清水の狂犬 破門。 荒岡保志の偏愛的漫画家論(番外編)左近士諒試論Ⅱ

荒岡保志の偏愛的漫画家論(番外編)左近士諒試論Ⅱ

清水の狂犬 破門

への原稿・講演依頼はqqh576zd salsa. ocn. jp 宛にお申込みください。 ・・・・・・などについての講演を引き受けます。 前回、「試論」でもご紹介差し上げたが、1997年に、を主演に迎え、より劇場公開された「恋極道」、2002年に、Vシネマの帝王を主演に迎え、オリジナルビデオとして映像化された「示談屋 竜次」も、左近士先生の漫画が原作である。 伝説の広島極道大西政寛を描いた「実録 激烈ヤクザ伝 外伝 悪魔のキューピー大西政寛 悪魔誕生編」、「血塗れ二丁拳銃編」、「キューピーの最後編」の3部作、そして今回ご紹介する「ナニワ極道伝 殺てもうたれや!」など、左近士先生の描く極道漫画は幅広い。 穏やかな左近士先生の横顔からは、極道のごの字も想像できない。 掲載誌の読者層に合わせた結果なのだろうが、少なくとも、「ナニワ極道伝 殺てもうたれや!」を読んだ印象で言わせて頂くと、左近士先生は、極道に精通している、極道を描き切っている、と言って差し支えないだろう。 「殺てもうたれや!」は、1997年に、「アクションコミックス」より全2巻で発行された、約450ページの長編漫画である。 「アクションコミックス」という事なので、掲載誌は、素直に同社の「週刊」であろう。 言うまでもなく誌の草分け的存在の「週刊」は、の「」、の「」、はるき悦己の「じゃりん子チエ」など、日本漫画史に燦然と輝く名作漫画を排出してきた名門であったが、2003年に一度は休刊に追い込まれた経緯がある。 ただし、今現在は、月間2回刊行の誌として復刊している。 前回ご紹介した「走れイダテンキング!」から十余年、やや荒削りな印象の「走れイダテンキング!」であったが、この「殺てもうたれや!」ではの画風が完成を見ていると言っていい。 元々画力のある左近士先生であったが、格段に進化している事が分かるのだ。 それは、ペンタッチに素直に現れている。 描き込んではいるのだが、すっきりと無駄がない。 キャターの表情も豊かになり、表現に奥行きがある。 「走れイダテンキング!」に登場するキャターたちはやや一辺倒であったが、この「殺てもうたれや!」では、猛烈な個性を主張している、言わば命が吹き込まれている。 左近士先生ご本人からは想像ができない力強さで描かれているのだ。 1989年に、主演で映画化された大ヒット映画「悲しき」、その後の一連のシリーズも幸夫の原作であり、左近士先生と組んだ「恋極道」も氏の原作である。 1994年に、主演の「大阪極道戦争 しのいだれ」、1996年に、主演の「鬼火」、主演の「シャブ極道」、1997年に、永島敏行主演の「売春」、1998年に、主演の「チャカ」、2005年に、主演の「濡れた赤い糸」など、作品の映画化は数多い。 もはや、日本の極道、には欠かせない存在となっているのだ。 この「殺てもうたれや!」で特筆すべきは、極道の存在が比較的身近に描かれているところだろう。 さすがに顧問弁護士だっただけの事はある、幸夫は、極道の、人間臭い部分を掘り下げているのだ。 極道、任侠というと、どうしても「」に代表されるヤクザ映画を連想してしまうが、幸夫にとって、極道は気の良い隣人なのだ。 その為に、幸夫の作品は、代表作「悲しき」にしろ、左近士先生と組んだ「恋極道」にしろ、描かれる極道たちは、感情も豊かで、流れる血潮、呼吸が伝わって来るのである。 初めは戸惑いながらも、一本気だが不器用な極道田坂に、優しい、世間知らずのお嬢様ちなみは次第に惹かれていく。 そして、田坂の必死な懇願の末、二人で、陰謀の巣食う街大阪へ向かう事になるのだ。 拘留所の中、自分の眼球に指を突っ込み、掻き毟る田坂は、そのまま医務室に運ばれるが、そこで盗んだ注射針を腕に刺して吸い込み、今度はトイレを血塗れにする。 かと、拘留所から警察病院に輸送される田坂は、看護婦を襲い、見事に脱獄は成功する。 テンポの良い脱獄シーンから始まる「殺てもうたれや!」は、冒頭からバイオレンス、満載だ。 読者は、骨太の極道漫画を期待するだろう。 それが、田坂が組長に連絡を取ってから、この極道は迷走する事になる。 田坂は、組長に、もう一度をやらせて欲しいと申し出るのだが、既に組は手打ちが済んでおり、組員が脱獄したという事実は、組に取っても不都合極まりない。 要すれば、組に取って、田坂は厄介者となっているのだ。 田坂のキャターが、「殺てもうたれや!」のストーリーの要である。 機関車のように力強く、闘牛のように真っ直ぐ、その真っ直ぐさが災いしてやや短気で不器用、更に意外とお人よし、というキャターである。 また、サブキャターながらこの組長もいい味を出している。 義理、人情、仁義も重要なのだろうが、やはり組が第一、自分も第一、すぐに保身に入る小心者である。 極道を率いる組とは言え、社会の秩序の中で運営されているのだ。 この辺りに、幸夫らしさが出ている。 極道とは言え血の通った人間なのである。 そして、もう一人の主役、お嬢様のちなみは、いきなり目の前に現れた極道に戸惑いながらも、どんどん惹かれて行く。 厳粛な家庭に育ったお嬢様には、真っ直ぐな田坂は今までに出会った事がない男性であった。 大阪まで同行するのは、一つは、田坂を放ってはおけない母性本能から、もう一つは、ちなみを縛る厳粛な家庭への当て付けでもあった。 女装してまでターゲットに迫るのだが、これもやはり不発で終わり、組長の怒りを買った田坂は、組から破門されるはめになる。 組から破門を受けた田坂は、その狂犬ぶりを発揮し、借金の取立てから麻薬の密売、賭場荒らしまで、あらゆる悪事に手を染め、今度は大阪で追われる身となる。 田坂との破天荒な逃避行に慣れたちなみは、次第に極道の女らしく変貌を遂げるが、行方不明の自分を探す両親の姿を見てから、田坂と両親との狭間の中で追い詰められて行く。 田坂を愛しながらも、犯罪を繰り返す田坂に着いて行けない部分がある事も隠せないちなみである。 その葛藤から、自殺未遂まで起こしてしまうが、田坂の必死の看護がちなみを死の底から救うのだ。 田坂にとっても、ちなみはかけがえのない存在なのである。 お嬢様に過ぎなかったちなみが、田坂と一緒に居ると、どんどん逞しくなって行く。 一瞬、田坂を抱擁する母親の様相も見せる。 可愛いだけの女ではない、お嬢様からいい女として花開くちなみを、左近士先生は見事に描き切っているのだ。 そして、このには、悲しくも壮絶な終末が待っている。 田坂といい、仁王丸といい、目的に向かってまっしぐらに突き進む、ダンプカーのような、ブルドーザーのような男たちである。 もちろん原作付であるから、原作の設定がそうであるだけかと言うと、それは違うのだ。 凛々しい眉、睨み付けるような瞳、全てのキャターに共通するのは、その灼熱の眼力である。 そして、彼らには情がある。 これも、左近士先生の漫画の魅力なのだ。 漫画家でもある青山宏美が原作を担当した「THE HEAVY」は、の「コミック」に掲載された、タイトル通りのボクシング漫画であるが、残念な事に、ストーリーの佳境で中断されている。 が蔓延る相撲会に嫌気がさし、を返上してボクシングの道へ進む仁王丸のスポーツ根性漫画「THE HEAVY」は、登場するライバルも魅力的で、グイグイ読ませる力強い傑作である。 中断されたのは、「コミック」の廃刊に伴った為なのか、その辺りの経緯も一切不明である。 最後に。 左近士先生の漫画は、どの作品も、コマ割りのメリハリ、臨場感、スピード感で、あっという間に完読してしまう印象だ。 アングルが映画的でダイナミックなところも、それに拍車をかけているのだろう。 エンターティメントに徹底した職人、それもである。 荒岡 保志(アラオカ ヤスシ)のプロフィール。 1961年7月23日、東京都吉祥寺生まれ。 獅子座、血液型O型。 私立高等学校卒業、経済学部中退。 現在、千葉県在住。 執筆活動と同時に、広告代理店を経営する実業家でもある。 デビューは、2006年、D文学研究会発行の研究情報誌「D文学通信」1104号に発表された「偏愛的漫画家論 論」である。 その後、「児嶋 都論」、「論」、「泉 昌之論」、「華 倫変論」、「論」、「山野 一論」などを同誌に連載する。 shimizumasashi.

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清水宏次朗

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ぬっきー君、久しぶり。 日蓮正宗は、日蓮自ら書いた真筆本尊でも、日蓮正宗の管長の血脈で開眼しなければ罰を被ると宣い、日蓮と日蓮正宗管長との主従関係を逆転させることにも矛盾を感じないカルトだよ。 考えてもご覧よ。 日蓮正宗は日蓮真筆を拝んでないのに偽本尊って何だ? そして、日蓮真筆のレプリカ 臨滅度時本尊 に手を合わせる日蓮宗信者さえ偽本尊拝んでると言ってるような連中だよ。 じゃああんたらの奉安殿とやらに鎮座する秘仏、本門戒壇板曼荼羅様は日蓮真筆か?って聞くと明確な答え出せた試しがない。 そんな荒唐無稽な本尊をこの世で唯一の日蓮佛の当体で、それ以外は如何に日蓮真筆たりとも全く功徳は無いなんて我田引水する宗教が正しいわけがない。 私からすれば、よっぽどプリキュアを祭壇に奉り、毎日手を合わせた方が功徳があると思うよ。 前期のキュアミルキー 羽衣ララたん の尊さと言ったら、日蓮真筆を遥かに凌駕しているよ。 私見です。 宗教概念からすると、創価学会の本尊は本尊が仏となる開眼供養の儀式もありませんので、ニセ本尊。 創価学会の本尊の場合は一般論と宗教概念論の両面からニセ本尊です。 日蓮大聖人滅後の日蓮宗の僧侶が書写したのも日蓮宗発行ですから、日蓮宗の本物の本尊です。 もし、日蓮宗が創価学会のように他教団である日蓮正宗の本尊を無断複製したら、ニセ本尊となりますが、日蓮宗ではそのようにしてません。 では、宗教概念からみるとどうかと言うと、日蓮宗にある日蓮大聖人の本尊をニセ本尊とまでは言いません。 しかし、功徳が出ない無益な本尊であり、拝んだら悪業を積みます。 「悪業を積む」というのは日興上人の『佐渡国法華講衆御返事』でわかります。 日興上人は師と弟子の筋道が違っていたならば、同じ御本尊を持っていても無間地獄に堕ちますと述べられてます。 さらに、日蓮宗の僧侶が書いたのは、宗教概念から見るとニセ本尊となります。 日蓮大聖人から相伝された正当な開眼供養がありませんので、日蓮大聖人の本尊に姿・形だけ似せてるニセ本尊です。 日蓮正宗時代の創価学会会長であった戸田先生はこんなふうに言ってます。 「日蓮大聖人様のお悟り、唯授一人、代々の法主猊下以外にはどうしょうもない。 だから、仏立宗や身延のヤツラが書いた本尊なんていうものはね、ぜんぜん力がない。 ニセですから、力がぜんぜんない。 むしろ、魔性が入っている。 魔性の力が入っている。 」 『大白蓮華』昭和三十四年七月号 話は少し変わりますが、例えば日蓮正宗をやめた人が持ってた日蓮正宗の本尊はどうなのかというと、ニセではありませんが、やはり拝むと悪業を積みます。 なので、元々日蓮正宗の本尊であっても、日蓮正宗をやめた人が持っていた本尊ならば、拝みません。 だから、創価学会にある日蓮正宗から発行された本尊も日蓮正宗は拝みません。 本尊というのは簡単に考えてはならないです。 外見がそっくりでも中身は違うのです。 あと、こういう話を聞きたいなら、知恵袋で質問するのではなく、最寄りの日蓮正宗の寺院にアポをとって、お話を伺ったらどうでしょうか? そのほうが、確実だと思いますよ。 かなり、日蓮正宗に興味をお持ちのようですので、参詣してみてはどうでしょうか?.

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そもそもだが、偽本尊って何なんですかね?日蓮正宗の法主以外...

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マルティン・ルターの父母の肖像画 1483年に鉱山業に従事していた父ハンス・ルダー と母マルガレータの次男として、ドイツのザクセン地方の小村で生まれた。 を受けた日がの祝日であったことにちなんで、マルティンと名づけられた。 もともと農夫(鉱夫説もあり)から身を起こした父は、上昇志向が強く、子供たちにもさらに上を目指すよう常に要求していた。 教育において時に厳格を極めた父の姿は、後のルターが冷酷で厳格な神というイメージを持つ上で強い影響を及ぼすことになる。 父の願いに沿う形で、マルティンは勉学に取り組んだ。 ルターの生後半年ほどで、一家はへと移住していたため、まずはルターはここの教会付属学校に通った。 ルターが13歳になると自宅から離れ、、ついでに学び、法律家になるべくにに入った。 を学び、成績優秀で父の期待するエリート・コースに乗るかに見えた。 マルティンの人生に最初の転機が訪れたのは、ロースクールに入学した1505年のことであった。 家を出て大学へ向かったマルティンは、エアフルト近郊のシュトッテルンハイムの草原で激しい雷雨にあった。 落雷の恐怖に死すら予感したマルティンは、「聖、助けてください。 修道士になりますから!」と叫んだという。 マルティンの両親は、に入ることには大反対で、結婚して父の後を継いでくれることを望んでいた。 しかし、マルティンは、両親の願いを聞き入れるどころか父親の同意すら得ずに大学を離れ、エアフルトのに入った。 修道院生活におけるルターと「神の義」 [ ] 聖アウグスチノ修道会時代のルター ルターは修道生活にもすぐ慣れ、祈りと研究の日々をすごしていた。 この修道士時代に、ルターは、を深く読むようになり、の思想に触れた。 にはのを受けたが、初を立てる中で、ルターは弱く小さな人間である自分がミサを通じて巨大な神の前に直接立っていることに恐れすら覚えた。 当時からルターは、どれだけ熱心に修道生活を送り祈りを捧げても、心の平安が得られないと感じていた。 長上であり、聴罪司祭であったの励ましも、ルターの恐れを取り除くことはできなかった。 で教えていたルターだったが、シュタウピッツの勧めもあって、できたばかりであったに移ってとの講座を受け持つことになった。 彼は、ここでの手法を適用した的なアプローチの限界を感じ、神を理性で捉えることは困難であるという理解に達した。 その後、再びエルフルト大学で教えたり、修道会の使命を帯びてへ旅行するなどしたが、最終的にに戻り、そこで神学の博士号を取得して、聖書注解の講座を受け持った。 その頃からルターの心を捉えて離さなかったのは、の『』に出る「神の義」の思想であった。 いくら禁欲的な生活をして罪を犯さないよう努力し、できうる限りの善業を行ったとしても、神の前で自分は義である、すなわち正しいと確実に言うことはできない。 この現実を直視していたルターは、苦しみ続けたが、あるとき突如として光を受けたように新しい理解が与えられるという経験をする。 そこでルターは、人間は善行(協働)でなく、信仰によってのみ sola fide 義とされること、すなわち人間を義(正しいものである)とするのは、すべて神の恵みであるという理解に達し、ようやく心の平安を得ることができた。 これが「塔の体験」と呼ばれるルターの第二の転機であった。 ここでルターが得た神学的発想は、のちに「」と呼ばれることになる。 ルターは、この新しい「光」によって福音と聖書を読み直すことで、人間の義化に関しての理解と自信を増していった。 「正しいものは信仰によって生きる」、かつてあれほどルターを苦しめた「神の義」の解釈を見直したことによって、大きな心の慰めを得るようになったのである。 論争・贖宥状問題 [ ] 日本のルーテル教会 人物 ・ 神学校• 大学で教える傍ら、司祭として信徒の告解を聞いていたルターは、信徒たちもまた罪と義化の苦悩を抱えていることをよく知っていた。 そんなルターにとって当時、盛んにドイツ国内で販売が行われていたの問題は見過ごすことができないように感じられた。 ルターは知らなかったが、ヨーロッパ全域の中で特にドイツ国内で大々的に贖宥状の販売が行われたのには理由があった。 それは当時のであったの野望に端を発していた。 彼はの弟であったが、初め位と位を持っていた。 さらにアルブレヒトは兄の支援を受けて、選帝侯として政治的に重要なポストであったマインツ大司教位も得ようと考えた。 しかし、司教位は本来一人の人間が一つしか持つことができないものである。 アルブレヒトはから複数司教位保持の特別許可を得るため、多額の献金を行うことにし、その献金をひねり出すため、の人間の入れ知恵によって秘策を考え出した。 それは自領内で建設献金のためという名目での贖宥状販売の独占権を獲得し、稼げるだけ稼ぐというものであった。 こうして、アルブレヒトは贖宥状販売のための「指導要綱」を発布、という員などを贖宥状販売促進のための説教師に任命した。 アルブレヒトにとって贖宥状が一枚でも多く売れれば、それだけ自分の手元に収益が入り、の心証もよくなっていいこと尽くしのように思えた。 アルブレヒトの思惑通り、贖宥状は盛んに売られ、人々はテッツェルら説教師の周りに群がった。 義化の問題に悩みぬいたルターにとって、贖宥状によって罪の償いが軽減されるという文句は「人間が善行によって義となる」という発想そのものであると思えた。 しかし、そのときルターが何より問題であると考えたのは、贖宥状の販売で宣伝されていた「贖宥状を買うことで、のの罪の償いが行える」ということであった。 煉獄の霊魂が、本来罪の許しに必要なの授与や悔い改めなしに贖宥状の購入のみによって償いが軽減されるという考え方をルターは贖宥行為の濫用であると感じた(テッツェルのものとしてまれに引用される「贖宥状を購入してコインが箱にチャリンと音を立てて入ると霊魂が天国へ飛び上がる」という言葉は、この煉獄の霊魂の贖宥のことを言っているのである)。 この煉獄の霊魂の贖宥の可否については内でも議論が絶えず、疑問視する神学者も多かった。 、ルターはアルブレヒトの「指導要綱」には贖宥行為の濫用がみられるとして書簡を送った これこそが『』である。 論題が一般庶民には読めないで書かれていたことから、ルターがこれを純粋に神学的な問題として考えていたとされる。 「」も参照 論争・カトリック教会の権威 [ ] ルターが呼びかけた意見交換会は、結局開かれることはなかった。 しかし、『95ヶ条の論題』はすぐにドイツ語に訳され、国内で広く出回り始めた。 そして、既存のカトリック教会の体制への不満がくすぶっていたドイツ国内の空気に、ルターの論題が火をつけることになった。 には、ルターは、論題を神学的考察の形でまとめなおした『免償についての説教』を発表した。 これに対する反論を記したカトリック司祭ウィンピーナは、「信仰の問題に関して疑問を投げかけることは、教皇の不謬権への疑問と同じ意味を持つ」という指摘を行った。 ここに至って、神学問題の提起を行ったルターがにわかにへの挑戦者という意味合いを持たされることになった。 ルターの友人であった大学の教授は、ルター説はかつてと断罪されたの説と似ていると指摘し、ルターを激怒させた。 以後、二人は激しい論戦を繰り返すことになる。 レオ10世 マインツ大司教アルブレヒトは、自らの収入の道が一によって絶たれてはたまらないと、ローマに対してルターの問題を報告した。 しかし、ローマ教皇庁は大きな問題とは考えず、聖アウグスチノ修道会に対し、での総会でルターを諭して穏便に解決するよう命じた。 4月のハイデルベルクでの総会で、ルターは、逆に自説を熱く語った。 さらに、総会後には、教皇に対し、自らの意見を書面にして送付した。 教皇庁では「プリエリアス」と呼ばれたのがこれを審査した。 このとき、彼は、教皇権に関する部分についてのみとりあげて解説を加え、教皇の権威を揺るがす危険性があると指摘した。 この時点では教皇もドイツ国内で解決できる問題であると考えていたが、ここで一つの政治的配慮が作用した。 ルターがの庇護を受けることになったため、当時の教皇はへの対抗上、賢公をないがしろにはできなかったのである。 このような空気の中で行われた1518年10月のでの審問は、教皇使節が免償の問題に対するルターの疑義の撤回を求めた。 しかし、ルターは、「聖書に明白な根拠がない限りどんなことでも認められない」と主張した。 逮捕を恐れたルターは、アウクスブルクから逃亡したが、教皇もルターの保護者賢公に配慮し、ルターに対してそれ以上の強い態度に出ることはなかった。 ルターは、自らの身の潔白を主張し、の開催を求めていた。 なぜなら当時は、公会議の決定は教皇を超える権威を持つというの思想が色濃く残っていた時代であったからである。 ルターの求めた公会議は、やがてにおいて実現することになる。 教皇庁では事態を穏便に解決するため、特使カール・フォン・ミルビッツを派遣してルターと会談させているが、結局事態は解決できなかった。 そして、教皇庁が秘密裏に交渉を続ける間にも、事態は神学問題を超えて論議を呼んでいたため、神学者ヨハン・エックはルターの盟友に論戦を挑んだ。 7月、でこの討論会が行われることになり、エックとカールシュタットが議論を戦わせた。 やがてルター本人も現れ、エックと論戦を行った。 この議論の中でルターが公会議の権威をも否定してしまったことで、学問レベルでルター問題を解決しようという試みは失敗に終わった。 事態は政治闘争の様相を帯びてきた。 カトリック教会との断絶・破門 [ ] カトリック教会との断絶が決定的となったこのころ、ルターの周囲には賛同者たちが集まり始めた。 その中にはや、などの姿もあった。 ルターがにあいついで発表した文書は宗教改革の歴史の中で非常に重要な文書であり、ルターの方向性を確定することになった。 それは『ドイツ貴族に与える書』、『』、『』であった。 『ドイツ貴族に与える書』では教会の聖職位階制度を否定し、『教会のバビロニア捕囚』では聖書に根拠のない秘跡や慣習を否定、『キリスト者の自由』では人間が制度や行いによってでなく信仰によってのみ義とされるという彼の持論が聖書を引用しながら主張されている。 レオ10世は回勅『エクスルゲ・ドミネ』(主よ、立ってください)を発布して自説の41か条のテーゼを撤回しなければすると警告したが、ルターはこれを拒絶。 1520年12月に回勅と教会文書をヴィッテンベルク市民の面前で焼いた。 これを受けて1521年の回勅『デチェト・ロマヌム・ポンティフィチェム』(ローマ教皇として)によってルターの破門が正式に通告された。 ヴォルムス帝国議会からヴァルトブルク城へ [ ] に残るルターの部屋 4月、ルター支持の諸侯たちや民衆の声に押される形で、ルターのへの召喚が行われた。 皇帝は何よりルター問題からドイツが解体へ至ることを恐れていた。 議会において、ルターは自分の著作が並べられた机の前に立った。 ルターはまず、それらの著作が自らの手によるものかどうかを尋ねられ、次にそこで述べられていることを撤回するかどうか尋ねられた。 ルターは第一の質問にはうなずいたものの、第二の質問に関してはしばらくの猶予を願った。 熟考したルターは翌日、自説の撤回をあらためて拒絶。 「聖書に書かれていないことを認めるわけにはいかない。 私はここに立っている。 それ以上のことはできない。 神よ、助けたまえ」と述べたとされる。 議会が処分を決定する前にルターはを離れ、その途上で消息を絶ったように見せかけて、 の元に逃げ込み、にかくまわれた。 にカール5世の名前で発布されたヴォルムス勅令はルターをドイツ国内において(帝国追放)を通告し、異端者としてルターの著作の所持を禁止した。 ルターはそこで「ユンカー・イェルク」(騎士ゲオルク)の偽名を用いて一年余りをすごした。 ここでの生活は時として精神的な試練であったとルターは言っている。 しかしルターはそこで十分に思索と著述に専念することができた。 ここで有名なのドイツ語訳が行われた。 聖書をドイツ語に訳したのはルターが初めてではなかったが、のテキストをもとにしたこの聖書は、後にドイツ語の発達に大きな影響を与えるほど広く読まれることになる。 同時にこの時期に修道生活を否定する論文も著述している。 ルター不在の状況には深刻な弊害が伴うことになった。 ヴィッテンベルクではカールシュタットら過激派がリーダーシップをとっていたが、からの指導者がやってきたことも重なって、教会の破壊から始まって市内が無法状態の様相を呈するようになった。 、見かねたルターが一年の沈黙を破ってヴィッテンベルクで人々の前に再び姿を現し、数回にわたる説教で過激派を糾弾、暴力を伴う改革を否定し、行き過ぎを警告した。 ルターはここで新しいの祭式を定め、や著述活動を続けた。 の大家であるエラスムスとルターの間の関係は、当初どちらも距離を置いたものだった。 エラスムスの人文主義研究はルターの説に大きな影響を与えたものの、ルターもエラスムスもどちらもお互いの説が自らと違うところを目指していることを知悉していた。 この違いはやがて1524年から1525年にかけての論争として表面化し、この結果人文主義と宗教改革の関係は冷却化することとなった。 聖書には論拠はなかったが、カトリック教会では伝統として聖職者の独身が守られてきた。 そのためであったルターも独身生活を続けていたが、徐々にその意義について疑問を持つようになった。 ルターは肉体的欲望そのものは罪であり悪いことであると考えていたが、結婚によって肉体的欲望は正当化され罪にならなくなると考えるようになった。 また修道者のように神のために結婚しないことをよいものであると認めていたが、その反面、常に肉体的欲望に悩まされるのなら結婚するべきだと思うようになった。 結果としてルターは数多くの修道者たちに結婚を斡旋するようになった。 自身も1525年6月、41歳の時にという15歳年下で26歳の元修道女と結婚し、三男三女(ヨハネス、エリーザベト(生後8か月で死去)、マグダレーナ(13歳で死去)、マルティン、パウル、マルガレーテ)をもうけた。 家庭は円満で、一家は以前ルターが暮らしていた修道院の建物に住んでいた。 ドイツ農民戦争 [ ] 「聖書に書かれていないことは認めることができない」というルターの言葉は、重税を負わされて苦しい生活を送っていた に希望を与えることになった。 そもそも農民がに仕えることも聖書に根拠を見出せないというのである。 かつてルターの同志であったはこういった人々のリーダーとして社会変革を唱えるようになっていた。 ドイツの農民暴動自体は15世紀後半から頻発していたが、ルター説を根拠に農民たちが暴力行為に走ると、ルターはミュンツァーと農民たちを批判し、二人は互いに攻撃しあうようになった。 さらに再洗礼派の過激な教説も農民暴動の火に油を注ぐ結果となった。 1524年、西南ドイツの地方の修道院の農民たちが、賦役・貢納の軽減、農奴制の廃止など「12ヶ条の要求」を掲げて反乱を起こし、これは隣接地域へ瞬く間に広がっていった。 これが1524年から1525年にかけて起こったである。 ルターは初めはローマ殲滅戦を煽動していたが、次第に路線をめぐり党派に分裂するなか、ルターは反乱側にではなく、市民・貴族・諸侯の側について暴徒の鎮圧を求め、民衆には平和な抵抗を訴えるようになる(この平和な抵抗の路線についてはすでにさかのぼること『ドイツ国民の貴族に与う』で示されていた)。 ルターは路線変更後の、『盗み殺す農民に対して』において「親愛なる諸卿よ、やれるものは誰でも彼ら(農民)をたたきつぶし、絞め殺し、刺し殺せ。 (…)狂犬を撲殺しなけらばならない」と農民の殺害を煽動するほどであった。 宗教改革を成功させるためには、世俗の権力と金力が必要だった ルターの鎮圧支持 を受けた領主たちはシュヴァーヴェン同盟を中心として徹底的に農民暴動を鎮圧し、首謀者たち(? )を殺害した。 ミュンツァーも捕らえられて処刑された。 これにより反乱の主要地域であった南ドイツにおいてはルター派は支持を失い、またルターの説からそもそもこの反乱がおこったこともあって、ドイツ農民戦争時におけるルターの言動は結果として彼の評判を傷つけることになった。 ルターはこの苦い経験から教会と信徒に対してやはり何らかのコントロールが必要であると考えるようになった。 こうして領邦教会という新しい教会のあり方が生まれていく。 ルター派諸侯と領邦教会制度 [ ] 「」も参照 ルターはその後、各地のルター派の間を回りながら教会の成立を進めていった。 このころ、信仰教育のためにルターが書いたのが信徒向けの『』および教師向けの『大教理問答』であった。 同じころ、ルターの改革と国家教会というシステムはドイツを越えてにまで波及するようになっていた。 にはカール5世包囲網を作り上げようとしたヘッセン伯のもくろみによって、ルターとは合同のための会談を行ったが、聖餐理解に大きな違いがあったため決裂した。 1529年の帝国議会ではカトリック教会の破壊などの行き過ぎを反省し、ルター派支持諸侯たちの立場を認めながら、カトリック教会の立場も保全するという布告が行われた。 (一方で(再洗礼派)とツヴィングリ派は禁止された。 )しかし、ザクセン選帝侯を初めとするルター派諸侯はこれに対し抗議を行った。 このことからルター派諸侯と諸都市は「プロテスタント(抗議者)」と呼ばれるようになり、やがてルター派の総称となった。 に行われたの帝国議会でもカール5世はなお、プロテスタント諸侯との和解の道を模索していた。 この議会にはルター自身は法的立場によって参加できなかったが、盟友のが参加していた。 この議会においてプロテスタント側は共同して『』を皇帝に提出した。 これはプロテスタントによる初の信仰宣言であり、大部分がメランヒトンの手によると言われる。 内容を見ると教義についてはプロテスタント側の一致を主眼にしたため、妥協的でわざと曖昧にされた部分が多く見られ、ルター自身は物足りないと感じていたと言われている。 死去 [ ] 上記のような活動に取り組みながら、ルターは終生ヴィッテンベルク大学における聖書講義を続けた。 宗教史と思想史、さらには文化史に大きな足跡を残したマルティン・ルターは、に生まれ故郷のアイスレーベンでこの世を去った。 思想 [ ] 「」も参照 ルターは「人の姿となられた神の言葉としてのにのみ従う」としてに比べてよりも信仰を重視し、(信仰のみ主義、でSola fide ソラ・フィデ)、、といった思想を展開した。 また、ルターはに際し、ではないが世俗の秩序を尊重する立場から農民暴動を批判している。 また、ユダヤ人を改宗しようと試みたが失敗したために『』()などを著し的見解を発表し 、後のの反ユダヤ政策に通じる提案を行った。 教役者の結婚 [ ] ルターはという元修道女と結婚したことでプロテスタント教会における、のという伝統をつくったことでも知られる(なお、プロテスタントではの強調から牧師はとは呼ばれない)。 聖職者の独身制を採っていたローマ・カトリックは、ルターら宗教改革者の結婚を非難した。 にが宗教改革を導入すると発表して解任される事件が起こるが、ケルン大司教がプロテスタントに改宗したのは結婚したかったからともいわれる。 これらの批判は長年にわたって続いたが21世紀に入って発覚後にの意味が疑われている中で再評価され始めている。 [ ] ドイツ主義 [ ] ルターは、ドイツ主義的な見解を持っていた。 ルターは、教皇がドイツ人を利用して第二のを築いたが、その名を持っているのはドイツ人であり、神はこの帝国()がドイツのキリスト教徒の王によって統治されることを望んでいると『ドイツ国民のキリスト教貴族に与う』 1520 で述べたり、1521年に「私はドイツ人のために生まれた」と述べるなどドイツ人の国民意識に立った発言を繰り返した。 には「ドイツほど軽蔑されている民族はない」としてイタリア、フランス、イギリスはドイツをあざけっていると述べている。 また晩年のルターは無敵の常備軍を持った帝国を夢見ていた。 反ユダヤ主義 [ ] 「」および「」も参照 ルターは的主張を持っていた。 初期のルターは、ユダヤ教徒を反教皇運動の援軍とみなして、ユダヤ人はと同じ血統であると主張して、ローマ・カトリックのに抗議した。 の期間中にユダヤ人と討論したルターは、に『イエスはユダヤ人として生まれた』などの小冊子を著して、愚者とうすのろのロバの教皇党たちが、ユダヤ人にひどい振る舞いをしてきたため、心正しきキリスト者はいっそユダヤ人になりたいほどだ、と述べたり、ユダヤ人は主と同族血統であるから、ユダヤ人はメシアであるイエスに敬意を表明し、キリストを神の子として認めるよう改宗を勧めた。 しかし、や、ルター派のによるが起きると、ルターは反乱勢力を批判し、それ以来ルターは人間世界のいたらなさや、政治的責任を強く感じるようになり、人間の内的自由に、神によってもたらせた地上の事物の秩序が対置され、服従の義務を唱え、キリスト教徒は従順で忠実な臣下でなければならないと説くようになった。 さらに、ユダヤ人の改宗者はごくわずかで、改宗した者もほとんどが間をおかずしてユダヤ教に回帰したためか、には「あのあくどい連中は、改宗するなどと称して、われわれとわれわれの宗教をちょっとからかってやろうというぐらいにしか思っていない」と述べている。 そのうちにルターは、不首尾の原因をユダヤ人のなせる業とみなすようになっていった。 の (、)からへユダヤ人を支援するよう働きかけてほしいとの打診を受けたルターは6月11日付の返信において、断るついでに挑発まで行った。 にロースハイムのヨーゼルに対してルターは、私の心はいまもユダヤ人への善意に満ちあふれているが、それはユダヤ人が改宗するために発揮されると述べた。 その後まもなくして、ボヘミアの改革派がユダヤ人の教唆のもとユダヤ教に改宗し、を受けて、シャバトを祝ったという知らせを受ける、ルターは「私はユダヤ人を改宗させることができない。 われらが主、イエス・キリストさえ、それには成功しなかったのだから。 しかし、私にも、彼らが今後地面を這い回ることしかできないように、その嘴を閉じさせるぐらいのことはできるだろう」とに述べた。 ルター『』 にルターは『』を発表し、以下の7つの提案を行った。 や学校()の永久破壊• ユダヤ人の家を打ち壊し、のようにバラックか馬小屋のようなところへの集団移住• ユダヤ教の書物の没収• の伝道の禁止• ユダヤ人護送の保護の取消• 高利貸し業の禁止。 金銀の没収。 若いユダヤ人男女に斧、つるはし、押し車を与え、額に汗して働かせること。 ルターは「ユダヤ人はわれわれの金銭と財を手中にしている。 われらの国にあって、彼らの離散の地にあって、彼らはわれわれの主になったのだ」として、ユダヤ人は労働に従事していないし、ドイツ人もユダヤ人に贈与していなのだから、ユダヤ人による物の所有を禁じて、彼らの財産はドイツに返還されるべきであると主張した。 ユダヤ人はドイツにとっての災厄、悪疫、凶事であり、誰もユダヤ人にいて欲しいなどとは思っていない、その証拠にフランスでも、スペインでも、ボヘミアでも、レーゲンスブルクでもマグデブルグでも追放されたとして、ドイツ人はユダヤ人に宿を提供し、飲食も許しているが、ユダヤ人の子供をさらったり殺したりはしないし、彼らの泉に毒を撒いたり、彼らの血で喉の渇きを癒やそうともしていない(キリスト教徒がユダヤ教徒に対して述べていたのことを指す)、ドイツ人はユダヤ人の激しい怒り、妬み、憎しみに値することは何かしただろうか、と論じた。 ルターは、大悪魔を別にすればキリスト(キリスト教徒)が「恐れなければならない敵はただ一人、真にユダヤ的であろうとする意志を備えた真のユダヤ人である」とし、ユダヤ人を家に迎え入れ、悪魔の末裔に手を貸す者は、「最後の審判の日、その行いに対し、キリストは地獄の業火をもって応えてくださるであろう。 その者は、業火のなかでユダヤ人とともに焼かれるであろう」と述べた。 数か月後の冊子『Vom Schem Hamphoras(シェム・ハメフォラス、口にするまでもない名前)』 でもユダヤ人の改宗は、悪魔に改宗させるのと同じぐらい困難な業であり、ユダヤ人の福音書外典は四福音書が正統であるのに対して偽書であり、悪魔の使いのユダヤ人は「悪魔の群れよりもさらに悪辣」で、「神よ、私は、あなたの呪われた敵、悪魔とユダヤ人に抗しながら、必死の思いで、これほどまでの恥じらいとともにあなたの神々しき永遠の威厳を語らねばならないのです」と論じて、最後に「私はこれ以上、ユダヤ人と関わりを持ちたくないし、彼らについて、彼らに抗して、何かを書くつもりもまったくない」と閉じた。 ルターは死の4日前の2月18日の最後の説教では、ドイツ全土からユダヤ人を追放することが必要であると訴えた。 ルター晩年のユダヤ攻撃に対しては、ルターの協力者、スイスのの後継者の、ユダヤ人のロースハイムのヨーゼルらが批判した。 なお、ルターは神を「最大級の愚か者 」「キリストは淫乱であったかもしれない」と述べたり、教皇に対してはユダヤ人攻撃の時よりももっと汚い言葉を使って罵詈雑言を浴びせてもいる。 こうしてルターの反ユダヤ主義は、タルススのパウロス(聖)やと同様の転機を経て、ユダヤに対する深い憎悪となった。 ルターの反ユダヤ文書はルター死後あまり重視されなかったが、ヒトラー政権になって一般向けの再販が出てよく読まれた。 ルターの反ユダヤ的声明は、で反ユダヤ主義の宣伝材料として使用された。 、後のでは「もしルターが生きていたなら、必ずや本日、私の代わりにこの被告席に座っていた」と述べている。 影響 [ ] キリスト教会の分裂()はルターの本来の意図ではなかったが、彼の影響下で教会()とが形成された。 をの唯一の源泉にしようというルターの呼びかけはプロテスタント諸教会のみならず、を呼び起こしたという意味でにも大きな影響を与えた。 ローマ・カトリック側はルターを「」「好色家」「犯罪人」「」と呼んで批判した。 宗教上の足跡のみならず、ヨーロッパ文化、思想にも大きな足跡を残した。 たとえばルターの手によるドイツ語聖書が、近代の成立において重要な役割を果たしたことや、自らをつくったことなどが挙げられる。 また当時宗教家の間で流行っていたのルールを統一してもいる。 賛美歌 [ ] ルターはの場で積極的に()の歌唱を奨励し、自らもを演奏しながら多くのコラールを作詞・作曲した。 彼は『』『』など現在の日本でもよく知られているコラールを残したが、としての編曲はヴィッテンベルク教会の楽長が多くを手がけた。 カトリック教会は古くからラテン語典礼文による複雑な多声合唱を発展させており、これらは音楽的に優れたものではあったが、必ずしも歌詞の聞き取りやすいものではなかった。 また専門的な合唱隊が歌唱を担当した。 これに対しルターは、礼拝において会衆が彼らの日用語であるドイツ語で、美しいだけでなく単純で歌詞が聞き取りやすいコラールによって神をともに賛美することを重視し、新たな典礼音楽を推進した。 ルターの奨励したコラールは、ドイツのにおけるの発展に大きな影響を及ぼし、コラールを主題とした曲(前奏曲、幻想曲)、声楽曲(、、)など広い分野に及んだ。 ドイツ語への影響 [ ] またルターは主に聖書翻訳を通じて、近世ドイツ語の規範の確立に大きく寄与した。 一方でルターは国際語としてのラテン語の長所を理解しており、神学的著述のみならずラテン語によるの作曲も行っている。 ルターにとっては公衆に広く理解されるということがもっとも重要であり、 ルターのドイツ語重視を単なる的熱情と理解することはできない。 ルターが民族主義と離れていたことは、民間伝承の英雄ディートリヒや民話などを説教に用いる神父をルターが軽蔑していたことにも表れる。 それら大衆のものは文化的ではなく(教会の教養者の多くがそう考えていたように)教会の教えに反する「ロバの話」無教養の産物と断じられた [ ]。 また、やを者とし、それについて語る神父もまたルターの軽蔑の対象だった。 著作 [ ]• 『』 1517年• 『』 1520年• 『』 1520年• 『』 1525年• 『』 1529年• 『』 1543年 日本語訳• ルターは旧約聖書の諸書の選択において、(セプトゥアギンタ:ギリシア語旧約聖書)にあって(徒によって編纂された聖書)にないものを、聖書正典でないと確認してから排除した。 ルターの新約聖書観については二種類の見解がある。 ヨハネス・ラインポルトらの立場では、でも『』『』、『』、『』は自分の義化のアイデアとそぐわないと考えたため正典から排除した。 ルターが排除した諸書は新約聖書ではやがて元に戻されたが、旧約聖書の方はルターによって外された諸書はそのままで現代に至っている、とされる。 旧約聖書についてはルターはユダヤ教(ヘブライ語)において正典とされている書をそのままキリスト教における旧約の正典とした。 そのうえで、ローマ教会が正典として認め、ユダヤ教徒が外典とした数書(ヘブライ語ではなくギリシア語をもともとの言語とする時代の書物)を「Apocrypha」として全て翻訳し、但し書きをつけた上で自分の聖書(ドイツ語)に収めている。 それらの歴史的な意義を認めたからである。 つまりルターは正典とそうでない書の区別を明確にしただけで排除はしていない。 ルターがこの四つを正典と見なしていなかったとするラインポルトらの見解に対し、ルター伝『我ここに立つ』を書いたベイントンは、ルターはこの四つを正典と見なしていたとする。 ルターは新約聖書27巻の正典性は認めていたが、ヤコブ書は福音より律法を主張していると考えていた。 ストンハウスは、神中心よりもキリスト中心であるとし、ルターの聖書の活用方法を批判的にとらえている。 また、ルターは聖書の翻訳において、信仰義認の教理から本文解釈を行って訳していることも指摘されている。 遺構 [ ] ルターの生地・没地であるアイスレーベンや、彼が長年神学教授を務め、「95ヶ条の論題」を発表して宗教改革の口火を切ったヴィッテンベルクの町には、いまでもルターのが数多く存在する。 これらの建造物群のうち、アイスレーベンのルターの生家やルター晩年の家、ヴィッテンベルクのルター・ホール(ルター住居)、ルターが説教を行っていた町の教会、そして「95ヶ条の論題」が貼られた城付属聖堂は、として、にに 、には著述作品などがに 登録されている。 脚注 [ ] [] 注釈 [ ]• ヨハネス・オッホレウス著『マルティン・ルターの行為と著作についての注解』がその代表作の1つである。 のハインリッヒ・デニフレの『原資料によるルターおよび発展初期のルター主義』は、ルターが肉欲的な動機でもって宗教改革を行ったとしている。 のハルトマン・グリザールの『ルター』は、ルターを「誇大妄想狂の精神異常者」と判断している。 これはも時を移さず踏襲した判断であり、根拠のないルター個人の決定では決してない。 やがてプロテスタント教会で使用する聖書からルターがApocryphaとした書物はおおむね姿を消したが、これは長い世紀の移り行きの結果である• はルターが宗教改革の尖兵であったために、新約聖書のうち23巻をとくに教理の構築のために活用したと考えている。 出典 [ ]• 著『マルティン・ルター ことばに生きた改革者』 岩波新書、2012年 p. 「塔の体験」という名前は、ヴィッテンベルク大学学生寮の塔内の図書室において、新しい福音の光が与えられたと、後年述べたことに基づいている• 著『マルティン・ルター ことばに生きた改革者』 岩波新書、2012年 p. 他方、ではは一般的に存在してきた。 以前のヨーロッパの農民とはのこと。 松原久子『驕れる白人と闘うための日本近代史』• 宗教改革者で農民といっしょに命を落としたミンツァーはこう書いている。 「休まずどんどんやれ、続けろ、火が燃えているではないか。 刀を血で濡らせ。 そこにいるあいつらがお前たちを支配しているかぎり、誰もお前たちに神について語ることはできない。 なぜならそこにいる彼奴らがお前たちを支配しているからだ。 休まず続けるのだ、がんばれ、時がきた、神が先へいく、神に続け」松原久子 『驕れる白人と闘うための日本近代史』(文藝春秋 2005年)• エンゲルス『ドイツ農民戦争』• 松原久子 『驕れる白人と闘うための日本近代史』(文藝春秋 2005年)• 宣教ビラ『強盗のような、殺人者のような農民の群れに対抗する』の中で「彼らを閉め出し、絞め殺し、そして刺し殺さなければならない、密かに、あるいは公然と」「扇動的な人間ほど、有毒で、有害で、悪魔的なものはいない」と書いている。 松原久子 『驕れる白人と闘うための日本近代史』(文藝春秋 2005年)• 彼らの大半は、一揆が崩壊した後に、領主による裁きによって殺された。 ペトラルカ・マイスターの木版彫刻には、捕らえられ、縛られた農民たちが鞭を打たれ、に処せられ、首を吊られ、にされ、首をはねられ、生きたままにされている一方で、支配者たちが毛皮のついたガウンを身にまとい、復讐が実行される様子を観覧席から眺めている様が描かれている。 松原久子『驕れる白人と闘うための日本近代史』• 翻訳『ユダヤ人と彼らの嘘』歴史修正研究所訳• 『ユダヤ人迫害史』黒川知文 教文館• 『教会が犯したユダヤ人迫害』ミカエル・ブラウン著 横山隆訳• 大澤武男 『ユダヤ人とドイツ』 講談社〈講談社現代新書〉、1991年、57-59頁。 著『著名人クリスチャンの結婚生活』• 永田諒一『宗教改革の真実-カトリックとプロテスタントの社会史-』 講談社現代新書• 109-111. 「宗教改革」世界大百科事典,平凡社. 107-8. 55-75• Martin Luther, Werke, Bd. Briefe, Frankfurt, 1982, p. 184. 273. stultissimus• 著『激動するアメリカ教会-リベラルか福音派か-』ヨルダン社• 小学館編『地球紀行 世界遺産の旅』p85 小学館<GREEN Mook>1999. 10、• Memory of the World - UNESCO 参考文献 [ ]• 大澤武男 『ユダヤ人とドイツ』 講談社〈講談社現代新書〉、1991年。 黒川知文『ユダヤ人迫害史』教文館• 古屋安雄著『激動するアメリカ教会-リベラルか福音派か-』ヨルダン社• 中村敏著『著名人クリスチャンの結婚生活』ファミリー・フォーラム・ジャパン• 徳善義和著『マルティン・ルター ことばに生きた改革者』岩波新書、2012年• 下村由一「ドイツにおける近代反セム主義成立の諸前提 1 」『駒澤大學外国語部紀要』第1巻第98号、1972年3月、 98-117頁、。 レオン・ポリアコフ『反ユダヤ主義の歴史 第1巻 キリストから宮廷ユダヤ人まで』菅野賢治訳、筑摩書房、2005年3月25日。 [原著1955年]• [原著1971年]• ミカエル・ブラウン著『教会が犯したユダヤ人迫害の真実』 横山隆訳、マルコーシュ・パブリケーション 1997年 関連文献 [ ]• 長谷川輝夫「1. 宗教改革と宗教戦争」『世界の歴史17 ヨーロッパ近世の開花』中央公論社、1997年。 中谷博幸 『マルティン・ルターとその世界』 美巧社、2016年12月初版。 関連項目 [ ] ウィキメディア・コモンズには、 マルティン・ルターに関連する および があります。 (ルター派の教会)• 外部リンク [ ] ウィキクォートに に関する引用句集があります。 (英語) - 「マルティン・ルター」の項目。

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