アイヌ 文様 意味。 文様の意味:アイヌ(TOYTOY)デザインとアイテム通販

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アイヌ 文様 意味

スポンサーリンク 文様の歴史第二弾はアイヌ文様。 前回の「」で、縄文時代晩期の土器にアイヌ文様に似た装飾がある事が分かり、今回アイヌ文様についてまとめる事にしました。 アイヌ文様の歴史 アイヌ民族=蝦夷(現北海道)のイメージがあるかもしれませんが、歴史を調べると一部の東北でも生活していたことが分かります。 これを踏まえると東北の縄文土器にアイヌ文様に似た装飾があるのも頷けます。 東北地方にはアイヌ語を起源とした地名が沢山残っているんですよ。 こちらは岩手県で出土した縄文晩期の壺。 公益財団法人 岩手県文化振興事業団 埋蔵文化財センターサイトより引用させて頂いています。 参考: アイヌ民族は、本州との交流があった他、北東アジアのオホーツク文化の影響を受けている事が分かっています。 本州で言うところの弥生、古墳時代の事です。 余談ですが、北海道は広いので居住地域によって文化や言語に差があったみたいです。 「中国は広すぎて地域によっては言葉(訛り)が通じない」という話を聞いたことがありますが、アイヌにおいても同様だったんですね。 また、鎌倉~室町時代には海外との貿易も盛んに行っていたようです。 江戸時代には幕府から貿易の自由を禁じられてしまいましたが・・・。 北東アジアの影響を受けたアイヌ文様 日本の文様の歴史を探っていましたが、アイヌ文様は海外の影響を受けていたんですね! アイヌ文様は「アイウシ」「モレウ」という2つのモチーフの組み合わせで出来ています。 モレウ アイウシ ここで、北東アジアの伝統文様について見てみましょう。 貿易を通じて、アイヌ文様にこれらの要素が取り入れられたのでしょう。 アイヌ民族の神紋、家紋 アイヌ民族の間では、自分の家系図を辿った時、一番古い祖先は神様だと言われています。 父親が神様で、母親が人間、その間に子供が生まれ、家系図がスタートしているという事です。 各家系によって祖先神は様々で、ヒグマ、オオカミ、トド、フクロウなどがあります。 その祖先神を表す印として男性は神紋、家紋があります。 女性は下紐と言って腰に巻く紐があります。 家系によって編み方が違います。 父方の祖先神はヒグマ、母方はキタキツネ等、男系・女系それぞれの祖先神があるという事です。 この神紋、家紋は父親から息子へ、下紐の編み方は母親から娘へと代々受け継がれています。 祖先神の種類 この限りではありません• 陸獣神・・・ヒグマ、オオカミ、キタキツネ• 鳥神・・・ワシ、カッコウ、シマフクロウ• その他・・・タコ、雷、…等 家紋についてこちらのサイトが分かりやすい例が沢山載っています。 まとめ アイヌ文様はアムール川流域の諸地域の影響を受けて出来た文様。 アイヌ民族は元々、蝦夷(現北海道)だけではなく、東北の一部の地域でも生活、交易が行われていました。 しかし、歴史背景を見ると、江戸時代あたりから厳しい弾圧を受けており、差別されました。 これは個人的見解ですが、差別的背景により、東北およびその他の本州地域にアイヌ文様が普及しなかったのではないかと思います。 明治に入ると、差別は濃くなり、アイヌ文化を広めるどころか和人よりに統合しようと進められました。 「アイヌ民族を先住民族とすることを求める決議」が国会で可決されたのは2008年。 まだ10年も経っていないんですね。 この決議も完璧では無いため、まだまだ不便を余儀なくされているかもしれません。 しかし、これからはアイヌの文様および文化を残す為の動きが普及すれば良いなと思います。 参考文献 歴史文化が主で、文様は一部掲載でした。 今回の記事に興味を持って頂けたのでしたら、「日本文化の多様性」が一番おススメです。 日本が多文化国家であることを分かりやすく説明しています。

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[文様の歴史]アイヌ紋様の歴史

アイヌ 文様 意味

応募作の1つにアイヌ文様を取り入れたものがあり、アイヌ文様の1つである「モレウ」は力、パワーの象徴であるという趣旨の説明が付されていました。 驚いて調べてみると、こうした説明はインターネットを中心にかなり広まっていることがわかりました。 アイヌ文様には、しばしば過度の意味づけがされることがあります。 モレウと並んでよく知られた「アイウシ」と呼ばれる文様は「とげ」を表すとされ、袖や襟などの開口部に施すことで魔物の侵入を防ぐ「魔除け」だとされます(この記事では以下、モレウを「渦巻き文」、アイウシを括弧文と呼びます)。 ほかにも「着物は家系によってちがう(=着物を見れば家系がわかる)」と言われることもあります。 これらを「魔除け説」、「家系表示説」と呼ぶことにします。 今回は、アイヌ文様に関するこうした解説の検証を試み、文献などで情報を収集するほか、アイヌの物質文化研究を専門とする複数の方に尋ねてみました。 結果としていずれの方法でも、虻田町の1例を除いて「魔除け説」「家系表示説」を裏付ける確実な情報(作り手自身がそうした意図で作っていたという証言)は見つけられませんでした。 その1例とは渦巻き文であり、括弧文については研究者の推測以外の根拠がないことがわかりました。 以下、この話題に関するポイント、知り得た情報、考察をまとめました。 この記事の趣旨を手短に書くと ・「渦巻き文=パワーの象徴」「括弧文=魔除け」は根拠が不明 ・「魔除け説」「家系表示説」は新しい(1970年以降) ・「魔除け説」「家系表示説」に直接関わる事例は1例のみ ・「キャッチさ・わかりやすさ」がウワサを広めた(?) というものです。 1.オッカイ カラ ペ・メノコ カラ ペ(男のつくるもの・女のつくるもの) 「袖や裾から魔物が入ることを防ぐ」と言う語られ方からもわかるように、「魔除け説」は着物の刺繍を想定して語られることが多いようです。 手工芸品には「オッカイ カラ ペ・メノコ カラ ペ(男のつくるもの・女のつくるもの)」という呼び分けがあるように、これらの製作にも男女の分業がありました。 刺繍を施したものは女性の製作品で、男性が作る文様は技法もデザインも大きく違います。 1-1.女性が作る文様 女性のつくる文様は刺繍、編み、入墨などによるものがあります。 このうち刺繍と入墨は直線・曲線を組合せ自由にデザインを構成することが可能ですが、編みの技法による文様は、素材の太さや縦糸の幅により、デザインもある程度制約をうけ、モザイク状の文様になります(図1、2)。 小刀や宝刀、そして特に捧酒箆に施される模様は自由度が高く、他の器物には用いられないような具象的な表現が多々見られます。 渦巻き文や括弧文などのよく知られた文様は、これら様々な文様のうちのごく一部であり、これらが全く用いられない製品も多くあります。 文様についてのこれまでの議論は、こうした差異を取り払って一様に分析しようとしたり、一部の特殊な事例を全てに適用してしまったために誤解を含んだものになったことは否めません。 作り手がそうした意図を持っていることと、観察者が文様に接して想像することも当然分けて整理する必要があります。 文様が「魔除け」や「家系」を表しているという場合には、誰もがその形と意味について共通の理解をし、社会的な合意があることの証明が必要です。 6は捧酒箆の両端の印。 たとえば横2線を山、2本の斜線を海、サンズイのような3本の線と横1線の組合せを「鳥の足の形」とする例があります(図5)。 鳥の足跡については形の類似性もあり、前提を持たずに見たとしても自然にそう解釈するかも知れませんが、水平や斜めの2本線が山、海と結びつけられるには、あらかじめそのことが共有されている必要があります。 さらにその印を特定の集団の象徴とするのであれば、2本線や鳥の足形と人間集団という類似性のないもの同士の結びつきが、何らかの説明(例えば「その集団の祖先神は鳥である」というような伝承など)により、その社会の約束事となってていることが求められます。 次に、そのようなシンボルとそれに類するものの例を紹介します。 2-1.男系・女系の表示 実際に家系のシンボルとして使用されてきたものといえば女性の系統を示すラウンクッ、男性の系統を示すイトクパが挙げられます。 ラウンクッは、女性が10代になるとお守りとして身につけるようになる帯の一種です。 帯といっても、服の下に(体に直接)締め、普段は人に(特に男性に)は見せないのでラ・ウン・クッ(下方・にある・帯)やウプソロ・ウン・クッ(懐・にある・帯)と呼びます。 ラウンクッは母親や母親の姉妹など母系の女性から作り方を受け継ぐもので、家系によって織み方やしめ方が異なっているため、同じラウンクッを持っている人どうしは、共通の先祖を持つことになります。 結婚する際には、新婦となる女性は、新郎となる男性の母親とラウンクッが異なっている事を確認します。 もしもラウンクッが同じなら、近親婚を避けるためこの結婚は認められません。 そして、婚姻が成立し家族となった後も、儀礼においては家族としてのつながりよりもラウンクッで示される系統の方が重要になることもあります。 例えば、女性の葬儀の際、死者の死に装束を着せることは同じ女系の者が行なうことになっており、夫の母や姉妹はこれに関与しません。 男性は、父または父の兄弟からイトクパやアイシロシを受け継ぎます。 イトクパはイナウやキケウシパスイなど、祭祀に用いる物に刻む印で、1つには祭祀を行っている者がどこの誰であるかを神々に示す意味があります。 アイシロシは、矢の矢柄や鏃に刻むもので、動物神はその印を見て、矢に当たる(その家の客になる)かどうかを決めるというものです(複数で狩に行った場合には当たった矢が誰のものかを知るという意味もあります)。 銛にもキテシロシという印を刻みます。 イトクパもアイシロシも、それが使用者の家系を表していることが信仰上重要な意味を持っており、仮にそれを変更するようなことがあるとすれば重大な決断をともないます。 名取武光氏は、沙流川中流でかつてキケウシパスイの印を変更した伝承があることを報告していますが、それは同じ家系に属する者の合意を得ることはもとより、他の家系や神々にもそのことを知らせる、非常に重大な決定です。 また、B. ピウスツキは、アイシロシを変更する時の祈り言葉を記しています。 これを見ると、アイシロシは親から受け継ぐものであり印自体が一種のカムイであること、変更するに当たっては神々に通告するほか、旧来の印に対する霊送りが伴うことがわかります。 このように、ラウンクッは婚姻の可否などコミュニティ内の制度や意思決定と深く結びついたものであり、イトクパやアイシロシは家系を表示するために改まった手続きを経て使用されるもので、それゆえ排他的に使用されるものであることがわかります。 2-2.地域で共有される形 ラウンクッやイトクパ・アイシロシに対し、墓標の形式は複数の家系を含む地域単位で共有されていると言えます(図6)。 例えば沙流川流域であれば、男性の墓標、女性の墓標は頭部の形状によって作り分けられ、家系に関係なく共通の形が使われます。 二つの地域の境界にあたる所では複数の形が混在することもありますが、その場合も死者がどちらの地域にルーツを持つかによって使い分けられます。 もっとも墓標の形は「これを使う」ということが厳格に決められてはいるものの、他者に対して家系を表示するという意味合いはありませんので、家系の象徴といえるかは微妙なところです。 墓標を見ると、そこに人が葬られている、そこに葬られているのがどの地域の人かがわかるということはありますが、それは結果としてのもので、本来期待されていたことではありません。 例えば、死者用の脚絆や手甲は白布を多く用いた文様が施されます。 葬儀の際は、床の掃き方、茣蓙の敷き方、拝礼の仕方など様々なことを日常とは逆にするか、一部を変えて行います。 死者用の装身具もこれと同じで、不完全な形になっていたり、文様を通常のものとは白黒反転したようなデザインにするため、白布の比率が高くなるのだといいます(図7)。 文様が社会的階層と結びつくことがしばしばあります。 樺太東海岸小田寒では、肩や背中に入る切伏文様は一定以上の地位にある男性でなければ使用しないといわれています(図8)。 また、北海道でも見栄えのする文様は、一定以上の地位があるものが使用するものだという意識があったようで、周囲から低く見られている人が華美な文様を使用すると「分不相応」として笑われることがあったといいます。 女性の刺青にも同様のことがありました。 腕の文様では、手首の線が多い方が良い文様とされ、そうした入れ方をするのは名望家の娘だということです。 また、胆振地方や渡島地方など北海道南西部では、額や眉間に一線を入れますが、階層が高い者ほど高い位置に、長く入れるのだといいます。 イトクパは形状も様々で、それぞれの形が表す内容とともに伝承されていきます。 また、「アシペ」と呼ばれる印は、北海道の多くの地域ではシャチの背ビレをかたどった海神の象徴とされていますが、旭川には「龍神の背ビレ」とする証言もあります。 そして、研究史の中ではイトクパの代表的な物として紹介されてきましたが、樺太では使用されません。 このように、イトクパの使われ方については共通認識があるものの、個々の印の分布や意味づけはローカルなものであり、アイヌ民族全体に一般化できるものではありません。 3.アイヌ文様の研究史 そもそも「魔除け説」や「家系表示説」はいつ頃から論じられるようになったのでしょう。 このことを確かめるため、文様についての主要な研究を振り返る必要があります。 この分野で重要な研究を残したのは杉山寿栄男氏、鷹部屋福平氏、児玉作左衛門氏(児玉マリ氏・三上マリ子氏)、そして魔除け説を広める上で大きな役割を果たしたと考えられるのが更科源蔵氏や萱野茂氏です。 それぞれについて、主な著作からこの記事に関連する所を拾っていきます。 3-1.杉山寿栄男 『アイヌ文様』(1926) 杉山寿栄男氏が1926年に刊行した『アイヌ文様』においては、もっぱら文様の形象を論じており、意味についてはあまり論じていません。 いわゆる「アイウシ文」のことは「括弧文」と呼び、アムール河流域の民族が用いるこれと似た文様をニワトリの足の象徴だとする研究を紹介しています。 ただ、アイヌ文化の括弧文には象徴的な意味はないと述べ、樹皮製品の端の縫い目などを模倣し文様化したものではないかと述べています。 『北の工藝』(1934) これに対し1934年の『北の工藝』では、文様の象徴性への言及や、信仰と結びつけた記述が目立ちます。 本書では主に木彫文様について論じています。 58-60)。 文様の解説では「キトムリリ」「ウタサムリリ」という文様名を挙げ「この綾目の編方の応用には昔は相当色々の意義が秘められて居ったらしい」としています。 ここでいう「キトムリリ」と「ウタサムリリ」とは石狩市浜益(増毛)地方の花矢に刻まれる組紐文の名称で、それぞれ「組文様」「矢違(互い違いのことか:筆者)に組みたる文様」という意味だということです。 ほかに石狩市浜益の文様として次の5種を挙げています(pp. 98-99)。 「アシペノカ」(シャチの背ビレ) 「イルノカ」(クマの足あと) 「キトムリリ」(山ネギの文) 「タリベノカ」(海鳥が魚を食べる様子の文) 「ウオキキリ」(神の虫文様) ほかにも、地域は示されませんが文様名が多数見られます。 一例をあげれば、漁獲を表すという「ヤノカ」(網の模様、p139)や、曲線文の「コイノカ」(波文)および「プンカオ」(唐草文、p154)、「ホルカワッカ」(巻水文、p156)といったものです。 このほか「アツシ文様」「チカラカラ」「イカルカル」という用語がくり返し使われています(pp. 154-156)。 これは「括弧文」を複数組み合わせて網目状にした文様を指しているようです。 また、文様の中には「神印」や「祖印」に由来する連続文があるとし、単なる装飾としてではなく「先祖に対する潜在意識を有すればこそ、文様としても永く継承されて居ったものであるらしい」と述べています(p102)。 この文の前段の記述からして、神印、祖印などルーツを示す印があることは杉山氏自身が確認した事実であり、装飾文様の一部がそれらに由来している事、その文様を使用する際には背景にルーツについての意識が働いているという所は推測なのでしょう。 ただ、神印・祖印と装飾文様の線引きは曖昧です。 実例として示されている物は祭具類ばかりで、そこに施されているのは神印・祖印に由来する文様というよりも、そのものである可能性が高いからです。 文様の種別を解説した箇所でも信仰に引き寄せた解説が何度も出てきます。 「植物文」の項では自然木の使用について「単に工芸的用材の選択のみでなく一種の信仰と工芸とがむすび合った物である」(p112)と述べ、「結縄文」の項では「これらのものは単なる装飾的の結縄のみではなく、イナウそのものが神に捧げる我が国の注連の如き意味を為すものである事から見ても、宗教的意義に依って継承されたものであり、遂にはこの技巧的傾向が趣味となって多くの箆類の文様にも見られるに至った」(p114)と述べます。 ただし、杉山氏が調査した当時にはそうした意義の多くが忘れられている(=共時的には確認できない)として、浜益出身の工芸家である山下三五郎氏の次のようなコメントを引用しています。 「昔は文様を施すにもお目出度い文様と不吉の文様があって、その一例は死者に付けてやる手甲や脚絆の如きは文様に一定の形式があったものであったが、現今のアイヌ達はそれ等の意義すら忘れられ一般に併用されて居る」(p101) ここに示されているのは死者の手甲や脚絆に用いるべき「不吉の文様」が他の物にも転用されていることへの批判です。 もしかすると幅広の白布を用いた切抜文衣が近代以降に流行したことを指しているのかも知れず、その点では興味深いものです。 しかし、これをもってアイヌ文様に秘められた種々の意義の傍証とするのはいささか深読みではないでしょうか。 『北の工芸』の内容から確認できる事実は、文様のいくつかに自然物などとの類似性に基いた名称がつけられていること、そのうちの一部に「漁獲」などの象徴性があることですが、それでも文様の起源を信仰に結びつけるつける解釈は、いささか行き過ぎだと感じます。 種々の文様が成立したのちに、形状からの連想によって「豊漁」などのイメージと結びつけられた可能性も依然として否定できないからです。 また、考察の中で日用品と祭具が明確にわけられていないことも気になります。 『アイヌ藝術』服飾篇(1941) 金田一京助氏との共著で1941年に刊行された『アイヌ芸術』服飾篇には、次のような一節があります。 「ここにアイヌの服装として特に注意を向くべきものは、同一部落に於てもその服装に表されて来た文様表現は決して一様でないことである。 これこそアイヌ婦人の工芸として最も世に誇れるものである事は、彼女達が永代に渉って我が夫を飾るに如何に苦心を払って来たかを見る時に明らかとなる。 」(p131) これを見ると、杉山氏は服飾の文様を個人の創作にゆだねられたものと見なし、家系を表示するといった機能は想定していなかったようです。 また、図版解説の中で、着物の背中に配された文様が魔除けと解釈されることがあることを指摘し「偶々グロテスクな表現のものとなっても、それを以て直ちに、邪視を意味する文様と判断することは許されない」と批判しています(pp. 157-158)。 これまで見てきたように杉山氏は、木彫の文様については先祖とのつながりや象徴的意味を盛んに論じましたが、それは多分に推測を含むもので、また一般の文様とイトクパを同列に論じていた所があります。 そして服飾文様に関しては、そもそも「家系表示説」や「魔除け説」の立場を取っていないのです。 なお『アイヌ藝術』の「木工篇」では、儀礼用矢筒に象嵌された金属板(シカリトンピ shikri tompi「満月」)が魔物を払う眼を意味するものと考えられている事例を挙げています(p67)。 もっとも、このケースは、文様というよりも、外来の金属製品が霊力を持つと考えられている事例と見なすべきでしょう。 3-2.鷹部屋福平 「アイヌ服飾文様の研究」(1942) 鷹部屋氏は建築の研究で知られますが、衣服や文様についても意欲的に資料を集めています。 1942年に発表された「アイヌ服飾紋様の研究」では、男性の文様と女性の文様を分ける事の必要を述べ、渦巻き文や括弧文の名称を細かに記しています。 また、文様の地域的特性や構成法、近代に入ってからの応用、ウイルタ・ニヴフ文様からの影響にも言及しています。 残念なことは、これらの名称をどこで聞き取ったかが明確にされていないことです。 「刺繍として施された一般の紋様は、その形状に意味をもたないものが大部分である」とし、また次に挙げる論文においても、文様の「意味」については触れていません。 着物の地域的特性についても指摘がある一方で「別に手本というものがあるのでもなく、又、何物をも模倣して行くものでもなく、作者の頭に浮かんでくる曲線の組合せによって個々の作品が出来上がって行く性質のものなのである」と書いています。 もちろん誰からも指導を受けないわけではなく、その点については「彼等は幼少の時より父母又は先輩知己によって、是等のアイヌ文様を描くの特殊技能を練習するのであって、時としては友人の作業を傍観しつつ独習する」とも書いています。 更に、どうしてもうまく図案が作れない場合には、上手な人に頼んで筋付けをしてもらい、それをなぞって縫う事を「イエシンニヌ」と呼ぶ、とも。 つまり文様を考案する上では、例えば墓標のように「この地域ではこう」といった制約はなく、近しい作り手同士が相互に影響し合う中で少しずつ似た作品群が生まれ、結果的に地域的傾向が形成されてきたというのが鷹部屋氏の立場です。 「アイヌ服飾文様の起源に関する一考察」(1964) 前記論文から20年後の1964年に発表された「アイヌ服飾紋様の起源に関する一考察」では、N. マンローと文様の由来について議論したエピソードが紹介され、その後は渦巻き文様と中国古代の殷周時代の器物に見られる饕餮(とうてつ)文様の比較が展開されています。 この論文では渦巻き文様は中国から取り入れられたものであり、括弧文は渦巻き文様の隙間を埋める雷紋が簡略化されたものだ、という仮説が出されています。 この仮説が正しいかどうかは別として、鷹部屋氏も(そしてマンロー氏も)渦巻文や括弧文が魔除けだという証言には触れたことがなかった可能性が高いといえるでしょう。 3-3.児玉作左衛門・児玉マリ・三上マリ子 児玉作左衛門氏と長女の児玉マリ氏、助手の三上マリ子氏は、1960年代になると衣服関連の調査を精力的に行い、複数の論考が出されました。 それらは1968年の「アイヌ服飾の調査」および1970年の『アイヌ民族誌』にまとめられています。 「アイヌ服飾の調査」(1968) この報告は、地域と語り手が明確な情報が多く貴重な資料集です。 以下、関連する箇所を抜粋します。 ・鵡川町福満 「刺繍文様のアイウシ文はタランボーなどの木の刺であり、モレウ文様は植物の蔓をあらわしたものである」(p38)。 ・美幌町 「昔の衣服の文様にはモレウ文はなく黒木綿の切伏の上にアイウシ文を入れるだけであった。 また昔はアイウシとはいわずシクヌム(目玉文様)といい、それの連続文を軸に二列にならべ、その他周囲に一列に並べただけである」(p71) ・帯広市伏古 「女の衣服は袖と裾に文様があったが背にはない。 背に文様のあるものは男の衣服にかぎる。 女のアツシには文様のないものが多い」(p75) ・千歳市 「アイウシ文(カッコ文)、タラノキ(俗称タランボ)、センノキ(ハリギリ)は刺があるので、アイウシニというので、その刺に関係あるとおもう」「文様については酋長、長老、ツスグル等によって異ったものが認められなかったし、また相隣った部落で異なることもなかった」(p78) ・白老町 「男女の文様の相違はなかったが、男は大きい文様、女は小さい文様ていどの差はあった。 また女は男より少なめの繍のものを着た。 更に家柄によっての差はあった。 あまり家柄のよくない者が刺繍を多く置くと笑いものにされた」(p83) 「このルウンペに付けられている数ある文様の中で、最も大切な文様であると両親から聞かされていた」(p85) ・虻田町 「彼女(作り手:筆者)所持のもの(チエパヌプ)には雷神カンナカムイの刺繍文があるが、これは酋長夫人だけがつける文様であるという」(p88) 「家紋が縫取りされている重要な資料」「(作り手の家系は:筆者)雷神(カンナカムイ)の天下った子孫であるといわれているが、その祖神であるカンナカムイを表現している文様がこの衣服に施され、それを着る子孫の身を保護する、という伝承のある衣服である。 このカンナカムイは、背面上部の両側と、背面裾部の三箇所に置かれている」(pp. 88-89) 鵡川町の福満、千歳市では「アイウシ文」からタラノキやハリギリのトゲを思い浮かべるという証言が得られていますが、魔除けだと述べられているわけではありません。 北海道北部の美幌では同じ文様をシクヌム「目玉文様」と呼んでおり、この資料だけを見ても、トゲのイメージはあまり広がりはないようです。 なお、三上マリ子氏が後にまとめた報告によれば、同じ文様を旭川では「ウォキキリ(神の虫)」と呼びます。 「アイウシ」という呼称がどこで得られたものなのか、鷹部屋氏・児玉氏の研究では明確にされていませんが、いずれにせよ限定的な広がりしか持っていないことがわかります。 虻田の聞き取りにある「家紋」とは、先端が膨らんだ渦巻き文です(トップ写真参照)。 ここでいう祖神とは、この家の男系・女系どちらの祖先神にあたるのかが気になります。 管見のかぎり、渦巻き文がカンナカムイの象徴とされているのはこの一例のみです。 『アイヌ民族誌』(1970) ここでは、児玉作左衛門氏がアイヌ文様の手法的分類、形態的特徴を執筆してます。 68年の報告に比べ、こちらは解説の書き方に信仰的な色彩が強く出ています。 たとえば次のような文があります。 「刺繍は民族が衣類などに文様をつける方法として古くから取り上げられたものであるが、アイヌの刺繍は装飾のほかに信仰的の意義が多分に含まれていることは後述のとおりである。 」(p224) 「各地方のアイヌの衣服をみれば、その文様にかなり著明な特徴が現れていることが分かる。 その部落に伝統的なものが昔からつたわっており、忠実にこれをまもりかつ誇りを感じていたことは、アイヌ民族がこの文様を単なる装飾と解さず、信仰的な精神をもって尊んでいたことによるものであろう。 」(p237) 括弧文についても、トゲの文様であるとして一般化した書き方になっています(p226)。 さらに渦巻き文について、魔除けの意味合いを認める記述があります。 「アイヌの衣服にこのモレウ文が用いられるときは、多くはその背中の部分であるが、時には前面の下部のこともある。 この衣服の背面というのはもっとも重要な場所と考えらえている。 ここにモレウ文を置くことは邪神を払う巫術的の意味をもつという信仰によるものである。 」(p228) 最後に引用した1節には「悪魔をにらむ」という68年の報告にはない情報が含まれています。 おそらく次に見る更科氏の記述を参照していると思われますが、そのわずかな例がアイヌ文様全体に拡大されてしまっています。 一次データを示すパートには「魔除け説」、「家系表示説」につながる情報はわずかであるのに対し、総括部分では文様を信仰的・呪術的な物と断定する論調になっています。 『アイヌ民族誌』中でも三上マリ子氏が執筆した部分、1986年にまとめられた三上氏の報告書には「魔除け説」につながる記述はほとんど見られません。 このことからも、こうしたアイヌ文様の評価は児玉作左衛門氏の考えによる所が大きかったと考えられます。 ここでは同書から渦巻き文と括弧文の地域ごとの名称を抜粋し、見てみます。 渦巻き文 旭川市 モレウ(渦巻き) 門別町 モレウエトコ(渦巻きの先端がふとくなったもの) 浦河町 アユシモレウ(刺がある渦巻き) 静内町 トモエノカ(巴の形) 三石町 シクマカ(目を開けた形) 美幌町 シクヌム(目玉) 樺太栄浜 オシカリカリヘコンパ(巻いて元に戻る) 括弧文 旭川市 ウォキキリ(神の虫) 門別町 アユシ(刺がある) 浦河町 アイウシ(刺がる) 静内町 不明 美幌町 リキン(文様が上に向く所) ラン(文様が下に向く所) 樺太栄浜 エンリム(尖った部分) こうして見ると名称としての「モレウ」も「アイウシ」も部分的な分布にとどまることがよく分かります。 また、旭川のある家では祖先神であるカンナカムイ(雷神・竜神)を象った文様が鉢巻きに施された例が示されています。 この文様は元々は男性が彫刻文様として使用していたもので、鱗彫りを伴っていたといいます。 古文化に詳しい男性がみな他界したので刺繍文様に転用した(男性古老が存命中ならとがめられた)ということです。 ということは、このカンナカムイ文は祭具に刻まれる神印に近い物だったようです。 それが近年になって服飾文様に転用されたのです。 3-4.更科源蔵 詩人の更科源蔵氏は、戦前・戦後の時期から北海道各地や樺太から移住したアイヌ民族のもとで聞き書きをし、実物資料の収集や、NHKによる録音事業・記録映画制作の監修をしました。 アイヌの文学や生活誌全般に関わる多数の著作があります。 更科氏が収集した一次情報は『コタン探訪帖』という20冊のフィールドノートにまとめられています。 ここから抜粋した服飾関連の情報を表1にまとめました。 なお、アイヌ語の表記は原文のままとし「酋長」など今日では不適切とされる表現が使われている箇所もそのまま引用しています。 15 釧路鶴居村 模様の名や何の為につけるかはウチャシクマ知らない 19-52 2 S35. 23 虻田町 位のある奥方(kakke mat)は眉の上に一直線に両方の眉の長までsinuyを入れ、普通のおかみさんは眉と眉の間だけ一寸か一寸5分だけ入墨をする。 12-90 3 S35. 23 虻田町 家にいて着る着物には模様をつけたが、外で働く着物には模様はつけない。 雨がふってもかえらない。 女の着物には模様つけない(昔はしたらしい) モウルの上にアツシを着る モレウノカ(曲がった型) 12-91 4 S35. 3 虻田町 模様のついた晴着は古くなっても仕事着にはしなかった 12-102 5 S35. 3 虻田町 手の甲や指に入墨するのは酋長の妻だけ、普通の女は腕だけ 眉の上の入墨は酋長の妻だけ長くする 12-103 6 S37. 11 虻田町 冠 女の黒い布(chipanup)のもあるが、黒い花染めを輪にして刺繍をし、前に布をつけ、うしろにinauruつけるmenoko sapaumbeというのもある。 男のsapaunbeは厚司を輪にしたのに刺繍する。 死んだとき konziをひっくり返したのを男でも女でも3年間かぶる。 普通のコンヂは黒い花染めの布でつくり頭の上のとがりに魔除けに兎の前脚をつけ、冬に薪とりに行くときにかぶる (中略) chipanupについたのkannakamuynoka 17-139 7 S38. 23 虻田町 着物には胸のところ(女は乳の上)と背中に二つづつkamui sikiをつける。 魔物をおどかすためだ、yukarにもpoiyaunbeの冠ったものの前にもつけた。 (中略)煙草入れにも煙管のさしにもうろこ模様(名忘れた)つけた。 18-89 8 S38. 10 虻田町 kanna kamuyのnokaを背中につけた着物は他の人にきせれなかった。 着物の背中にchup kamuyのnokaもつけた。 着物の神 襟の神 kot para kamuy 襟首の神 ok syut kamuy 袖口の神 tusa para kamuy chinki kamuy 夜に歩くときとか危険なところを歩くときにたのむ 18-145 9 S37. 20 三石町福畠 山行きの着物にも模様つけていた 18-9 10 S38. 28 芽室太 仕事着 膝までの短い着物、古い模様のある衣服もきた 18-64 11 S38. 31 白糠 上着は男の背中(胴から上)に模様あり 女のは襟から裾にかけてあるが背中には模様なし 山に行く着物にも模様つけた 18-69 12 S37. 22 白糠 着物の模様 日本の着物の模様見てからやるようになったんだべ 17-79 13 S38. 4 阿寒 atusi 男も女も山着物に模様ついた(縞入れてから模様いれなくなった) 冬は熊の皮(女は着れない)鹿の皮を着た 18-80 14 S38. 22 鵡川 近いところにはatniない 着物は鹿の毛を抜いた皮を多く用いた 模様はつけなかった 袖口や襟に黒い布をつける(神の名知らない) 模様の名をきいたことない。 18-129 15 S38. 22 鵡川 matanbusi 黒い布に模様つけ男マタキに行くとき後でしばる。 女使わない。 死んだときも使わない。 18-130 16 S28. 2 名寄 rekutunbeはふだんでもつけている 女のタマと男のsapaunbeは大祭のときだけつかう ふだん着にも模様をつけた 木の皮を全部とってしまったら木の皮の帯(kut)をさせる。 片方のときはしない。 着物がやぶれたら山の方へもって行っておさめる 場所は決まっていない。 inauは立てない。 9-3 17 S28. 12 本別 matanbusi 男は模様ついて裏はattusi表は木綿でつくりさむいようなときに出して頭しばった、死んだらいつもつかっていたmatanbusiやkongiももたしてやる。 女はかぶらない kongiも裏はattusi表木綿。 模様入り 男ばっかりかぶる 女かぶったら生意気なといったものだ メノコどうして粗末にしたもんだかな 女のkongiはpukuruみたいものにしてかぶった。 模様なし。 子供にもかぶせる(北原註:図あり menoko kongiの頭頂にkongi kitai usipeという三角形の布が立っている) 8-166 18 S37. 17 東静内 男は冬konzi(先にイケマを入れた小袋)つける。 手には弓を使う時は熊や鹿、犬の皮の手甲(tek kasike)普通の防寒には指も入るtekunbe 着物は夏は厚司、冬は厚司の上に鹿、熊の皮の衣、股引は新しく昔はhosiだけ。 履物は夏は毛の脱けた鹿皮の靴、sat keriなど 冬は毛のある鹿の脚の皮のkeri 中にkeri munbeを入れる。 縫糸はツルウメモドキの皮、イラクサ、科皮、針は鹿の角か 17-152,153 19 S37. 17 東静内 ikayoppuの模様 okikurumiを狙ってnupuri kesi un kurが近寄ろうとしたが模様が光るのでどうしても近よれなかったという。 uchasikumaやukaraがある。 17-154 20 S37. 14 樺太小田寒 模様は波の形だという (2種図示 enrim chikupa) (魚皮衣の説明の中で)男のnisipaの裾にはアザラシの皮つける、(kaya sere) kakke matの袖口、襟、裾にはカワウソの皮つける 16-47 21 S38. 20 樺太来知志 男の懐帯(okkay raunkuh)hayで糸つくり、若い者があぶない仕事に行くときもたす。 女より巾広い、魔除の赤い布(chikuppa)つける。 wen oyasiにとられないように。 腰痛いとき腰にしめる魔除。 ikema,suruku,anchi 石炭 ,akam 輪 asumara akam 十勝石の輪 tetaraka-suma, hure suma 小刀のようなもの帽子や子供の襟につけた。 e potko(シンコ、トド、ガンビにつくほくちにする茸も化物(oyasi)出ないようにもつ ram mue 布でつくり老婆やhenkeにつける ハンノキ、ガンビ、アカカニ、オソコニ、フレカニで刀の形つくってつける 魔除(nan kor be, okenともいう) ihurekani(ハンノキ)かガンビでつくり、浜のruisanの両方、家の入口の両方にたてる。 窓に子犬の頭骨にinauつけたの(batun yupuke)さげる。 18-114 22 S38. 20 樺太来知志 着物 オッコ ponpeというトッカリの皮でつくった着物)襟に布をつけ、背中、肩、裾(下肢)に四角や三角や小判形のウイト゚イパした。 「魔除け説」「家系表示説」に関連して重要なのは事例6と事例7の虻田の聞き書きです。 着物の胸と背中に、神の目を象徴する模様を入れ魔を威嚇する事、特定の家系の者が排他的に利用する文様があることがはっきりと語られています。 また、着物の襟や袖や裾に守り神がいるという伝承も面白いですね。 次に、これらの聞き書きに基いて書かれた更科氏の著作3点を年代を追って見てみます。 文字色は比較のポイントが分かりやすいように、新たに加えました。 『歴史と民俗 アイヌ』(1968. 4) 「織機は本州から入ったものであろうが、必ず独自のアイヌ文様を刻んでいる。 これは布目の間に魔物が入らないためらしい。 日高荻伏に厚司織歌というのがあるが ヘ テケ ヘ スルルケ ヘ ハウ ヘ スルルケ この歌は魔除けと関係ありそうである。 【中略】小刀の鞘などに彫刻されている鱗 ラムラ 彫 ムノカ は、小刀の鞘が魚皮だった名残とも思われるが、あるいは竜神の姿だったかもしれないし、渦巻形も神の現れる水の渦や乱雲だったかもしれない」(p81) 「病魔が着物の隙から侵入しないように網目を、襟元、袖口、裾に描いたかと思うが、これを刺 アイ ある ウシ 文様 ノカ と呼んでいるところからすれば、病魔除けに家の入口や別れ道に立てる、刺のある木の枝のそれであるかもしれない。 【中略】悪性の熊が文化神オキクルミ神 カムイ を襲うと近寄るが、矢筒の文様が光って近寄れないという詞曲や昔話があるのは、文様は単なる飾りでないことを物語るもので、 着物の背中に竜神や月の形をつけたり(虻田)、梟の目を描き後から忍びよる魔物をを警戒した(幌別)。 それらを神 カム の イ 目 シキ と呼んでいる。 女性の乳の上にも神の目をつけたし(虻田)、鉢巻にも神の目や神の姿を縫い込んだ 【中略】 すぐれた美的目覚めのあることには多くの紹介があるが、何の為に文様があるかについては誰もあまりふれたがらない。 同じ 機織機でも本州のには全然文様が見られないが、ひとたびアイヌの手にわたると丹念に彫刻がほどこされるのは、縦横に織りなされる布目の間に病魔が忍びこめないためではなかったか、彫刻した糸巻きに巻いた糸を使うと、病気にならないと信じていたのは、それら新しい文物とともに新しい病気が侵入して彼らをおびやかしたからではなかったろうか」(pp. 83-85) 『アイヌの四季』(1968. 12) 「十字型の模様は、魔物が狙いそうな乳房の上とか、背中につけられていることによっても、単なる飾りではなく、無限にひろがる大自然の中に置かれた人間の、自己防衛のためのおどしであったにおいが強い。 この天の目の外に神 カム の イ 目 シキ という巴形の模様が、やはり背中か乳房の上で、魔物への監視の目を光らせている。 この神とは集落の守神である、縞梟であることはあきらかである。 しかし、はっきりそれとわかる模様は少なく、むしろ日本から入った巴の模様などに変わったものが多いが、この巴のようなものをモレウノカ(ゆるやかに曲がる形)とも呼び、それは水の渦巻であるという。 水の渦もまた、おそろしい生活体験の上から生まれた、魔除けであったかもしれない。 この他に蟹の爪であるとか、今日想像もつかないものまでが、模様の中に組合わされているが、 それらは常に身体を取り包んで、目に見えない外敵に対して、針鼠の針のように防衛したもののようである。 【中略】また半神半人の文化神オキクルミが山狩に行くと、山の端にいる性の悪い熊が、何とかしてオキクルミに飛びかかろうとして、後ろから近寄るのだが、オキクルミの背負っている矢筒についた、キラキラ光る目のような模様がおそろしくて、どうしても近寄ることができないという、伝承などもあって、 模様は元々は身を護ってくれる、神々の姿であったことが、おぼろげながらわかってくる」(pp. 228-230) 『アイヌ民族誌』(1970) 「(文様をほどこすことは:筆者)退屈だから時間つぶしにやるということでもなく、何かそうせずにはいられない理由があってやったので、昔の生活は現在われわれが考えているほど呑気なものではなく、むしろ自然の圧力や外部からの侵かす者に対して、常に緊張した生活の連続であったことがうかがわれるのである。 歌謡や踏舞にしてもそうであったように、 美術的要素にも、それは美をたのしむという単なるおしゃれや飾りではなくて、外部から生命をおびやかす諸々の魑魅魍魎に対する、武装であったことがうかがい知ることができる。 金田一京助博士訳の神謡「虎杖丸の曲」の中に、主人公の身辺をまもる虎杖丸という刀の彫物が、それぞれに生ける神になって敵に立ち向かって行くことが記されている」(p218) 詞曲中に描かれる女性の刺繍の様子を引用して「神謡にうたわれる「神雲(カムイニシ)」、「渦紋(モレウ)」それから「神の目(カムイシキ)」などという文様の名は、ただ美しさを誇張している言葉ではなくて、自然の奥で人間の隙をうかがって飛びかかろうと狙っている者に対する、いがみでありにらみであったことは、詞曲の中で性の悪いくまが文化神のすきを見て飛びかかろうと、忍び寄るのだが矢筒についている金具の光ににらまれて、どうしても飛びかかることができないというのがある。 この場合矢筒についた金具の紋は単なる飾りではなくて、魔神を近づけないための警戒の目なのである。 女性の着物の背中や乳房のところにつける、日本の巴紋に似た「神 カム の イ 目 シキ 」も女性の身辺につきまとう魔性から身を護るものであったという。 」(p220) 「近頃観光地で見るアイヌ文様は昔のものとは色々の面で相当変形し、くずれ、また、樺太アイヌの文様は北海道のものとの間にも差異があるが、 共通して昔の形を残しているのは、着物の襟や袖口、裾などの周辺に縫い込まれている、網目文様のアイウシノカ(刺のある文様)と呼ぶものである。 袖口や襟や裾は、病魔などの最もかくれ忍び込みやすいところであるので、昔疱瘡が流行したとき病魔が追って来ないように、道に垣をし網を張りきって矢を射かけて山に逃げ込んだ。 くもの網は昆虫たちの自由をうばい、漁網も魚の自由をうばうものであり、人間も網にからまると容易に逃れられなかったので、網によって近寄る病魔をおどしたことが察せられるが、 同時に刺のある木もまた追分に立てて、病魔の侵入に備えた。 それは山野を駈ける生活に、この刺のある枝のために幾度か痛い経験をさせられ、自らも刺のある木をさけて通る習慣の中から生まれた、護身法であったようである。 ) これらの文様は着物だけではなく、色々食事のための容器や衣料関係の器具、たとえば日本から入った機織器とか糸巻にいたるまで、克明に刻まれている。 」(p221) 「(機織りの歌を例示し)意味はよくわからないが、退屈しのぎの労働歌ではなくて、魔除けの呪文に節をつけたもののようであり、 日本の機織器に文様をつけたのもやはり美的な飾りというよりも、魔物が織目の間に忍び込むのを警戒するためであった。 ある古老が糸巻をくれるときに『この糸巻に巻いた糸で着物を縫ってもらうと、決して病気をしないよ』と云ったのには、その底に魔除の文様を刻んであるから大丈夫だという、信仰があったからである。 」(p222) 更科氏の記述は、服飾・文様関連の研究の中でも最も信仰との結びつきを強調したものであることがわかります。 ただ、確実な情報と言えるのは『コタン探訪帖』に見られた虻田の伝承(事例6、7)にもとづいた箇所のみで、その他は更科氏の推測です。 また『歴史と民俗』では伝承地が明記されていましたが、こうした情報が落ちたことで一地域の伝承がアイヌ文様全体に適用されるかのような記述になっていきます。 同じ様に、当初は推測として書かれていた物が、徐々にトーンが強まって断定的な書き方になっている所もあります。 おそらくは、新たな証言を得たというよりも、記述を繰り返すうち、また研究者間で討論をするうちに確信が強まって行ったのでしょう。 この『アイヌ民族誌』の児玉、更科両氏の論考によって、アイヌ文様の「魔除け説」「家系表示説」が定着した感があります。 3-5.萱野茂 萱野茂氏が1978年に刊行した『アイヌの民具』は、同氏がくらした平取町二風谷をはじめ、沙流川流域を中心とした地域の民族誌情報を多く含んでいます。 同書には「家系表示説」はみられません。 衣服文様の呪力に触れた所は2箇所あります。 ・アットゥシアミプの項 「この刺しゅう模様のことはアイヌ語でモレウノカ(モ=静かに、レウ=曲がる、ノカ=形)というだけで、形による区別はありません。 古くは袖口、襟、すそまわりに縄模様の刺しゅうだけをほどこしましたが、後になって紺色の布を縫いつけた上に刺しゅうをするようになりました。 このように着物のまわりに縄模様の刺しゅうをする考え方の中には、畑や山で子供を寝かせたまわりにぐるりと タラ(背負い縄)をめぐらせるのと同じ考え方があるように思います。 どんな魔神でも、この縄より内側へは入れないものと信じられていました。 自分たちの着る着物の袖や襟、それにすそまわりに縄を張ることによって、 魔物が体内に侵入できないようにとの願いがこめられていたと考えています」(pp. 59-60) ・タラの項 「山や畑などに子供を連れていって、草原などで子供を昼寝させておいたりするとき、子供を寝かせた回りをこの縄でぐるりと囲います。 タラはたいへん強い力を持っているものなので、そうやってまわりを囲んでおくと、どんな魔物もその内側へ入ることができないものと信じられていたからです。 着物の袖口やすそまわり、襟などの縄模様の刺しゅうも、この縄の持つ力によって人間の体内に 魔物が侵入するのを防ごうとするためだと考えられます」(p126) 萱野氏の記述は「魔除け説」の立場に立っていること、開口部に魔物の侵入を防ぐ文様を配すると考える点は更科氏と似ていますが、トゲではなく縄の呪力によるものとしています。 荷縄を結界のように使うといった知識は萱野氏ならではのものでしょう。 ただ、そうした呪法が衣服文様に応用された、という部分は古老からの聞き取りではなく、萱野氏の考察であることに注意する必要があります。 2つの記述を比較すると、アットゥシ(樹皮衣)よりも荷縄について書かれた箇所の方がややトーンが強まっていますが、どちらも断言を避け、自身の推測であるということを明確にしている点で慎重な書き方だといえます。 なお、萱野氏の助手を長年つとめた札幌大学の本田優子氏からの教示によれば、萱野氏は「(文様の名称として)モレウという言葉はあるが、アイウシは聞いたことがない」と言っていたそうです。 『アイヌの民具』の記述には、あるいは「アイウシ(刺文)が魔除けになる、渦巻を(どこでも)カムイシキという」といった『アイヌ民族誌』の中で展開された論調に対する「二風谷は違う」という反論が含まれている、とは考えられないでしょうか。 付け加えると、糸巻きの文様についても触れていますが、更科氏の言う魔除け効果については言及していません。 3-6.考察 文様についての諸研究をながめると、まず文様の形そのものは広く共通の物が見られる一方、名称や意味付けについては全体に共通するものは見られないことがわかります。 したがって、特に文様の意味を扱うなら、アイヌ全体をひとくくりにして論じる研究は初めから誤っていることになります。 「家系表示説」も「魔除け説」も、それを唱えた代表的な研究は70年代に出され、それ以前には見られませんでした。 そのうち確実な証言が確認できるのは渦巻き文1例のみで、なおかつそうした使われ方をするのは渦巻き文の中でもごく一部でした。 括弧文については実例はありませんでした。 家系の表示は、どの程度一般的なものだったのでしょう。 児玉ほか(1968)には、白老でも「我が家にとって大切な文様」という証言が拾われていますが、やはりアイヌ文様全体に一般化するには事例が少なすぎます。 また、もし衣服の文様が家系を示すのだとすれば、ラウンクッやイトクパと同様に、自由に改変すれば社会に大混乱を引き起こすことになりますし、他家の者がそれをマネることも厳しく制限されることになります。 しかし、これまで見た通り、服飾文様にはそのような事実はなく、1人の作り手が様々な文様を創作しますし、文様構成が得意な人に依頼して文様を作ってもらうこともあります。 そもそも文様が同一家系内にのみ共有されているのだとすれば、ラウンクッを確認しなくても、着物を見るだけで婚姻が可能かどうかがわかることになり、ラウンクッを確認するという習俗は意味をなさないことになります。 「魔除け説」について付け加えれば、除魔の力をもつとされる物はほかにもありますが、それらを模した文様を配することで、それと同じ効果を期待する、という事例はまったく見当たりません。 魔除けをしたいのであれば、火の神の力を帯びた消し炭や、トゲや匂いのある動植物、人形、ウサギの足などを衣服や屋内に直接とりつけるのが一般的であり、文様によってそれを行なおうとはしません。 更科氏など複数の研究者が、『クトゥネシリカ』という英雄詞曲の一節を引いています。 作中で、宝刀に施された龍神の装飾が動き出して敵と戦う場面があり、これを以って宝刀の装飾などは単に美的なものではなく護身の意味が込められているという論を導きます。 英雄詞曲には摩訶不思議な力を発揮するマジックアイテムが多数登場し、それが魅力でもあります。 英雄詞曲に登場するこうした武具を、語り手・聞き手がみずからの生活にあるそれと直接結びつけていたとは思えませんし、そうであればエンタテイメントとしての魅力につながりにくいのではないでしょうか。 また、タイトルになっているクトゥネシリカはこの不思議な刀の呼び名ですが、この刀は英雄詞曲に登場する武具の中でも決して一般的な物ではありません。 この話には『オコッコエトゥレン』という別名がありますが、これは主人公が化物に護られているという意味で、怪物の力を秘めた宝刀を持っていることを指しています。 つまり、この刀は英雄詞曲に現れる武具の中でも特異な位置を占めるのであって、これを以って現実にアイヌ民族が造ってきた刀装の意味を論じることには無理があるでしょう。 もう1つ気になるのは、文様を施すのは言わば晴着であって、屋外で使用する労働着には文様を付けないという証言が一定数あることです。 とくに胆振や日高など南西部の人びとにこうした証言が多いと言えます。 屋内の暮らしと屋外の作業でいえば、言うまでもなく屋外の方が危険が多いはずです。 もしも文様が魔除けであるなら、危険な屋外作業の際に身につける衣服にこそつけるべきではないでしょうか。 杉山氏や更科氏は「矢筒の文様が光って魔を追い払った」という事例をあげていますが、これは木彫による文様ではなく、宝刀や鍔などと同様、金属器の持つ除魔力の事例として考えるべきでしょう。 4.アイヌ模様の起源譚 上での検討に加え、補足として文様の起源譚に触れてみたいと思います。 アイヌ文様がどうして生まれたのか、という起源譚があります。 これらは、かつての作り手が文様をどのように見ていたか、ということを知るために参考になるでしょう。 十勝地方の伝承 本別町の沢井トメノ氏(1906〜2006)は、虫が木を食って筋状に跡がついたものに触発されてアイヌ文様が生まれた、というウチャシコマ(伝説)を語っています。 山から木を伐ってきて小屋の骨組みにした、何年かして丸太の皮がはがれた所をみると一面に虫が食っていた、その跡が美しい模様のようになっていたので何かに応用できないかと皆で考え着物に刺繍することにした、というものです()。 石狩地方の伝承 石狩川流域にも、これと似た内容を持つ話があります。 空知地方から旭川市近文へ移り住んだ杉村キナラプク氏(1888〜1973)のオイナ(神謡)の一篇に次のようなものがあります。 国の端から、刺繍の入った着物と頭巾に身を包んだ者がやってきて、美しい女性を次々にさらう、ついにオキクルミの妻もさらわれたので、オキクルミは先祖伝来のソロバンを使って魔神の居所をつきとめて奪還にいく、オキクルミが魔神の素性を言い当てると魔神はかき消すようにいなくなってしまった、その正体は大昔サマイェクルカムイ船を作った時に捨てた余りの部材だった、刺繍文様に見えていたのは虫が食った跡だったのだ。 このように、アイヌ自身によって語られてきた文様の起源説話には、魔除けや家系との結びつきはまったく見られず、先人が自然の中で形作られた形象に美的に感銘を受けて工芸に採りいれたことが述べられています。 おわりに このように、実例にとぼしい、あるいは全くない説がこれほど広まっているのはなぜでしょう。 こころみに日本の刺子や火消の印半纏について解説した物を見ると、やはり「魔除け」だと述べているものがチラホラあるようです。 1つには、丹念に針を進めて文様を作りだす行為に、何か念を込めるようなイメージを引き起こさせるものがあるのかもしれません。 また、近代以降の研究は全体的に文化起源を信仰に結び付けたがる傾向を持っていました。 人間社会全体について「原初には社会のあらゆる習慣が信仰的観念を伴うが、それらはやがて忘れられていく」、「聖から俗へ移行していく」という見方が支配的であり、アイヌ研究もこうした思潮の影響を受けました。 樺太アイヌの女性が用いる金属製装飾のついた帯、あるいは弦楽器トンコリがシャマンの用具と誤解され、神謡などの文学の起源がシャマンの歌にある、と言われたのもその一例です。 文様についてのこうした言説も、研究全体の流れによって生み出され、助長されてきたものでしょう。 また、博物館その他でアイヌ文化を普及する立場にある人は、アイヌ民族のありとあらゆることについて説明を求められます。 説明を受ける側も、何か自分の日常とは違う、興味を引くような回答を期待しているところがあります。 文化的なギャップが大きかったり、あるいはギャップを過剰に期待されるために、長い時間をかけて説明しても、ついに納得してもらえないこともあります。 そんなとき「家紋」や「魔除け」といった短くキャッチな説明は、手軽に相手を喜ばせ、納得してもらいやすいために重宝されるところがあります。 ただこれには大きな問題もあります。 例えば「魔除け説」は「アイヌは信仰心が強い」という評価を生むでしょうが、これは「迷信深く非科学的」という評価と表裏一体です。 アイヌ民族の文化に「神聖」などという売り文句をつけ、いわばオカルト趣味的に広めていくことはアイヌ民族に対する偏見を助長する危険性を含んでいます。 また、何につけ「起源は宗教」といってしまうと、それが結論のようになってしまって探究が止まってしまうことになりがちです。 アイヌ文様にはもっともっと研究の切り口があるはずです。 わからないことはわからないものとして、考え続けることでより面白いものが見えてくるでしょう。 もとの表記のまま引用し、改行部は変更しました) poncise a kar hita anak na nikap a kar kay somo ki no ikuspe a roski wa cise a kar. 小屋を作るときは皮もむかずに柱を建てて家を作る。 上手な人達が考えてチカルカルイミという名の着物ができたのだ。 (注1)少し話がそれますが、こうした慣習が示すように、アイヌの家系の観念は「婚姻によってその家に『入る』(元の家を出る)」という日本的な家の認識とは根本的に異なるのです。 萱野茂氏は、婚姻をマテトゥン(女性を借りる)と表現することを紹介していますが、この言葉は女性が自らの女系に属したまま結婚することをよく表しています。 萱野氏が知らしめたこの言葉は、こうした「家」の観念におけるアイヌと日本の違いを良く表しています。 ところが、一般に流布している「家系表示説」では、それによって表される「家系」が何を指すのかがはっきりしません。 このことからも「家系表示説」は、近代半ば以降に日本的な家観念が浸透した後に派生し流布したものではないかと思えます。 (注2)北海道南西部では1つのイトクパを刻むことが多いのに対し、東部や北部では2種類のイトクパを刻むのが一般的です。 その場合、1つは家系の印、もう1つは祈りを捧げる神の印であったり、神によって2つの組合せを変えたりと、色々なケースがあります。 もっとも、家系によっては数代に1度特殊な形のものを作るという事例もありますが、ここではこれ以上踏み込まないことにします。 (注4)樺太では、名望家が亡くなった時には特別に棺のようなものを作りますので、象徴的な意味合いが強いと言えるかもしれません。 (注5)たとえば死者用の靴は、爪先が開いたような形になっています。 また静内地方では、死者用の荷縄は荷縄中央の左右にある細く編まれた部分が3本作られます(通常は4本)。 (注6) 白布を多用する晴着は近代以降に日高地方を中心に広まったと言われますが、北海道の東北部ではふんだんに使われた白布が死者用装束を連想させるとして、着用を避ける人もいます。 (注7)児玉作左衛門(1965)では、中国の伝統的衣文化の中で典礼用の衣服には肩上文を入れることを紹介し、樺太のこうした習慣がこれに関連する可能性を指摘しています。 (注8)引用にあたり、旧字は新字に改め、句点が無い場合に補ったところがあります。 (注9)「邪視」とは現在では「悪意を持って人をにらむ事で、相手に呪いをかけること」の意味で使われていますが、ここでは邪悪な者をにらんで追い返す意味で用いられているようです。 (注10)この語釈には少々疑問があります。 osikarikariは「丸い」、hekompaは「頭をまげる」で「丸い曲線」といった意味でしょう。 (注11)英雄詞曲にはこのほか「水銀の毒が描かれた扇」、「氷塊が描かれた鎧」、「赤炎・白炎が描かれた鎧」などが現れます。 扇は、それで扇げば描かれた物に応じた攻撃(水銀なら水銀の毒が噴き出す)することができる、また氷が描かれた鎧は炎熱に強く、炎が描かれた鎧は雪氷による攻撃に耐えることができるというものです。 また、アイヌ民族博物館の「アイヌ語アーカイヴス」で公開されている神謡には、夏の女神・冬の女神がまとう着物に炎熱や氷雪が描かれている様子が見えます。 このように身にまとう物がその人物の属性を暗示したり、能力の淵源となっているという描写は文学中にしばしば見られます。 しかしそれらはやはり、そうした登場人物の特異性を表すものであり、そのことを以って現実の衣服文様の意味を論じることには論理の飛躍があるでしょう。 参考文献 アイヌ文化保存対策協議会編 1970 『アイヌ民族誌』第一法規。 萱野茂 1978『アイヌの民具』アイヌの民具刊行運動委員会。 金田一京助・杉山寿栄男 1993 1941 『アイヌ芸術 服装編』北海道出版企画センター。 1993 1942 『アイヌ芸術 木工編』北海道出版企画センター。 久保寺逸彦 1977『アイヌ叙事詩神謡・聖伝の研究』岩波書店。 久保寺逸彦編 1992『アイヌ語・日本語辞典稿』北海道教育委員会。 久保寺逸彦著・佐々木利和編 2001 『アイヌ民族の宗教と儀礼 久保寺逸彦著作集1』草風館。 児玉作左衛門 1965「江戸時代初期のアイヌ服飾の研究」『北方文化研究報告』第冊、思文閣出版。 児玉作左衛門ほか 1968「アイヌ服飾の調査」『アイヌ民俗調査報告書』北海道教育委員会。 1985「アイヌ民族の衣服と服飾品」『北海道の研究 第7巻 民俗・民族篇』清文堂。 更科源蔵 1968『歴史と民俗 アイヌ』世界思想社。 1968b『アイヌの四季』淡交社。 『コタン探訪帖』1、弟子屈町図書館。 『コタン探訪帖』2、弟子屈町図書館。 『コタン探訪帖』8、弟子屈町図書館。 杉村キナラブック・大塚一美・三好文夫・杉村京子 1969『旭川叢書 キナラブック・ユーカラ集』旭川市。 杉山寿栄男 1975 1934 『北の工藝』北海道出版企画センター。 鷹部屋福平 1987(1942)「アイヌ服飾紋様の研究」『北方文化研究報告』第三冊、思文閣出版。 1987(1964)「アイヌ服飾紋様の起源に関する一考察」『北方文化研究報告』第十冊、思文閣出版。 西鶴定嘉 1942 『樺太アイヌ』樺太文化振興会。 福田アジオ・新谷尚紀・湯川洋司・神田より子・中込睦子・渡邉欣雄(編) 1999『日本民俗大事典〈上〉』吉川弘文館。 藤村久和・若月亨編 1994 『ヘンケとアハチ』札幌テレビ放送株式会社(STV)。 本田優子 2006 「【研究ノート】樹皮を剥ぎ残すという言説をめぐって-更科源藏の記録に基づく一考察-」『北海道立アイヌ民族文化研究センター研究紀要』第13号、北海道立アイヌ民族文化研究センター。 山本祐弘 1970 『樺太アイヌ・住居と民具』相模書房。 《伝承者育成事業レポート》イヨマンテでの祈り詞(平取地方)その5 文:伝承者(担い手)育成事業第三期生一同(木幡弘文、新谷裕也、中井貴規、山本りえ、山丸賢雄)、北原次郎太(講師) ここに掲載するものは、名取武光氏が記録したイヨマンテの祈り詞です。 名取氏の論文「沙流アイヌの熊送りに於ける神々の由来とヌサ」(『北方文化研究報告 第4輯』、1941年、北海道帝國大學)には、仔グマを連れ帰った場面からイヨマンテを終えるまでの一連の祈り詞54編と、その意訳が収録されています。 名取氏の同論文は、1941年に最初に発表され(戦前版)、その後1974年に著作集『アイヌと考古学(二)』に収められました(戦後版)。 著作集収録の際、浅井亨氏がアイヌ語の校正をしており、一部解釈や表記が変わりました。 第3期「担い手」育成研修では、2016年1月頃からアイヌ語研修の一環として、これらの祈り詞の逐語訳に取り組みました。 和訳にあたっては、新旧のアイヌ語原文を比較しましたが、ここでは戦前版での表記とアイヌ民族博物館で用いられている表記法(辞書で引けるような表記)で書いたものを並べ、戦後版については必要に応じて引用しています。 なお、原典では改行せずに書き流していますが、ここでは、一般的な韻文の形式で、一行と考えられる長さごとに改行しています。 それぞれの最後に、名取武光氏による意訳をのせています。 今回は、そのうち11、12、13を掲載します。 ( ) 参照した辞書の略号は次の通りです。 【太】:川村兼一監修、太田満編、『旭川アイヌ語辞典』、2005、アイヌ語研究所 【萱】:萱野茂、『萱野茂のアイヌ語辞典 [増補版]』、2002、三省堂 【久】:北海道教育庁生涯学習部文化課編、『平成3年度 久保寺逸彦 アイヌ語収録ノート調査報告書(久保寺逸彦編 アイヌ語・日本語辞典稿)』、1992、北海道文化財保護協会 【田】:田村すず子、『アイヌ語沙流方言辞典』(再版)、1998、草風館 【中】:中川裕、『アイヌ語千歳方言辞典』、1995、草風館 11)Inauaroshike etoko kamuihuchi anure inonnoitak. 用意が出来ました。 しますよ。 名取意訳 火の神よ、どうぞお願い申します。 熊の仔を送る為に、貴方の御酒が出来ました。 其の御酒を今支度して、仔熊を遊ばす所であるから、熊の仔が遊んでしまえば、神様達皆共に安心します。 私も喜びます。 それから幣所の大勢の神々に当てて、幣と酒を上げまするけれども、アイヌの言葉ばかりでは心配であるから、貴方の方から伝言して、幣と酒が神様方皆に、間違いなく行き渡る様にお願申します。 12)Shirakkikamui inonnoitak 信天翁の神に申す祈詞 戦前版の表 記 新表 記 和 訳 Oinokamui koroupashikuma newakushutap ireshukamui kirishamukashi akoshirakkikamui enewakushitap ainuureshipa teksamuoroke ekopunkine ainunippo nishyashinushukup kikunihi attukonno ekounkine kiwatapne tapanbekusu ireshukamui eptonoto ainomiyakka hoshikinobo ireshukamui kamuipakeshi ekoongami eanruwetapan ekorankushu ekorupunkine koanramatte ekinankonna. 偉大な神 が語ったこと であったので 育ての神の 膝元の上に 私たちが守りとする神は 貴方であって 人間の暮らしの 傍らを 貴方が守護して 人間の孫が 健康に育つ ように ひたすら 貴方がそれを守って いるので このため 育ての神が 飲んだ酒 で私は祈っても 一番初めに 育ての神 神の飲みさし で拝礼する のです。 ですから 良く守護するよう 心掛けて 下さい。 名取意訳 信天翁の神よ、おたのみ申します。 どうかして、家中の子供から親から皆守護して、悪い風の様に廻るもの、病気の神であるから、此の病気の神をよける様に、皆達者になる様に、火の神の前で働いて、守護して下さい。 13)火の神の幣を焼く時申す祈詞 戦前版の表 記 新表 記 和 訳 Taneanakne inauukamui aetukiukte ireshukamui kotonoto neyakushitap koramushine akikushitaptap tapaninau kamuihuchi akoreshiri nehitapanna. 今は イナウを受け取る神に 私が酒杯を捧げました。 育ての神 の酒 であるので 私はそのことで安心 したので このイナウを 神の媼に 私が与える 次第ですよ。 名取意訳 火の神様の酒を貴方に差し上げて安心しました。 それでこのチヱホロカケップイナウを神様に差し上げます。 [1]eanの意味は未詳。 [2] 名取の要約では、別の神に祈っているように読めますが、実際は祈りが終わったことを火の神に報告し、囲炉裏に立ててあったイナウを燃やして火の神に捧げる祈りです。 [3]【鍋】p. 99に「echinure hawe nehi tapan na, ko-anramatte eki nankon na, あなたに言い聞かせるものなのです、よくお悟りになって下さいますよう」、pp. 103-104に「epirka nu wa ko-anramatte ekinankon na, よく聞いてお悟り下さいますように」という例があります。 これらを見るとkoanramatteは「 聞いた内容を 心に留め置く」という意味だと思われます。 《伝承者育成事業レポート》イヨマンテでの祈り詞(平取地方)その6 文:伝承者(担い手)育成事業第三期生一同(木幡弘文、新谷裕也、中井貴規、山本りえ、山丸賢雄)、北原次郎太(講師) 今回は、14、15、16を掲載します。 であります。 ありますように。 名取意訳 火の神と同じく、皆家の中の事、守護する為に、利巧で口達者の神であるから、火の神と同じく考えて、家の中の事守護して、何分家中の者皆達者になる様に、護って下さい。 お願します。 することでしょう。 名取意訳 子供の守神チクベニトノよ、どうぞお頼み申します。 家の子供はあまり丈夫でない為に、心配であるから、それで他に家の中を守護する神 chisekorokamui はあるけれども、特に子供だけの事に就いて、貴方はこうして、火の神の家の中に来て下さって居るのです。 ですからどうか、この子供があくまで丈夫に育つ様に、面倒見て下さい。 お願申します。 kihitapanna. ki hi tapan na. 名取意訳 入口の神よ、今火の神の前へ幣を立てゝ、祈ると一緒に、貴方に酒と幣とを上げまする。 今迄この戸口の番をする、貴方は其の役目であるから、こうして番をして下さったお蔭で、皆達者で居ります。 其の御礼に、今酒と幣を上げますから、戸口を守っている神であるから、どうぞ何か悪い魔物が来た時には、打ちこらして、外へ出して、庭の神に渡して、いじめて、家の中へ這入れない様に頼みます。 [1]直訳すると「それについて偉大な神の手のひらの上の方を向くもの」となります。 これは、文化神が創造した作法をそのまま踏襲することの文学的表現だと考えて、このように訳しました。 [2]白老町や平取町では、樹木の外皮を残したまま6か所ないし9か所に、羽根状の削りかけをつけたものをストゥイナウと呼びます。 これらの地域では、このストゥイナウを太めに作ったものを守護神とすることが多いので、このように呼びかけるのでしょう。 なお、日高東部から北海道東北部にかけては、ストゥイナウ・シトゥイナウという名前で全く違う形のイナウを指します。 [3] apacamunkamuyという神名は無く、apacaunkamuyかapasamunkamuyのいずれかです。 名取のカナ表記では「アパチヤウンカムイ」と書かれているので、ここでは前者と考えて良いでしょう。 [4]【久】p. 146(473)では、kunchikesという見出し語は立っていますが、意味は書かれておりません。 久保寺氏が記録した祈り詞の中には、この例と同じような用例がいくつかあります(例えば、北海道立図書館所蔵マイクロフィルムHN404のp. 560など)。 更科源蔵『コタン探訪帳』No. 5のp. 73に、静内で囲炉裏の上手を指す言葉として「kunjipa」(古い言葉=ape etokku(ikariso))、下手を指す言葉として「kunji kesi」(=usaru、ape uturu)が書かれています。 これらから推測して「火尻座」と訳しました。 [5]【萱】p. 141 ecirirkekur:戸口を守る男神 参照【萱】p. 141 ecirirkemat:戸口を守る女神 [6] 【久】p. 59(182)ekoraimikkare:頂き受けしめる(女子に) 《伝承者育成事業レポート バックナンバー》 2015. 11 2015. 12 2016. 2 2016. 3 2016. 4 2016. 11 2016. 12 2017. 1 2017. 2 2016. 12 2017. 1 2017. 2 2017.

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アイヌ文様フリー素材【モレウ】

アイヌ 文様 意味

伝統舞踊「鶴の舞」。 湿原に舞う鶴の仕種をまねた踊りで、祭りの余興に舞います。 身に付けているのは、儀式や踊りの際に着る民族衣装。 大胆な柄で構成されたこの幾何学的なデザインがアイヌ文様です。 「モレウ」と呼ばれる渦巻状の模様や、植物のとげを表す「アイウシ」を基本とし、それらを組み合わせることで、無限のパターンを作り出すことができます。 身の回りの品を木から作るアイヌでは、彫刻も盛んに行われています。 アイヌの歴史や文化を研究してきた佐々木史郎さんに アイヌ文様の魅力を伺いました。 佐々木「奔放さとち密さの中のせめぎ合い、それは非常に魅力だと思います。 わっと一瞬圧倒されるんだけれど、じーっと見るとこんなに細かい細工をしていると、遠くから見てはっと驚くとともに、近くにいくとまたその技に驚くというですね、そういう意味では非常に魅力的な文様かと思ってますけどね」 壱のツボ 木彫りに宿る自然の神秘 浦川太八さんは、アイヌを代表する彫刻家。 文様を木彫りによって今に伝えています。 浦川さんは、文様のデザインは、北海道の自然に深く関わりあっているといいます。 浦川「僕らの先祖なんかでも、別に美術学校行ったわけでもないんですよ。 自然が先生なんですよ、僕らもそうですけれど、自然の中から得たものが自然とこういう文様になったんじゃないかと思うんですけどね」 アイヌ文様鑑賞、壱のツボ、 「木彫りに宿る自然の神秘」 浦川さんが彫っているのは、猟のときに使う「マキリ」と呼ばれる小刀です。 図案の発想は、川で魚釣りをしているときに得たもの。 浦川「じっと見てると結構、川の流れの中で、おもしろい模様が見えるんですよ。 渦巻き模様が時々現れたり、その渦巻き模様が同じじゃなくて、大きかったり小さかったり、同じ流れなのにおもしろいなーって、魚釣るのやめて、しばらくずっと見てたことがあるんですけど」 浦川さんが川をイメージして刻んだ文様は実に抽象的です。 漁や狩りを行い、山の幸を集めて暮らしてきたアイヌの人々は、恵みを与えてくれる自然界のすべてのものを「カムイ(神)」としてあがめてきました。 そのため、アイヌでは神を具体的な姿で彫り込まないようにしているのです。 自然の姿を抽象化して文様に取り入れた浦川さんのマキリです。 魚に見立てられたち密なウロコ模様と躍動的な渦巻き模様が対比をなし、泳ぎまわる魚を連想させます。 発想の源は、北海道の豊かな自然。 北の大地とともに生きてきたアイヌだからこそ生みだせた表現が木彫りの中に息づいています。 弐のツボ 組み合わせが個性を引き立てる アイヌの民族衣装を研究するため世界各地の博物館を訪ね歩いてきた津田命子さんは、着物の生地を組み合わせたアップリケに、アイヌならではの独創性があるといいます。 津田「これはですね、私のお友達が十数年前に作ってくれました。 これを着るとね、力がわくんですよね。 おもしろいのはですね、この辺とかね、日本手ぬぐい使ってるんですよね、で、この赤い所はちりめんで、縁の所はメイセンなんですね。 ですから、手に入ったものをどんな風にしたらより美しくなるか、本当に知恵とくふうの塊なんですね」 アイヌ文様鑑賞、二のツボ、 「組み合わせが個性を引き立てる」 気温の低い北海道では、木綿の栽培ができないため、オヒョウの木などの皮から糸を作り生地を織ってきました。 こちらは木の繊維で織られた19世紀の着物。 一見つつましく見えますが、その装飾にくふうが。 刺しゅうによる模様を際立たせているのは、黒く光るビロード。 こうした素材をどうやって手に入れたのでしょうか? こちらはアイヌの村に伝わっていた清王朝で使われていた服です。 日本が鎖国をしていた江戸時代、アイヌの人々はすでに北方民族と直接交易を行っていたのです。 佐々木「実はアイヌの人たちが北海道で閉じこもってた訳じゃないんですね。 実は人間あの当時ですね、しかの肉と魚の肉だけで生活できるわけではなくて、アイヌの人たちも盛んに外の人たち、例えば和人と呼ばれる本州以南の人たちとか、サハリンとか大陸の方に出て行く人たち、千島列島を通じてカムチャッカ半島まで出て行く人たち、積極的に表に出て行って、何をしたかといいますと、盛んに交易を行っていたんですね。 だからそういう面ではアイヌの人たちは、われわれ和人と違う、国際性っていうのは非常に豊かに持っていた人たちでもあるんですね」 江戸時代以降、交易で手にした木綿で着物が作られるようになります。 貴重な木綿を手に入れるため、二反の布をラッコ一匹と交換していたといいます。 反物や古着のハギレを利用し模様に沿って縫い付けた着物。 背中で白く輝いているのは日本の婚礼衣装を裁断したもの。 菊をあしらった金糸の刺しゅうが華やかさを醸します。 津田「交易を通して、入ってきたカラフルなもの、そういうものの組み合わせで、あの、こういう色彩感覚っていうか、磨かれていた。 ちょっと普通ではミスマッチだなって思うものも、うまく使うようなそういう技術とか感覚が、つくられてきたんだと思いますね」 個性あふれるアップリケが美しいアイヌの民族衣装。 人々が交易を通して磨き上げてきた組み合わせの美です。 参のツボ 柄に魔よけの力あり 彫刻家の星野工さんです。 若いころ、長老たちから彫刻の技や意味を学びました。 文様は、ただ飾りのために施すのではないといいます。 星野「アイヌは自然界に神様がたくさんいて、そして悪くても神様なんですよね。 もし、この木に悪い神様が入ってたら、ものがまずくなるわけ。 だから悪い神様が入んないように文様を施す。 そうすると悪い神様は、食糧をのっけても、寄ってこれないんですよね。 だからおいしくいただけるということですね」 アイヌ文様鑑賞、最後のツボ、 「柄に魔よけの力あり」 悪いものが入ってくるのを防ぐための文様。 特に着物に多く見られます。 文様が施されている場所にご注目。 襟や袖口、すそ。 そのほとんどが開口部です。 佐々木「悪い霊が人間を攻撃するときにですね、どうしても口の開いてる所ですね、そういうところが弱点になります。 で、そういう所から悪い霊が来ないようにということで、この魔よけの意味を込めましてですね、この自分の刺しゅうがこの人を守って欲しい、この着物がですね、自分の家族、あるいは自分が想っている人をですね、守って欲しいそういった願いを込めて、ていねいに一針一針縫っていってる」 着物に模様を縫うのは女性たちの仕事。 八幡智子さんは、母親のようにしたってきた知り合いのおばあさんのために着物を作っています。 植物のとげを表す「アイウシ」は、災いが侵入してこないようにという意味。 愛する人がいつまでも健康でいられるように。 そんな願いを込めた刺しゅうが着物に込められています。 八幡「もうそれはやっぱりその人の顔を浮かべながらね。 着てもらったり、喜んでもらっている顔を思い浮かべながらやっぱり縫ってます。 やっぱり、ね、皆長生きしてほしいし、で、またこの着物を着て、どっか行くことにしてもね、やっぱり私が作ったんだって。 いっしょに歩いてるのといっしょでしょ?だから、着てくれたらうれしいなと思います」 一年をかけた着物が出来あがりました。 ていねいに刺しゅうされたアイヌ文様の一つ一つに作り手の温かい心が込められているのです。 高橋美鈴アナウンサーの今週のコラム 北海道で生まれ育った私にとってアイヌ文様はとても身近なものでした。 家族でよく行く温泉街にアイヌの工芸品が置かれている民芸品店があり、行くたびに、お盆やスプーン、はしなどが一つずつ我が家に増えていきました。 彫刻刀を動かした手の動きがそのまま伝わってくるような、力強く躍動感のある文様は、子どもの目にもとても印象的でした。 仕事をするようになり、あるアイヌの女性に出会いました。 同化政策で文化を否定されたアイヌの人たち。 彼女も、博物館に収蔵されてしまった民族衣装を見ながら一生懸命文様と刺しゅうを学んだそうです。 彼女の刺しゅうの現代的ですばらしかったこと!今に生きる芸術としてのアイヌ文様の生命力を私はあらためて意識しました。 アイヌ文様はアイヌの人たちが必死で受け継いできたもの。 日本の中の多様な美に気づくとき、私たちの心はきっと豊かになるはずです。 アーティスト名 Slipped again Thad Jones Naty High Five Mamma Dollar Brand Jazz〜introducing"How high the moon" Akiko Summer wishes, winter dreams George Benson One day I'll fly away Chris Minh Doky Strivers jewels Hicks-Williams-Hayes Dancing on the ceiling Chet Baker What's jazz? Akiko I didn't know what time it was New York Trio Variation 7 from Variations on Goldberg's theme and dreams Richard Stoltzman Lands end Clifford Brown Peace out 熊谷ヤスマサ.

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