおやまと」と読む場合、古称の一つである。 「」はもともと「神国、皇国、神州」と同義だったが、近代以後、"empire"の訳語として使われている。 大日本帝国憲法の後、「大日本帝国」の他、「日本」「日本国」「日本帝国」「大日本」「大日本国」などといった表記が用いられた。 戦後の国号としては「日本国」が専ら用いられる。 倭漢通用 江戸初期の神道家である出口延佳と山本広足が著した『日本書紀神代講述鈔』 に、倭漢通用の国称が掲載されている。 が想像した欧州大陸西側の詳細。 アメリカ大陸の存在が認識されておらず太平洋と大西洋が一つの大海として表現されている。 中央上部左にCipanguとある。 英語での公式な表記は、 Japan()。 形容詞は Japanese()。 略記は、 JPNが用いられる。 JAP()は、侮蔑的な意味があるので注意が必要である。 Nippon(ニッポン)が用いられる例も見られ、具体的には、等によるローマ字表記(1965年以降)、やなどで Nippon表記を用いている。 略称は、NPNが用いられる。 欧州発行の古地図上での表記• 「CIPANGU」1300年頃• 「IAPAM」1560年頃• 「IAPAN」1567年頃• 「IAPAM」1568年頃• 「JAPAN」発行年不明• 「IAPONIAE」1595年• 「IAPONIA」1595年• 「IAPONIA」1598年• 「IAPONIA」1598年• 「IAPAO」1628年• 「Iapan」1632年• 「IAPONIA」1655年• 「IAPON」発行年不明• 「Iapan」1657年• 「IAPONIA」1660年頃• 「NIPHON」1694年頃• 「JAPAM」1628年• 「YAPAN」1628年• 「IAPON」17世紀• 「IMPERIUM IAPONICUM」18世紀初• 「IMPERIUM IAPONICUM」1710年頃• 「IAPONIA」18世紀初• 「IAPON」1720-30年• 「IMPERIVM JAPONICVM」1727年• 「HET KONINKRYK JAPAN」1730年頃• のの銘や、中国の(『』『』『』『』『』など)や、ののも、すべて倭、倭国、倭人、倭王、倭賊などと記している。 そこで大和の代表者も、時には(の「」のように)国書に「倭国王」と記すようになった。 しかし中国との国交が約120年に渡って中絶した後、初期に再開された時には、『』では「東の天皇が敬いて西の皇帝に白す」、『隋書』には「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す。 恙無しや」とする国書を日本側が渡した記述があり、従来のように倭と称する事を避けている。 中国側では『旧唐書』の「東夷伝」に初めて日本の名称が登場し、「日本国は倭国の別種なり。 其の国、日の辺に在るを以ての故に、日本を以て名と為す」「或いは曰く、倭国自ら其の名の雅ならざるを悪(にく)み、改めて日本と為す」「或いは曰く、日本は旧(もと)小国、倭国の地を併す」のように、倭が名称を日本に変えた理由を説明している。 また、『新唐書』においては「国日出ずる所に近し、以に名をなす」とあり、隋書の「日出処天子」と共通している。 この7世紀には、に続いてがしばしば派遣されているが、いつから「倭」に変えて「日本」を国号と変えたのかは明らかでない。 使者の毎回の交渉について詳しく記述している『日本書紀』も、8世紀に国号としての日本が確立した後のであり、原資料にあった可能性のある「倭」の字を、国号に関する限りすべて「日本」と改めている。 それ以外の文献では、733年(天平5年)に書かれた『海外国記』の逸文で、664年(天智3年)にへ来た唐の使者に「日本鎮西筑紫大将軍牒」とある書を与えたというが、真偽は不明である。 結局確かなのは『』における記述であり、702年(大宝2年)に32年ぶりで唐を訪れた遣唐使は、唐側が「大倭国」の使者として扱ったのに対し、「日本国使」と主張したという。 『旧唐書』の「東夷伝」の記事も、この日本側の説明に基づいているようである。 詳細 『日本書紀』では日本の初代天皇の神武天皇は神日本磐余彦尊(かむやまといわれひこのみこと)と言われ、饒速日命は「虚空見つ日本の国」と日本を呼んだ。 『』では「670年、倭国が国号を日本と改めた」とされている。 「倭」と「日本」の関係について、『日本書紀』によれば、「ヤマト」の勢力が中心に倭を統一した古代の日本では、漢字の流入と共に「倭」を借字として「ヤマト」と読むようになり、やがて、その「ヤマト」に当てる漢字を「倭」から「日本」に変更し、当初はこれを「ヤマト」と読んだとする。 「日本」という国号の表記が定着した時期は、7世紀後半から初頭までの間と考えられる。 この頃の東アジアは、618年に成立したが勢力を拡大し、周辺諸国に強い影響を及ぼしていた。 は658年臣のに、外国である(樺太)征伐を命じている。 663年の白村江の戦いでの倭国軍の敗戦により、唐は使者を倭国に遣わし、唐と倭国の戦後処理を行っていく過程で、倭国側には唐との対等関係を目指した律令国家に変革していく必要性が生じた。 これらの情勢を契機として、668年にはが日本で最初の律令である近江朝廷之令()を制定した。 そして672年のを経て強い権力を握ったは、天皇を中心とする体制の構築を更に進め、689年のから701年(元年)のの制定へと至る過程において国号の表記としての「日本」は誕生したと考えられる。 具体的な成立の時点は、史料によって特定されていない。 ただし、それを推定する見解は以下の2説に絞られる。 (1)天武天皇の治世(672年 - 686年)に成立したとする説。 これは、この治世に「天皇」の号および表記が成立したと同時期に「日本」という表記も成立したとする見解である。 例えば吉田孝は、689年の飛鳥浄御原令で「天皇」表記と「日本」表記と両方が定められたと推測する。 (2)701年(大宝元年)の大宝律令の成立の前後に「日本」表記が成立したとする説。 例えば神野志隆光は、大宝令公式令詔書式で「日本」表記が定められたとしている。 ただし、『日本書紀』の元年(645年)七月条には、高句麗・百済からの使者への詔には「明神御宇日本天皇」とあるが、今日これは、後に定められた大宝律令公式令を元に、『日本書紀』(720年(4年)成立)の編者が潤色を加えたものと考えられている。 8世紀前半の唐で成立した『』には、702年(大宝2年)に「日本国」からの遣使(遣唐使)があったと記されている。 後代に成立した『旧唐書』 、『新唐書』 にも、この時の遣唐使によって「日本」という新国号が唐(、大周)へ伝えられたとの記述がある。 両書とも「日の出の地に近いことが国号の由来である」とする。 国号の変更理由については「雅でない倭国の名を嫌ったからだ」という日本国側からの説明を記載するものの、倭国と日本国との関係については、単なる国号の変更ではない可能性について言及している。 すなわち、『旧唐書』は「小国だった日本が倭国を併合した」とし、『新唐書』は、日本の使者は「倭が国号を日本に変えたとか、倭が日本を併合し国号を奪った」と言っているが疑わしいとしており 、同書でも、日本は、隋の開皇末(600年頃)に初めて中国と通じた国であり、古くから交流のあった倭国とは別と捉えられている。 また、日本の王の姓は阿毎氏であること、筑紫城にいた神武が大和を征服し天皇となったことなどが記載されている。 いずれにせよ、これらの記述により、702年に初めて「日本」国号が唐によって承認されたことが確認できる。 これまでに発見されている「日本」国号が記された最古の実物史料は、22年(734年、日本:6年)銘の墓誌である。 但し2011年7月、祢軍という名の百済人武将の墓誌に「日本」の文字が見つかったという論文が中国で発表された。 墓誌は678年制作と考えられており、もしこれが事実であるならば日本という国号の成立は従来説から、さらに遡ることになる。 『』・『』等を理由として「日本」国号は、日本列島を東方に見るという中国大陸からの視点に立った呼称であるとする説がある。 初期に成立した『』序にて、日本国が中国に対して「日の本」、つまりに所在することが日本の由来であると説明され、平安時代に数度に渡って行われた『日本書紀』の講読の様子を記す『』諸本においても中国の視点により名付けられたとする説が採られている。 『隋書』東夷伝に、倭王が皇帝への国書に「日出ずる処の天子」と自称したとあり、このときの「日出ずる処」という語句が「日本」国号の淵源となったとする主張もある。 しかし、「日出ずる処」について、仏典『大智度論』に東方の別表現である旨の記述があるため、現在、単に文飾に過ぎないとする指摘もある。 歴史 「」も参照 — 紀元前14000年頃 前14000年頃 — 前10世紀 前4世紀 — 後3世紀中頃 3世紀中頃 — 7世紀頃 0592年 — 0710年 0710年 — 0794年 0794年 — 1185年 10世紀初頭 — 12世紀後期 1167年 — 1185年 1185年 — 1333年 1333年 — 1336年 1336年 — 1573年 1336年 — 1392年 1467年(1493年)— 1590年 1573年 — 1603年 1603年 — 1868年 1639年 — 1854年 1853年 — 1868年 1868年 — 1912年 1912年 — 1926年 1926年 — 1989年 1945年 — 1952年 1989年 — 2019年 2019年 —• 通常、日本の歴史は、日本列島における歴史と同一視される。 しかし、厳密な「日本」の成立は、にあるように7世紀後期であり、それまでは「倭国」と呼び記されていた。 この倭国がどのような地理的範囲あるいは系統的範囲をもつ集団であるかについては史料に明確にされておらず、多くの学術上の仮説が提出されている。 倭国と日本国との関係は諸説あり、「日本の歴史」と「日本列島の歴史」とを明確に区別して捉えるべきとする考えも示されている。 時代の区分は、上のものと上のものとがある。 (1)考古学上は、(先土器時代)、、、歴史時代、とするのが一般的である。 一方、(2)歴史学上は、(から・・・平安時代)、(・・)、(・江戸時代)、(から1945年8月14日まで)および(1945年8月15日以降)の五分法が通説である。 日本の黎明 日本列島における人類の歴史は、次第に人が住み始めた約10万年前以前ないし約3. 5万年前に始まったとされる。 当時の日本列島は、アジア大陸と陸続きで 、西方のや北方のとの文化交流も見られた。 約3万年前には朝鮮半島と海峡で隔たり、約1万2千年前の前後にが終わると6千年前頃まで100m以上の海進が進んだ()。 この時期の住民が縄文人である。 この後も列島と大陸との間に小規模ながらも広範囲に通交・交流が行われ、巨視的には、日本列島も中国を中心とする東アジア文化圏の影響下にあった。 だが、東アジアの最東方に所在する大きな島国、という地理的条件により、黄河・長江流域の文明を中心に早期から発展していた中国と比べると、文明の発達度という意味では後進地域となっていた。 頃以降、中国南部からを中心とする文化様式を持つ弥生人が流入すると、各地に「クニ」と呼ばれる地域的政治集団が徐々に形成される。 これらの地域的政治集団により、朝鮮半島南部から南西諸島までの範囲で海上交易で結びついた緩やかな倭人の文化圏が構成されていった。 こうした文化圏の中で、などが以降日本から朝鮮半島へ伝搬したほか、紀元前2世紀頃に青銅器および鉄器の製造法が日本へ伝わった。 ・前後に各クニが抗争を繰り返し、各地に地域的連合国家を形成した。 中でも北九州から本州にかけて存在していた国家群から、最も有力であったヤマトを盟主として統一王権()が形成され、これが王朝に発展したとする説が有力である。 王権の()はのちに(おおきみ)と呼ばれ、(地方首長)を従えて統一国家建設を進めた。 律令国家の成立と貴族政治の展開 朝鮮半島における覇権争いがの国家体制を変化させた。 それまで、ヤマト王権は、同じ文化圏に属していたツングース系中国人の国家であるやに対して、度重なる出兵を行いに日本領を築くなど、に影響力を持っていたが、、百済復興のために援軍を送ったで新羅・唐の連合軍に敗れて半島への影響力を後退させる。 その後間もなくヤマト王権は「倭国」号に代わる「日本国」号、「大王」号に代わる「」号を設定して、中国と対等な外交関係を結ぼうとする姿勢を見せ、中国を中心とするからの自立を明確にした。 これは、他の東アジア諸国と異質な外交姿勢であり、その後の日本にも多かれ少なかれ引き継がれた。 日本は7世紀後半に中国の法体系・社会制度を急速に摂取し、8世紀初頭に古代国家()としての完成を見た。 また古墳時代後期の日本列島には、倭国の他に沖縄諸島に「流求国」が存在した。 しかしとの関係が悪化した結果軍事侵攻を受け、に滅亡した。 日本は、東アジアの中でも独特の国際的な地位を保持し続け、7世紀に王朝に対して独自の「」を称し、8世紀には。 成立後も、の、のヨーロッパのアジア進出、のの進出など、様々な事態にも対応して独立を維持した。 成立当時の倭の支配地域は、日本列島の全域に及ぶものでなく、九州南部以南および東北中部以北は、まだ領域外だった。 九州南部は、8世紀末に組み込まれた()が、抵抗の強かった東北地方の全域が平安時代後期に()領域に組み込まれ、倭人、隼人、蝦夷人が日本人となった。 特に8・9世紀は、蝦夷の征服活動が活発化すると共に新羅遠征も計画されるなど帝国としての対外志向が強まった時期だが、10世紀に入り、こうした動きも沈静化した。 からにかけて、地方豪族や有力農民は、勢力の維持・拡大を図り、武装するようになった。 彼らはしばしば各地で紛争を起こすようになり、政府は制圧のために中下級の公家をやに任じて、各地に派遣したが、中にはとなってそのまま定着するものも現れるようになった。 これがの起こりである。 武士はやを率いて戦を繰り返したが、やがて東日本を中心に、連合体であるへと成長した。 中でも中央貴族の系譜を引くとは、軍事貴族であるとなって、武士を二分する勢力に成長し、やがて政権を巡って対立することとなる。 また、中央政治においてはにが皇族の外戚として政権中枢を担うが成立した。 がとして実権を握って以降は、藤原北家と直接の血縁を持たない天皇が早くにし、(上皇)となって政を取り仕切るがしばしば見られるようになった。 武家政権の時代 を身に着けた 写真。 元の写真はによるの撮影。 10世紀からにかけて、旧来の天皇を中心とする古代の律令国家体制が大きく変質し、社会各階層への分権化が進んだ王朝国家体制、更に武士のやが実権を掌握するが王朝・貴族勢力と拮抗しながら国内を統治する中世国家へと移行した(・)。 12世紀頃(平安末期)からなどの古文書に「日本」や「日本国」の表記が見られ始め、「日本」や「日本人」の意識が強く意識されるようになったことの表れと考えられる。 特に13世紀後半の元寇は、「日本」・「日本人」の意識が社会各層に広く浸透する契機となり、併せて「」観念を定着させた。 は、このような「日本」・「日本人」意識は、外国のみならず神仏などをも含む「異界」に対する関係性の中で醸成されたとしている。 に鎌倉幕府を滅亡させたは古代の天皇親政に回帰するを行ったがほどなく失敗し、に成立したのがその後のの騒乱を抑えて中世武家政権の支配を継続した。 この室町時代までには、の活動を通じて「日本」の領域が北海道の南部まで及んだ()。 また、15世紀にはによるが行われ、形式的には足利将軍が「日本国王」として中国のから冊封を受けることになったが、その後の日中関係ではこの関係は定着しなかった。 からまでの時期には社会の中世的な分権化が一層進展したが、による室町幕府の衰退を決定機として15世紀後半頃から勢力による地域国家の形成が急速に進んだ。 この地域国家の形成は中世社会の再統合へと繋がり、16世紀末にによって日本の統一政権が樹立されるに至り、近世へと移行した。 日本の領域は、この時期にも変動している。 16世紀末にが北海道の南部に本拠を置き、北海道・千島・樺太・カムチャッカを含むの支配権を得た。 蝦夷地は、日本の領域とされることもあれば、領域外とされることもある、言わば「境界」とも言うべき地域だったが、にやの進出によって北方への関心が強まると、日本の領域も「蝦夷が島」(北海道)以南と意識されるようになった。 南方に目を向けると、中世を通じて・までが西の境界と意識された。 17世紀初めにのはに侵攻して、かつての領であり、滅亡後島津氏の支配下に入ったの采配地であったを直轄地とし、および(および)の琉球王府の支配地から米・砂糖を上納させた が、朝貢貿易は続けさせたため、その後も琉球王国は、日本・明朝(後に)両属の状態に置かれた。 一方、豊臣秀吉がに侵攻したの失敗後、にが開いたは薩摩を通じた琉球侵攻以外はおおむね消極的な外交政策をとり、後に「」とも称されるによって外国文物の流入が強く制限された。 18世紀末以降、江戸幕府はなどでロシア勢力と接触し、北方での防衛強化が課題となったが、ロシアとの正式な外交条約や国境画定は「開国」後まで行われなかった。 の確立は日本国内の安定化をもたらし、緩やかな経済成長の継続は大都市の発展や商業資本の蓄積として近代化の基盤の一つになった。 一方、17世紀以降に発展したは日本の伝統宗教であるの復権をもたらし、その後の日本に大きな思想的影響を与えた。 明治維新と近代日本の展開 19世紀中葉に入り、欧米との接触が飛躍的に増えると、列強各国に対する他者意識の裏返しとしての「日本」・「日本人」意識がさらに強まり、ほぼ現代の「日本」・「日本人」意識と一致するまでに至った。 以降、アジア各国が欧米列強の植民地とされる中で日本が独立を長く保ったことは、後の意識にそのまま繋がる民族・国民意識の醸成をもたらし、結果として明治維新以降の建設がスムーズに行われる基礎となった。 に起きたのによる以来、江戸幕府は「」政策に転換したが、不平等条約による経済危機やによる討幕運動に抗しきれず、(慶応3年)にを行って自ら幕を下ろした。 以降、を戴きながらや薩摩藩出身の中下級武士が実権を掌握した新政府の元でが遂行され、・欧米化路線による国民国家の建設を急速に進めた。 同時に近隣国と国境の確定を行い、に全域をロシア領とする代わりに以南の全域を日本領とし()、に小笠原諸島の領有を宣言 し、また、を行うとともにに、にを編入し、南西諸島方面の実効的な支配を確立した。 ここに一旦、近代国家としての日本国の領域が確定した。 帝国主義への傾倒 を経て1885年にを確立し、に大日本帝国憲法を制定し、に第1回を実施してを設置した。 こうして、アジアで初めてととを持つ、近代的なとなった。 (正確には、オスマン帝国でに制定されたの方が先であるが、短期間で停止された) 19世紀後半から20世紀初頭の帝国主義的な国際情勢の中で、東アジアに一定の勢力圏を築く必要に迫られ、やを経て勢力圏の確保を進めた。 日露戦争の勝因としてイギリスとを締結したことが大きかった。 両戦争を通じ、台湾・および南樺太を領土に収め、の権を獲得した。 その後、にが実施された。 、第一次世界大戦がヨーロッパで勃発すると、日本は日英同盟に基づいて側について参戦し、・に対して宣戦布告した。 ドイツのであったやを攻略した。 青島占領の後、日本はを政府に提示し、中国側の反発を招いた。 日本は戦勝国としてのに参加しを提出した(などが反対)。 また、発足したにおいて常任理事国となり、旧ドイツ領のをすることとなった。 一方、このパリ講和会議に際してアメリカから出されたは日本が併合した朝鮮でを誘発した。 時を同じくしてが起こり、本格的なや男子が実現した。 一方で日本はロシアでの革命成功を強く警戒し、に乗じたでは地域や北樺太などを一時占領した。 、男子普通選挙の成立と同時に制定されたは設立間もないや社会主義勢力、後には自由主義なども広く弾圧した治安機関、の法的根拠となった。 時の取り付け騒ぎ にが即位すると、翌1927年に、にはが起き、日本経済は大きな打撃を受けた。 世界恐慌以後、植民地を「持てる国」である英米仏などが化を進めて、日独伊などの「持たざる国」を締め出す動きを強めると、日本国内では対外進出によって、状況を打破しようとする動きが強まった。 を主張するは日本が権益を持つ(中国東北部)への侵略を強め 、にを建国して一定の支配権を得るに至った。 は不拡大方針を打ち出し事態の収拾を図ったが、対外強硬的な世論を背景とする軍部の台頭を抑えきれなくなった。 若槻内閣が総辞職すると、に組閣の大命が下り、引き続き経済状況の打開と満州事変の処理にあたったが、で過激派海軍青年士官達によって暗殺された。 これによって、は幕を下ろした。 太平洋戦争 同盟締結を記念してベルリンの日本大使館に掲げられた三国の国旗(1940年9月) に入ると、政府・軍部によるはにおけるの名を借りた暴走を開始した。 日本政府による対立思想の弾圧も始まり、もはや日本人では誰にも日本のを止められなくなった。 ににて日本軍とのが衝突すると()、双方の軍事行動により()へと発展した。 翌1938年には、を主導する首相のもと、が制定され議会は有名無実化した。 の締結で特にとの協力関係を強め、において陣営への参加を明確にした日本の対外志向は、特にに基づいたによって、アメリカとイギリスを筆頭とする欧米諸国の権益と真っ向から衝突し、にはおよび以下各地を攻撃し()、太平洋戦争へ突入した。 一時期は北は満洲との一部、西は中国内陸部や、南はの一部や、東はまで広がる地域まで進出・占領したものの、との圧倒的戦力差という状況を顧みずで突き進んだため、1942年半ば以後は敗走を重ねた。 形勢逆転のためにの乱発でを次々に戦地に投入したが、それでも戦力は不足した。 戦争の激化を受けて、と複数の新聞社が国民決意の標語を募集し、「欲しがりません勝つまでは」という戦時標語が作られた。 最終的に政府・軍部はアメリカに勝つためには手段を選ばなくなり、で虚偽の発表を行って国民の士気の低下を防いだり、を結成して兵士に自爆攻撃を行わせるまでに至った。 また、追い詰められた日本兵によるも各地で行われた。 その後、にによる沖縄本島の喪失、をはじめとした全国各地への空襲に続いて、8月には・にによる攻撃、さらにはの残存期間中に対日戦を開始したソビエト連邦によるを受けて帝国政府は戦争継続を断念し、を受諾して連合国に降伏した。 一連の戦争で日本国民は天皇の名の下に戦争の駒として徹底的に酷使され、約300万人の日本人が命を落とし、日本経済の破綻と社会の混乱はその後にも深刻な影響を与えた。 対外的にもアジア諸国との信頼関係回復や戦時賠償問題が戦後の深刻な問題として残された。 現代 アメリカ・イギリスなどのにより、日本は史上初めて占領下に置かれ、日清戦争以降に獲得した領土・権益の全てを失った。 日本の占領統治は、日本政府に対して(GHQ)が指令を出し、日本政府がその指令に沿って統治するという間接統治によって行われ、中央政府が有効に存続したため、中央政府不在を宣言され国家の消滅が確認されたとは異なり、戦前と戦後とで同一の国家としての継続性が認められており、帝国憲法下で制定された一部の法令は戦後においても有効とされる。 GHQの指令のもと、国制の改革が進められ、によって日本国憲法を制定し、1947年施行の同憲法によって「国民主権」「平和主義」「基本的人権の尊重」の三大原則を確立した。 これによって主権は天皇から国民に移行し、天皇は「日本国および日本国民統合の象徴」と規定された一方、国会は「国権の最高機関」とされた。 は棚上げされ、退位論もあったものの、結果的にその地位に留まった。 におけるの優勢が明らかになると、アメリカは対日政策を転換させ、東アジアにおける友好国とする政策を採るようになった。 一方で、急激なインフレを抑制するべく実施された超均衡財政政策であるの強行により、の倒産が増大するなど深刻な不況に陥ったが、1950年に勃発したは戦場の後背地である日本でを生み、経済復興への足がかりとなった。 同時にが実施されて共産党が衰退し、・を掲げる首相を中心とした保守勢力が政権を独占し、戦前の政治・経済指導者も次々とから復帰した。 1952年、発効によって日本は全権を回復し、資本主義陣営()の一角として国際社会に復帰したが、同時に成立したによって日本への駐留は継続された。 に講和条約への対応を巡り分裂していたが実現すると、財界の強い要望を背景として、保守合同により、が成立した。 これにより形式的にが実現したが、その後のの弱体化や多党化にも助けられた自由民主党優位の政治体制はその後も続いた(この体制をという)。 1956年、によりとの国交を回復し、同年に加盟した。 対ソ国交回復では1945年にソ連が占領した地域の一部返還を求めた日本側の要求が実現せず、その後もとして両国関係の改善を阻害した。 一方、に首相は日米安全保障条約の改定を実現させたが、目標としていた日本国憲法の改定は果たせずに退任し、その後の自民党政権はによるに象徴される「経済中心路線」を採った。 一方、東京通信工業(現在の)による対米輸出の大成功などは「安くて粗悪」というかつての日本製品の海外イメージを払拭し、外需拡大は経済成長をさらに加速させた。 戦後、復興と共に1970年代半ばまでに目覚しいを遂げ、日本は世界有数のとなった。 には(OECD)に加盟するとにはを抜いて世界第2位の(GNP)を計上し、アジアでは唯一の先進国として特に経済面で大きな影響を世界に与え、多くの(発展途上国)から経済建設の先行モデルとされるようになった。 1964年にはが開催され、にはがで催された。 交通網の整備も急速に進み、1964年にはが開通、に、にはが完成した。 マイカーブームの到来により、を迎えるとともに、やなど国産自動車メーカーの品質が向上し、への輸出もなされるようになったが、大幅な貿易黒字を背景としてアメリカなどとの間でも生じた。 の比率が下がりやの比率が拡大するの高度化が見られ、国際競争力を持てない農山漁村地域やに直撃された産炭地域での急速な過疎化と、大規模製造業の存在と都市化による商業活動の急拡大が連動した三大都市圏での過密化も進行した。 自民党政権はや政策で重工業拠点の全国展開を進め、経済格差の是正をめざした。 農村部でも多くの工場が建設され、一方で問題の拡大が深刻となり、の高まりも見られた。 一連の高度成長はので終止符が打たれ、日本経済は低成長時代へと移行した。 1952年から1953年にかけてや奄美群島、1968年に小笠原諸島、1972年にの施政権がそれぞれアメリカから返還された(、)。 アメリカ施政下の日本領土は解消されたが、ソビエト連邦との北方領土問題は解決の目処が立たず、を背景とした両国間の厳しい対立は続いた。 朝鮮半島に対しては、1965年に南部のとの間にが締結されて国交が回復したが、経済関係の強化とは裏腹に問題は解消されなかった。 また、北部のとの間では国交回復交渉が難航し、の地位や権利の確認、さらには後に発覚したなどもあり、両国関係は改善しなかった。 1972年ので国家承認をしたとは1978年にを締結し、緊密な外交・経済協力関係を結んだが、を終了した後も実務関係を維持した中華民国()との関係や、1970年代から中国側が領土主張を始めたは、戦争についての歴史認識問題などと合わせて日中間の懸案として残った。 に至り、に伴う人口減少、国内産業のなど先進国特有の問題が生じている。 1979年以降の路線を皮切りに中国経済は急成長を続け、に日本は中国に抜かれてGNPでソビエト連邦時代以来となる世界3位に後退した。 経済力を背景にした中国の対外進出は尖閣諸島問題の激化を招き、日中関係はかつての「蜜月」から大きく様変わりした。 さらには(IT)分野におけるアメリカ産業の復活や韓国・台湾企業のシェア拡大、・をはじめとするの政治的・経済的台頭のなか、日本は相対的に不利な立場に立たされている。 1995年のやのなどのの発生はを含む甚大な被害をもたらしており、・行政の整備は目下緊急の課題となっている。 情報通信技術の急速な発展によるやの普及に伴うの到来やの進展は、新たな需要を創出するとともに、人々の生活に大きな変化を生じさせつつある。 1993年から1994年にかけて史上初の下野を経験した後に与党へ返り咲き、2001年に首相となったが進めた政策によりその経済政策を大きく変えた自民党は、2009年にに政権を奪われたが、2012年にによってとの連立政権を復活させた。 安倍は自らの名を冠したによる経済再生を掲げ、憲法改正の意欲も強く示しているが、経済格差の拡大を指摘し、の容認などにも反対する国民も多く、政権の是非を巡る議論や対立が続いている。 そんな中、2020年に行われるを目標とした新たな技術やサービスの開発も各分野で進められていたが、によりは1年延期を余儀無くされた。 それ以後、世界的に収束の見通しが立っていないため、先行き不透明な状況となっている。 世界的な災禍の煽りを受けて日本経済も大きく混乱し、資金繰りの悪化から日本企業の連鎖倒産の危険性が大きく高まるなど、コロナ禍後のV字回復が難しくなる局面に至っている。 建国をめぐる議論 「」および「」も参照 国家としての日本、日本の民族・文化は、有史以前からの長い年月を経て段階的に形成されて来ていて、明確な建国の時期を示す記録は存在しない。 (旧)は、でが即位したとされる日(紀元前660年〔旧暦〕、2月11日〔新暦〕)となっている。 『日本書紀』神武紀に、カムヤマトイワレヒコ(神武天皇)が年春(1月1日)に即位したとの記述があり、古代以来、これが日本建国の画期と広く考えられていた。 明治5年(1872年12月15日)には、が紀元前660年に始まると定められ、これを元年とする・「」が明治6年1月1日(1873年1月1日)から使用された。 公的には、この神武天皇即位紀元をもとに1957年頃から「建国記念日」制定に関する法案が9度に渡り提出されてきたが、歴史学の立場から見る神武天皇の即位は、当の記紀に何人もの人が100歳以上生きていたなどの記述もあることから神話と見られ事実でないとするのが戦後の大勢であったため、いずれも成立には至らなかった。 しかし1966年(昭和41年政令第376号)により、2月11日が「建国されたという事象そのものを記念する日」として「建国記念の日」が定められた。 神武天皇の存在については実在論もあり、議論は続いている。 戦後、皇紀の使用は、一部を除きほとんど見られなくなった。 建国の時期として、この他に「日本」国号が定められた時期(飛鳥浄御原令ないし大宝律令の成立)や大政奉還がなされて近代国家の建設が始まった明治維新の時期などが挙げられることもある。 しかし、国家としての日本は、長い歴史的な経緯を経て形成され、明確な建国の画期を見出すこと自体が困難と言え、主観的なものとなりがちである。 ・東アジアの中でも東方にあり、の東端近くにあたるため、やなどと呼ばれる地域に含まれる。 領土の大部分が、をなす日本列島である。 これは本州・・九州・四国などからなる。 このほか、南に延びる伊豆・小笠原諸島、南西に延びる南西諸島(など)、および北東に位置する(北方領土)なども有する。 領土は約37. 8万(日本政府が領有権を主張する領域)で世界第60位である。 は古くから造成されてきたが、その多くはを形成・整備することが目的であった。 これによるが、、などである。 最近では、やなどがあり、総は国土の約0. また、とのような大規模事業のような例もある。 離島が多数存在し、その中には様々な理由で(多くは重要な施設があるため)立入禁止の島もある。 やは離島の内でも交通の便が良く、南方の島々は「日本のハワイ」等と称され、日帰りもできることから観光客に人気である。 最東端 東京都 (北緯24度16分59秒・東経153度59分11秒) 最西端 沖縄県 (北緯24度27分05秒・東経122度55分57秒 ) 日本最西端は長らくの(いりざき)とされてきたが、2019年に基本図とされる国土地理院の2万5千分の1地形図が改訂され、与那国島北北西260mに位置するトゥイシが日本最西端の地点となった。 最南端 東京都小笠原村 (北緯20度25分31秒・東経136度04分11秒) 最北端 北海道 (北緯45度31分35秒、東経141度55分09秒)(日本政府の下にある領域の最北端) 北海道 (北緯45度33分28秒・東経148度45分14秒)(日本政府が領有権を主張する領域の最北端) 周囲を、、、、などの海洋に囲まれる。 本州と四国との間の海はと呼ばれる。 陸上の線が無く、、、台湾、、中国、、アメリカとが接している。 また、南方に共和国、小笠原諸島の延長線上にがあり、太平洋を挟んでがある。 沖合をの(黒潮)、、の(親潮)、が流れる。 「」も参照のある地域が数箇所存在する。 尖閣諸島 自然地理的区分は、地質構造を基準に、本州中部を南北に縦断するを境に、南西日本と東北日本とに大別される。 付近では、、、、がせめぎ合い、・・と呼ばれる帯の一環をなしている。 そのため、世界全体で放出されるエネルギーのうち1割から2割が日本の周辺に集中すると言われているほど地震が頻発し、震度1や2クラス程度の地震なら、どこかで毎日のように起きている。 また、が活発なことから火山性土壌が多く、これが日本列島の自然を豊かにした面もある。 が多いこともの恵みと言える。 一方で日本史では大きな噴火活動が何度も記録され、さらに近年の地質学研究によって先史時代に何度かのが起きていたことが分かっている。 の尾根 山岳は、最高峰は(標高3,776m)の他、、など、2500m超えの山が本州中央に集中している。 他、、、などが有名である。 富士山はその優美な風貌から数多くの芸術作品の題材とされることで芸術面でも大きな影響を与え、日本の象徴として広く世界に知られている。 河川は、・などが代表的であるが、大陸河川と違い、源流から河口までの距離が大変に短いこと、高低差が急なこともあり、比較的流れが速い。 が発生すると堤防が決壊し、人家・田畑に甚大な被害を及ぼすという短所もあるが、比較的新鮮な水が取水しやすいのも特色である。 周囲を海に囲まれた島国であることから、海上交易・ともに盛んなである。 を含むを入れた領域の面積は約43万km 2である。 日本政府が主張する は領土面積の約12倍である約405万km 2、領海とEEZを合計すると約447万km 2であり世界では第6位となる。 ただし日本が領有権を主張しているが韓国に不法占拠されている竹島と日本が実効支配しているが近年になって中国が領有権を主張している尖閣諸島周辺海域についてはそれぞれの国家間で重要な外交問題となっている。 また、九州西方と東シナ海の領域については中国と韓国が自国の領海から延伸する大陸棚に関して国際法を無視して権利を主張している。 EEZとは別ににおいて排他的な海底資源権益が与えられる法的なについては、2012年4月に国連が「四国海盆海域」、「小笠原海台海域」、「南硫黄島海域」、「沖大東海嶺南方海域」の4海域を日本の大陸棚と認定した。 国土の変遷 古代 古代日本国家の北限、阿武隈川 後期、西日本の各地に広域の地域勢力が勃興した。 2世紀末にはを中心として、西日本広域を支配する連合が創設された。 邪馬台国連合は3世紀には東海・北陸のほか東日本も支配下に置き倭国が成立した。 前期前半には、現在の九州のからのの範囲まで国土が拡大されたことが、古墳造営の消長から明らかになっている。 ただし倭国は東北など各支配領域を確保・維持しようとする考えを持っておらず 、6世紀には、経済基盤が脆弱な以北を倭国の支配地から切り離し 古墳時代後期には太平洋側では現在の宮城県南部、日本海側では現在の中部までが倭国の支配領域となった。 またこの間、400年(履中天皇元年)と404年(履中天皇5年)に倭は朝鮮半島で百済・加耶諸国と共に高句麗・百済連合軍と2度にわたって合戦を行っている。 ・の日本国は、北はまで、南はまでを国土と認識していた。 しかし東北地方に対しての関心の希薄さは変わることがなく、東北地方北部を完全な形で支配する必要性は感じていなかったため 、実際にはまでが8世紀における日本国の北限であった。 9世紀、陸奥・出羽からの徴税の京進が行われなくなると 関心は更に希薄になり、東北北部の経営は現地の官人任せになっていった。 また、への関心も薄れていった。 古代の日本では、と言われる行政区が設けられていた。 によって設置された当時から機内は支配者にとっての特別な地域と認識されていたが 、律令制施行後は直轄地として国家を支える役割を担った。 中世 15世紀前半、帰属を巡って日本と朝鮮の間で揺れた対馬島 中世後期の日本は、室町将軍との間に<主-従の関係>を築くことが出来ているか、室町将軍を頂点とした階層的な秩序の内に居るか、あるいは外に居るかで境界が引かれていた。 歴史学において室町幕府3代将軍・足利義満は初の公武統一政権との評価を得ているが 、室町幕府は地方への関心が殆ど無かったため 、九州の統治はに、はに統治を委託していた。 15世紀前半、によって将軍と鎌倉公方との<主ー従の関係>が崩れると、 幕府は日本国の東側の境界は駿河国までであると規定するようになり、東国を日本国から切り離した。 1419年(応永26年)、はの拠点壊滅を目的にを攻撃したが作戦は失敗に終わった()。 その後対馬を李氏朝鮮領とするため対馬-李氏朝鮮間で交渉が行われたが、交渉は不調に終わり対馬は引き続き日本国に所属することになった。 年間、大和・別当のは「」で、中世後期の日本国の範囲は現在の近畿・東海・北陸・中国・四国の各地域であるとしている。 一方、戦国時代末期の天正9年(1581年)、は毛利氏との決戦の意思を明らかにした際、「今度、毛利家人数後巻として罷り出づるに付いては、信長公御出馬を出だされ、東国・西国の人数膚を合せ、御一戦を遂げられ、悉く討ち果たし、本朝滞りなく御心一つに任せらるべきの旨、上意にて、各其の覚悟仕り候」と語り、東国 織田領 と西国 毛利領 が合戦し西国を討ち果たせば本朝(日本国)は滞りない状態になるだろう、と日本国の範囲を規定している。 近世 豊臣秀吉の時代、日本国の支配は初めて本州の北端に到達した を継承したは、・を経て1588年(天正16年)日本国の統一を成し遂げた。 豊臣政権はその後東日本にも支配を拡大し 、1590年(天正18年)のにより初めて本州北端までを日本の国土に組み込んだ。 更に秀吉は「唐入り」と称して朝鮮半島に2度に亘って攻め込むが、中国大陸・朝鮮半島へ支配を拡げるには至らなかった()。 豊臣政権を継承したは、豊臣政権とは一転して国際的孤立主義の道を選び 、長崎・対馬・琉球(薩摩)・松前の4地域を窓口として対外交渉を行った。 1609年(慶長14年)、が琉球に侵攻し冊封関係を築き支配下に置いたが、琉球は中国とも朝貢関係を持ち続け、日本国と中国(・)との間で両属的な関係を維持した。 また、徳川政権期、蝦夷地(北海道)は松前藩が支配する渡島半島の南部の「和人地」以外は日本国の外と認識していた。 近代以降 詳細は「」を参照 辺境地域の領土確定を課題としていた明治新政府は1870年(明治3年)、北海道を日本国に組み込み、1879年(明治12年)にはとの帰属交渉が未決のまま、琉球をとして公式に日本国に編入した。 19世紀末以降、日本国は対外戦争により国土を拡げていき、20世紀前半には日本史史上最大規模に拡大した。 1895年(明治28年)にの結果、清から台湾を獲得()し 、1905年(明治38年)には、後の交渉で、ロシアより南樺太の割譲を受けた ()。 更に1910年(明治43年)にはそれ以前より日本国の保護下にあった朝鮮を併合した。 その後、1922年(大正11年)にはの委任統治も開始し 、太平洋側へも支配地域を拡大させた。 1932年(昭和7年)にはを建国し。 1937年(昭和12年)、をきっかけに開戦したにより中国大陸に占領地を拡大。 1940年(昭和15年)9月、フランス領インドシナ北部へ進駐を開始し() 、翌年7月には南部仏印進駐、翌年7月には南部にも進駐を開始した。 1939年(昭和14年)2月、は海軍と共にを占領した。 台湾総督府は台湾の重工業化を企図し、「台湾の植民地」として海南島を支配下に置くことを目論んだものだった。 だが占領後の海南島支配は海軍が主導することになり、台湾総督府は海軍に協力することでしか関与できなかった。 1941年(昭和16年)12月、日本は太平洋戦争の開戦と共にを発動し、翌年5月には東南アジア一帯を国土に組み込んだ。 しかし太平洋戦争に敗れると、日本はそれ以前からの各植民地を失い満州国も消滅。 1951年(昭和26年)に締結されたにより南樺太、千島列島の領有権も放棄することになった。 1972年(昭和47年)には、太平洋戦争末期からアメリカの占領状態にあった沖縄が日本に返還され 現在に至っている()。 気候・動植物 詳細は「」を参照 によると、本州以南沖縄諸島大東諸島以北の大半が Cfa 、宮古諸島・八重山列島(・・与那国島・)・などでは Af )に属する一方、北海道などが Dfb を示す。 の影響を受け四季の変化がはっきりしているものの、全般的にはのため大陸と比較して冬の寒さはそれほど厳しくなく温和な気候である。 やなどを別にすれば、一国の領土内にからまでを含む国家は珍しい。 では他にアメリカ合衆国と中華人民共和国ぐらいである。 (標高の高さによる寒冷地域は除く) 冬季は、が優勢となり北西の季節風が吹くが、その通り道である日本海で暖流の対馬海流から大量の水蒸気が蒸発するため、大量の雪を降らせる。 太平洋側では、空気が乾燥した晴天の日が多い。 夏季は、の影響が強く、高温多湿の日が続く。 台風も多い。 但し、北部を中心にの影響が強くなると低温となり、しばしば農業に影響を与える。 比較的、降水量の多い地域である。 主な要因は、日本海側での冬季の降雪、6・7月(沖縄・は5・6月)にが停滞して起こる、夏季から秋季にかけて南方海上から接近・上陸するなど。 年間降水量は、約1,700mmで地域差が大きい。 南鳥島を除く日本全域がモンスーン地域で、山がちな日本列島の西岸および南岸の周りを暖流が流れている為に雲が発達しやすく、日照時間は約1800時間程度と世界の他の温帯地域と比べても少なめである。 南北に長く、また、を越えるや広い海洋、四季の変化により、面積の広さに比べ、生息するやの種類が豊富である。 以北の北海道の生態系はの生態系に似ており、という境界が提唱されている。 と南西諸島の間には、温帯と亜熱帯の生態系のである渡瀬線が提唱されている。 このほか海峡を主に複数の分布境界線が提唱されている。 四方が海で囲まれているため、外部から新しい生物が侵入してくる可能性が低かった。 それに加え、多くの離島があるため、その島独自の生態系が維持されてきた土地が多数ある。 特に小笠原諸島や南西諸島は、古くから本土と比べて孤立した生態系を築いてきたため、その島に固有の動植物が多く生息している。 小笠原諸島は、「東洋の」と呼ばれるほど特殊な生態系を持つ。 南西諸島でも、西表島の、・のをはじめ、固有生物が島ごとに生息している例がある。 だが、近年の開発や人間が持ち込んだにより、生態系は激変し、固有の動植物の生息が脅かされている場所が多い。 植物・ 熱帯のものから亜寒帯のもの、さらには高山に生育するに至るまで植物の種類が豊富で多様性に富む。 降水に恵まれ、高湿度に適した植物が多く分布している。 やなどが特に豊富。 大陸から離れた地形から、などの日本固有種が広く分布する。 慣習的にとがと同等の扱いを受ける。 この他、各でも独自の木や花を制定している。 から亜寒帯に渡る、どの地域でも年間の雨量が十分で、森林の成立が可能である。 平地のは、南の約3分の2が、いわゆるという型であり、北の約3分の1が、を代表とする森林である。 標高の高い地域では、更に、一部にがある。 南西諸島の一部は熱帯に属し、沿海の干潟にはが発達する。 内、人工林は、第二次世界大戦後のの影響を受けたことから、スギ林が多数(452万ha)を占める。 これは、高度経済成長期に木材需要の逼迫から大量の天然林が伐採され、木材の生産効率のみを考えたスギ・林に更新されたためである。 その後海外からの輸入量が急増し、一転して木材の価格が暴落した結果、採算の取れない人工林の多くが取り残される結果となった。 放棄されたスギ林では、下層植生が発達せず貧弱な生態系となり、防災や水源涵養の面でも問題が多い。 また、スギやヒノキの大量植樹は時に「国民病」とも呼ばれるの蔓延を招いている。 日本の国鳥の 500種を越える鳥類が観察される。 四方の海に加え、水源が豊富な日本では、河川や池、湖が多く、それに棲むの種類が豊富である。 日本列島はシベリアで繁殖する鳥の越冬地であり、など南方で越冬した鳥が繁殖する地であり、さらに北方から南方に渡るが通過する中継地としても重要で、季節によって多彩な渡り鳥を観察することができる。 近年、乱開発によるの減少や、東南アジアの森林の破壊が、日本で見られる鳥類の存続の脅威となっている。 水鳥の生息地として国際的に重要なが、に登録され保護されている。 渡りをしない留鳥としては、のなどがあげられる。 人家の近くには、、、、、などが生息し、古来より文化の中で親しまれてきた。 最近ではやが人家周辺に多い。 固有種は、などがある。 の個体群は、絶滅。 現在、で人工的に繁殖されているトキは、中国の個体群から借り入れたものである。 ・ いずれも亜熱帯に種類が多く、南西諸島に半分以上の種が集中する。 これは、島ごとの種分化が進んでいるためでもある。 本土における島ごとの種分化は、さほど見られない。 例外は、類で、南西諸島に見られないが、本土の各地方での種分化が進み、多くの種を産することで世界的にも知られる。 また、現存する世界最大の両生類であるは、日本を代表する両生類として世界的に知られる。 詳細は「」を参照 近海の魚類は、種類、数、共に豊かで、沖から千島列島に掛けてが世界三大漁場の一つに数えられる。 近海を暖流と寒流とが流れ、これらの接点である潮境でが発生しやすいことや、周辺に広い大陸棚や多様で複雑なを持つこと、などが好条件となっている。 の種は、大陸に比べての規模が小さいため、多くない。 であるなどに多彩な種が棲息するものの、など食用に供される種の人為的な放流やの勢力拡大により、希少種の絶滅や淡水魚類相の激変が問題となっている。 他方、雨量の多い気候のために河口域にが出来やすく、も豊富である。 また、2010年に海洋生物センサス Census of Marine Life が出した報告により、日本近海は、世界25箇所の代表的な海の中で最多となる、約3万3000種の海洋生物が生息していることが明らかとなった。 これは日本の気候が南北に渡って非常に多彩であり、同時に大きな海流に恵まれ、海水が多くの栄養を持っていることを示している。 例えば北海道は流氷の南限であるのに対し、南西諸島および小笠原諸島はサンゴ生育の北限である。 亜熱帯のものから亜寒帯のものまで種類が豊富で多様性に富む。 森林が多いため、数も多い。 部でも多くの昆虫が見られる。 雨が多く、湿地や水田が各地にあるため、特にの種類が多い。 また、などに暮らす昆虫も多く見られたが、暮らしの変化と共に少なくなった。 江戸時代頃からやの鳴き声を楽しむために飼育が行われてきた。 愛玩対象として昆虫を飼う文化は、世界的にも珍しい。 が国蝶。 詳細は「」を参照 1950-60年代、に代表される大規模なの発生から、1967年のを始めに水質汚濁や大気汚染などの規制法が相次いで成立した。 これを受け、日本企業は、のためにマイナス成長下にあった1973年-1976年の前後に集中して公害の防止への投資を行い、1970年代以降、大規模な公害の件数が急速に減少した。 また、この投資は、オイルショック下の日本経済の下支えの役割を果たしたため、「日本はと経済成長を両立させた」と言われる。 しかし、が叫ばれた1970年代以降、地域振興を名目に道路建設や圃場整備などの、開発などの大型開発が盛んに行われ、日本固有の風致や生態系は大きく損われてしまった。 また、ゴミ問題のために富士山の登録を断念したことに象徴されるように、管理においても多くの課題を抱える。 人工林の荒廃や建設などによって河川や山林の生態系が衰退していることにより、ニホンザルやが市街地に出没するなど、人間の生活への影響も出ている。 以降、日本人の食卓の変化や、海外の農産品の輸入増加、、天然林の伐採、地域振興における公共事業偏重など様々な要因により、農山村や農林水産業が衰退した。 これに伴い、の増加、人工林の荒廃、水産資源の減少などの問題が発生している。 地域区分 1. 北海道 2. - 3. - 4. - 5. - 6. 山形県 - 7. 福島県 8. - 9. - 10. - 11. - 12. - 13. 東京都 - 14. 上記は「一都六県」。 「」はこれにを、「」には関東地方1都6県に以東の・山梨・・の4県を、それぞれ加える。 新潟県 - 16. - 17. - 18. 福井県を近畿地方に含める場合がある。 新潟県を北陸地方に含めず、長野県、山梨県とともに と称する場合も多い。 山梨県 - 20. 長野県 中央高地 ともいう。 岐阜県を加える場合もある。 - 22. 静岡県 - 23. 普通、「」というと、静岡県ではなくを含めることが多い。 なお、静岡県については関東甲信越各県と併せて広域関東圏とする場合も多い。 三重県 - 25. - 26. 京都府 - 27. 大阪府 - 28. - 29. 奈良県 - 30. 但し、三重県は近畿地方に含めず中部地方もしくは東海地方に含まれることも多い。 なお、近畿地方のことを「」と呼ぶ場合は通常、三重県を除く2府4県のことを指す(場合によっては三重県のうちを加えることもある)。 - 32. - 33. - 34. - 35. 鳥取県と島根県、そして場合によっては山口県の一部や兵庫県・京都府の一部をも含む地域を、と呼ぶ。 岡山県と広島県に山口県の多くを含めた地域を、と呼ぶ(兵庫県の一部を含むこともある)。 また、山口県をと併せて九州・山口地方とする場合もある。 四国地方 36. - 37. - 38. - 39. より北を、南をとする。 また、中国地方とあわせて(中四国地方)とする場合もある。 その場合、山陽と北四国とをあわせてと呼ぶ。 九州地方 40. - 41. - 42. - 43. - 44. - 45. - 46. 山口県とあわせて九州・山口地方とする場合や、沖縄県とあわせて九州・沖縄地方とする場合もある。 奄美群島は、歴史・文化・自然等の面において九州よりも沖縄に近い ため、奄美群島を沖縄県とあわせて沖縄・奄美地方とする場合もある。 沖縄県 沖縄県は九州地方に含む場合もある。 九州地方に含める場合は九州・沖縄地方と呼称することもある。 沖縄県は奄美群島と文化的、自然的に近い ため、奄美群島とあわせて沖縄・奄美地方とする場合もある。 50 政令指定都市 2020年4月30日 05 1,544,873 1,520,668 -1. 57 政令指定都市 2020年5月1日 06 1,474,473 1,463,473 -0. 34 政令指定都市 2020年5月1日 12 977,288 937,181 -4. 08 政令指定都市 2020年5月1日 14 842,134 826,657 -1. 84 政令指定都市 2020年5月1日 15 812,192 793,757 -2. 27 政令指定都市 2020年5月1日 16 800,912 790,082 -1. 79 政令指定都市 2020年5月1日 19 716,328 688,787 -3. 60 政令指定都市 2020年5月1日 詳細は「」、「」、「」、「」、「」、および「」を参照 日本国憲法を最高法規とし、この下に、国会が制定する、内閣が制定するやが制定するなどの、が制定するなど、各種のが定められる。 この他、日本国憲法改正以前のや大日本帝国憲法以前のは新たに制定されることはなくなったが、憲法に違反しない限り有効である。 2019年現在において国立国会図書館のデータベースであるは、有効な勅令としては(明治19年勅令第51号)、(明治31年勅令第90号)など57件、太政官布告・太政官達は改暦ノ布告(明治5年太政官布告第337号)など9件を収録している。 憲法上、裁判所は、全ての法令やなどが憲法に適合するか否かを最終的に判断するを有し、を終審裁判所とする。 もっとも、いわゆるに基づき、国会や内閣など政治部門の判断への干渉は、控えられることが多い。 憲法 詳細は「」を参照 現行のは日本国憲法であり、およびの・を規定する。 (昭和21年)11月3日に公布され、(22年)5月3日にされた。 形式的にはを適用して、の手続を経て制定された。 以降、現在に至るまで、改正されたことは一度もなく、に分類される。 日本国憲法の根底には「 」の理念があり 、以下の三つを三大原理とする。 長らく、戦争の放棄、戦力の不保持を定めたとの存在意義などを巡ってが行われている。 なお、一部には、現行憲法の制定に法的瑕疵があったとして日本国憲法自体の無効を主張し、今も大日本帝国憲法が有効であるとする者もいる。 「」および「」も参照 法律 以来、等一部のの規定を除き、系(特に及び)を基礎としているが、やに、最高裁判所以下司法についての規定につきの影響を強く受けているなど、憲法を中心としての影響も見られる。 日本国憲法、民法、、、、を総称してと称する。 この六法が日本の法令の基本を成し、日本のの基本的な研究分野と考えられてきたことによる。 商法のうち、に関する定めの多くは、に分けられた。 刑法には、、、、、、、がとして定められている。 私法分野においては一定の範囲内では効力を有するが(3条) 、刑法についてはを採り、慣習法を排除する。 制度のあり方を巡っては、憲法制定の当時から議論がある(を参照)。 ただし、判例は死刑制度を合憲としており()、いわゆる「永山基準」を「死刑選択の許される基準」としている。 2009年より、につき重大な犯罪についてが導入されている。 報道の自由 戦後、憲法によって・が保障され、建前上、に関する政府からの介入は存在しない。 制度によって加盟しているのみが記者会見を独占し政府や行政機関などからの情報を受けるメリットを享受している。 記者クラブが開催している会見は、加盟マスコミ以外を排除しており、報道の自由を侵害しているとや外国メディアなどからの批判が多い。 放送・放送についてはにより、中立な内容が義務付けられており、政府が発行する免許が必要である。 所掌のである(通称:NHK)の予算は、国会の承認が必要である。 については、の存廃など、様々な形で事実上の介入が行われている。 また、収入源の広告料収入を大企業に頼る大手マスメディアは、スポンサーとなりうる大企業を批判することに慎重であり、またをはじめ経済的にが依存する国家に対しても慎重な態度を取る。 一方、一部団体の抗議の対象になるのを避けるため、「放送禁止用語」や「出版禁止用語」を定めて差別的な表現や下品な表現を「自粛」・「自主規制」することが行われている。 また、現在進行中の誘拐事件など人命に関わる場合などにも「自主規制」の対象になる。 なお、近年に発生した報道機関を狙ったとしては、未だ解決に至っていないがある。 が作成する報道の自由度を示すランキングでは、調査対象国180ヶ国中、第61位(2015年)である。 各国を5段階に分けた分類では、上から3番目の『顕著な問題のある国』にカテゴライズされる。 国境なき記者団は日本における課題として、記者クラブ制度により外国人ジャーナリストやフリージャーナリストによる情報のアクセスが妨げられていること、「で発生したやに関しての過剰な報道規制」などを挙げている。 また2007年度の調査では「過激なによる報道機関への襲撃の減少が見られる」と述べていた。 また、2018年には第4条(政治的公正・事実の報道・多角的な報道について規定されている)の撤廃が検討されている。 元首 と(〈元年〉撮影) 「天皇」は、に規定された日本国および統合のたる地位、または当該地位にある個人。 現行憲法では「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基づく。 」と記載されている。 大日本帝国憲法ではで「天皇ハ国ノ元首ニシテ統治権ヲ総攬(そうらん)」するとの明記があったが、現行の日本国憲法には天皇を元首とする旨の規定はない。 『日本大百科全書』は、天皇には通常の立憲君主の権限は無いとし、『法律用語辞典 第4版 』は、象徴天皇と元首天皇を別としている。 また『国史大辞典』は上、象徴天皇は君主ではないとしている。 『岩波 日本史辞典』によると、「日本の君主制」は「天皇制」という。 に「用語として定着」したとされる。 憲法で天皇を「象徴」と称することから、「象徴天皇制」ともいう。 「象徴天皇制は天皇が元首でないので君主制としない説もある」とされる。 憲法学者の、、、の共同著作『憲法I』(第5版)によれば、「象徴にすぎなくなった天皇は君主といえるか」という問題は、君主のによる。 民主主義の浸透後は、君主制が維持された国でも、君主権は名目化した。 こうなると、君主制かかの区別は無意味に等しい。 天皇が君主かどうかは、憲法学上「ほとんど議論の実益のない問題」とされている。 者の『』および『の誕生』によると、に完成した日本最古の史書『』では、「」より()のに下った()太陽の女神の孫の孫のを初代とする一つのが、一貫して日本列島を統治し続けてきたとされる。 『』によると、神武天皇は「もとよりではない」とされている。 また、皇統が分裂して、二系統が交互に皇位に就いた「」 、皇統が分裂抗争した「」という語が存在している。 『』では、「現存するのとしてに登録される日本の」と記述されている。 下の権力分立 立法府 は、()と()との二院から構成されるの議会(立法府)である。 「国権の最高機関」であり、「国の唯一の立法機関」とされる(憲法41条)。 衆議院・参議院は、いずれも全国民を代表する(・)により選出された(衆議院議員・参議院議員)によって組織される。 ただし、法律や、の議決、内閣総理大臣の指名、などにおいて、衆議院に参議院よりも強度な権限が付与されている()。 これは、があり、任期も短期間であるため、より民意を反映しているため、と説明される。 行政府 行政府であるは、その首長たると、その他のから構成される合議制の機関である。 内閣総理大臣は、国会議員でなければならない。 なお、日本国憲法施行以来、慣例として衆議院議員が内閣総理大臣に指名されている。 国会から指名された人物は、天皇により国事行為として、儀礼的・形式的に内閣総理大臣に任命される。 国務大臣は、内閣総理大臣が任命し、天皇がする。 国務大臣の過半数は、国会議員の中から選ばれなければならない。 内閣総理大臣、その他の国務大臣は、でなければならない。 内閣は、の行使について、国会に対し連帯して責任を負う一方、衆議院の実質的な解散権(解散決定権)を持つとする見解が多数説となっている(日本国憲法7条3項および69条を参照のこと)。 代 人目 内閣総理大臣 生年月日 年齢 内閣 在任期間 日数 所属政党 90 57 あべ しんぞう (29年) 65歳 2006年 (18年)9月26日 - 2007年 (平成19年)9月26日 0366日 96 2012年 (平成24年)12月26日 - 2014年 (平成26年)12月24日 0729日 97 2014年 (平成26年)12月24日 - 2017年 (平成29年)11月1日 1043日 98 2017年 (平成29年)11月1日 - (現職) 0967日 第2次安倍内閣以後の在任日数 2739日 第1次安倍内閣を含めた安倍政権の通算在任日数 3105日 国会では、国会議員のみが法案提出権を保持する。 国会で審議される法案の大多数は、内閣が提出する内閣提出法案(政府立法、閣法)であり、国会議員が発議する法案(議員立法)が少ない。 政府提出法案は、内閣の下に設置される省庁が国会議席の多数を占める与党との調整を経て作成するため、の国政に対する影響力が強い。 選挙には地盤・看板(知名度)・カバン(選挙資金)の「3バン」が必要とされることから、が多い。 1970年代以降はやといった例外を除いて、内閣総理大臣の任期はせいぜい2年にとどまり、2006年(平成18年)以降は1年前後の任期が続いた。 55年体制とその後 国会では、(昭和30年)に結党された(通称:自民党)が、一貫して最多の議席を占めていた。 同年に統一された(通称:社会党、現在の)と共に、両政党が結党した西暦年の下2桁をとって「」と呼ばれる政治体制を形作った。 この体制は、自民党がとして党の総裁(党首)を国会で内閣総理大臣に指名し、同党議員の中から国務大臣を任命して内閣を組織し、社会党が野党として自民党と対立・協調しながら、国政を運営するものである。 とを組んだ1983年(昭和58年)から1986年(昭和61年)までの一時期を除き、1993年(平成5年)までの約40年間、自民党の単独政権が続いた。 1993年(平成5年)に自民党が離党してを結党し、である(首相)が成立したことで自民党が政権を離脱し、これをもって戦後長年の日本政治を構築してきた「55年体制」が崩壊した。 翌1994年(平成6年)6月に自民党・社会党・のである(首相)が成立して自民党が政権に復帰した。 次の(首相)以後、自民党は連立相手を組み替えながらが内閣総理大臣に就任する時代が再度継続されたが、2009年(平成21年)8月ので大敗、衆議院第1党から転落し、翌9月に・・からなる、(首相)が成立。 民主党を中心とする連立政権は(首相)を最後に2012年(平成24年)12月のでの敗北で終焉を迎え、自民党と公明党の両党が再び政権に復帰し、が復活した。 司法府 日本国憲法により、司法権は裁判所(最高裁判所及びに定めるところの下級裁判所)が行使する。 各地方公共団体には司法府は存在せず、各地に設置される下級裁判所(、、、)が裁判を行う。 また、日本国憲法により(やなど)の設置は禁止されている。 として、に市民感覚を反映させるとを折衷した制度であるや、のに民意を反映するなどがある。 地方政府 は、基礎的な団体である市町村、広域的な団体である都道府県の二段階から成る、()が担う。 市区町村 市が795、が743、が183、合計1718。 北海道と沖縄、および一部の離島地域を除く日本国内では1889年(明治22年)にこの市町村制が施行された。 他に、として、2016年10月10日現在、首都たる東京都に23の特別区()が設置されており、これらは市に準じた権限を持つ(第2項・第283条)。 かつては1万を超えた市町村数は、1950年代後半のと2000年代のによって激減し、市町村の再編が進んだ。 たる、たる が置かれ、いずれも住民から選挙される。 財産を管理し、地域の事務を取り扱い、行政を執行する。 法律の範囲内で条例を定める。 特に規模が大きい市は、政令指定都市として、農林水産行政に関する権能などを除いて都道府県並みの権限を有する。 「市」は「し」と読まれるが、「町」は「まち」・「ちょう」、「村」は「むら」・「そん」の読みが混在している。 都が1、が1、が2、が43、合計47。 1871年(明治4年)のにより全国に行政区画として府・県が置かれた。 と異なり、県自体の合併・分立は1888年(明治21年)を最後に行われていない。 都は特別区に関する一定の調整機能を有するが、府県の間には法律上の違いはなく、名称の差異は歴史的なものである。 道も地方自治法上は府県と同格であるが、に道について若干の特例を定める(警察組織につき第46条・51条など)。 執行機関たる、議決機関たる都道府県議会が置かれ、いずれも住民から選挙される。 市町村を包括し、より広域的な行政を行う。 法律の範囲内で条例を定める。 現在、東京一極集中を緩和してを進めるため、都道府県を解消して更に広域的な道州を置くの導入が検討されている()。 また、やのように特別区をつくる運動もある()。 外交 (パスポート)は数やの難しさから世界で最も信頼度が高い 現在、世界の195か国に日本のが設けられており、155か国が日本に大使館を設け38のが日本に事務所を設けている。 2019年には日本からなしで渡航できる国の数が190ヶ国でシンガポールと並び世界一位となった。 調査対象となった200の国と地域の中で最多だった。 唯一の軍事同盟国であり、国内に軍隊の駐留()をさせているとの関係を最も重視し、世界中の国と友好関係を築いているといわれている。 外交の基軸として(通称:国連、UN)を中心に各国と幅広い外交を展開し、援助や貿易を実施している。 伝統的に地理的に近距離にある各国と強い関係を保持してきた。 更に、敗戦後から(通称:サンフランシスコ講和条約)締結・発効までに(GHQ)を通してして日本の間接的占領統治を担った主要国で、その解除後も軍隊の駐留継続をはじめとして多大な影響力が行使される()を最重視している。 その他、(APEC)の参加国の一国として、のASEAN()諸国や、かつての下のの一員として各国、(EU)主要構成国との関係も深い。 また、日本は、、、(OECD)、(WTO)加盟国であり、いわゆるに数えられる国家の一つである。 国際連合 :日本はかつての戦勝国であるの一国として、(League of Nations)の原加盟国ならびに安全保障理事会常任理事国を務めていたが、やがて脱退し、(United Nations)を相手にの一国として第二次世界大戦を戦い敗れたという経緯がある。 国際連合は戦後も継続し、日本はによって現在もあくまで「敵国」の位置づけである。 1956年(昭和31年)にソ連との国交を回復し加盟を果たした。 これまでにのとして最多選出されている。 また敵国の位置づけにありながら世界第2位の国連分担金を拠出するという矛盾した状態になっていたが、2018年に決定された2019年からの国際分担金比率は中華人民共和国に抜かされ世界第3位の位置付けになった。 しかしながら、敵国の位置付けにありながら高い国連分担金を負担している現状に変わりはない。 国連改革の一環として、、などのと入りを訴えているが中国や韓国の反対で実現していない。 また、国連では約800人の日本人専門職員が働いているが、G7諸国は職員数が1000人以上なのを踏まえると日本人職員の数は少ない。 事務局では望ましい職員数の197名に対し事務局で働く日本人職員数は79名となっている。 日本の知識層の多くは多大な貢献に比べ、恩恵や評価を受ける以前に敵国条項すら削除されないと指摘している。 長く国連の武力行使を支持しても、経済援助のみに関与するという慎重姿勢を取り、でも巨額の戦費負担をしたが戦力を出さなかった。 しかし近年、などの成立に始まり、課題を残しつつも法的根拠が整った。 終結後、自衛隊を派遣して復興支援活動に携わるなどの機会も増えている。 東アジア では、古来地理的に近距離で隣接するやなどを中心に外交が行われていた。 日本は・の一角であり、伝統的な文化の中には、、、、、など、東アジアをルーツに持つ物が多い。 期以降、により西洋文化を採用して発展した日本の文化が逆に東アジアに伝播した。 欧米を始めとする世界中との外交が盛んになるのは、以降である。 かつて日本領であった()や韓国()は(・)、現在でも重要な貿易相手である。 北朝鮮(正式国名:)に対しては、日本は国家承認しておらず、国交も存在せず経済制裁を実施している。 日本、韓国、台湾は、それぞれと同盟関係・安全保障関係にあり、相互に緩やかな協力関係にある。 一方、建国由来から以降、北朝鮮と中国()とは同盟関係にあり、中国と(旧)も協力関係にある。 :日本は1972年(昭和47年)のおよび1978年(昭和53年)締結にともない、との国交を正常化した。 政策の後、を達成して数多くの日系企業が生産拠点を移転させ、また、2006年(平成18年)より貿易総額でアメリカを上回って最大の貿易相手国となった。 に関連して関係が悪化した。 また、日本人の中国への旅行者も減少した。 中国の報道は中国共産党の統制下にあり、一般国民に日本からのODAや謝罪などが周知されているとは言いがたいが、四川大地震に際しての国際緊急援助隊の救援活動など、中国人からの感謝の意が表れる出来事もある。 2010年以降、GDPで日本を抜いて、無視できない存在となっている。 軍事面では日本全土を射程に収める核弾頭を搭載可能なを推定100発、精密攻撃が可能な東海10型・長剣10型を推定600発保有しており日本の脅威となっている。 「」も参照 :現在、国交は存在しない。 北朝鮮は、(旧・のへの併合)に対する評価や賠償問題・請求権問題、いずれについても決着していないとする立場である。 は、に基づいて大韓民国政府のみが朝鮮半島の正統な政府であるとの立場である。 また、賠償問題も韓国との条約によって解決済みとの立場である。 2002年(平成14年)のでは、賠償権を相互に放棄し、日本が北朝鮮へ経済協力を実施する方法で合意したと発表されたが、その後、国交正常化交渉の停滞を招いている。 背景には、やなどに対する日本の世論の反発やなどで孤立を深める北朝鮮の現状がある。 日本は、現在これらを受けてを北朝鮮に実施している。 北朝鮮は、核カードを使ってアメリカから指定の解除を引き出した。 2012年(平成24年)4月、北朝鮮は自国憲法()に核保有国と明記した。 軍事面ではを射程に収めるのERを推定350発、日本のほぼ全域を射程に収めるミサイルを推定200発保有しており、日本の上深刻な脅威となっている。 「」も参照 :建国当初より一般国民におけるが強く、中には韓国を支援するために(現在のの前身組織)の掃海部隊や港湾労働者を韓国に派遣するとともに日本国内での韓国軍()の軍事訓練を受け入れるなどしたが、1952年(昭和27年)には韓国が一方的にを宣言しを占拠したことによって多くの日本人漁師が殺害・拿捕され、が発生した。 また、日本に潜入した工作員によってやなどの事件が起こされている。 により独裁政権を打倒し軍事政権を樹立したは国民多数の反発を押しきってを締結し、日本との国交を樹立、日本から得た賠償金をの原資としたが、これを国民に隠蔽していたために後にの支配の賠償をめぐる紛争が起きる原因となった。 韓国では近年までが実施されていたが、政権で日本の大衆文化の自由化が進められ、日本への親近感を抱く人々の増加も見られた。 政権では当初は日本との融和姿勢を見せたものの、間もなく強硬な外交方針に転じ、日本との領土問題や歴史問題にも強硬姿勢で臨んだ。 2005年(平成17年)、盧武鉉大統領はアメリカ政府に対して日本をとして想定するように提案した。 政権時代後半には竹島問題などで「対日外交戦争」を公言し、首相の参拝などもあって日韓関係は冷え切っていた。 政権では、前政権で悪化した近隣諸国との関係を修復し、日本にも比較的穏健な姿勢で臨む方針を当初は見せたが、への謝罪要求や知的財産や漁業権の侵害や竹島問題など根本的な改善の兆しは見られなかった。 は日本全土を射程に収める巡航ミサイル玄武-3ミサイルを配備している。 これに伴いも徐々に制限を緩和しつつある。 2010年(平成22年)9月、日本のであるが日本語で歌唱する姿が韓国の地上波テレビで初めて生放送された。 両国間で日韓を締結しているが、に放火した犯人を政治犯として釈放したことについて、内閣総理大臣は「条約を無視する行為である」と述べ韓国側の対応を批判した。 「」も参照 :()は、でに割譲されて以来終結まで50年間のを経験している。 第二次世界大戦後はで軍(現在の)に敗北したがまで独裁政治を敷いてきた。 かつて日本は中華民国を中国の代表政権と見なしていたが、1970年代の日中国交正常化の際、日本は中華人民共和国を正当な国家として認定し、中華民国とは国交を断絶した。 2020年現在も台湾を国家として承認しておらず、双方ともに大使館を配置しない代わりに民間のを置く。 なお、では台湾が自国領土の不可分の一部であると主張する中華人民共和国政府の立場について「十分理解し尊重する(understand and respect)」と表現されており、中国の主張を承知しつつも認めているわけではないという態度を取っている。 1996年に、その後は国民党ととの二大政党である。 日本統治時代を経験した多数派のが親日的傾向が強いのに対し、政治的実権を握っていた少数派の外省人は、反日姿勢が強いと言われていたが、1990年代には本省人であるが総統に就任するなど融和が進展した。 面において台湾は、などを背景にと密接な関係にあり、日米安保体制を維持する日本とも間接的な協力関係にある。 1970年代以降、日台間でもの領有問題があり係争も勃発したが、深刻な対立に至っていない。 人的・経済的な交流は、一貫して盛んで、特に近年は李登輝政権以降のの結果として国民の親日姿勢が強まる傾向にある。 2011年3月11日発生の・では、台湾から世界最多となる200億円超の義援金が日本に送金された。 また、交通面において海外で初めて日本のシステムの一部を採用した。 「」も参照 東南アジア 歴史的には日本と地域との関係はが盛んだった末からごろまでさかのぼる。 日本がをしたの間に、を除けば東南アジア地域は欧米列強(、、、)の植民地になっていった。 第二次世界大戦では日本と同地域を植民地支配する欧米列強との交戦地となったために同地域の住民にも多数の犠牲を出した。 しかし第二次世界大戦後に独立を果たした各国は日本と国交を結び、良好な友好関係を構築し、それを堅持している。 、、など経済的にも文化的にも関係が深く、互いの国民に対する感情も良いとされる。 また、日本は、これら各国との経済関係を1970年代ごろから(東南アジア諸国連合)を通じて深めており、1997年からに参加している。 また FTA の締結を模索している。 のとしての派遣も、初の派遣がへ、またへも派遣された。 ASEAN 諸国との間で定期的に首脳会談を行い、関係を重視している。 また、この海域(特に)は、中東から輸入したの9割近くが通過するなど非常に重要なルートであるが、が頻繁に出没する。 その対策として、が各国のに対して指導・共同訓練を行っている。 天皇皇后がタイ、マレーシア、インドネシア、シンガポール、フィリピンを訪問している。 :ととの関係も良好で、日本とタイの貿易結合度は第一位となっており、世界とタイとの平均的な結合度の4倍となっている。 「」も参照 :の主要貿易相手国はアメリカと日本であるが、近年は中国や韓国との貿易も増えている。 は、として国籍別で第4位の人口を有する。 にはが当時の領有地だったフィリピンを対日貿易の拠点とし、日本を追放されたも受け入れたが、の政策による外交関係の断絶とともに日本との交流は途絶えた。 では当時アメリカ自治領だったフィリピンに日本軍が侵攻し、現地住民を巻き込んで激戦地となった経緯があり()、戦後のフィリピンでは対日感情が悪かったが、経済支援などによって徐々に改善が進められた。 :1905年(明治38年)、としてのフランス統治に反発するベトナム民族運動家達は勝利後の日本に留学するを行ったが、日本政府は1907年(明治40年)締結のによって運動家を追放した。 第二次世界大戦でが崩壊した後、日本は()の一環として1940年(昭和15年)にを北部に、1941年(昭和16年)には南部に実施したが、特に南部仏印進駐は同年12月の日米開戦を強く促した。 1945年(昭和20年)3月にを成立させてフランスを排除した日本が同年9月に降伏すると、北ベトナムとして成立した、現在のは、において日本と安全保障面で協力関係にあると交戦したによる独裁政権であるが、同戦争では日本は直接参戦を行わなかった。 ベトナム戦争終結前、まだ政府が残留していた1973年(昭和48年)には日本との国交を樹立し、日本はベトナムに多額の開発援助を続けてきた。 近年も日本の(通称:国連安保理)への常任理事国参入をどのような圧力を受けたとしても支持すると表明するなど日本に協力的である。 一方、1975年のベトナム統一後に社会主義政策を嫌ってとなったベトナム難民()の一部を日本は受け入れている。 2018年には15万人を超えるベトナム人労働者を技能実習生として受け入れており2019年に新設された在留資格である特定技能の覚書を交わすなど日本にとってベトナムは重要な労働者の供給地となっている。 「」も参照 :の中心都市だったは1942年(昭和17年)にによってを破った日本軍が占領するとと改称され()、1945年(昭和20年)のまで軍事占領と華僑系を中心とした住民の抵抗が続いた。 1966年(昭和41年)にシンガポールがから追放されて分離独立すると日本は直ちに承認し、友好関係を維持した。 2002年(平成14年)にはを結び、日本にとって初の自由貿易協定締結国である。 :旧植民地のカンボジアでは、日本からは経済面での支援や撤去の活動なども精力的に行われている。 また、文化面でもによって破壊・弾圧されたの施設や信仰の復興に、界が大きく貢献している。 は日本の常任理事国参入について不変の支持を行っている。 一党独裁化を強め欧米から批判を受け支援を打ち切られているカンボジアに対し日本だけが支援をしており日本は経済支援と民主化の同時進行を促す立場をとっている。 しかし日本がカンボジアに選挙の資金援助した2018年の選挙ではカンボジア政府が最大野党の解体を決定、全議席が与党のものとなり民主化は逆行している。 :旧植民地で、の際に一部の日本人が関与したこともあり、親日派もいた一方、1960年代の政局の混乱のなか勢力の台頭に伴い中国等へ接近したが、1966年以降の体制は再び日本との関係を強めた。 2001年のによって米国との関係が悪化し、2005年まで武器禁輸などの制裁を受けた。 そのためロシアや中国との関係強化をすすめ、を展開している。 日本との関係は良好で、貿易をはじめ日系企業も多数進出し、また日本の ODA はハード整備に加え、市民警察活動促進計画 など統治能力支援(ガバナンス支援)や などソフトインフラ整備の支援も近年行っている。 では、金額で国別3位の支援を早急に決めて拠出し、更にへの艦艇を派遣した。 防災システムの構築にも支援を行っている。 アメリカ合衆国 :軍事・経済・政治すべてにおいて緊密な関係にある。 から始まる経済関係は、アメリカ合衆国の経済力を背景に大きなものであり続け、2006年(平成18年)まで最大の貿易相手国だった。 太平洋戦争では、東アジア・西太平洋地域で4年間戦闘に至った末に降伏し、米軍を中心とした連合軍に占領された。 アメリカ合衆国は(SCAP)を通してで中心的な役割を果たした。 日本はにもとづき1952年(昭和27年)4月28日にするが、依然としてに自国の安全保障の大部分を依存している関係は続き、翌年にはが締結されいわゆる「日米同盟」が成立した。 アメリカ合衆国にとっても本土から遠距離にある極東地域にを提供し、日本においてはとも呼ばれる多額の軍隊駐留費用を負担する同盟国の存在は重要なものであり、強固な同盟関係が続いている。 これについて反対運動、特に基地の地元住民の米軍基地反対運動と基地移転問題が外交問題に発展することもある。 日米関係は親密であるがゆえに時として摩擦も大きくなることがあり、のような現象が起きることがある。 そしての意向は、などの形を通してに伝えられ、日本の政策決定に影響力を与える「」となっているとされる。 また、を締結する数少ない国の一つである。 「」も参照 オセアニア の中でもの各国は、かつて日本が委任統治領ないし占領地として統治下に置いていたこともあり、関係が比較的深い。 では、日系人のやがに選ばれている。 は、かつて日系のが大統領に就任し、一部の自治体でが国のとして採用されている(実際に日本語を日常的に使用しているわけでなく、象徴的な意味合いが強い)などの経緯もあり、官民とも非常に親日的である。 :オセアニアで最大の影響力を持つと非常に緊密な関係を築いている。 日米豪の防衛首脳会談が行われたこともあり、経済、軍事、外交などで共同歩調を取る。 2007年(平成19年)3月には、ととが国際連合(PKO活動)の共同訓練、反活動、など地域災害に協力して当たることなどが盛り込まれたに調印した。 これにより、日本にとって安全保障分野で正式な協力関係を結ぶ(アメリカに続く)2番目の国となる。 「」も参照 ロシア・中央アジア諸国 日本とロシアとの関係は1792年にが当時のの使節として(現在の)に来航したときにはじまる。 末期・にとの間でとの間を国境とする『』が締結された(日本ではこの条約を「北方領土」の固有性の根拠としている)。 ラクスマン来航のときにすでにロシアはをとっており、や地域も征服しており革命でソ連()が成立してからもこれら地域はソ連の構成国として維持された。 そのために、の諸国やの国々との関係は1991年の後に本格化した。 1997年(平成9年)にが「」が提案されのちの政権も継承されることになった。 しかし、2001年9月11日のでの以降は低調である。 経済基盤の貧弱な国が多く、更に海に面していないために輸送コストなども掛かるなどの理由から、一部の希少な地下資源を除き、貿易などの経済的な関係も他地域と比べて活発と言えない状況にある。 ただ、この地域に栄えた古代王朝や仏教遺跡の研究などの学術関係での交流は活発である。 :は断続的に関係が深まる時期をはさみつつも、対立の時期が長い。 これはかつての帝政ロシアが伝統的にを取り、への出口を求めたため、通り道の日本との間に地政学的な対立構造があるからである。 (現在の)・の支配権をめぐって1904年(明治37年)に勃発した日露戦争や、1917年(大正6年)に起こったに日本などの諸国が干渉して起こした、終戦直前にがを一方的に破棄して日本支配地域に侵攻したなどが起こってきた。 日本の受諾()による終戦後もとへの侵攻を続け併合し、日本軍兵士を捕虜として連行してをするなどの行為が日本の人々の反感を生み、1956年(昭和31年)ので一応国交が回復した後も、の中で緊張関係が続いてきた。 1986年(昭和61年)以降に関係の改善が進み、1991年のによりその外交権を継承したロシア連邦も比較的友好的な対日政策を取った。 現在の日露両国の間では、経済的な交流も盛んだが、領土問題やそれに起因する漁民銃撃・拿捕事件、資源問題(を参照)なども生じており、その関係は円滑ではない。 「」も参照 南アジア・西アジア 各国とは友好関係を維持している。 6世紀とされる以来、日本の宗教・文化・政治に深く根ざした()の発祥地として古代インドは「」の名で広く知られ 、(梵語)で書かれた仏教経典や哲学思想が広く流入した。 また、16世紀後半からの南蛮貿易ではポルトガルがインド西海岸のに築いていた植民地が重要な中継点となっていたが、南アジア諸国と日本の正式な外交関係は第二次世界大戦後の各国独立と日本の主権回復後に始められた。 日本は「戦争による唯一の被爆国」であるということから()、を実施したやと距離を置いていた時期もあったが、近年、両国との関係が重視されるようになり、2006年(平成18年)に外務省アジア大洋州局に南部アジア部を新設した。 宗教的な対立要因が存在していないため、両国間では特に厳しい対立関係にあるインド・パキスタン双方を含め、各国民の対日感情は比較的良好とされる。 一方、間に巨大な中国文化圏が存在し、7世紀以降にで広く信仰されたの日本伝播が20世紀まで非常に希で、政治・経済面でも戦前の日本が英仏統治下の西アジアに入る余地はなかったため、日本と西アジア地域はトルコやペルシア(1935年からイラン)との小規模ながら友好的な外交関係を除くと希薄なままだった。 しかし、1950年代に日本が周辺の油田についてイラン・・などの湾岸諸国と相次いで協定を結び 、1960年代以降は原油輸入元の大半を中東諸国が占めるに至って 、日本経済の根幹に関わる「エネルギー外交」で中東諸国との関係が死活的に重要となった。 近年では日本の自衛隊が中東地域での活動を行い、一方では日本人が犠牲になった殺害事件も起こるなど、西アジア諸国との関係は新たな段階に入っている。 :19世紀後半以降、日本とは綿織物市場で激しい国際競争を続けたが、日露戦争での日本の勝利はインドの民族運動家に「アジアの解放」という希望を与えた。 その後の日本が帝国主義政策を進めると、はこれを批判したが 、はその後も日本に期待し、第二次世界大戦で日英が開戦すると日本は「大東亜共栄圏」の一員としてボースによる設立を支援し、でインド侵攻を目指したが敗退した。 しかし、日本の軍事行動がイギリスのインド統治に打撃を与えた事もあり、ネルー首相の下で1947年に独立したインドは「」を掲げながらも敗戦国日本への融和と支援を続けた。 その後は派政権が非同盟を掲げながらソ連との軍事協力を重視し、国内でも国家統制や計画経済を基本とした「インド型社会主義体制」を取り、さらには1974年に核実験を実施した影響で、日本とインドの関係は知名度や距離の割には強くなかったが、1990年代のインド経済の市場化やによる政権交代などで、日本の経済進出が加速した。 また、巨大化する中国を東西から挟む地政学的な理由もあり、今後関係が特に親密になると期待されている国のひとつで、近年の著しい経済発展や、での実績が注目されている。 日本とインドはとして共に行動する立場であり、2008年10月には、両国首脳が日印安全保障協力共同宣言()に署名し、日本にとって、アメリカ、オーストラリアに次いで、安全保障分野で正式な協力関係を結んだ3番目の国となった。 さらに2011年、日本とインドは関税を段階的に撤廃するFTA(自由貿易協定)を柱としたEPA(経済連携 協定)が発効。 :1998年の地下核実験から2005年4月まで援助を停止していた。 しかし、などで、安全保障の観点から中東への影響力が強いパキスタンの協力が必要と感じた日本政府は、当時の小泉純一郎首相が訪問したのを機に有償資金援助を再開した。 :1973年の独立以来世界最貧国の一つとも言われ、日本は、経済、保健、自然災害対策など多くの面で援助を行っている。 また、日本と比べると非常に安い製造費での出荷が可能という点が着目され、アパレル産業を中心とした日系企業の進出が続いている。 近年はバングラデシュの高度経済成長が続いているが 、その労働条件の劣悪さが非難される事もある。 :日本は、の修復などに多額の援助を行っている。 アメリカ合衆国が行ったを支持したが、部隊の派遣は、に留めている。 :日本と共に古代から続く領域国家で、8世紀に収められた奈良の「」の宝物庫にはペルシアの影響を受けた文物も収められている。 正式な国交樹立は成立後の1926年まで遅れ、第二次世界大戦末期の1945年2月には英ソ両国に占領されたイランが対日宣戦を布告したが、1953年の国交回復後は石油輸入元の確保を求める日本側とイギリスからの石油利権奪回を狙うイラン側の利益が一致し、油田開発や反共主義外交で両国間の関係は緊密になった。 1979年にが成功してイスラム教による国家統治と強烈な反米主義を掲げるイラン・イスラム共和国が発足した後も両国は友好関係の維持を求めたが、続くやアメリカによる対イラン経済制裁の影響を受けてイラン・ジャパン石油化学(IJPC)プロジェクトが中止され 、その後も などが災いして、両国間の経済関係は現在でも双方の期待ほどには進展していない。 :イラク戦争の後、自衛隊イラク派遣を行った。 :日本は、やに関して中立の立場であり、政府高官が訪問する際には、イスラエル・の双方と会談が設定される等、バランスが図られている。 :親日国の代表として紹介される国である。 末期の1890年のが友好関係の起源としてしばしば取り上げられる。 経済技術面での交流では日本の建設会社によってにを建設したことが挙げられる。 ヨーロッパ 日本がにおいて近代化の模範としたのがを含む、よりわけ諸国であり、『』(福沢諭吉)の造語にあるように、時代以降に日本がの派遣、の使用などで積極的に学問、技術、文化の摂取に努めた。 第二次世界大戦以降、を中心とする(NATO)諸国と間接的な同盟関係にある。 また、は、をはじめ、、、などの各国のと深い友好関係を築いている。 一方、特にオランダなどには、第二次大戦で交戦したことによる悪感情が一部に残っているとも言われる。 の終結によって「」が撤去されるとに属していた旧東欧諸国やとの交流も活発となり、当時の・が2002年(平成14年)に、、を、2007年に、、を訪問している(立ち寄りもふくむ)。 :は、幕末には江戸幕府がフランスの軍制を採用するなど、交流が始まり、明治期には法制面で影響を受けた。 政治・経済面よりも文化面での交流が深い点に特徴がある。 江戸時代の日本の文化は「」として美術などフランス文化に影響を与えた。 またフランス文化は、美術、音楽、食文化、文芸などの面で日本の近代化に大きな影響を与えた。 近年ではサブカルチュアーの分野での交流が盛んである。 :は、日本が近代化を進めるにあたって、イギリスおよびアメリカ合衆国との関係に次いで重要な役割を果たした。 科学技術・音楽・法律・文芸などにおけるドイツの影響は、現在の日本にも色濃く残っている。 第一次世界大戦で日本と当時のは交戦国となり、勝利した日本はアジア・太平洋地域におけるドイツの利権を獲得する。 第二次世界大戦で日本とは対ソ連を意識してを締結したが、同盟はついに実効的なものとはなり得ず、両国は互いに不本意ながら米英を敵に回し敗北するという結末となった。 戦後は、共に焼け野原から奇跡の復興を果たした経済大国として平和的な関係となり、重要なパートナーとしてイギリスやフランスを凌ぐヨーロッパ最大の貿易相手国となった。 さらに、政治の面でも共に常任理事国参入を目指すG4のパートナーとして行動する。 :は、江戸時代前期のに始まり、途中日本の鎖国や第二次世界大戦による中断をはさみながら長く続いている。 特に強調されるのは19世紀後半から20世紀初頭の日本の近代化に果たしたイギリスの役割であり、イギリスは経済・文化・学術・政治・軍事のあらゆる面において日本に最も強い影響力があった。 1902年(明治35年)、両国はロシアへの対抗としてを締結し、や、において相互に支援を行った。 しかし、()とによって両国は敵対することとなり、において交戦国となった。 終戦後、イギリスはに参加した。 占領終了後は、日本のとの交流をはじめ、経済・文化面でも深い関係を築いている。 :は、国家評議会議長が二度来日するなど、社会主義時代から交流があった。 大阪万博でブルガリア館がヨーグルトを展示して以降、日本ではヨーグルトの国として有名であり、はブルガリア政府から許可を得て国名が使用されている。 中央・南アメリカ 総じてと呼ばれる地域とほぼ一致するアメリカ大陸の中南部は、日本が西欧諸国との接触を持った16世紀には既にスペインやポルトガルの支配下にあった。 スペインは現在の中米諸国やフィリピンを含むを統治し、ここを通じて対日貿易の展開やの受入などを行ったが、使節団の帰国時には江戸幕府の鎖国政策が強化されており、日本と同地域との交流は17世紀前半に一度途絶した。 19世紀後半に日本が開国し、続いて明治維新が起きた時、ラテンアメリカ地域は既にほとんどが独立していた。 明治政府は江戸幕府がアメリカ合衆国や西欧諸国との間で結んだ「」の解消に苦心する中、ラテンアメリカ諸国との平等条約締結による外交実績の強化に動き、メキシコを皮切りに次々と外交関係を樹立した。 中南米諸国も農業労働力の確保に利点を見いだし、19世紀末から日本人移民の受入を開始した。 ただし、この地域は以来、アメリカ合衆国が強い関心と影響力を維持しており、で1941年に日本とアメリカが第二次世界大戦(太平洋戦争)に突入するとメキシコ以外の中米諸国は即座に、それ以外の国も1942年のブラジル・メキシコから1945年までに全て対日宣戦布告を行って、一部ではやアメリカ合衆国への国外追放も実施した。 戦後は日本がアメリカの強い影響下に入った事もあり、両地域の交流は再び強化され、日本企業の進出や日系人労働者の日本移入なども行われた。 また、東南アジアの経済発展も取り込む TPP に日本やメキシコ、ペルー、チリなどが参加し、同協定に不参加となったアメリカ合衆国を抜きにした独自の協力強化も進められている。 (中米)諸国とは、人的・文化的な交流に乏しいものの、経済的な関係を中心に平穏な関係を保つ。 また、などのとも経済・文化の両面で友好的な関係が築かれ、でも日本の要請を受けたキューバがの受け入れを受諾するなど協力した。 (南米)は、地理的にの真裏に位置するが、下記のように19世紀の後半からやと深い友好関係を有する。 また、かつて日本からの移民を大量に受け入れた経緯もある。 貿易関係では、との関係が特に大きく、戦前からの友好関係が続くアルゼンチンやといった親日的な国も多い。 :1973年7月10日の独立から二日後の同27日に独立承認。 1975年から外交関係が設立される。 2011年に「脱税の防止のための情報の交換及び個人の所得についての課税権の配分に関する日本国政府とバハマ国政府との間の協定」が結ばれたが2017年1月に改定することが両国で実質合意した。 バハマはタックス・ヘイブンとして知られている :中米諸国の中で最も関係が深い。 幕末〜明治期の以降に結ばれたは、それまで列強各国のに苦難を強いられた日本にとって、初めての平等条約である。 その関係で、数ある諸外国のの中でも国政の中枢地区ともいえる・に所在するのは、メキシコ大使館のみである。 第二次世界大戦では1942年にメキシコが対日宣戦布告を行い、フィリピン戦線では日本軍とメキシコ軍が交戦したが、メキシコ政府は国内の日系人に対する強制収容は見送った。 戦後の両国間の関係は良好で、多数の日本企業が進出するなど経済的な関係も深い。 特に自動車産業はメキシコと接するアメリカ合衆国への輸出も盛んで、1994年に発効した NAFTA の恩恵も受けたが、自国産業や労働力の保護をアメリカ政府が取るとその影響を受ける環境にもある。 :1872年(明治5年)にをきっかけに修交が始まった。 多くの移民が渡航し、(中南米)で2番目に日系人口が多く、第二次世界大戦では日系人の逮捕とアメリカ合衆国への国外追放がラテンアメリカ諸国で最も多く行われた。 1990年代に日系人である(で「フヒモリ」)が大統領に就任して急速に関係が緊密化し、の強行解決にも成功したが、失脚の後、日本に亡命した。 フジモリは出生時の日本国籍所持が有効と認められてに立候補した後にペルーに帰国して有罪判決を受けたが、娘のは2度にわたり大統領選挙で惜敗するなど、日本及び日系人の存在感は今でも強い。 フジモリ派と近い政権はTPP参加を決めるなど、日本との関係を重視している。 :1898年(明治31年)、当時のとの戦争に備えて軍艦リバダビア、モレノをそれぞれ、として購入し、それらが日露戦争で活躍したことなどから本格的な関係が開始された。 また、の領有権を巡って勃発したイギリス対アルゼンチンのマルビナス戦争()の最中、アメリカ政府やイギリス政府などからの再三の要請にもかかわらず、アルゼンチンへの禁輸措置を実施しないなどの日本の独自外交は、アルゼンチンの知日家から高く評価される。 :約180万人という海外で最大規模の日系人社会が築かれていることもあり()、政治・経済面のみならず、文化的な面からも非常に深い関係を維持している。 特に、が開催し始めて以降、ブラジル人選手が最多数の外国人選手であり続けている。 また、G4として共に国連安保理常任理事国参入を目指していることもあり、国際政治上で連携することも多い。 アフリカ 諸国は、日本とは歴史的に関係が少なかった。 主に日本からアフリカ諸国への開発援助と、アフリカ諸国からの地下資源や農水産物の輸入と日本からの工業製品の輸出という貿易関係が多い。 1993年から、ODAなどの経済支援を含む経済的・人的な交流を深める目的で、日本、国際連合、、が共催し、 TICAD:Tokyo International Conference on African Development を開始した。 近年、アフリカ諸国に大使館を増設するなど関係強化に乗り出している。 などの分野においては、アフリカ諸国の選手団を日本に招待した試合が行われており、良好な関係を築いている。 :(人種隔離政策)で世界から孤立していた時代にも、多数の日本企業が進出して比較的密接な関係を築いていた。 このため、国際社会から厳しい非難を浴びていた時期に、日本人は同国から「」(国連から非難決議を受けた)の扱いを受けていた。 BBC国際世論調査 詳細は「」を参照 第二次世界大戦の終結が決定的となる日本によるポツダム宣言の受諾(1945年8月14日)後、1945年8月28日から9月5日にかけ、大戦前から日本が領有していた千島列島(ロシア名:クリル諸島)に日ソ中立条約の破棄を通告したソ連軍が侵攻し占領した。 以後、ソ連を承継したが現在に至るまで実効支配している。 ロシア(ソ連)は、戦争で獲得した領土と主張する。 一方、日本は、北方地域(・色丹島・国後島・択捉島)をその固有の領土として返還を求めている。 ロシアは、歯舞群島・色丹島について日ソ共同宣言を根拠に日本への将来の返還を示唆している。 日本は、択捉島・国後島を含む4島の一括返還を求め、これを拒否する。 また、日本は、択捉島ととの間での国境の確定にロシアが同意すれば、引き続きロシアによる統治を認める旨を提示したが、ロシアが拒否した。 2007年にロシアが「面積二分割」案を提示した。 現在、解決の目処が立っていない。 樺太・千島列島を日本領と主張する有識者、団体も存在し、日本共産党は、千島列島の全域を日本の領土と主張する(ソ連による千島の占領が等で示された連合国の「領土不拡大」原則に反し、違法であるとの理由から)ほか、一部では南樺太ないし樺太(全域)(サハリン)の返還も主張される。 日本側は南樺太と千島全島はロシアとの間に領有権未定だと主張している。 相手国政府は「領土問題」はないと認識しているが、日本政府が「解決すべき領土問題」と認識しているもの 竹島(韓国・朝鮮名:独島) 詳細は「」を参照 日本の島根県・から北西約157km、大韓民国の・から約92kmに位置する、2つの岩礁からなる小島である。 日韓が領有を主張(韓国を朝鮮民主主義人民共和国も支持)して対立する。 韓国併合以前、とと、どちらの領土だったかを巡る議論に帰する。 日本の国内法上、1905年の・島根県によって編入された。 これについて韓国は、「秘密裏に、また強制的に行われたものであり、法的根拠は持たず無効である。 」と主張するが、日本は、「に則った適法な手続きがなされたものであり、また新聞などでも報道されており秘密裏に行われたとの指摘は当たらない」と主張する。 韓国は、独立から間もなく李承晩ラインを一方的に設定し、その内に入った日本の漁船・漁民をしてに抑留したのみならず、など漁船を相次いで銃撃し、多数の死傷者を出した。 その後の日韓国交正常化交渉で李承晩ラインの不当性や竹島の領有を日本が強く主張し、1965年に李承晩ラインが廃止された。 1954年7月にが占拠し、現在、が引き継いで駐屯する。 これに対して日本は、韓国による不法占拠として抗議し続け、また、1954年と1962年にへの付託を提案したが、韓国は、これに同意しない。 韓国民にとって独立の象徴と考えられていること、周辺の海域が豊かな漁場であること、また、莫大なや海底油田の埋蔵が推測されること、などが解決を難しくしている。 1965年の日韓基本条約の締結の際には日韓の実力者交渉で「竹島爆破」による領土問題の解消も囁かれたものの至らず、条約締結以降は外交的配慮で日本側からの提訴は控えられ、民主党政権では政府見解から「不法占拠」の表現が曖昧になるなど引け目になっていたが、2012年に李明博大統領による韓国トップとしては初の竹島上陸が強行されたことに対する世論の批判を受けた形で3度目の提訴が予定されている。 日本政府は「領土問題はない」と認識しているが、外国から領有権の主張がなされているもの 詳細は「」を参照 1895年(明治28年)に、当時の(首相)が「を日本の領土に編入すること」を閣議決定している。 後は、(および)の一部としてアメリカ合衆国のの下にあった。 時に、施政権が日本に返還されて以降、現在まで日本が実効支配するが、その他に(中国)政府および()政府がそれぞれ自国の領有を主張する。 日本政府は「日本固有の領土にして統治されている尖閣諸島に領土問題は存在しない」という見解を示している。 上の経済水域の問題や中台間の問題も絡み、複雑化の様相を呈する。 アメリカ合衆国との沖縄返還交渉および1970年代初頭の東シナ海における天然ガス発見を機に、表面化した。 中台に対抗し、度々、日本の右翼団体が上陸して灯台を建設(現在、日本政府が管理)するなどした。 2005年、台湾の漁民が海上保安庁による取締に対して海上で抗議デモを行った。 2002年からは政府が私有地を借りる形で管理し2012年には国有化されており、許可なく民間人の立ち入りが出来ない状況であるが、近年の中国人活動家による領海侵犯・不法上陸に対する政府の対応の甘さを指摘する世論の反発を受けている。 その他 領土問題に準じる、いくつかの問題がある。 日中間の排他的経済水域 詳細は「」を参照 中華人民共和国(中国)との間における、東シナ海で両国が主張する排他的経済水域の範囲の違いに起因する。 日本は、両国の国境の中間線を境界線として主張し、中国は、ユーラシア大陸の大陸棚部分を自国の領域と主張する。 国際的には、日本の主張が優勢であるが、中国と同様の主張をする国も存在し、現在、平行線を辿る。 近年、この問題が重要化したのは、この海域の地下に豊富なの存在が明らかになったためである。 中国は、天然ガスを採掘するプラント(春暁ガス田)を日本が主張する境界の近辺(中国側)に建設するなど強硬な姿勢を取る。 これに対して日本は、日本側の資源も採掘される可能性があるとして抗議し、また、この海域でのを設定し、日本の企業が取得した。 日本が国際司法裁判所に判断を委ねようとする立場なのに対し、これに同意しない中国は、両国での共同開発を提示するが、日本は、これを中国に有利な条件と認識するなど、依然、解決の糸口が見えない。 沖ノ鳥島 においてはの存在が明記されているため、締結国と日本の間に問題は存在しない。 はサンフランシスコ講和条約の関係規定を想起し条約を締結することに決定と規定されているが、韓国政府は2009年(平成21年)以降沖ノ鳥島を岩だと主張している。 日本政府は1931年(昭和6年)7月の(首相)での告示以来、沖ノ鳥島を島として支配しそれを継続していること、また、国連海洋法条約において島の定義が存在しないことを理由として、沖ノ鳥島を「島」であるとしている。 それに対して中国政府および韓国政府は、沖ノ鳥島に関する日本の権利を容認しながらも [ ]、国連海洋法条約121条3項における「岩礁」の定義に基づいて沖ノ鳥島は岩礁であると主張しており、沖ノ鳥島を起点に設定される日本の(EEZ)については容認していない。 現在、両国の関係が良好であるために情報の交換もスムーズだが、において防衛上の重要な問題となる可能性が高い。 2005年末から2006年にかけて台湾が防空識別圏から与那国島を除外して運用していたことも判明しているが、特に両国で取り決められたわけでもなく、曖昧なままである。 2010年(平成22年)6月25日、日本は(首相)下で「訓令改正」により防空識別圏を与那国島上空にも拡大した。 台湾には外交ルートを通じて説明した が、台湾の外交部は「事前に我々と十分な連絡をとらなかった」として遺憾の意を表明 、日本の決定を受け入れないとしている。 ・の放棄後帰属問題 南樺太および千島列島は、時代、いわゆる「」であったが、で日本は領土を放棄した。 しかし、ソ連・ロシアとはのみ解決などから領有権を認めず、「未帰属」後として扱った。 しかし、ロシアが実効支配しており、マスコミでも日本語名称は使用されなくなりつつある。 また、それとは別にが「返還」を主張している。 は南樺太と千島列島の全域が日本領であるとしている。 日本政府はこれらの問題について、「未帰属」(=未解決)としており、ロシアとの平和条約が締結された後で解決するとしている。 台湾の放棄後帰属問題 日本は台湾の領有権を放棄したが、いまだに中華人民共和国の領土とは、認めていない。 一時は中華民国に割譲したが、今の日本政府は中華民国を「合法政府」とは認識しておらず、台湾の地位については、「発言する立場にない」としている。 台湾の主権が日本に残留している、あるいは、台湾の帰属は台湾住民の意思によって決定するべきである、という意見もある。 韓国の反日過激派によるの領有権主張問題 大韓民国には、対馬は韓国領であると主張する、一部の過激派が存在する。 しかし、韓国政府もそのような主張は、決して承認しておらず、日韓の右派団体同士による衝突を除けば、国際問題にはなっていない。 渡航する日本人 安全 近年、海外への渡航の増加に伴い、犯罪に巻き込まれるケースも増えている。 特に以降、爆破や拉致・監禁事件なども多発し、有名な例としては、、、では武装勢力に殺害される事件も2013年に起きた。 また、2002年にのリゾート地で現地の風習・文化をよく知らずにとされる場所に無断で侵入したために地元民に殺害される事件も発生した。 世界的に最も良い方である、例えば殺人の発生率が低い順に第3位(2000年〔12年〕)であることなど、日本人が日本での治安の感覚と同じように海外で行動すると、その感覚の大きな隔たりから犯罪に巻き込まれることがある。 米最大手の旅行ウェブサイトであるが行ったアンケート調査で、「行儀がいい」、「礼儀正しい」、「物静かで慎ましい」、「クレーム・不平が少ない」の各分野で1位を獲得するなど、2位のアメリカ人を大きく引き離して1位となった。 一方、以下のような事例も存在する。 2008年11月26日、の生徒21名(当時)が中に立ち寄った米国・の空港内にある免税店で高級ブランド品の集団を行い、アメリカのメディアで大きく報道された。 治安維持 対内 詳細は「」、「」、および「」を参照 国内の治安維持は、主にが担う。 警察の機構は、の一機関たるとこれに属する、そして各都道府県の・による二層構造であり、後者の下部組織たる、更に日本発祥のの存在が地域の安全を担う。 交番は地域に根ざして、小ブロックの担当地域を効率的かつ濃密に警備できる。 日本の警察は等をも擁する文民警察である。 警察以外では、の機能を有するがのとして、また、の機能の一部を担う()やの()、あるいは、特にを専門に管轄するの各()などが、それぞれ設置されている。 により、・などのの所持を厳しく規制している。 の統計によれば、国連加盟192国の内、犯罪・刑事司法の統計を報告している国の中で、殺人、誘拐、強制性交、強盗などの暴力犯罪の発生率が著しく低い。 その理由については、制度的な要素、社会的な要素、日本人の遵法意識の高さなど諸説あるが、その一つとして厳しいも挙げられる。 但し、に見られるように日本と同等ないし罰則だけなら日本よりも厳しいのにもかかわらず、殺人事件に占める銃の使用される比率が日本の倍を超える国が存在するなど、銃規制のみが治安維持に貢献しているわけではない。 、海上自衛隊のヘリコプター搭載護衛艦(DDH) 日本の防衛組織として自衛隊が存在する。 自衛隊は「我が国の平和と独立を守り、国の安全を保つため、我が国を防衛することを主たる任務とし、必要に応じ、公共の秩序の維持に当たる」ために設置され、事実上のとして機能し 、・・から構成され、内閣総理大臣とによる(シビリアン・コントロール)の下、によって管理される。 また、事実上のとしてたるが存在するが、海上保安庁での対処が困難な事態が発生した場合、主に海上自衛隊が担当する。 大日本帝国憲法のを根拠に旧が政治に深く関与したことへの反省から、自衛隊法第7条により、内閣総理大臣が自衛隊の最高指揮監督権を持つと規定され、文民統制に注意が払われている。 また、同じく戦前への反省からは長らく行われてこなかったが、やを契機に開始された。 現在では、海外派遣任務は自衛隊の主要任務となっている。 第二次世界大戦後、日本の部隊は、その所属にかかわらず、一切の直接のを経験していない。 連合国軍の占領下にあった1950年、朝鮮戦争で海上保安庁の機雷掃海部隊()が派遣されたことがあり、死傷者も出している。 やその他の公開演習などを通じて高い練度を評価されることも多いが、他国の軍隊や組織と交戦に至った経験はなく、実際の戦闘においての能力は、未知数である。 日米安全保障条約に基づき、在日米軍が駐留する。 (イギリスの経済紙・の調査部門であるが平和の指標として24項目を数値化する)「」の2009年度版によると、戦争・内戦・テロ、それによる死傷者が無く、軍事費のGDP比が低く、犯罪率が低いことなどから、、、、、、スウェーデンに次いで7位に評価され、2010年には3位とされている。 ただ、この指標にはアメリカに防衛を依存している日本などに対し有利な計算方法との指摘が出ている。 航空自衛隊 要員・装備・予算 以下のような政策・傾向を継続している。 防衛費の絶対額では世界上位。 しかし、国の経済力に対する防衛費の割合は、著しく低水準に抑えられている。 ・・・の数などに見られる規模の小ささを、質の向上や同盟国(アメリカ)の能力によって補完する。 近年は財政状況の悪化により、仮想敵国や周辺諸国との協調的なでなく、単独で一方的・自主的に軍縮する。 SIPRI の統計によると、以下の通りである。 (GDP)に対する軍事費の割合ランキングは、世界の150位前後である (これは、アメリカ(CIA)の発行する CIA World Factbook の統計においても同様である )。 2008年度の防衛に関連する予算の総額は、為替レートベースで463億(アメリカ)ドルであり、1位のアメリカ合衆国、2位の中華人民共和国、3位のフランス、4位のイギリス、5位のロシア、6位のドイツに次ぎ、世界7位である。 このように GDP に対する割合の順位(世界の150位前後)に比べてドル換算した絶対額の順位(世界7位)の方が格段に高い理由として、以下が挙げられる。

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東風 谷 早苗 誕生 日

東風谷早苗(こちや さなえ)とは、「」の「」に登場するである。 種族:()• :を起こす• られるの(・)、山の新人()、現代っ子の()、皮相浅薄な()、欲の()、山に住むの()、とのテギスト() 一子相伝の秘術を持つ。 の(後述)。 信仰が得られなくなったから、・の二柱と共に大結界を飛び越え、にとごと引っ越してきた。 第10弾『』の. 5のとして初登場。 ちなみに、直前に直々にまで乗り込んでいるため、と初めて会ったのはより前である。 その後の活躍は「以降の登場について」の項を参照。 容姿・性格 の長に、とを基調にした。 背はより少しだけ高く、よりは少し低い。 には()と()をあしらった2つの飾りを着けている。 性格はいたって面で明るく、・素直。 自分のに自信を持っている。 時には過信しすぎる事もある。 (設定より) と慕われただけあってにも劣らないが、少々惚けた所もある。 (設定より) にく、だけれどずれている。 間抜け。 初登場のにおいては二柱と共にの地上げを狙い、らと争った。 その後はやとも和解しの信仰の確保に奔走する傍ら、に言われて始めた退治の楽しさに覚め、異変を解決する1人となったり、二柱のす「山の」のために積極的に活動しているようである。 書籍作品に登場する際は割としく、社交的でな性格なのだが、ではが高めではっちゃけたが飛び出す。 能力 を起こす にを操り、乞いなどで使われているようである。 幸運に関わるではないらしい。 を起こすためにはが必要であり、の大きさに見あっての長さが変わる。 簡単なならば一言で起こせる。 変地異のも可らしいが、数日を続けるというには的でない芸当が必要なので、実質理かもしれない。 風祝(かぜはふり) のとは、のをるである。 しかし、秘密の多い秘術でやを降らすを起こしているうちに、自身もまたと同等の扱いを受け信仰を集めるようになったため、でもある。 ではがの前で「といえばのようなもの」と自らのことを述べていることから厳密にはとは異なる可性はあるものの、の設定上「さん」と書かれ、書籍でも「」と呼ばれ、基本的にはと同様にとして扱われている。 なお、は「」であると同時に「人」でもあるので、信仰がなくなっても「人」としては生きていられる。 ちなみに「かぜはふり」は的仮名遣に基づく方であり、に基づいて読む場合は「かぜほうり」となる。 その他 からの一般的な呼称は「」。 出しで全体的に・のなため、登場当時はとの対で「」「」「」などと呼ばれていたが、その後の作品に頻繁に登場するにつれ独自のをしたため、ではそのような呼ばれ方は稀である。 によると、は遠い先祖に当たるらしい。 また、周囲はやばかりなのでの話し相手が欲しいと思っているが、麓のは染みたばかり。 そのうち自分もあのかと少しだけ心配しているようである。 の中ではしくが苦手である。 飲めないわけではないらしいが、すぐ酔いつぶれたり、宴会で突飛な行動(とか)をしてしまったりする。 ちなみに、「」という名前にはがある。 の人物であり、の78代長官、現当・(生まれ)。 上記のようにの土着信仰がのになっており、でのの一部に「」という発言があったため(がわと、ではのことをす)、出身地はではないかとも言われていたが、において、生まれであることが確定した。 風神録以降の登場について 東方地霊殿 が10. 5作となった際にしたは数知れず…そのため、第11弾では今度こそと思われていたものの、でははおろかとしても登場しなかった。 が、で頒布された版ではとしてまさかの登場を果たす。 の事態に驚きを隠せないが多かったに違いないが、ついでに妙な方向にを解釈してしまったようで、なんだか変に染まってしまっている。 まあ、言ってることは間違ってない。 非がのだから。 決して外れな思考になったわけではない…と思う。 しかも後の再登場では、以外のに、あたかもその日初めて出会ったかのような反応をされている。 は二柱の徴であるとを模したものになっている。 としては胸が大きめに描写されているようにも伺える。 なお、の自機としての性であるが、特にB装備(様の仰る通りに)が威、範囲のどちらも高準で使いやすく、による巻き込みもあり性も高い、というかた話 えれえ強い。 特にのとの相性が抜群に優れており、にを撒いているだけでの放つを片っ端から粉砕出来てしまうため、のそのものを根底から突き崩してしまっている。 「特殊:これといってい(短所が)」。 そんなわけでも並み居るを薙ぎ倒しながらに迫るなのであった。 そんなムード漂うB装備に対して性ではA装備(の仰る通りに)であるが、会話が もの事になっており、のを存分に楽しめるとなっている。 初めはに慣れる為、に言われて始めた退治の事だったが、次第に退治に楽しさを感じるようになり、と戦う頃には「退治のい?それは困ります」と的と手段が入れ替わっている。 一応「に帰依しないを矯正するため」という的意識を持ってはいたようだが、がに帰依していると知っても退治しようとしている。 参ったかー!! そして、になぜ退治をするのか尋ねられると、退治をしないとは訪れないと も言ってたと答え、やっぱり勘違いだったぶりを見せてくれた。 ちなみにこのでになると、によって「 も悪い人ばかりじゃないのですね」と考えを変えさせられることになる。 の時といい、っは染まりやすいのである。 でののは「何かが頑る」 に引っ越してきて2年、に慣れてきたは突如現れた巨大(?)を追いかける。 どうも巨大が好きらしく、二足歩行には憧れを抱いており、乗りたいとも思ってるらしい。 に現だと否定されても巨大だと信じていたり、に巨大を作れないのか尋ねてみたり、から のことを聞かされて驚いていたり、に対する妙な信念が強調されていた。 10の性は、良くも悪くも中間あたりといった。 専用を消費する2人のを地面に設置したり突進させたりとライクな技が多く、その方面でになったものの、蓋を開けてみての性を最も特徴付けたのはその(中とは別の、中での移動手段)である。 画面全体にを巻き起こし自分自身にをかけると言う特殊な形になっているが、このが途中で方向を変えられないため 他では出来る旋回がだけ全くできず、をやめてもがすぐに止むわけではないため急なUもほぼである。 その代わり、このによって自分の一部の技の効果範囲やを変化させる事が出来るため、熟練すれば相手を翻弄するな動きが可になる。 以外の性はと言うとみたいに強度の強い横弾(C・)、高飛びからばら撒くのに便利な5弾(C)、ガ不可・前進するためが長い・付きと3拍子った、ガ不可で通常でも追撃可ななど一部るものはある。 射撃の出がどれも遅いなど一部欠点はあるがどれもそこそこの性は持っており、の隙を出来て状況の構築が上手い人なら上位とも十二分に渡り合える性はある。 ただ「技」と呼ばれるほどのぶっ壊れ技がいせいか、他使いの人から見たのとしては「『の』がの禊」「『客の明るすぎる』が本当に明るすぎる」くらいのしか持ってない人もいたとか(明るすぎるはが重過ぎてそこそこのを持つでもになってしまう程だった。 verにより軽減され適度に明るいになったが、それでもまだまぶしい。 ちなみにVe. 03までは「のモーションが」なんてのもあった)。 なお、がのを多用するのは別にが最近までなだったからとかそう言うわけではない。 ちゃんと陰陽に関する意味がある(の九字刺しの項を参照)。 まるでのような特徴的ながついており、しかも話が進むほどに成長(?)している。 のに使う合を作ってもらうために命(の)の降霊をお願いしたり、同じということでのを預かったり。 をさせながらいろんなことに積極的に関わっている。 福のの話では四郎についての知識を披露したりもしている。 のが山に住んでいるだけあって、とも以前から顔見知りだったようだ。 宴会で一人だけいちく酔いつぶれている描写がある。 第7話で人からになった者を聞かれた時の「! !」と邪気な笑みで自分をさすは、におけるの特徴をよく表しているともっぱらの評判。 このを他に変えたも描かれている。 は安心のであり、高速ではかなりの広範囲、低速ではそこそこの密度でのが撃てる。 特殊として、霊を取ったときの霊界回復量が他と較し1. 積極的に霊界入りを狙っていこう。 そして肝心の会話面であるが、をのだと思い込んでいたり、「方、のじゃいわね?」と言われて「判ります~?」とで返答したりと今回も存分に節を利かせている。 また、EDに普段着のが登場したり、食事の用意はのメンツの当番制であったり、実ははでが苦手だったりと意外な一面も判明した。 しかし…に対して「知ってます見てました、可かったですよね」という反応を見せたのが気がかりである。 「」とは「幻士」というのであると思われるが、この、開されたのが~なのである。 のは放映当時に見ていたと取れる言い方であり、この時代に物心が付いている年齢ということは…。 (、それを見た可性もある) 他にもの「人は私を徳王と呼ぶわ」というに「あの旧の?」と返している。 が印刷された旧が発行停止になったのもである…こちらはに保存してあった旧一万札を見たことがある、などと推測することもできるが…。 身も蓋もない言い方をすれば氏が両方のド世代なので、ちょろっとばせたなのであろう。 最近してきたは要員として都合がいいのだろうか?まぁ何にしろあまり深く考える必要はないのかも。 ちなみにでは私を見ることができる。 隠しでは「さなえ」の入りの士を着ているのを見ることができるので、挑戦する価値は高い。 茨での特徴的なはも形もい。 中がに苦悩していた時期、は「の」をったのであるためか、からへの対策法をめられた。 はこれを信仰を獲得する好機とし、人里の外れにを立て、そこにお供え物をするように上がって大衆に説明する。 出し抜かれて悔しがるの摘に対し「そんなのような事するわけないじゃん。 これは地な営業活動ですよ」と釈明している。 に続いてのをで披露し、に軽ーくかれている。 が打ち上げられたのは、つまりがした後なのになぜ知っていたのかはである。 自機としての性は登場時のAとBを足して割ったような性であり、はBのスプ、集中はAの、はBの「手管の」となっている。 それぞれの性ものものとほぼ同様である。 が較的高性かつとしている(でチャプターを稼ぎやすい)ため、特にの入手量が多いに向いた機体。 で、肝心の面だが、夢を通じてに行けることに年ぶりの有人探のと。 「寝るな!寝たら(私が)死ぬぞ!」「いざ尋常に勝負せーい!」などと相変わらずの製造機状態である。 だが、何よりもに衝撃を与えたのはのに投げつけた「 ではめて…さっさと勝負しろ!」という暴言であろう。 しかし時代になり世襲制が止されると、その伝承も途絶えてしまう事となった。 なおタージは thgeと書く(つまり・タージと区切る)。 直訳すると「太古のの使い手」と言ったような意味。 (にの、太古のと言う意味があるのはにしか載っていない様子) 秘術「忘却の祭儀」 H 秘術「一子相伝の」 L 「の客」 E-N 「客(かくせい)」とはのの名前ではなく「いつもは見えないが一時的に見える」の事。 たまに近づいてくるの他、のように最後のきを放つ「」がそれに当たる。 特にのは、でもないのに間でも眼で見えたり、ならば暗闇を照らしてしまうほどの明るさを持っている事があった。 (6年のものが有名) 「客の明るい」 H 「客の明るすぎる」 L 開「がる日」 E-N 「がる」のとは等のではなく、この場合はの事。 はに全面するが、気温の上下による圧の変化から氷が両側からの圧に負け、て山脈のようにせり上がり対までのようになるという現が数年に一度起こる。 これを、様が通っただとして「御渡り」と言う。 開「の」 H-L のの方はのに書かれている逸話に由来する。 はでとされてきた人を連れてを出たが、中でに差し掛かった際、を2つに割ってを歩いてを越えたという。 なおではと言うより 相手を割る。 準備「を喚ぶの」 E-N 次のがに関するものだからか? なお、によると秘術「忘却の祭儀」の祭儀とは このを喚ぶまでに至る一連のの事らしい。 準備「ンタケミナカタ」 H-L タケミナカタとは「建御名方」と書き、に伝わる伝承では、洩矢が土着として治めていたのに攻め入り、洩矢のの輪にの蔓で応戦し、洩矢を降ろしてを治めるに至ったのの事、即ちで言うの事。 もっと言うと、を奪ったはいいが独ではのように統治が上手くいかず、しかしの協を仰ぐには対外的なメンツがあったため、新たな建前上のの名前として掲げたのが「タケミナカタ」である。 余談だが、建御名方には建御に勝負を挑んでおいてしをするという かっこ悪いがある事でも知られているが、これは当時の資料ではにのみ見られる記述であり、建御は当時を増しつつあったの氏であったため、が自分の権威を増すために編纂に介入して作らせた話ではと言う説がある。 もっと余談だがを編纂したのはの転生前であるであり、とはの血族である(と言う説が濃厚)。 世間は狭い。 「の」 E-N は・軍として祭られているであるが、実際タケミナカタも同じく・軍として信仰されてきた。 かの元が起こった際にも盛んにに祈願が行われ、元を防いだと言われる「」はのタケミナカタが起こしたものだとされている。 大「の」 H-L 秘法「九字刺し」 九字とは臨・兵・闘・者・皆・・裂・在・前の9つの。 これらを唱えながら縦4・横5の線で格子を描くと言う秘術。 これは本来「九字を 切る」と言うが、「刺し」がどこから来たのかは不明。 自機が格子状に交差するに「刺し」にされる様子とかけているのか。 なお、縦4・横5の格子模様はドーマンと言い、今のの辺りの女(あま:に潜って 産物などを獲るの)に伝わるの一種である。 同じく「セーマン」と言うの模様のとで「ドーマン」と言う。 の中に出てくる「ドーマン~」はこのこと。 「」 についてはの項を参照。 「」つながりか? 徳「五穀豊」 五穀とは、麦、豆、(あわ)、(きび)または稗(ひえ)の5種。 この5種に限らず、穀物の総称としての意味もある。 はであると同時にのでもあるので、それにかけた名前だろうか? はのの際の習である…が、関連性はと言う点以外は不明。 符「代」 装備 「かみしろ」と読む。 代とはの化身またはそのものとされるものの事で、そのを表す徴的なものを代としてる。 においてはの注連縄が、自らがる(対外)を表すものである。 符「手管の」 装備 「てくだのがま」と読む。 手管とは手練手管のことで、巧みな手段で他人を思いのままに操る事。 がをり使役するである事を表す符だろうか? 祈願「商売繁盛守り」 2 B射撃のお札と同じものをのように前方に射出する。 意味としては、もなのでにお守りなどを扱っていると思われるが、そのお守りを使ったと言う事だろうか。 物騒なお守りだ。 御籤「乱れ連続引き」 2 にもあるを4連発する。 大吉・吉・・大の4種類があり、それぞれで効果の程が異なるが、いずれにせよしてが発生するという点では同じ。 これまた物騒。 と言うかは連発したら意味がいのでは… 符「を泳ぐ」 は八卦における「」をるであり、を徴とするでもある。 の「」に対応している。 なお「(飛ぶ)」は伝承として伝わっている地域(中南)もある。 「の」 とは、から本来降ってくるはずのないもの(とか石とかとか)が、突如として大量に降ってくる現のこと。 とも言う。 「 lls om the sks」を縮めて「os」という造。 原因は説など様々であるが、往々にして「だけ」「だけ」が降ってくるため、や土なども一緒に巻き上げられていないとおかしいでは説明が付かない、の一つとされている。 ちなみにではャクシが降ってきた事例があります。 内ではが弾をばら撒くと、それが落下してに変化するという。 が降ってきた事例にちなんでいるのだろうか? もしくは、上記のャクシはに割と近いでの話であるため、自らのをャクシに見立てての「=への変化」だろうか。 「安の」 -3 安の役と呼ばれる元のへのはによって失敗に終わるのだが、このを起こしたのはのであるとする説がある。 このにて低速のの弾群が現れるが、これが元の船を表しているのだろうか。 符「手管の」 -6 の同を参照のこと。 退治「妖」 -9 Xのトリを飾る。 のを吸い取り、そので攻撃するという前代未聞のである。 秘術「タージ」 自機 のときと違い、自身のみのでを展開する。 のが回る、ほぼ全画面をする。 威・効果時間ともに並みだが使いやすい。 に関してはの同を参照のこと。 符「ン」 7-4 はの十八番芸「三」でのの「ン」から。 に続きのに妙に詳しい。 版でも、こののをやっていたので、それを見てた可性もあるが は、が御札をばらまきながらに見立てた弾が縦方向と横方向に展開される。 縦方向のは間隔が狭いが位置が固定のため、画面中央にいれば避けられる。 後は落ち着いて横方向のと御札弾をを見て避ければでも取得可。 符「ン」 7-8 は上記を参照。 に見立てた巨大なへにょりが画面一杯に這いずり回る。 軌がにくく密度も高いが、弾速はなので落ち着いてよく見て避けることを心掛けよう。 二次創作関連• の三柱を一括りにして「」と呼び、のほのした情が描かれることが多い。 からやって来た経緯について描かれることがある。 この場合は概ねな内容になる。 例:特に両親との兼ね合い。 自分に関する記憶を消去したり、で永遠の別れを告げたり、中にはのように一子相伝の秘術だから既に殺めていたという酷い解釈も(ではかつて「大屠(おおほふり)」といって実際そんな事をしていたが)• に来る前はだったとして描かれることが多い。 ただでの描写はない。 またが「」か「」かで活発ながなされる。 ちなみに、絵の特典のは…。 最近までにいた現代人として、でのカルチャーなどが心配されている。 に来たばかりなので他のと初対面として描かれることがある。 では特別なを持っていたことから・持ちとして扱われることがある。 と官職や見せつながりでいろいろ騒動が…。 今更ながらの存在に恐れをなしたり、も逆らわないに喧を吹っかけたことで他のからいろいろ言われていたり、更にと同一人物(2P)扱いされたり、とのいざこざ事も数多し。 胸の大きさではの膨らみ等から>とされることが多い。 の消費はかなり速い。 内の度も非常に高い。 なぜかのあたり棒をよく引く(嬢の持ち)• なぜか「さん」をつけたくなる• 面であるという記述からとして描画されることが多い。 …が、での一部過な発言からとして描かれることが増えた。 それもわずかな期間 で。 S苗さん・ ハフリ• (に専門)。 ではムーとか読んでたという発言が。 絶対にゆるさない、(「」発祥) でのがの許されざるに酷似していた事から。 の汎用性やややな部分、自身のが相まっていっぱいいろいろやらかす。 尚、関係のにこれらの方面でのを持ち込む人がしばしばいます。 は人によって好き嫌いがしく分かれます。 には特に気をつけてください。 お絵カキコ 信仰が増えた結果が だよ! 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早苗 (駆逐艦)

東風 谷 早苗 誕生 日

俳句 e船団 俳句クリニック 「e船団」のドクターがあなたの俳句を診断したものです。 2014年2月26日 えなみしんさドクター : 今週の十句 (到着順) 【はじめに】 ことしは雪の当たり年です。 雪の日に東京から京都に行った先週、京都も雪でした(雪の金閣寺をみました!)。 帰ってきたら、東京はまたまた雪でした。 東京は案外、雪の降る町です。 1984年には、年間で92センチ、27日もの降雪がありました。 2月の雪は、ぼたん雪のような淡い雪を思いますが、こんなに降ると、「春の雪」のイメージが変わってしまいそうです。 【十句選】 宿六のシャツ裏おもて朧月 伊藤五六歩 宿六とは、また古風な表現を。 八代目文楽さんの裏返る声が聞こえてきそうです。 もう、ほとんどその措辞だけで、ひとつの世界ができてしまうのだから、言葉って大事です、今更ながら。 東風頬に新系統のバスに乗る 大川一馬 「新系統のバス」と言うのは、新設されて今までなかったコースを走るバスということだろう。 そういうバスに乗るといつもの町が別の町のようにおもえるだろう、きっと。 その気持ちを「東風頬に」で強調したかったのだと思うが、やや説明的。 文章も散文になっている。 ここは「朝東風や」「雲雀東風」のように切りたいと思いますが、いかが。 干からびたままの雑巾多喜二の忌 せいち 多喜二忌は2月20日。 拷問によって虐殺。 警察権力の横暴を忘れてはならない。 多喜二の悲劇を、干からびた雑巾にこめて、秀句。 今朝生まれましたわたくしふきのとう せいち 俳句はジグソーパズルのようなモンだなぁ、と、この句を読んで思いました。 「今朝生まれ/ましたわたくし/ふきのとう」と、句またがりになりながら、カチッと言葉がはまっていて、だからこそ、ふきのとうのういういしい感じが伝わってくるんだろう(句もそうだが、この文章もヒラカナが多いぞ) 春日傘くるりと銀座四丁目 今村征一 「春日傘くるり」が銀座四丁目と響き合って、はなやか。 その景が見えるようです。 振り返ったら、若き日の、若尾文子だったら、どんなに好いかなあ。 啓蟄や皆さんセコムしてますか おがわまなぶ 言ってみれば、テレビで拾った言葉に季語つけただけの句なんだけど、季語が効いてますねぇ。 長嶋さんがにゅっと現れて、甲高い声で語りかけてくるようです。 大成功! 奪衣婆に寝巻剥がさる朝寝かな 邯鄲 「脱衣婆」とは、三途の川の渡し賃を持たずにやってきた亡者の衣服を剥ぎ取る老婆。 ここでは、母上か、あるいは奥さんでしょ。 これは、明らかにあんたが悪いよ。 この句も「脱衣婆」の言葉で決まり!の句。 絎け縫いの前へ前へと日脚伸ぶ 草子 「絎け縫い」クケヌイ、読めませんでした。 和装で「折ってある布と布を縫う方法」らしいです。 こまかくかがって、次のハリは少し飛ばして縫う。 とうことはぐいぐい進む。 この感じを「日脚伸ぶ」と捕まえた。 面白い目のつけどころだと思いました。 スノーマン町の人口増やしけり スカーレット スノーマンって雪だるまのことだと思うけど、スノーマンじゃないと、人口が増えることにならないからダメ。 実にスノーマンが効いてます。 カナダかどっかの小さい町のことなんかが想像できて、好いですねぇ。 雲と雪狭間の人間世界かな スカーレット わたしには、なんか難しい句でした。 じゃ、なんで採ったかというと「狭間の人間世界」という表現がいいと思ったからです。 「雲と雪」というのは、曇りの空が、雪になる。 あるいは、雪と曇りが交互にくるような気候だと思うんですが、どうもピンとこない。 「雪と雲」の方が、雪の実景がみえるから、まだ分かりやすいんじゃないですか。 何時の間にニット王国箪笥の上 意思 タンスの上のニット王国という表現がいいなぁ。 セーターが畳んで置いてあるだけかも知れないけど、どうも手作りセーターっぽい。 思うに、網掛けのセーターや手袋やなんかが、いくつも、置きっぱなしになってるんじゃないかなあ。 【十句の候補句】 天に月路地には猫の声冴ゆる 今村征一 天と路地の対比が面白かった。 冴ゆるだから冬の季語だけど、路地の猫だから春っぽいと思う。 猫の恋で作るのでは、決まりすぎかな。 「天に月」の後をちょっと開けると読みやすいのでは。 酒飲むか薬を飲むか春の風邪 とほる たしかにそうなんだけど、俳句というのは少ない言葉の組み合わせで、言葉以外の何かを感じさせるとか、思わせるとか、そういう詩形なんだと思います。 半分は、自分に言ってます。 春障子男同士じゃはじまらぬ せいち 何が始まらないのだろう。 春障子だから、ひな祭りのようでもあるが、どうもそういう事ではないようだな。 寝て起きて食べてあらもうまた春が 鴨川美知 俳句は動詞がひとつが原則、なのに3つも入って面白い句です。 「あらもうまた」が意味がだぶっています。 そこに手をくわえると、もっと良くなる、きっと。 煮ひじきの縄文の砂かもしれぬ 紅緒 「縄文の砂」を見て、「これは煮ひじきだ!」と思ったという事でしょうか。 ちょっと意味をつかみかねた。 春大雪ずぶずぶずぶずずぶずぶず スカーレット 面白いんだけど「ずぶ」の繰り返し回数が多すぎて、まとまりに欠けたと思います。 「春大雪」も説明的かも。 「ずぶ」の繰り返しで、その大雪感がだせるといいんですけど。 松風や魚氷に上がる昼の月 山歩 「魚上氷」・・(うおこおりをのぼる)というのが、72候(24節をさらに3つに分けたもの)にあって、その珍しい季語をつかった句です。 古い季語を古い言葉と組み合わせたので、俳句が古くなってしまった。 たとえば「魚氷にあがる/真央ちゃんも」(オソマツ)とか、新しい言葉で作りたい。 仏膳に熱めのお茶や今朝の雪 とよこ 仏壇の写真と共に暮らしている日々が伝わってきて、好ましい句でした。 寒鮒の鰓を無口の水動く 戯心 「無口の水動く」が作者のオリジナル表現。 ジッとしてる鯉の鰓は、静かに水を吐き出しているという事でしょう。 うまく言えてると思うのですが、なにやら漢文の読み下しのようで、わたしはニガテなんです(わたしが悪い)。 【その他、気になった句】 手袋の中の拳や星の朝 太郎 手袋をして拳を作ってるのではないでしょうか。 「手袋で握る拳や」などでしょうか。 星の朝はいい。 「もったいない」が地球を救ふ水の春 古田硯幸 水を節約しましょう、という事と思えてしまうと、詩がうせてしまう。 バレンタインチョコ先生に照れてます きのこ チョコが照れている、と読めます。 それとも「チョコ先生」なのでしょうか、意味が伝わりにくい。 ヒヤシンス恋に恋する人の常 京子 「恋に恋する」は、昔からある言い方ではあるが、使い方次第のフレーズだと思う。 「人の常」としてつまらなくなってしまった。 かくしごとかくせない性質猫柳 紅緒 かくしごとがかくせない、という言い方が面白いが、「性質猫柳」がおざなり。 ストーブは落ち着き払って居るばかり 意思 アラジンのような昔からのストーブを思いました。 面白い表現だとおもうのですが、ピンときません。 カンロクがある、ということか。 地震でも来たのだろうか。 以上 2014年2月19日 岡野泰輔ドクター : 今週の十句 (到着順) 【はじめに】 二週連続の雪で既に雪掻きにうんざりしている自分がいます。 雪国の方からみたら笑止千万か?春の雪は余情あふれた美しい季語ですが、慣れぬ雪掻きで痛めた腰では美しい句はできそうにもありません。 寒いしね、ソチより寒い。 さて雪の中届いたみなさまの句楽しませていただきました。 【十句選】 並木座を出てシネパトス柳絮飛ぶ 伊藤五六歩 俳句における固有名詞の効果の好例です。 シネコンの増加により、都心の映画館が次々と閉館しました、特に掲句のような名画座が。 既に無くなったものを詠んでいるので、郷愁が漂います。 それで柳絮飛ぶという季語が特に効果的です、銀座の柳ということを超えて。 母を訪ふ淡雪溶ける畑を抜け きのこ 俳句に母がでてくると、ちょっと身構えてしまいます。 俳句に限らずとかく母モノは難しい。 表現上、母という無条件の価値観からの距離がとりにくいからでしょう。 その点この母は無色、読者それぞれが自らの母親像を代入できます。 淡雪の文字通りの淡さがこの句を気持ちよい春の田園に広げています。 竹炭の火花弾けて猟期果つ 学 竹炭を焼くことも、狩猟も私には経験がありませんが、なんとなく憧れはあります。 寡黙な男の感じ、健さんですね、いかにも冬の山野の生活。 ただこの句はそのような冬のイメージが先行してリアリティーは希薄です。 水仙の香りおもたし四畳半 遅足 何よりも先ず、この四畳半という空間の容量が「香りおもたし」を説得的にしています。 「おもたし」は心理的な重さまで読み込むのもありだと思います。 料理ぐらいできなきゃあんた寒椿 ロミ 気っぷのいい姐御にばっさり切られたように言われた感じです。 男はこう言われてしまったら首をすくめるだけ、特に料理のできない私などは。 伝法な会話体で切れて、さっと下五の寒椿に飛ぶ呼吸が気持いい。 この寒椿はいろいろに読めますが、きりっとしたこの会話の主、姐御のたたずまいともみえます。 大寒の騎馬像奥に青テント 隼人 これは景がすぐ目に飛び込んできます。 見たことがある、と思わせられます。 もしかしたら、その記憶はこの句を引金に私の頭の中で合成されてしまったものかもしれない。 どこかの公園の騎馬像、楠木正成とかそういう武人。 それに青テント、私はホームレスの住居(あ!変だな?)と思いました。 それぞれ別個の視覚体験として読者のなかにあったものが一句をきっかけにひとつの追体験になる、そんなことを考えさせられました。 この句自身は印象鮮明な写生句です。 宝くじちょっと当たってぼろの市 邯鄲 俳句では世田谷のぼろ市をさして冬の季語とするそうです。 そういう意味ではローカルな季語。 古着、古道具、日用雑貨など、いずれにしても高価なものはありません。 「ちょっと当たる」との言い方がその時の弾んだ気分も表して気が効いている。 犬小屋に眠る鎖や霜の花 佐々木博子 中七「眠る鎖」がちょっとした謎を呼びます。 鎖で犬を表す換喩的語法。 このように解が分かれてしまうのは俳句では一般によくないとされているようですが、私はそうは思いません。 詠むたびに犬小屋の中の犬の像が明滅して、そういう句のあり方も魅力的です。 季語「霜の花」はベストではないような。 もっと大らかな季語で、季語自体が後景に引いて鎖がより焦点化されるという方法もあると思います。 日脚伸ぶのの字に混ぜる天ぷら粉 佐々木博子 気持の弾みが料理しない私にも伝わる解りやすさ。 のの字の具体的動きが効いているのでしょう。 厨の作業に時候の言葉を取り合わす句型はよくあるとはいえ瞬間的に解る快もまた俳句のもの。 類句類想と紙一重ですが恐れずに多作あるのみ。 そんなわけで上五季語の部分は無数に取り替えがきくことも事実なんですが。 想像の翼あるべし鶯餅 紅緒 前句が実感の句ならこちらは少し観念が入っています。 でも鶯餅の観念としては素敵です。 色も形も鶯に似せた鶯餅に呼びかけているととりました。 問題は「想像」で、この言葉は無くてもいいかな?う〜ん、ここはちょっと歯切れが悪いです。 冒頭の「想像の翼」は、ん?なんだ?と思わせて以下への誘引効果抜群ですが、解ってしまうと、結論はつまらない。 【予選句】 ひらがなの様に舞くる午後の雪 まゆみ 午後とわざわざことわったのがちょっとした個性化。 草色の暖簾に風や蓬餅 山上 博 蓬餅で草色とくるので、そこが惜しいと思うが、その重複は気にしない立場?もあり、とにかく句中に春らしい風の吹いている気持のいい句。 古草も同じ日差しの中にあり 戯心 古草、なんて渋い季語、若草に交じる前年の草、そもそも季語の目のつけどころが俳句的ですね。 知りませんでした、勉強になります。 「墓ばかり」に気持が出すぎていて、墓が無数にあると淡々と叙述したほうが効果的だと思います。 おもしろい目のつけどころです。 アメリカへ行く船追ひて都鳥 邯鄲 事実はこのとおりだとして、句にすると大げさな面白さが出現。 凍滝や乳房の中のしこしこ あざみ わ!怖い。 凍滝がこんな登場の仕方をするのにまずびっくりします。 びっくりした後で凍滝と「しこしこ」の感覚的一致に妙に納得、男の私でさえ。 寒の水まだ生きている顔洗ふ 利恵 きっぱりとした強さ。 「生きている」と「顔洗ふ」の動詞の畳みかけが効果的。 初春や文楽もたこ焼も美味し 利恵 大阪よろし、文楽がんばれ! 東京も田舎のひとつ深雪晴 小林 飄 この二週間ばかりの風景はたしかにそう。 東京が第二の故郷になった人の感慨とも読める。 冴え返る百通りあるふしあわせ 紅緒 トルストイ『アンナ・カレーニナ』の冒頭「幸せな家族はどれもみな同じようにみえるが不幸な家族はそれぞれの不幸の形がある」(望月哲男訳)の本歌取りのように読めます。 本歌取りは小さな容れものに大きな世界を閉じ込める有力な方法。 遅くなりましたが、今年もよろしくお願いいたします。 さて、松明け、立春前の句がたくさん届き、豊かな冬の気分をいただきました。 その二百余りの句のなかで、句材や表現の新しさを感じるものを中心に選んでみました。 2014年が、皆様にとって、新しい俳句との出会いであることを・・・。 【十句選】 男ならこの指止まれ青目刺し 茂 「女なら野球選べよ一月尽 晴美」、拙句を失礼しました。 何というのか、ジェンダーの問題などではなく、「男なら」「女なら」と、句で遊べるって楽しいと思います。 特に、掲句は、「この指止まれ」という可愛さ、愉快さがあります。 人物像を、子ども、と限定しなくとも、楽しく読めます。 そして、なぜか、青目刺し。 鰯の姿が美しくも、可笑しみがあると感じて、絶妙の季語です。 紹介句は、同じように目刺しの色を詠んだものです。 <火にぬれて目刺の藍のながれけり 渡辺水巴> 仮の世を仮に祝うて小豆粥 孤愁 リフレインが生きています。 掲句は「仮の世」だけでも「仮に祝う」だけでもいけません。 「仮の世を仮に祝う」からこそ、小豆粥から見える心の平安や、日常の喜びが生きてくるのです。 邪気払いができるという小豆粥。 それは、この世を慈しんで生きるひとつの景色ではないでしょうか。 私は、作者の優しい心根を感じました。 <明日死ねる命めでたし小豆粥 虚子> 水仙や百万の「好き」青き空 山上 博 すっくとたった水仙だからこその、表現、作句です。 お見事です。 水仙を好きでも、別の何かを好きでも、誰かを好きでも、この「好き」には、とても力強い力と、言われた側のうれしさがあります。 なんだか、こんな風に告白されたくなってしましました。 おりしもバレンタインデイが近いですし。 (我が家は、私が家族に要求しています。 ) また、色彩の美しさが、この句の清々しさを増長させています。 真っ青な青、そこに屹立する水仙の深緑と白と黄色。 芸術的な美しさであります。 下記は、ある句会での一句。 <水仙のすっくと立ちて背を正す H氏> これからが本音の話手袋脱ぐ 邯鄲 「本音の話」、聞きたいですね。 手袋を外して始まる本音の話。 私、ここ数年、友人知人から、いろんな話を聞くようになりました。 本気だったり、本音だったり。 決して明るい話でなくとも、そこに絶望はないのです。 掲句も、不思議に暗さは感じません。 「これからが」という口語調の表現に助けられているのでしょう。 これまでの句にも、手袋を脱いだり嵌めたりと、さまざまに詠まれていますが、掲句のように、「脱ぐ行為」に気持ちをのせているものを紹介します。 <手袋をぬぐ手ながむる逢瀬かな 日野草城> 待春の絵本の中の夜汽車かな 浮游子 絵本や文庫本をいう句材は、「ずるい」という意見もありますが(労せず、句がそれなりの情感を持ってしまうから)、あまりタブーを作ると、また句もつまらなくなりますから、句材として利用しましょう。 個人的には、絵本は本当に素晴らしいものだと思います。 幼少期の心の栄養は絵本から、ではないかと思うほどです。 掲句の「絵本の夜汽車」。 作品名が何であるか、が大切なのではなく、夜汽車の持つ雰囲気を感じたいと思います。 そこに、季語の「待春」。 「夜汽車」と「待春」が、お互いを生かし切っています。 もうそこまで春がきているころ。 絵本には夜汽車が走っている。 春へと向かう人々の優しい気持ちが、溢れています。 <待春や良きこと包みオムライス 利根川妙子> 日脚伸ぶドアスコープにウインクを 小林飄 なんて楽しい、なんて小粋な訪問なんでしょう。 カタカナ語の多さを嫌う方もおられますが、掲句の場合、必然です。 また、「日脚伸ぶ」というどちらかというと古風な季語を、リフレッシュさせた感もあります。 取り合わせ、大成功です。 以下の句も、「日脚伸ぶ」との組み合わせです。 そして、形状の可愛らしい「龍の玉」それぞれの百の天運が、それぞれに豊かで楽しいものであることが想像できる句です。 同じように、生きることを感じる句を挙げます。 <竜の玉升 のぼ さんという呼ぶ虚子のこゑ 飯田龍太> 初句会電池新たな電子辞書 山歩 電子辞書の電池、とは素晴らしい句材です。 季語「初句会」は、何をつけてもおさまりが良いものですが、掲句の電池ほど、ジャストミートのもはないでしょう。 以下は、ジーパンと取り合わせた句。 <ジーパンの端座続かぬ初句会 井上綾> 二月の健全なるはブドウパン あざみ 「ブドウパンが健全なる」とはどんなことか、なぜ二月でなければならないのか、と。 理詰めで答えるのは、苦しいところですが、一年で一番寒い時期のブドウパンは、買い手(食べる側)に媚びていなくて、なおかつ美味しそうな感じがしませんか。 干しブドウの風合いもなんだか、好ましく似つかわしいような。 私自身が、ブドウパン好きということも関係しているかも、ですが。 以下も、豆菓子という「粒」である食べ物との取り合わせ。 <豆菓子の色のいろいろ二月かな 稲葉ちよこ> 嘘といふうそをつきけり寒鴉 浮游子 「寒鴉」が上五、中七を助けています。 ともすれば、常套な内容になるところを、下五でピリリと締めました。 また、意外に美しい寒鴉の姿。 これが、「嘘」と似合っています。 ただ美しいだけの鳥ではいけません。 鴉のように賢い鳥だからこそです。 深読みをすれば、鴉に見透かされているような気がしてるのかもしれません。 冬の鳥には、雁や梟、ミソサザイ、そして多くの水鳥がいますが、「嘘」にはやはり「寒鴉」でしょう。 以下は、梟の例句。 寒鴉とは違った趣きです。 <梟淋し人の如くに瞑る時 原石鼎> 【次点】 大寒やムンクの叫び丸き口 石塚 涼 ムンクの「叫び」の絵はあまりに有名ですが、大寒と合っています。 句の後半が、少し、説明調子であるかも。 せんべいの売上伸びし空っ風 太郎 「せんべいの売り上げ」という句材が良いです。 貨車に雪 客車はエデンの東まで 伊藤五六歩 「貨車」と「客車」の組み合わせが魅力。 立春やコーヒー館のゆで卵 山歩 とても良くわかる句で、立春の良い気分です。 オムレツにハート描いて春隣 きのこ なんて幸せな春を待つ気分なのでしょう。 見習います。 日脚伸ぶ蓋の開きたるマンホール 隼人 ちょっと、「気を付けて!」といいたくなりますが、「動き」があるのも春への景色のひとつでしょう。 懐手株価表示を見てゐたり 隼人 株屋さん(証券会社)の電光掲示板の前の和服の男性でしょうか・・・。 意味ありげです。 犬放つ春にはゲーテ捨てちまオ ばんの 犬好きは、いただいてします一句です。 ゲーテより犬と散歩です。 春寒やダリの時計の動かざる 春生 ムンク、ときて、ダリ、です。 こちらは、寒さとの取り合わせ。 合っています。 寒の夜の星座全しき構図あり 今村征一 冬の星座、大好きです。 空気が澄む冬夜空、礼賛の句です。 交番に跳ねて転がる霰玉 戯心 交番と霰の取り合わせが、町の交番の存在を感じます。 パレットのゑのぐ乾涸ぶ二月かな 天野幸光 絵具の乾いた景、私も使ってみたい魅力的な表現です。 パン咥えラグビーのごと鴨走る おがわまなぶ ラグビーという例えが良いです。 冬ざれやターナーの船の動かざる 秋山三人水 こちらはターナーの絵画でしょう。 ターナーらしいです。 春塵を払ひて曾良の旅日記 伍詞堂 曾良の旅日記という句材に魅力。 春浅し自然解凍なる男 あざみ 愉快な表現です。 海見れば埋めたがる国鯨来る 紅緒 シニカルな視点に注目。 鯨という大きな景も良いです。 雪女郎乳母車より犬の顏 とほる 昨今は、時に見かける景。 「顔」が印象的。 愛されているかのように雪そそぐ 利恵 「いるかのように」とは、「愛されていない」ということ。 クールさが効いています。 ゆいちゃんのゆりかごラララ春三日月 草子 あかちゃん礼賛の一言です。 ゆいちゃんが成長していたとしても、生命礼賛の佳句です。 そうして見ていると、投句者のお名前に、ちらほら見覚えのあるものが。 常連の方の句を見ていると、やはり発想の飛ばし方がおもしろい。 普通の人と見ているところが違うな、ちょっと言えない表現だな、と思うものが多いのです。 逆に、あまりおもしろくないものは、次のような句です。 たんなる事実報告。 状況説明的な句。 当たり前の意見表明。 新聞の「声」欄を切りとったような句。 というわけで、発想に飛躍の見える、「今週の十句」です。 【十句選】 立春や袋小路の喫茶店 伊藤五六歩 立春の候、散歩の途中で道を間違えたのかたまたまなのか、袋小路へ入って見つけた一軒の喫茶店。 まだ肌寒い季節に、おいしいコーヒーを飲みたいですね。 大寒の緩む隙間にヨーグルト きのこ 朝食でしょうか。 寒い一月の、ふと気温が高くなった食卓をとらえた何気ない日常ですが、そんな季節の「ヨーグルト」には、なかなか注目できません。 海螺廻し水金地火木土天海 孤愁 「海螺廻し」貝を使ったコマ遊びとのこと、恥ずかしながら今回始めて勉強しました、ありがとうございます。 コマ回しから宇宙への発想がいいですね。 ところで「見つめらる潤目鰯目敵愾心」は「うるめ鰯め」でしょうか?「敵愾心」が意味不明でした。 山茶花や散る踏む歩む振り返る ロミ 山茶花の赤い花びらが散る、踏んでいく。 そして、振り返る。 冬の景から一気にたたみかけて、一年を回想させるよう。 「咳一つつづけて一つチョコレート」は咳で苦しいところ、チョコレートが違和感。 ぎすぎすのわたしが嫌い霜柱 紅緒 「嫌い」などの直接的な感情表現を俳句にするのは難しいのですが、霜柱の感触と、自己嫌悪のむずむずうじうじした感じは、とてもうまく合います。 嫁に行くなんて言うから月が出る 遊飛 父親の、なんともやるせない気分。 嬉しいような、悔しいような、悲しいような、というところでしょうか。 「月が出る」めでたいような、あっけないような。 話し易い人を知ってる炬燵かな おがわまなぶ すでに何人かで話しこんでいる炬燵に遅れて入ってきて、ちゃっかり「話しやすい人」の隣に座って話に混じっているとか。 ほほえましい、あたたかい感じ。 舟底をこんがり焼いて春を待つ 津久見未完 船を焼く風習、知りませんでした。 「舟」という実用的なものを「こんがり」焼く、と見立てたところに「春を待つ」やわらかな空気が響きます。 大寒の空晴れ渡りドレミファソ スカーレット 冬空は、きんと晴れて気持ちがいいですね。 トラップ一家の気分。 寒椿こころおきなく笑うがいい あざみ 豪快さと、ニヒリズムを感じさせるかっこいい句。 【選外佳作】 一天をおし広げたる空つ風 太郎 相当に決まった、格好いい句なのですが、言い回しの固さとともに、やや既視感あり。 雑煮餅歳の数ほどいただいて 桃 さてこれ、いったいいくつなんでしょう? せんべいの丸い看板日向猫 まゆみ こちらはなんでもない風景ながら、ほっとする句。 何も言わないよろしさがあります。 画鋲刺す指の力や寒に入る 遅足 リリカルな視点がいかにも俳句的。 誰かしら訪ね来し夢冬の風 山上 博 誰か訪ねてきたと思ったら夢だった、すこし寂しい句で「空っ風」はいかにもすぎ。 改作案「初夢に誰か訪ねて来たりしか」 フクシマへ帰村したとて寒見舞 大川一馬 年賀状ではなく「寒見舞」であるところが意味深です。 「とて」はやや説明的なので、私なら「フクシマへ帰村しました、寒見舞」とします。 どこまでも落葉どこまでも御堂筋 遊飛 見事な冬の風情。 寒椿坂道ダッシュの二人組 岡野直樹 元気だなぁ。 三行のメールが遺墨冴返る 今村征一 「メール」が「遺墨」という発見とともに、作者の感情が伝わる句です。 どういう情景なのでしょう? 茶の花や畑を下る山羊の声 豊田ささお のどかな風情。 自転車のスタンドが浮標(ブイ)なり木枯 意思 海に棄てられた自転車の部位を「浮標」と見立てたのでしょうか。 やはり語感が気になります。 「自転車のスタンドが浮標空っ風」ではいかがでしょうか。 2014年1月29日 谷さやんドクター : 今週の十句 (到着順) 【はじめに】 今回からドクターを担当させていただく谷さやんです。 初めて会う人からは、よく「男性かと思っていた」と、驚かれます。 女性です。 どうぞよろしくお願いいたします。 ここ四国松山も今年は厳寒となりました。 でも、晴れた日にはその冷たさが気持ち良く肌に感じることもあります。 そんなぴりっとした感覚で作品と向き合いたいと思います。 【十句選】 卵巣に毒持つ魚や雪催 石塚 涼 毒を持つ魚を河豚くらいしか知らない。 この句では、怖いというより哀れな気がした。 毒を使っても、毒を持ったまま死んでも。 そういう気持ちにさせるのは「雪催い」の季語のせいだろう。 魚の上にも、暗い雪雲が垂れこめて来ている。 雪が降ってくると、毒を持つ魚がまた違って見えてくる。 雪吊や雲版叩く僧の昼 太郎 「運版」は、寺で時報などを知らせるために打ち鳴らす青銅または鉄で作った雲形のもの、だそうだ。 僧が叩く運版の音あるいは叩いているいつもの景色に、今日からは「雪吊」が加わった。 いよいよ厳しい冬が来るぞという感慨が「雪吊や」と、思わず言わせたのだろう。 僧は、その姿からして寒さがいっそう染みそう。 風邪薬健康食品の如く飲む いつせつ 原句は、「風邪薬健康食品如く飲む」だったが、中七フレーズが八文字になっても「の」を入れた方がいいと思う。 労働者にとっては、風邪は病気の内に入らない。 風邪ごときで仕事を休むわけにはいかないのだ。 一方、老人は風邪をこじらすと命にかかわる。 いずれの立場も症状に過敏で、風邪と察知すると、もうサプリメントのように飲むのである。 和をもって尊しとなす初句会 吉井流水 思わず笑ってしまった。 わたしが参加している句会で「和をもって尊しとなす」などと言うと集中砲火を浴びそうである。 あ、でも偉い人を中心とするこんな句会は案外多いのかも知れない。 ともあれ普段は忌憚のない言葉のつぶてが飛び交い、ともすれば取集が付かなくなるこの句会。 「初句会」くらいは、おだやかに終わってほしいと願う、ある参加者の切なる心の呼びかけようである。 渡良瀬に連凧空を傾けて まゆみ 正月の広い空に揚がる連凧。 連凧が空をぐっと傾けている、という把握がいいなと思った。 空を傾けながらぐいぐいと揚がって行く。 ワタラセと、母韻の「あ」の音が明るく響く土地の名が、その気持ちの良さを加速させる。 足尾銅山の重い歴史がちらっと脳裏にちらつくと、傾く空が一層青く深くなるようだ。 日脚伸ぶパン割って湯気ふわとたつ きのこ 自家製のパンだろう。 「パン割って湯気ふわとたつ」と、読み終わった瞬間に出来立てのパンの芳しいばしい香りが匂い立つ。 昼間が昨日よりも長くなっていることに気づいた「日脚伸ぶ」日の、ささやかで幸福な時間を、共有させてもらった。 初弘法押されて入りて押し出され せいち 東寺では「弘法市」といって、毎月弘法大師の命日である21日に縁日が開かれる。 一月の縁日を「初弘法」と、いうのだそうだ。 普段の市より賑やかなことは想像できる。 「押されて入りて押し出され」で、どうにもこうにも参拝まで至らない様子が描きだされて、可笑しい。 最後は「押し出され」るので、ご年配であろう。 縁日の日は毎日拝みに行っているに違いない。 同じ作者の「風邪の神こんなじじいが好きなのか」の「こんなじじい」が、私も好き。 雪激し白き麒麟の歩みけり 山上 博 目の前が閉ざされそうなまでに、降りしきる雪。 麒麟もまた、雪の白さに覆われていくのだが、白い麒麟なのだ、と言い切ったところに強く惹かれた。 今まで目にしたことがなかった色の麒麟が、ゆっくりと吹雪の中を歩きだす。 雪掻きも三連休となりにけり 中 十七波 来る日も来る日も雪掻きに追われる。 でも、気が付けばこの三日間は、雪を掻かないで済んでいる。 日が射して少しゆるんだ雪の情景が浮かぶ。 勤め人の「三連休」がそうであるように、うれしさが良く伝わり、「なりにけり」に安どの気持ちが出ている。 影といふ影の空っぽ冬の月 紅緒 「影といふ影の」まではすっと読み下したのだが、「空っぽ」で意表を突かれた。 「空っぽ」と言われれば、確かに影はそうである。 凍てた月の光に生まれたこの句の空っぽの影に、落とし穴のようにはまってしまった。 2014年1月22日 星野早苗ドクター : 今週の十句 (到着順) 【はじめに】 明けましておめでとうございます。 今ごろのご挨拶で、すみません。 七草、成人の日、小正月も過ぎて、20日はもう、大寒でしたね。 15日、下賀茂神社へ行きました。 ちょうど小正月で、小豆粥の振る舞いがありました。 振る舞いと言っても300円でしたが、あっさりした塩味で、小さなお餅がよく伸びておいしかったです。 下賀茂神社の境内には、鴨長明の「方丈」の復元模型が建てられています。 柴垣に囲われた簡素な庵は、移動しやすく、長明は何箇所かに移り住んで暮らしたようです。 夏は涼しい所に、ということは可能でしょうが、どこへ移っても冬の京都は辛かったろうなと思いました。 そのすぐ近くには、美人祈願の鏡絵馬の奉納所があり、今時メイクのかわいらしい丸顔が並んでいます。 行き帰り、糺の森の陽を浴びて歩き、何となく清々しい気分になりました。 今年もよろしくお願い致します。 さて、今回は、197句より。 【十句選】 茶の花や一朶の雲の動かざる 太郎 整然と刈り込まれた茶畑に白い花が咲き、空には一群の白雲。 晴天で日射しのまぶしい日なのでしょう。 何気ない風景なのですが、日常の良さ、安心感を感じました。 シンプルで美しい景色ですね。 一本の樺に始まる雪野かな 今村征一 白樺、岳樺、と、樺の木にはいろいろな種類がありますが、冷涼な地域に多いようです。 車窓などから、樺の木を見つけ、さらに進むと雪野が広がっていたのでしょう。 省略の効いた景が美しく、一本の樺が雪を呼んだかのような効果をあげています。 初夢の父母降りてくる梯子 遅足 亡くなった父母が天から梯子で下りてくる初夢を見た、とも読めますが、初夢に見た父母が、天から下りてくる梯子があれば、という子の願いを詠まれたのかもしれません。 思いの強さに惹かれました。 園児服干すベランダの四温晴 天野幸光 雪に濡れたのか、汚れて洗濯したのか、ベランダに干された園児服に目が留まりました。 幼稚園の制服は、小さいながらもスーツのようで、子どもが社会に出る最初の改まった服ですね。 園児服を整え、外界にチャレンジしている子どもを支える家庭に、四温晴れはよく合っていると思いました。 初寝覚今年はひとつ若返る 山上 博 数え年の昔は、皆が一斉に年をとるのがお正月でしたが、「今年はひとつ若返る」という発想がユニークです。 今年は、と期するところがあるのでしょうか。 若返っていくお正月、いいですね。 木守柿母亡きあとの父の髭 秋山三人水 母亡き後の父は、何かと気がかりだと思います。 母亡き後、髭を蓄えている父と、木守柿の取り合わせに、いろいろなことを感じさせられました。 鶴歩くビニール傘の老夫婦 智弘 雪の降る中、大自然を行く老夫婦。 その寄る辺なさと強さに、鶴のイメージが重なるのは、ビニール傘の視覚的効果も大きいかもしれません。 (原句…鶴歩くビニールが傘の老夫婦) おでん鍋ポルトガル語の紛れをり 伍詞堂 居酒屋のおでん鍋を囲んでいて、ポルトガル語を耳にしました。 話していたのはブラジルの人たちかも知れません。 ブラジルには日系人がたくさんおられ、日本への就労が盛んです。 寒い日本の冬を、おでん鍋で乗り越えてほしいですね。 手袋のなかの静かな会話かな 春生 「手袋のなかの会話」を、手袋をしたままつないだ手と手の会話と読みました。 親子でも恋人同士でも、手をつないで黙って歩いている二人には、心の中で相手に語りかけている言葉があるのではないでしょうか。 寒の水己ひとりの米を研ぐ 利恵 水の冷たい時期も、毎日きちんと一人分の米を研ぐ。 かつて家族のためにしていたように、一人になっても台所に立ち続けるのは、強い矜恃があってのことだと思います。 寒の水に響き合う内容の句だと思いました。 この冬休みは、『ニッポン居酒屋放浪記』・太田和彦・新潮文庫(3巻)を読んでいました。 著者は全国の地方都市をひたすら旨い酒と肴を求めてほっつき歩くのですが、土地の地酒や特産だけでなく、いろんな面白い・素晴らしい・不思議な・変な人々とも出会います。 また自分のダメさ加減も客観的に書かれてあり、笑えます。 そのまち・お店に行ってみたくなること、間違いなし。 それではお付き合いください。 【十句選】 初富士の触るるばかりの旦かな 洋平 新年のおめでたい句を1句頂きました。 眼前の初富士の大きさ、くっきり感を触るるばかり、と大胆に表現されたところに、作者の気持ちが出ています。 気持ちを述べずに気持ちをどこかににじませる、という句がいいと思います。 外にも出よ触るるばかりに春の月 中村汀女 大年のデパ地下に聞く第九かな 洋平 年末に聞く第九は恒例ですが、その聞く場所がデパ地下というのが変すぎずありそうで、面白いですね。 デパ地下を俳句に使うことに賛否があるかもしれませんが、このような俗語を自由に使えることも、俳句の楽しみ。 売り場のざわめきも聞こえてきそう。 冬銀河鉄道にのり赤子くる 京子 冬銀河の空の下、お孫さん連れの家族が帰省してくるのでしょうか。 面白いのは、冬銀河鉄道という宮沢賢治の鉄道に乗って赤ちゃんが一人でやって来るというふうにも読めるところです。 一気に素敵なファンタジーになりますね。 煤籠りホットコーヒーモダンジャズ すずすみ 煤払いをしているときに、邪魔にならないようにほかの部屋にこもらされている老人と子供たち。 作者はご老人でしょうか。 その部屋で、ホットコーヒーを飲みながらモダンジャズを聴いて過ごすとはオシャレ!3段切れっぽいですが、ストーリーがあり名詞のみで、そこが魅力。 小半(こなから)の燗熱うせよ熱うせよ みさ 小半とは、2合半なんですね。 そのかなり大振りな熱燗徳利を熱くしてくれと言っているだけなのですが、小半という言葉が古風で、江戸時代の居酒屋にいるようなユーモラスな響きがあり、調子の良さが作者のいい気分を伝えます。 今度熱燗飲むときに口ずさんでしまいそう。 着脹れて着ぶくれている人のなか 遅足 これもリフレインが効いています。 初詣の雑踏のなかか、満員電車のなかでしょうか。 周りの着膨れている人に心のなかで文句を言いそうになって、ふと気づくと自分も着膨れていた、という感じ。 リフレインには、まだまだ宝物が埋まっている感じですね。 おのおのに冬日入り来るチャペルかな 学 おのおのに冬日の当たるチャペルかな、ではどうでしょう。 地方の小さな教会。 クリスマスの少人数のミサで、聖歌をみんなで歌っています。 その一人ひとりに意外に鮮明なでも柔らかい冬日がやさしく当たっています。 チャペルという場所が少し意外でよかったです。 綾取の橋を渡らむ冬うらら 学 冬の日が綺麗に当たる暖かい部屋で、大人と子どもがする綾取り。 やや複雑な橋が見事に出来上がりました。 この橋を渡ってみたら楽しいだろうね、と言葉を交わす。 童話のような光景ですね。 雪達磨がっかりすると痩せてくる 紅緒 普通は雪が溶けて痩せてくると、雪だるまががっかりして見えるというところを、雪だるまががっかりしたら痩せてきた、と逆に詠んだところに面白さがあります。 私も、このような発想をうまく逆転させた俳句を作りたいのですが、その好例ですね。 方言を訳すテロップ春隣 佐々木博子 方言アイドルというひとがいるそうですね。 昨年は岩手弁がブレイクしました。 そのようなばりばりの方言を話されるお年寄りの方などの話の意味が、テレビの下のところに出ているのですね。 その方言の暖かさと、春隣がよくあっていると思います。 【選外佳作】 褞袍着て高下駄履いて射的場 いつせつ 地方の温泉場でしょうか。 いい味です。 木枯らしにそっと聞いてねその事は 石塚 涼 思わせぶりが面白い。 湧水の落ち合ふ小道除夜の鐘 まゆみ 湧水が人のように落ち合うのですね。 楪やはらから共に老ひいそぎ まゆみ ゆずりはと老いる、がよく合っています。 来世は猫か吾輩日向ぼこ 孤愁 猫になりたい願望、私もあります。 甲高き二羽の鶏声冬田かな 太郎 冬の農村の感じが出ています。 通院日真っ先に書く初暦 洋平 うちのお袋もこのとおりです。 極月の鯉水底に青く住む きのこ 青く住む、がいいですね。 紀伊水道ほのと輝き初明り きのこ スケールの大きな句。 スキーポールついて市場に老夫婦 京子 季語として少し弱いですが、老夫婦と意外な取り合わせ。 鏡餅洋酒の並ぶ真ん中に せいち 豪華そうな洋酒ですね。 こいさんははしゃぎやさんや宵戎 せいち お転婆な末娘さんの感じが出ています。 師の賀状いつとはなしに来なくなり 天野幸光 少し悲しい句です。 伊達巻のほどけてやもめ雑煮かな 山上 博 帯とも食べ物とも読めて面白い。 読み初めのサガンはずっと赤ずきん 秋山三人水 サガンさんは赤ずきんをしていたのでしょうか。 初雀すでに姿のなかりけり 遅足 静かな元旦の様子。 初暦勘亭流の屋号入り 草子 渋い好みの大振りな暦です。 頑固さは隔世遺伝鏡餅 隼人 隔世遺伝って、よくないところが似るようです。 日向ぼこ江戸城跡の天守台 隼人 江戸時代の天守台が残っています。 雪下す屋根の上より女声 隼人 女声が少し意外。 勝独楽のいまだ気負ふや仁王門 邯鄲 仁王のような気分の勝独楽です。 初富士や滑りてみるか滑り台 邯鄲 久しぶりに子供の気分で滑ってみるかという気分。 初夢や馬走らする土星の環 佐々木博子 幻想的な初夢を見られました。 故郷の湯に遊ばせし氷柱かな 佐々木博子 露天風呂に氷柱で遊んでいるのでしょうか。 羨ましい。 強霜や子らを遠くに生きてをり たか子 少し悲しい句です。 捨鐘や狐の提灯ひそと行く たか子 柳田國男・遠野物語の世界ですね。 石段を危ふき下駄の初詣 戯心 その光景が見えるよう。 太箸や笑いを貰い転げ落ち 勇平 元旦の朝の楽しげな食卓が見えます。 赤丸の二つつきたる古暦 奥野とほる 何の予定だったのでしょう。 きっといいことですね。 わかりません。 毛皮も冬の季語。 すみません。 2014年1月8日 芳野ヒロユキドクター : 今週の十句 (到着順) 【はじめに】 あけましておめでとうございます。 みなさまにとって穏やかな1年でありますように。 さて、今回は177句を拝見しました。 ほとんどが視覚的、近況報告的な句ばかりでした。 ものをよく見る、じっと見る、観察するのは俳句を作る上でとても大切だと思います。 でも、それだけでは句作りに行き詰ってしまいますよね。 私は俳句総合誌を読みません。 俳句を作り始めた頃からです。 面白いと思う俳句がないからです。 先日、俳句結社誌70冊に目を通しましたが正直、面白いと思うものはありませんでした。 同じような俳句ばかりだからです。 つまり、俳句が上手になりたいと思ったら俳句だけを勉強してはいけないことになります。 いくつか本を紹介します。 参考にしていただければ幸いです。 「日本名句集成」(学燈社) 図書館に行けばあると思います。 俳諧や俳句の歴史を作品で手軽に確認できて勉強になります。 「俳句のユーモア」坪内稔典著(講談社選書メチエ) 巻末にブックガイドがあるので、そこも参考に。 「俳人名言集」復本一郎(朝日新聞社) 文庫もあると思います。 「現代詩入門」杉山平一(創元社) ものの見方や発想を広げるには最適。 楽しく読むことができます。 「日本の詩歌 25」(中公文庫) 「レトリック感覚」佐藤信夫(講談社学術文庫) どれも実際の作品や表現に即して書かれていますからわかりやすいと思います。 【十句選】 年の市高倉健に似た男 石塚 涼 高倉健、好きなんです。 でも視覚どまり。 「に似た男」を「と手をつなぐ」とすると読者へのインパクトが違ってきます。 ドンタカタドンドンメリークリスマス 汽白 音や声だけで表現しようとしている作者の姿勢が良いと思います。 枯野まではとどかぬ歯冠ブラシの穂 智弘 歯冠ブラシが歯ブラシなのか歯間ブラシなのかよくわからないのだが、いずれにせよ「穂」が枯野とブラシの取り合わせを成功させていると思います。 大胆な発想によって何らかのもどかしさが上手に表現されています。 門礼の人魂ひらりふわりゆく 京子 正月から人魂を見ることができてうらやましい。 人魂になっても挨拶を忘れない義理堅い人物が想像できてどこか滑稽でもあります。 裸木や今なら何でも咲かせます スカーレット 希望に溢れた俳句ですね。 「何でも」は曖昧なのですが読者は好きなものをここに当てはめる事ができるので逆にイメージが鮮明になります。 白葱を刻むうどんの茹で上がる ヤチヨ 切り取っている情景は句の材料として素晴らしいのに状況報告に終わっていて残念です。 「白葱を刻むうどんは耳から食う」とかに仕上げるととてもおいしそうなうどんの出来上がりを待っている気持ちが表現できると思いませんか。 透き通る女将の声や白障子 くまさん 障子があって女将の姿は見えませんが声をたよりに美しい女性を思い描いているところがよいと思います。 庭師の手冬の光を生捕りぬ とほる 「庭師の手」とあるので視覚的になってしまう。 「冬の光」でさらに抽象的になってしまう。 「生捕りぬ」が面白いだけにもったいない。 「万両の実の一粒を生捕りぬ」とすれば触覚になるし、作者の表現したかったことにちかづくのではないでしょうか。 2014年 1月 1日 岡野泰輔ドクター : 今週の十句 (到着順) 【はじめに】 あけましておめでとうございます、と、この文章を2013年のクルスマスイブに書いています。 この12月は佐藤康子という素晴しいソプラノを知る機会に恵まれてヴェルディのアリアを数回聴くことができました。 (ヴェルディ生誕200年とのこと、同時にワグナーも)言葉は求愛の歌から誕生したという説もあるほど、人間の声の有無を言わせぬ力を堪能しました。 言葉は当然意味を引き連れてくるけど、意味が届く前に(イタリア語だしね)直接身体(脳?)に届きたちまち快に変換してしまう声の力。 で、例によって俳句の声とは?なんて考えてしまいました。 【十句選】 木枯らしや壁にダ・ヴィンチ人体図 石塚 涼 円の中で両手両足を広げているあの男ですね。 あの男、そしてダ・ヴィンチの厳しい表情と木枯はピッタリではありませんか。 不満をいえば「壁に」が説明以外の役はしていないこと。 人体図が直接木枯に曝されているというふうにできたら最高。 あと「木枯らし」の表記は俳句では「木枯」のほうが締まる。 初氷人差し指を這わせけり 津久見未完 ああ、そうそう。 あるある。 と誰でもそのときの感覚を思い出すのではないでしょうか。 何かを云おうとしてはいない、最小のヒントで読者に思い出してもらう。 見事に決まると最も効率のいい俳句らしい俳句になります。 もっともこの道はちょっとゆるむとすぐ月並へ一直線ではありますが。 人差し指の具体性と這わせるという言葉の選び方は的確。 枯れ切って夕日透け行く薄かな 太郎 これも誰もが思い出す景。 薄や蘆の間から夕日がちらちら見えるのはいかにもこの季節。 おそらくこの周辺で五万とつくられているでしょうが、枯れ切ってと強調したことで理屈ではないんですが感覚的に納得がいきます。 冬晴に吸ひ上げらるるエレベーター きのこ よく晴れた冬の青空の透明度は、じっと見ているともうそれだけで吸い込まれそうになります。 その共有できる感覚を基に、多分ガラス張りのエレベーターから青空を見ていればその感覚はさらに強まるでしょう。 エレベーターという足もとの不安定な場所だけに一層です。 狐火のある日一気に老いにけり 学 読むのが難しいが、一種説明のつかないおもしろさがあるので採りました。 句頭から順によんでいけば狐火が老いてしまうというおかしなことに。 狐火でいったん切れると読むのでしょう。 ある日を境に一気に老いてしまうのは、この作中主体である誰か。 助詞の「の」が微妙な働きをしていて句の複雑化に寄与しています。 もともと狐火は物語を誘う言葉ですから。 魚介系黄色パスタ開戦忌 智弘 前半十二音が拙い言い方で、音数が不足のような気もします。 黄色は「きいいろ」と読ませるのでしょうか?それにしても黄色パスタって?もうちょっと他の言い方はないでしょうか。 と文句をいいながら採っているのは、いまや国民食にもなりそうな飽食日本のイタ飯の開戦忌へのイロニー効果。 1941年12月8日なんて今や誰も意識してませんものね。 たしかこの戦争では餓死、戦病死のほうが被弾死より多かったはず。 5回も重ねられた撥音節の調子のよさ。 それがちゃんとトポロジーを想起させるしくみ。 でもこのトポロジーがまとめすぎ、答になりすぎでは?面白がって、はい、終り、ということになっている。 ここが考えどころだと思います。 しんがりの赤子の嗤ふ枯野かな 浮遊子 ちょっと怖い民話のような物語に誘う俳句です。 しんがりが赤子とはどんな行列なんだ?しかも嗤う(あざわらう)とはどんな赤子?どんな状況?読者それぞれが触発されて物語を紡ぐおもしろさ。 枯野とは百鬼夜行の物語の沃野です。 出ておいで私を捨てた冬の鹿 あざみ 冬の牡鹿は淋しい、雌鹿と離れて森の奥にひっそりと隠棲している。 そんなことを思わせるやさしい呼びかけです。 相手が秋の繁殖期を終えすっかり体力を消耗した牡鹿だけにこの相聞句はすこし魅力的に屈折しています。 ちょっと盛りを過ぎたプレイボーイへの恋句か。 淋しいを淋しいと言うミカン山 あざみ 淋しいという感情を敢えて口に出して淋しいと言う。 こういうものの言い方だけで内実はない、読者に渡してしまう。 ずるいとはいえ上手いやり方。 用意されているのはミカン山という舞台設定のみ。 このミカン山が淋しさには程よい距離で気が効いていると思いました。 私の勝手な思い込みで瀬戸内の小さな島が見えます。 ミカン山のカタカナ表記は疑問、「蜜柑」はともかく「みかん」では? 【次点句】 最悪の巨人の迫る12月 豊田ささお 一読「戦争が廊下の奥に立つてゐた」渡辺白泉 を思い出します。 言葉もむきだしで場合によっては逆選候補になるかもしれません。 しかし言葉を半端に磨かない、そのむきだし感の強さが新鮮で共感しました。 同じ作者の「十二月軍靴のひびき吾後に」の既視感よりずっといい。 それにしても・・と、ああここでは止めておくか。 【予選句】 竹林のかんかん鳴るや冬ごもり 太郎 「かんかん」がいいい。 エンディングノート余白未だあり年暮るる 彗星 余白が人生の余白にも読めてふくらむ。 雑煮餅目には見えねど国境(くにざかい) 伊藤五六歩 雑煮餅が何かの喩になっているとも読めるが不発気味。 枯木立北へ流るる煙かな 飛鳥人 このなんでもなさがいい。 ケータイの身震ひ頻り雪催 孤愁 身震ひと雪催、うまくできています。 わが胸の淡きところを雁の列 学 ややナルシスティックに過ぎるが、美しい。 冬林檎芯に一顆の光あり ばんの あの蜜のところか。 いい得ている。 くれないの葉はかがやきぬ冬の雨 ロミ シンプルながらあまりない組み合わせの句。 美しい。 布靴に跳ねては転ぶ初霰 えんや 的確な写生。 布靴なのが意外にいい。 店頭の聖樹の星に触れて入る えんや こういうことってたしかにある。 雪達磨足跡残し消えにけり 山上 博 羽子板市端の暗きに占師 隼人 画かれしはひめはじめかも「歌満くら」 大川一馬 この春画展がなぜ日本でできないのか? ブルースがタンゴにかはり暖炉燃ゆ 今村征一 レトロ!日本における洋風建築と洋風の生活様式、映画の中にしかなかった。 ひと日漕ぎまた漕ぎいのち福寿草 草子 毎日の積み重ねを漕ぐとしたのはいい。 コロッケを頬張って聞く除夜の鐘 邯鄲 影という影出払って冬の月 紅緒 車窓より雪の裏側ながめおり くまさん 雪の裏側という発想はいい。

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