利休 大阪。 一休

利休よ、たずねたぞ!茶人の足跡をたどる街歩き「大阪府堺市」

利休 大阪

名・号 [ ] は田中与四郎(與四郎)、のちを 宗易(そうえき)、 抛筌斎(ほうせんさい)とした。 広く知られた 利休の名は、13年()の禁中茶会にあたって町人の身分では参内できないためにから与えられたである。 考案者は、、、など諸説がある。 いずれもの住持となった名僧で、宗套と宗訢は堺のの住持でもあった。 宗陳の兄弟弟子であったによれば、大林宗套が考案者だったという(『一黙稿』)。 しかし宗套は禁中茶会の17年前に示寂しており、彼が関わったとすれば利休が宗套から与えられたのは「利休宗易」の名であり、若年時は(いみな)の「宗易」を使用し、少なくとも与四郎と称していた天文4年(1535年)4月28日から天文13年(1544年)2月27日以前に宗易と号したと考えられる。 のちに宮中参内に際して(あざな)の「利休」を居士号としたと考えられる。 こう考えれば宮中参内の2年前、天正11年()に描かれた肖像画(蔵)の古渓宗陳による讃に「利休宗易禅人」とあることも理解できる。 号の由来は「名利、既に休す」の意味とする場合が多いが、現在では「利心、休せよ」(才能におぼれずに「老古錐(使い古して先の丸くなった錐)」の境地を目指せ)と考えられている。 なお『』の作者とされる(りくう)にちなんだものだという説も一部にあるようである。 [ ]いずれにせよ「利休」の名は晩年での名乗りであり、茶人としての人生のほとんどは宗易を名乗る。 生涯 [ ] ・の(屋号「魚屋(ととや)」)の生まれ。 父は(田中與兵衞)、母の法名は月岑(げっしん)妙珎、妹は宗円(へ続く)。 は、 [ ](倉庫業)。 塩魚を独占的に扱う商人()ないし、そういった商人たちに倉庫を貸す「問」だったとされる(利休が切腹時に書いた遺産分け状の冒頭に「問の事、泉国ある程の分。 同佐野問、塩魚座賃銀百両也」とある)。 19歳で父を失い、それと前後して祖父も失う。 祖父の七回忌に無財のため法要ができず、涙を流しながら墓掃除をしたとの日記が残る(不審庵蔵『緑苔墨跡』)。 当時、応仁の乱の影響で、特権的商人たちは独占に対する保護を失い、苦境に立たされていた。 17歳よりを習う。 利休の最初の師は(『堺数寄者の物語』)。 『』によると、その後、に師事し、師とともに茶の湯の改革に取り組んだとされているが、この記述は『堺数寄者の物語』や『南方録』のタネ本とされる『堺鏡』にはない。 他方、『山上宗二記』の記述から、利休の師は紹鷗ではなくだった可能性が指摘されている。 13年()2月27日、松屋久政らを招いて茶会を開く(『松屋会記』)。 この茶会が信頼性のある記録の中で最初の利休の茶会である。 この茶会で利休は、珠光茶碗(技術的不備で青くなり損ねたで、が使っていた名物(『清玩名物記』))を用いており、以降、2年(1559年)までの『松屋会記』および『天王寺屋会記』に記録されている4つの茶会でも、珠光茶碗を使っている。 商人としては、堺の実質的支配者であった三好氏 の御用商人となり、財を成したと推測されている。 4年(1561年)までに、珠光茶碗をに千貫で売っている(『山上宗二記』)。 堺のに参禅し、その本山である郊外紫野のとも親しく交わった。 12年(1569年)以降の堺がのとなっていく過程で、堺の豪商茶人であった、とともに、信長に茶堂として召し抱えられる。 2年(1574年)3月に信長が京都相国寺で開いた茶会に、ほかの堺の有力商人9人とともに招かれたとの記録が残る(津田宗及『信長茶会記』)。 このときまでに、堺の自治組織であるの一員となっていたと考えられる。 3年(1575年)、越前の一向一揆掃討戦を行う信長のために鉄砲玉を調達して送り、謝状を受け取っている(不審庵蔵『利休宛信長黒印状』)。 天正10年(1582年)6月のおよびのあとはに仕えた。 同年8月に秀吉を訪ねた利休は、茶室を作るように命じられ、約半年をかけて、翌年3月に現存する利休作の唯一の茶室であるを完成させた(『末吉勘兵衛宛利休書状』天正11年3月8日付)。 このとき、薮内紹智に宛てた書状(天正10年11月14日付)に「迷惑なること」を秀吉から頼まれた、と記している。 天正11年(1583年)5月には、秀吉が近江坂本城で開いた茶会で初めて茶堂を勤めている。 天正12年(1584年)には、秀吉が築城した内の庭園空間である山里に、2畳の茶室を作っている。 その周りには垣と跳ね木戸が作られ(『宗湛日記』)、茶庭としての露地が生まれることとなった。 これ以後、や竹花入などの茶道具を創作するようになる。 天正13年()10月の秀吉のへの禁中献茶に奉仕し、このとき宮中参内するため居士号「利休」を勅賜される。 同年、黄金の茶室を設計。 天正15年()には、を主管。 同年完成した内に屋敷を構え、築庭にも関わり、も3,000石を賜わるなど、茶人として名声と権威を誇った。 秀吉の政事にも大きく関わっており、は大坂城を訪れた際にから「公儀のことは私に、内々のことは宗易(利休)に」と忠告された。 天正19年()、利休は突然秀吉の逆鱗に触れ、堺にを命じられる。 や、のうち、らである弟子たちが奔走したが助命は適わず、京都に呼び戻された利休は聚楽屋敷内でを命じられる。 享年70。 切腹に際しては、弟子の大名たちが利休奪還を図るおそれがあることから、秀吉の命令を受けたの軍勢が屋敷を取り囲んだと伝えられる。 死後、利休の首はでされた。 首は賜死の一因ともされる三門上の木像に踏ませる形でさらされたという。 利休が死の前日に作ったとされる遺偈(ゆいげ)が残っている。 人生七十(じんせいしちじゅう) 力囲希咄(りきいきとつ) 吾這寶剣(わがこのほうけん) 祖佛共殺(そぶつともにころす) 提(ひっさぐ)る 我得具足(わがえぐそく)の 一太刀(ひとつたち) 今此時(いまこのとき)ぞ 天に抛(なげうつ) — 久須見疎安『茶話指月集』(14年()) 利休忌は現在、およびに大徳寺で行われている。 死の原因 [ ] 利休が秀吉の怒りを買った原因を「大徳寺三門(金毛閣)改修にあたってがあったため、自身の雪駄履きの木像を楼門の2階に設置し、その下を秀吉に通らせた」 とする説が知られているが、その他にもさまざまな説があり、詳しくは分かっていない。 安価の類を高額で売り私腹を肥やした(売僧(まいす)の行い)疑いを持たれたという説。 陵の石を勝手に持ち出しやなどに使ったことが秀吉の怒りを買ったという説。 秀吉と茶道に対する考え方で対立したという説。 秀吉はもともとわび茶が嫌いで、ある日彼の命令でで「大名茶」とよばれる茶を点てたころから利休は密かに不満を募らせていた。 さらにこの後、利休がのを作っていることを聞いて憤慨した秀吉はその茶碗を処分するよう利休に命じたが、利休がまったく聞く耳を持たなかったために秀吉の逆鱗に触れたという説。 秀吉が利休の娘を妾にと望んだが、「娘のおかげで出世していると思われたくない」と拒否し、秀吉にそのことを恨まれたという説。 死後の豊臣政権内の不安定さからくる政治闘争に巻き込まれたという説。 秀吉の朝鮮出兵を批判したという説。 権力者である秀吉と芸術家である利休の自負心の対決の結果という説。 交易を独占しようとした秀吉に対し、堺の権益を守ろうとしたために疎まれたという説。 利休が修行していたはとつながりがあり、家康のとして茶湯の中にを入れ、茶室で秀吉を暗殺しようとしたという説。 茶会で秀吉に茶をこぼしたという説 [ ]。 死後 [ ] 千利休の自害後、聚楽城内にあった利休聚楽屋敷 は、秀吉の手によって取り壊された。 利休七哲の1人である細川忠興創建の大徳寺にはこの利休屋敷の一部と伝えられる書院が残る。 十数年後、この屋敷跡地は、忠興の長男・の茶室・能舞屋敷として活用された。 茶の湯の後継者としては先妻・の子である嫡男・と、後妻・の連れ子で娘婿でもあるが有名であるが、このほかに娘婿の、の名前が挙げられる。 ただし、道安と少庵は利休死罪とともに蟄居し、千家は一時取り潰しの状態であった。 豊臣家の茶頭としての後継は古田織部であったが、そのほかにも、細川忠興ら多くの大名茶人がわび茶の道統を継いだ。 利休の死後数年を経て(文禄4年()ごろ)、や前田利家の取りなしにより、道安と少庵は赦免された。 道安が堺の本家の家督を継いだが、早くに断絶した。 このため、少庵の継いだ京千家の系統()のみが現在に伝わる。 また家元の藪内家と千家にも、この時期に姻戚関係が生じる。 三千家は千少庵の系譜であり、大徳寺のであったその息子・が還俗して、現在の表千家・裏千家の地所である京都の本法寺前に屋敷を構えた。 このとき宗旦は、秀吉から利休遺品の数寄道具長櫃3棹を賜ったという(指月集)。 その次男宗守・三男宗左・四男宗室がそれぞれ独立して流派が分かれ、官休庵・不審庵・裏千家今日庵となっている。 件の木像は今日庵に現存する。 利休の茶の湯 [ ]• 「わび茶」の完成者としての利休像は、『』をはじめとする後世の資料によって大きく演出されてきたものである。 偽書である『南方録』では、(に出詠)のの歌、「 花をのみ 待つらん人に 山里の 雪間の草の 春をみせばや 」を利休の茶の心髄としており、表面的な華やかさを否定した質実な美として描かれている。 しかしこれらの資料では精神論が強調されすぎており、かえって利休の茶の湯を不明確なものとする結果を招いてきた。 同時代の茶の湯を知るには、利休の高弟であるによる『』が第1級の資料とされている。 この書によると、利休は60歳までは先人の茶を踏襲し、61歳から(つまり本能寺の変の年から)ようやく独自の茶の湯を始めたという。 つまり、死までの10年間がわび茶の完成期だったということになる。 茶道具を前もって飾っておかず、すべて茶室に運び入れるところから点前を始める「運び点前」を広めたことが、利休の茶の湯への最大の貢献とされる(『僊林』)。 運び点前では、茶を点てることが「主」で、茶道具はそのための手段として「従」とされる。 なお、利休の最初の師とされるが、茶道具のうちだけは最初に畳の上に置いておく「置水指の平点前」をしていたとの記録がある。 『南方録』には、唐物の名物道具を棚に飾っておく「台子点前」が茶の湯の「根本」であると利休が語ったとされているが、利休の台子点前について記述している『』には、利休が台子点前を「数寄に入らず」と嫌っていたことが記されている。 利休の茶の湯の重要な点は、を尊ぶ既成の価値観を否定したところにあり、一面では禁欲主義ともいえる。 その代わりとして創作されたのが楽茶碗やに代表される利休道具であり、造形的には装飾性の否定を特徴としている。 名物を含めたなどに比べ、このような利休道具は決して高価なものではなかった点は重要である。 利休は茶室の普請においても画期的な変革を行っている。 草庵茶室の創出である。 それまでは4畳半を最小としていた茶室に、庶民の間でしか行われていなかった3畳、2畳の茶室を採りいれ、(潜り)や、土壁、五(四)尺床などを工夫した。 その中でも特筆されるべきは「窓」の採用である。 師の紹鷗まで茶室の採光は縁側に設けられた2枚引きあるいは4枚引きの障子による「一方光線」により行われていたが、利休は茶室をいったん土壁で囲い、そこに必要に応じて窓を開けるという手法を取った(「囲い」の誕生)。 このことにより、茶室内の光を自在に操り必要な場所を必要なだけ照らし、逆に暗くしたい場所は暗いままにするということが可能になった。 のちにはや風呂先窓なども工夫され、一層自在な採光が可能となった。 設計の自由度は飛躍的に増し、小間の空間は無限ともいえるバリエーションを獲得することとなった。 利休の茶室に見られる近代的とも言える合理性と自由さは、単に数奇屋建築にとどまらず、現代に至るまで日本の建築に大きな影響を及ぼしてきた。 「」も利休の業績として忘れてはならない。 それまでは単なる通路に過ぎなかった空間を、積極的な茶の空間、もてなしの空間とした。 このことにより、茶の湯は初めて、客として訪れともに茶を喫して退出するまでのすべてを「」の充実した時間とする「総合芸術」として完成されたと言える。 「利休箸」「利休鼠」「利休焼」「利休棚」など、多くのものに利休の名が残っており、茶道のみならず日本の伝統に大きな足跡を刻んでいるといえる。 人物・逸話 [ ] 千利休像(蔵)天正11年(1583年)古渓宗陳賛• 現存している利休の甲冑(不審菴蔵「伝千利休所用 紺糸威縫延二枚胴具足」)から推定 [ ]すると身長が180センチほどで、当時としてはかなりの巨躯だったとされる。 利休没後100年ごろに成立したと推定される『』滅後にも、利休が大男であったという記述がある。 ある朝、秀吉が利休に茶会に招かれると庭の朝顔がすべて切り取られていた。 不審に思いながら秀吉が茶室に入ると、床の間に1輪だけ朝顔が生けてあり、1輪ゆえに際立てられた朝顔の美しさに秀吉は深く感動した(『茶話指月集』)。 弟子の古田織部の茶席で、籠の花入の下に薄板を敷いていないのを見て感じ入り、「このことに関しては私が弟子になりましょう」とまで述べた(『茶話指月集』)。 ある冬の日、大坂から京へ向かっていた利休は、親しい茶人の家へ立ち寄り、主人は来訪に驚きながら迎え入れた。 利休は、突然の訪問にもかかわらず手入れされている邸内や、庭での実を取り料理に柚子味噌を出す主人のとっさの客をもてなせる趣向に喜んだが、料理に当時は高級品で日持ちもしないが出されたところで顔色を変えた。 実は主人は利休がこの日に自邸のそばを通ることをあらかじめ知っており、準備を整えたうえで素知らぬ態で突然の客でも十分にもてなすことが出来るように見せかけていただけだったのである。 蒲鉾が用意されていたことからそれを察した利休は、わざわざ驚いたように見せた主人の見栄に失望し、その場で退席した(『茶話指月集』)。 はが茶人の利休を慕っていることを疑問に思い、その後忠興に誘われ利休の茶会に参加した。 茶会が終わると正則は「わしは今までいかなる強敵に向かっても怯んだことはなかったが、利休と立ち向かっているとどうも臆したように覚えた」とすっかり利休に感服していた。 切腹を命じにきた秀吉の使者に対しても動じず「茶室の鍵をなくしました」と述べた。 足跡 [ ] 利休居士四百年記念碑 ()• 宿院町西1丁の中浜筋沿いに利休の屋敷跡と伝えられる場所があり、市のとして保護されている。 千家茶道の発祥と発展にともない、餅、(けし)餅、(にっき)餅、大寺餅といった堺銘菓を扱う和菓子店が周囲に多数存在し、中には豊臣秀吉が名付けたものもある。 の内に利休屋敷跡の碑が建つほか、堺の(現在の周辺か)に「もずの屋敷」、京都堀川辺りに「醒ヶ井屋敷」、同じく大仏前に「大仏屋敷」、大徳寺門前に「大徳寺屋敷」、大阪府に「山崎屋敷」を構えていたと伝えられ、には茶室「」()が現存する。 顕彰・展示施設としては堺市営の「千利休茶の湯館」がある(「さかい利晶の杜」として記念館と併設)。 現在でも「(同種の菓子に利久饅頭の別名もあり)」というお茶受けのお菓子が各地にある。 天正15年()、豊臣秀吉のに同行し、に20日あまり滞在したとされる。 このとき、秀吉は((官兵衛)の叔父)らと浜(現在の馬出キャンパス内)で茶会を催した。 利休は秀吉の命により、に鎖を下ろし、の小釜をかけ、白砂の上の松葉をかき集めて湯を沸かしたとされる。 作品 [ ] 伝 千利休 竹花入「音曲」 利休はさまざまな新しい試みを茶道に持ち込んだ。 初代・をはじめとする職人を指導して好みの道具を作らせるとともに、自らも茶室の設計、・の製作など道具の製作にも熱心であった。 紹鴎の時代にあってもまだ煩雑であった茶会の形式をさらに簡略化するとともに、侘び道具を製作・プロデュースして、多くの支持者・後継者に恵まれたことが、利休を侘び茶の完成者と言わしめる由縁である。 ・ : 所在。 利休作といわれる。。 : 豊臣秀吉の命により製作。 書状「武蔵あぶみの書(織部あて)」「末吉勘兵衛宛書状」「松井佐渡守宛書状」など• 書状「寄進状」• 書「孤舟載月」• 竹花入「園城寺」「尺八」「夜長」• 茶杓「なみだ」「面影」 出自・系譜 [ ] 利休の祖父は、『』 によれば、 利休先祖之儀ハ、代々足利公方家ニ而御同朋ニ而御座候。 先祖より田中氏に而御座候。 就中、利休祖父ハ田中千阿弥〔初メ専阿弥ト号ス、太祖ハ里見太郎義俊二男、田中義清と申末孫也と云、〕と申候而、東山公方慈照院義政公の御同朋ニ而御座候、(中略)千阿弥発心致し泉州堺江閑居仕候、其子与兵衛ハ田中之名字を改メ父之名ノ千を取り苗字ニ致し、与兵衛と申候而堺之今市町ニ而商家ニ罷成候、其子千与四郎と申候而今市町ニ而商売仕候所茶道ヲ好キ候。 と書かれており、利休の祖父の名は初めは専阿弥、のちにといい、のであったため、その子、田中与兵衛(利休の父)がその阿弥号の千の字をとって千姓を称したとされる。 ただし、「阿弥」号は当時の門徒などにはきわめてありふれたものであり、必ずしも同朋衆に結びつくものではない。 この説の初出である「千利休由緒書」は、利休の曾孫であるによるものであり、利休の同時代史料には見当たらないところから内容を疑問視する向きがある。 たとえば芳賀幸四郎は、「千利休由緒書」の伝承は『』巻第二「室町亭行幸之事」に名の見える「同朋専阿弥」を参考にしたのではないかと指摘する。 また村井康彦は、「利休の祖先が義政の同朋衆であったとするなら(中略)千阿弥は利休の祖父というより曾祖父」でなければ時代が合わないと疑義を呈している。 中村修也は、「利休の祖父が足利義政の同朋衆であったという確たる史料はなく、むしろ創作された家伝と見るほうが無難である。 ただし、この記事は田中姓から千姓に代わった経緯を説明する役割を担っており、その意味では、千家がもとは田中姓であったことは疑いあるまい」 としている。 さらに、山上宗二の『』(天正16年(1588年))は、利休のことを田中宗易、利休の長男を田中紹安(のちの道安)と記しており 、利休の晩年に至っても姓としては田中の方が通っていたと考えられることから、利休の父の代に田中姓を千姓に代えたのではないとする向きもある。 たとえば神津朝夫は、「利休の父が田中姓を千姓に改めたというのも正しくない。 『山上宗二記』には「田中宗易」と明記されており、利休の本姓は依然として田中だったことがわかるからだ」と指摘し、「千」は利休以前から続く田中家の屋号であるとしている。 神津はこれに続けて「千家は朝鮮系の家ではないかとする説もあるが、田中が姓だったのではそれも成り立たない。 もしも日本「帰化」姓が田中だったのなら、秀吉の朝鮮侵略中に少庵が千家に戻したことになり、あまりに不自然だろう」とも指摘している。 家族 [ ]• 宝心妙樹(ほうしんみょうじゅ、生年不詳 - 5年()) 先妻お稲。 11年()ごろに利休に嫁ぎ、一男四女をもうけた。 しかし夫婦仲は円満ではなかったと伝わる [ ]。 宗恩(そうおん、生年不詳 - 5年()) 後妻おりき。 元は能役者のの妻で、一男(のちの少庵)をもうけた。 22年()ごろ、夫に先立たれる。 天正6年()かねてより縁のあった利休が前年に妻を亡くしていたため、利休と再婚した。 宗恩は新たな袱紗さばきを提案するなど、自身茶の湯に精通し、利休のよい補佐役・理解者であったといわれる。 母は宝心妙樹。 宗林(そうりん、生没年不詳) 次男。 母は宗恩。 夭折し、父母を悲しませたという。 宗幻(そうげん、生没年不詳) 三男。 母は宗恩。 夭折した。 一説に庶長子。 清蔵主(せいぞうしゅ、生没年不詳) 庶子。 明叔寺を号。 養嗣子。 宗恩の連れ子。 不明(生没年不詳) 長女。 母は宝心妙樹。 元年()ごろ、茶人に嫁いだ。 不明(生没年不詳) 次女。 母は宝心妙樹。 天正4年()ごろ、利休の弟子であるに嫁いだ。 天正17年()、に気に入られて、奉公するように請われたが断り、のちの利休の自害の遠因になったという説がある。 夫が没すると、実家に戻った。 三(生没年不詳) 三女。 母は宝心妙樹。 従弟にあたるに嫁いだ。 三の逸話は一説には彼女のこととも言われる。 吟(生没年不詳) 四女。 母は宝心妙樹。 天正12年()、の僧侶(・玉堂)に嫁ぐ。 不明(生没年不詳) 五女か。 に嫁いだ。 亀(かめ、生年不詳 - 慶長11年()) 末女、六女か。 名は長(ちょう)とも。 天正4年(1576年)ごろ、のちに利休の養子となる少庵を婿とした。 少庵との間にはをもうけている。 利休が秀吉の怒りを買って堺に蟄居する際に、歌を亀に残している。 また夫婦仲は良好ではなかったようで少庵とは別居していたが、息子・宗旦が利休に連座しようとした際には別居先から駆けつけている。 また、偽書『南方録』によれば、三・亀を除くいずれかの女子が、天正19年()に自害したという。 千利休を題材にした作品 [ ] 時代小説• 茶道太閤記(、1941年、学芸社) - ・で再刊• (、1957年、) - 数社で再刊• 秀吉と利休(、1964年、) - 新潮文庫・で再刊• 千利休とその妻たち(、1980年、) - 新潮文庫で再刊• 本覚坊遺文(、1981年、) - 、講談社文芸文庫で再刊• 利休啾々(しゅうしゅう)(、1982年、講談社) - 講談社文庫、徳間文庫で再刊• 利休と秀吉(、1991年、淡交社) - 集英社文庫で再刊• 利休(、1994年、)• 千家再興(、1994年、) - 中公文庫で再刊• (、2008年、) - PHP文芸文庫、文春文庫で再刊• 利休の闇(、2015年、文藝春秋) - 文春文庫で再刊• 茶聖(、2020年、) 映画• (1962年、、監督:、原作:、演:)• お吟さま(1978年、、監督:、演:)• (1989年、、監督:熊井啓 原作: 演:)• (1989年、、監督:、原作:『秀吉と利休』、演:)• (2013年、監督:、原作:、演:) テレビドラマ• (1983年、・系、演:)• (1985年、NHK、演:)• (1990年、、演:) 漫画• () - 主役はであるが、当初作者の山田は利休を主人公にと考えており、作中での出番も非常に多い(コミックスあとがきより)。 (作:、画:)• コミック(映画脚本:、画:) - 2013年の映画公開にあわせ漫画化。 千利休() 利休が登場した作品 [ ] 映画• 『』(監督:、原作:、演:) 漫画• 『』(作:) テレビアニメ• 『ねこねこ日本史』(、声:) - 上記の漫画をアニメ化。 脚注 [ ] [] 注釈 [ ]• 「利休の登場」、編『千利休のすべて』、新人物往来社、1995年、38頁。 神津朝夫『千利休の「わび」とはなにか』 角川書店、2015年 , p. 113• 神津朝夫『千利休の「わび」とはなにか』 角川書店、2015年 , p. 114• 桜井英治『日本の歴史十二 室町人の精神』(講談社、2001年)• 神津朝夫『千利休の「わび」とはなにか』 角川書店、2015年 , pp. 61, 80-81• 神津朝夫『千利休の「わび」とはなにか』 角川書店、2015年 , pp. 61-63• 神津朝夫『千利休の「わび」とはなにか』 角川書店、2015年 , pp. 66-82• 『松屋会記』に天文6年(1537年)9月13日の「京都与四郎」による茶会の記述に「宗易事也」と加筆されている。 宗易は利休の別名なので、これをもって利休が16歳の時に茶会を開いたとされたが、今では別人による茶会だと考えられている(神津朝夫『千利休の「わび」とはなにか』 角川書店、2015年 , p. 125• 神津朝夫『千利休の「わび」とはなにか』 角川書店、2015年 , pp. 119, 128, 142, 233• 今谷明『戦国三好一族』(新人物往来社、1985年)• 神津朝夫『千利休の「わび」とはなにか』 角川書店、2015年 , pp. 114-115• 神津朝夫『千利休の「わび」とはなにか』 角川書店、2015年 , p. 128• 朝尾直弘他『堺の歴史 都市自治の源流』(角川書店、1999年)• 表千家北山会館「」『家元に伝わる茶の湯の道具 表千家歴代ゆかりの掛物』2012年• 神津朝夫『千利休の「わび」とはなにか』 角川書店、2015年 , p. 184• 神津朝夫『千利休の「わび」とはなにか』 角川書店、2015年 , p. 195• 神津朝夫『千利休の「わび」とはなにか』 角川書店、2015年 , pp. 195-198• 『日経大人のOFF』2013年12月号、、。 『晴豊公記』第七巻、天正19年2月26日条(1591年4月19日)• 『兼見卿記』巻十六、天正19年2月26日条(1591年4月19日))• 『』巻三十七、天正19年2月28日条(1591年4月21日)• 『夏山雑談』巻之五、寛保元年(1741年)• 吉田孫四郎雄翟 口述、千代女 書留『先祖等武功夜話拾遺』巻七、寛永15年(1638年)• 『秀頼公御小姓古田九郎八直談、十市縫殿助物語』承応2年(1653年)• 吉田孫四郎雄翟 編『武功夜話』巻十七、寛永15年(1638年)• 杉本捷雄『千利休とその周辺』淡交社、1970年• 芳賀幸四郎『千利休』 吉川弘文館、1963年• 米原正義『天下一名人千利休』 淡交社、1993年• ・山崎正和対談「利休が目指し、挫折したもの」(『プレジデント』27 9 《特集》千利休、1989年9月)• 薯『』• 千利休薯『利休百会記』付属図書館• 神津朝夫『千利休の「わび」とはなにか』 角川書店、2015年 , pp. 135-138• 神津朝夫『千利休の「わび」とはなにか』 角川書店、2015年 , p. 135• 神津朝夫『千利休の「わび」とはなにか』 角川書店、2015年 , p. 175• 『細川家記』(東京大学史料編纂所所蔵)• 江岑宗左『千利休由緒書』承応2年(1653年)• 国枝清軒『武辺咄聞書』延宝8年(1680年)• 山田宗徧『茶道要録』付録 元禄4年(1691年)• 成島司直「千利休罪科付格言の事」(『改正三河後風土記』巻第二十九)天保4年(1833年) など。 (2018年6月26日閲覧)• 了々斎宗左『千家系譜』文化元年(1804年)• 江岑宗左『千利休由緒書』承応2年(1653年)。 『墨海山筆』巻二十二所収の「利休伝」(東京大学史料編纂所架蔵)は『千利休由緒書』の写しとされ、若干の異同がある。 芳賀幸四郎『千利休』吉川弘文館、1963年。 村井康彦『千利休』講談社、2004年。 中村修也「『源流茶話』注釈 二 」文教大学教育学部紀要38、2004年。 山上宗二『山上宗二記』天正16年(1588年)• 神津朝夫『千利休の「わび」とはなにか』 角川書店、2005年 参考文献 [ ]• 『利休の茶室』、1952年、復刊1995年• 『千利休』〈〉、1963年、新装版1986年• 松山吟松庵校訂『茶道四祖伝書』、1974年• 『千利休研究』、1976年• 千宗左・千宗室・千宗守監修『利休大事典』、1989年• 戸上一『千利休』 〈刀水歴史全書〉、1998年• 『千利休』、2004年• ・監修『千利休』(改訂復刊)、2011年 関連項目 [ ] ウィキメディア・コモンズには、 に関連するカテゴリがあります。 ウィキクォートに に関する引用句集があります。 : の主産地として茶をメインテーマとする。 常設展示に利休の大坂城山里丸の茶室を復元。 - 利休が考案したとの説がある。 外部リンク [ ]•

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ここまで知らなかった!なにわ大坂をつくった100人=足跡を訪ねて=|関西・大阪21世紀協会

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「甘み」より「深みと旨み」の奥深さが際立つ煎茶 甘み2倍!とろーりあまいお茶です。 お茶の旨み成分のひとつであるアミノ酸が普通煎茶の2倍以上含まれており(当社比)、あまい味わいと鮮やかな水色が特徴で思わず友達に勧めてしまうお煎茶です。 水色は決して「鮮やか」という色ではないですが、深むし煎茶らしく色濃く濁ってはいますが、きれいな色合いです。 「甘み」をとっても強調していますが、決して玉露のような甘みではなく、「深みと旨みが強い」という方が正解なのでしょう。 「日常茶ランキングNo. 1」の<よかろう>と飲み比べてみた 水色は「利休の詩」の方が若干、緑濁色が濃いです。 茶葉が細かい分色濃く出るのもあるのでしょうか。 「よかろう」は普段飲む自宅用の煎茶としてとてもリーズナブルで、気に入っている煎茶のひとつです。 やはり飲み比べてみると明らかに深みが違うんですよね。 ただ、同じ系統の旨みと渋味であることは間違いなく、「利休の詩」の2煎目を飲んだ感覚と「よかろう」の1煎目が近いような・・・。 つぼ市のお茶はコスパが高い!! スーパーで売られているもので、100g入りで1,000円~1,500円の煎茶はよく見かけて飲みますが、「よかろう」は500円(100g)で、「利休の詩」が1,500円(100g)。 市販のものでこんなにリーズナブルで味わい深いお茶はないのではないでしょうか。 「大阪産(もん)名品」に認定されている「特選 利休の詩」 「大阪産(もん)」の中でも「大阪の特産と認められる加工食品」には「大阪産(もん)名品」として認定されています。 大阪で培われた技術や製法に基づいて作られ、製造から概ね50年以上が経過している商品について大阪府が認定していますが、「特選 利休の詩」は大阪が誇るそれにふさわしい一品です。 きっと、お土産にするとよろこばれると思いますよ。 つぼ市製茶本舗 利休倶楽部(オンラインショップ) 大阪産(もん)名品の会.

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京都にある千利休のお墓をご紹介!大阪にある供養塔もあわせて解説|終活ねっとのお墓探し

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京利休は大阪府高槻市で仕出し弁当を配達、会席・オードブルの宅配、ケータリングのお届け料理を行っているお店になります。 ここでは京利休についてまとめてみましょう。 京利休とは? 京利休は、大阪府高槻市にある京都の彩りあるおいしいものを詰め込んだお弁当を提供するお店です。 高級宅配弁当と京都市内、高槻市、茨木市、枚方市、大阪市内へ宅配しています。 接待、おもてなし、会議、セミナー、パーティー、行事、地域の集まり、行楽、観光、法事、法要、通夜、告別式など様々なシーンに合わせたお弁当が用意されていますよ。 価格も1000~1999円のリーズナブルなものから、5000円以上の豪華なものまで幅広くそろいます。 電話受付時間は9時から18時までで、締め切りは前日15時までです。 配達時間は11時から18時で定休日は無休になります。 京利休の人気メニューとは? 京利休ではたくさんのメニューの中からお弁当を選ぶことができますが、その中でも京都の彩り彩色絶品「肉おせち弁当」シリーズは人気があります。 この肉おせち弁当は、京利休の新しいお弁当タイプの1つです。 お正月にしか楽しめなかったおせち料理とこだわりのお肉を彩り鮮やかにお弁当に詰めました。 いつものお昼ご飯が特別なメニューにかわるので、来賓者や来客者がいるときや、製薬会社の病院関係者向けの説明会時の接待やおもてなしにも人気があります。 京利休の女性向け彩り弁当は、食材を贅沢に使った多種多様な料理をお楽しみいただけるメニューになっています。 味はもちろんですが、お弁当は見た目も大切です。 京利休のお弁当は見た目にもこだわっており、華やかな色彩あふれるお弁当になっていますよ。 配達エリアは、大阪府と京都府になります。 高槻市、茨木市に関しては5,000円以上の注文で配達してくれますよ。 高級料理店として有名な中納言の高級仕出し弁当は、 お値打ち価格のものからどのシーンに出しても喜ばれる高級なものまで、幅広く取り扱っています。 会議や接待のお弁当として注文されることも多く、目的によっておすすめのお弁当もホームページに載っています。 大阪、神戸を中心とする関西地区、阪神間で配達可能で、2日前まで予約を受け付けています。 おすすめポイント• ・高級店のお料理をお値打ち価格で!• ・シーンに合わせて選べるお弁当の種類が豊富• ・科学調味料を一切使用せず安心! 価格帯 2,000円 税込 ~ 注文方法 オンライン(ホームページ)/電話/FAX 受付時間 10:00~18:00 配達エリア 阪神間(大阪、兵庫).

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